てつんどの独り言 その1

2章 フラグメンタルな…( 11 / 21 )

もう今年(2011)は終わり

 

 もう今年は終わり。2011年は、僕にとっては本当に激動の年だった。そんなことを振り返りながら、新しい世界へ踏み出したいと思っている今…。

 

時系列的に並べてみると、やはり今年は忘れられない出来事の連続のようだ。

 

・私的な、一生に何度もないと思われる一大プロジェクトの完了。これについては、きっと時間という希釈作用の後で、述べることができるかもしれない。でも今は、まだ非連続性の世界ではなくて、今につながる生の感情が湧き上がってくるから、書ける代物ではない。書くということは、ちょっと客体化してからやっとできることであって、生のままでは書けないものだと経験が語っている。苦しさ、エネルギー、感情、勘定、断絶、などが立ち返ってくるからだ。

 

・仙台からの劇的な脱出については、ブログに書いたとおりだ。人に話すと、強運だといわれている。幸運でもあった。友達宛の便りに、次の通り書いている。

 

仙台を離れることになりましたので 仙台のマンションを売却しましたが その引き渡しが3月11日の午前中 仙台で行われました。

引き渡しが 予定より早く終わりました。小雪もちらついてきたので 予定の14:26の「はやて」を12:26に早め 横浜に帰ってきました。そこで 震災に会いました。これは、私にとって幸運であったと思います。

買主さんも 津波に遭遇され この引き渡しが 代替住居の取得になりました。お互いにとっての本当の互恵取引となりました。ホッといたしました。

          

 数えてみると、生まれてこれまでに28回の引っ越しをしている。そのうち、8回は親父の決定で、残りの20回は僕の決定だから、誰のせいでもない。

 

・マンション探しがたいへんだった。病気のことが念頭にあるから、住み慣れた横浜でも、どうしても京浜急行本線の駅から歩ける近場を探すことになる。できれば、病院のある横須賀に近い方がいい。でもなかなかないものだ。15軒ほど2か月くらいかけて見て回った。三浦半島の西海岸には住みたいのだが、何しろ交通の便が悪い。仕方なく、東海岸が候補地となる。

 

新しい発見があった。三浦半島のマンションは、みんな狭い谷戸の奥に立っているものが多いということだ。谷戸でなくても、岩山の上だ。もともと、人が住める平地は少ないのだから仕方がない。でも、心臓病を持つ僕には、行きはよいよい、帰りは恐いでは、とても困るのだ。

 

・大震災で、浦安の液状化現象が報道されなかったら、もしかしたら横須賀の10年ぐらいしかたっていない埋立地のマンション(交通は駅まで徒歩7分)を契約していたかもしれない。対岸の火事ではなかった。親しい友達が浦安の液状化で自慢の家が傾いたといってきた。僕はそのマンションの契約の前日、キャンセルした。その後、神様が今のマンションと引き合わせてくれて、やっと横浜に戻ることができたのは幸いだった。

 

・福島原子力発電所の事故には、本当に心がわなないた。東京電力、お抱え学者たち、経産省・安全保安院、原子力安全委員会、国、そして、地方自治体の首長さんたち、こんなところに、心のいら立ち、怒り(病気にとってはひどく悪いこと)が癒えたことはない。

 

 先日、野田総理大臣と、細野原発担当大臣が、誇らしげに「冷温停止状態」を宣言した。しかしちょっとおかしいぞと僕は思った。調べてみたら、日本記者クラブの外国人記者の質問で「化けの皮」が簡単にはがれていた。

 

 外国人記者は、「冷温停止状態」の定義をただした。さらに、原子力の技術専門家の世界で言われる「冷温停止」の定義を、「核燃料が取り出せる状態」だと念を押した。そこで細野氏は行き詰った。彼は言った。「定義は違うようですが、私たち(政府)は福島県民に、もうあんな悲惨な大事故は再びは起きません。安心してくださいと伝えたかったので、そう判断しました」ときた。

 

 そのあとの保安院とのさらなるやり取りで、政府は明確に「冷温停止状態」と「冷温停止」とは違うと白状した。英語で言えば、「Cool Shutdown(冷温停止)」と違う「 Quasi-Cool Shutdown」だと言った。Quasiとは、おおむね(否定的なニュアンスの)と言う意味だ。

 

 ダブル・スタンダードの話ではない。福島県民、日本国民を惑わす目的で似て非なる定義の言葉を使ったのだ。意図的であり、隠避だと思う。こんなふうに怒るのはよくないのでやめようと自分に言聞かせる日々が続く。

 

