今年のバレンタインデーは、久しぶりに、知り合いからいくつかのプレゼントをもらった。
<マリアージュの2缶>
まずは、マリアージュ社のマルコポーロと、オレンジペコーの紅茶セット。そして、これとマリアージュ(:相性)のいい、アンリシャルパンティエのプチ・ガトーのセット。あとは、まあちょっとしたチリ産の赤ワインだった。チョコレート系は全くなかった。
早速、味あわせていただいたのは、マルコポーロとプチ・ガトーだった。
マルコポーロは、僕の大好きな紅茶で(逆に言えば、僕はあまり紅茶を飲まない)、新しい水からお湯を沸かして、ポットの中で茶葉をジャンピングさせると、部屋中に香りが立ってくる。そして、残り香が結構長く部屋にある。ゆたかな気分になる。感謝しながら、その時間を楽しむことが出来た。
<プチ・ガトー>
もともと、バレンタインデーは、ローマ時代のバレンタインに由来するものだが、ヨーロッパでは、2月14日を恋人や友達、家族と愛を交わすための贈り物の日として定着している。つまり、日本の1970年代後半から定着した、「女性から男性に愛を告白するために、チョコレートを送る」なんてことは全くなく、男性からも、女性からも、子供たちへも、親たちへも、自由に、気軽にプレゼントして、他の人に対する、自分の気持ちを表現する機会として使われている。
<ミラノ・モンテナポレオーネのバレンタインの飾りつけ>
日本的な女性からの男性へのチョコレートのプレゼントとは、チョコレートメーカーの販売促進作戦によるものだった。今も、東京・大森にあるメリーチョコレートの作戦勝ちだったわけだ。
僕自身が現役のころ、つまり1980年代に僕の会社にもその波が及んできて、本命チョコだとか、義理チョコだとかが流行っていたものだ。しかし、既婚者の僕には、そんな本命チョコなんてものは来るはずもなく、義理チョコが僕のマネージャーボックスにいくつか置かれていただけだった。独身者の間では、それなりのチョコレートが動いていたようだ。
日本的なバレンタイン・チョコレートの騒ぎは、僕の子供たちの間で活発だったような記憶がある。長男がいくつもらったとか、チビが本命と義理チョコを使い分けたとか、たわいのない会話の記憶がある。彼らにすれば、記憶に残る物語があるのかもしれない。
僕にとってバレンタインデーというのは、僕の心の母となった、99歳を迎えるミュリエル ジエームズ博士の誕生日だということだ。
<ミュリエル ジェームズ>
彼女は、最愛のご主人をなくし、そして、最愛の一人息子のジョンをも亡くして、今は、身寄りのない一人の時間をカルフォルニアの高級ケアーハウスで送っている。今年も、読んでもらえるかどうかは分からないが、グリーティングカードをメールした。誕生日のお祝いと、彼女に対する永遠の「ありがとう」を伝えるためだ。
僕がIBMで30年間、楽しく働けたのは、半分はミュリエルのお蔭。あと半分は、日本で僕のコーチングをやってもらった、これも心の親父、O先生だ。残ながら、O先生は沖縄でのワークショップ中に倒れられ、70歳で天国に召された。
ミュリエルには、夏のカリフォルニア、タホ湖での2週間のTAのワークショップでお世話になった。タホ湖畔のコンドで2週間、グループでワークショップが開かれ、世界中から20人くらいの参加者が集まり、24時間、模擬