・今年は、3回も心臓のカテーテル・アブレーション焼却手術を受けた。僕の病気、心房細動、心房頻拍の根治治療と言われている唯一の手術だ。小さな左心房を合計4回(延べ22時間)も焼いたわけだが、結果としては、この手術後も180回/分の心拍数になり、ぶっ倒れそうになって、救急入院を2回も経験している。心臓の老化も病状を悪化させているらしい。でも、仕方がないので、様子見。ちなみに、禁酒、禁煙(これはもう20年も前に達成している)、禁興奮と言われている。美女を見ても心を惑わされてはならないと自戒する。

 

・悲劇は、自分自身だけではなかった。高校以来の一人の親友が5月に脳梗塞で倒れた。しかし独居。発見は半日後だった。今も言語障害と左半身の不随で、リハビリ中だ。遠くに住んでいるから、飛んでいくわけにもいかない。幸い意識は戻ったようだから、ちょっと安心した。しかし、リハビリの生活は長くなりそうだ。本当に健康な人がうらやましい思いだ。

 

・そんなこともあって、生前整理にとりかかった。遺言書の更新、財産目録の作成、エンディングノートの準備、散骨の会社探しなど、まだ時間がかかりそうだ。神様は何時まで生かしておいてくれるかはわからない。今、これを書いているこの瞬間で終わるのかもしれない。 

 

・達成感のあることもあった。それは、10月に書いた、おそらく最後になると思われる「最後の墓参り」だ。親父と姉と祖母が眠っている先祖代々の墓だ。僕はその墓には遠くて入る気にはなれない。相模湾沖の太平洋に撒かれる方がよほどいい。

 

・書き溜めたエッセイと、単行本で絶版になる紙の本を電子ブックに独力で出版した。これで、自分史の一部がアーカイブされたわけだ。子供たちや孫たちに僕の歴史が残されたわけだ。あと2冊は上げたいと考えて準備をしている。楽しい仕事だ。

 

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<プジョー君>

 

・新しい車が来た。4月のこのブログの「自分史を映し出す車たち(その2)」で簡単に触れたプジョー君の入手だ。ボルボで懲りたのに、残念ながら、日本の車で乗りたいものが全く見つからないので(最後まで残ったのはスバル・インプレッサだったがデカすぎる)、乗っていて小気味よく、楽しい車というと目が行ってしまったプジョー君だ。きっと、来年の春になれば、楽しい遠出もできるだろう。ドクターからは、禁車とは言われていない。幸いだ。八ヶ岳くらいまでは足を伸ばししたいがどうだろう?

 

2章 フラグメンタルな…( 12 / 21 )

夏祭り

 

急に、おはやしの音が聞こえてきた。

 

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 横浜市内のマンション。

 

幸い、緑のセンターコートがあり、周りにも林があるから、外の道とは2~3℃は涼しい。環境的には気に入っている。高層階だから、風があれば開け放した南北の窓から風が通り抜けていく。うまくすると、クーラーはいらない。

 

今日は日曜日。それで周りの町の夏祭りなのだろう。

 

日差しの弱めの午前中は、子供たちの山車がお囃子と一緒にやって来た。真昼の午後は、大人の神輿がやって来た。セイヤセイヤと一丁前だ。残念ながら、拍子木のかんかんという音は聞こえない。町の名を書いた大きな提灯。そろいの水色の町の名が染め出してある半被を着ている。まあ、ほんとの祭りだ。

 

おみこしには、男衆に混じって、女の担ぎ手も、子供たちも担いでいる。担いでいるたって、本当は大人の担ぐ神輿にぶら下がっている子供たちも交じる。じさま、ばさま、大人たち、若い衆、そして子供たち。世代を超えて、祭りを楽しんでいる。眺めていてホッとする。

 

昨日から隣の町でもやっているようで、北の窓からお囃子が聞こえていた。少し離れているらしく、高い笛の音が風に乗って聞こえてくる。この方角だと隣町だ。

 

今日は、僕のマンションがある町の夏祭りらしく、トコトン トコトンと調子の良い太鼓の軽やかな音、のチン チンという透き通る音が聞こえる。かなり上手だ。豆絞りのじさまの姿が浮かんで見える。ピーヒャラ ピーヒャララと笛の音も聞こえる。かなり練習したに違いない。

 

前にちょっと気になっていたマンションの掲示板の張り紙、「みこしの担ぎ手、募集中」の意味がやっと分かった。このマンションは周りの町内会とうまく連携して、センターコートまでお囃子とおみこしと山車まで引き込んでるわけだ。

 

センターコートに、お休み所が出来ていて、みこしの御座所の周りで、マンションの奥方たちが、かき氷をどうぞと、町の衆に声をかけている。いいとこあるじゃんと、自分のマンションを見直したりする。

 

今、午後4時。隣町のお囃子がテケテン テケテンと風に乗って調子がいい。子供たちも楽しんでいるに違いない。

  

なんだか、チビの頃、とてもうれしかった祭りの夏の日が思い出された。いいなぁ~、よかったな~と得した様で悦に入る自分がいる。下町だから、マンションの住民という異民族と、下町の先住民が一緒になって夏祭り。

 

お囃子の音が遠ざかると、圧倒的な蝉の声。

 

三社を始め、お祭り好きは落ちつかない。あと、花火はいつだっけ。調べておかなきゃ…。

2章 フラグメンタルな…( 13 / 21 )

金属疲労で「笑っていいとも」が終る 

 

 誰か言ったか知らないが、「金属疲労」という言葉、上手いことを言うなと思った。まさに云い得て妙だ。これを聞いて、なんだか納得した自分がいた。

 

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32年間、彼、タモリは、この長い時間の中で、絶え間ない外からの、そして自分という内からの圧力に疲労を感じていたのだろうと思うからだ。

 

はじめの頃、タモリの番組は新鮮だった。会社で忙しい勤務の昼休みに、フッと気を抜いて、皆と無邪気に笑っている自分を発見したのはこの番組のおかげ。

 

その頃の明石やサンマとの掛け合いは、話術のマジックだった。これが芸だと感心してしまった。

 

最近の「笑っていいとも」はまったく面白くない。最近ではなくて、この10年位の間に静かに劣化が進んだというのが当りだろうと思う。

 

その原因は、タモリ自身の問題ではなくて、フジテレビのプロデユーサーとか、社長を含めた役員に問題があるのだろうと、僕は勝手に思っている。

 

面白くなくなった原因はマンネリ化だ。昼のタイムゾーンの年間視聴率が6%台だったことが、それを証明している。

 

この金属疲労の原因を考えてみると、まず出演者がお笑い芸人だらけだという問題が見える。

 

レギュラーメンバーの大多数が、お笑い芸人では辟易する。勿論、面白いタレントもなかにはいるが、大部分は芸のない上方からのお笑いだ。新人お笑い芸人の発掘が、この番組の狙いではないはずだが、何の反省もなくたくさんのお笑い芸人を作り出した。そして、消えてしまったお笑い芸人を数えてみれば、いかに粗製濫造であったかがよく分かる。

 

さらに言えば、歌の歌えないへたくそな歌手たちがゾロゾロ出てくる。AKBXXのオバカさんたちの姿にもへきえきする。こんなのを出して、局は視聴者におもねっているのだろうか。本当に、視聴者が楽しめると思っているのだろうか。こちらも、飽きられている。

 

タモリの「友達の輪」コーナーも、実に「本当の友達の輪ではなくなっている。どこかの芸能プロダクションの宣伝のお先棒を担ぐことになってしまっている。意外性のある「友達の友達たち」は、もう現れない。

 

何のことはない、フジテレビの意向で、何かの番組、映画、ドラマの宣伝の場にしかなっていない。タモリは不満だったろう。昔ほど、会話を楽しめなかっただろうと思う。「不要品の在庫処分」と、タモリは言きった。

 

企画面でも、新しい企画は全くなくなった。手を変え、品を変え、しかし、どこかで見たなぁという企画ばかりだ。アッと、驚くアイデアは枯渇したのだろう。32年もやっていれば、いずれそうなるのは当たり前かもしれない。

 

タモリはいつか話すだろうと思うけど、「笑っていいとも」だけでなく、テレビ朝日の「ミュージックステーション」の司会でも、タモリに疲れが見えている。

 

音楽のわかるタモリは、ここでも歌えない歌手たちに取り囲まれている。これは日本の音楽界が退歩しているからだろう。本当に安心して聞ける音楽のない「Mステ」では困る。うるさいだけの、AKBXXなどと付き合っていて楽しいわけがない。

 

それは、視聴者にも責任があるし、作曲家やプロデューサーの責任も大きい。全体的にみると、日本の音楽のレベルが劣化していることの証拠だろう。3オクターブもある広い音域の豊かな音楽の表現を、意図的に消してしまった小室哲也の世代の罪は深い。

 

さらには、おニャン子だとか、モーニング娘とか、秋元のAKBXXもふくめて、音楽を台無しにした。

 

さらに言えば、テレビ界はまったく疲弊している。

 

お笑い、チャラチャラのAKBXXなど、動物、食物、旅行、韓流ドラマ、再放送に依存している現状に夢は持てない。

 

一番ひどいと思うのは、美術館めぐりみたいな番組にもお笑い芸人が出てくる。やめてほしい。付け焼刃の解説なんか聞きたくもない。

 

出来れば、海外にあるような24時間、ニュースを流す局、BBCのように時間をかけて一つの主題をしつこく追いかけていくドキュメンタリー、そんな専門の局があったっていいはずだ。

 

日本のテレビは面白くないということに尽きる。

 

 

P.S.

この文のための関係者への取材はしていません。この文は、すべて私の個人的見解で裏はとれていません。

2章 フラグメンタルな…( 14 / 21 )

女性にとっていい仕事:システムエンジニア(SE)

 

 昨年、むかし一緒に働いていた女性SEたちに会う機会があった。

 

 その人たちに会って話を聞いて感じたのは、SEって本当に女性向の仕事だなぁとの思いだった。

 

 SEと言えば、かなりハードな仕事だと知られているが、実は女性にはとてもいい職業だと思う。時々、語られる女性力の発揮という、今の日本での労働人口の減少問題に対する一つの解であるかもしれない。

 

 専門的な知識が必要で、それは単にITの専門教育を受ける、本や資料を読んでとか、PCを使って自分一人で学べるというものではなく、実務的な経験を得て、初めて得られるノウハウでもある。それを身に付ければ、その人の人生の仕事を永く保障するものだといえる。

 

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Date Flow Diagram

 

必要な実務的な経験は、ITの仲間、先輩、後輩、隣接領域の専門家、そして、お客様であるユーザーとの共同作業で得られるものだ。スキルの中には、対人的なコミュニケーション能力も強く要求される。女性のエンジニアもその例外ではない。

 

最近のITの環境としては、昔と比べて大きく改善されている。SEが物理的にチームとか、お客様に近いところに居る必要は必ずしもない。PCとネットワークの整備、オンラインで行える共同のプラットフォームがあれば、それをリモートでのテレビ会議などで補完して、ネットを通じて仕事が進められるように環境は変わってきた。

 

今や、プログラマーの仕事は、在宅で十分にできる環境だ。

 

だから、他の業種で、女性は結婚で仕事が切れるとか、同じく、出産で仕事を失うとかということは基本的には無い。もちろんその人の属する組織の包容力とその人の意志の持ち方とかによるだろうが…。

 

子育て後、SEとしての活動を再開した3人の女性SEの実例を紹介しよう。時まさに、就職シーズン。女性のエンジニアには参考になると思う。

 

 

Dさん:

 

ホスト系やワークステーションで動くCADCAEComputer Added Engineering)のジャンルに挑戦。楽しんで新しい領域の仕事をこなしていった。

 

その後、結婚。一時退職したが、子供も育って、時間が出来たのを契機に、地域社会の振興のためのIT関連の仕事に従事している。具体的には地域社会の小さな会社、商店へ、ホームページの作成の普及を促進するIT技術者として活躍中。その地域のマーケティングの拡大を目的に。

 

最近は、住んでいる地域のみならず、他の地方からもお呼びがかかって、自分のやっていることを、他の地域にも展開できるよう、お手伝いをしているようだ。楽しいに違いない。

 

 

Eさん:

 

ホストの上で動く業務系のアプリケーション開発を経験したSE。人柄も良くて、先輩からもかわいがられて、成長した。

 

結婚で退職。育児が終った20年後、公益団体で、大学や研究施設の学術データベース検索の手法を開発。その普及と維持を担当。これを皮切りに、SEとしての仕事を再展開。今はIT技術者として、ある国立大学のIT推進を担当している。仕事を楽しんでいるのがよく分かる。

 

 

Fさん:

 

 Eさんの同級生で、同じくホスト系の業務アプリケーションの開発保守を経験。この人は、勘定系に特化したスキルを獲得して、一人前のSEとして育った。

 

その後、結婚で退職。子育てが終わったら、IT企業に再就職して現職のSEだ。生活の基盤を持ちながら、SE業務を楽しんでいるようだ。

 

 

こうして見てくると、SEという技術を身に付けておけば、結婚、子育ての後に、簡単に現役に復帰できる事例とも言えるだろう。

 

もちろん、SEへの向き、不向きもあるが、スキルを身に付けた女性の再就職、さらには在宅勤務を可能にするキャリアーの一つだと言える。

 

また、老齢化の進む日本での労働力の不足にも、彼女たちの眠っているスキルを活用できれば、大きな力になると思う。

 

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<一生SE

 

論理的な頭の構造を持っていると自信がある女性には、こうしたキャリアーを考えて、大学生活や高校時代を過ごしてみてはどうだろう。きっと頑張れば、今の使い捨ての女性とはならないで、自己実現とはいかないまでも、一生、自分の存在の証明し続けることが出来るかもしれない。

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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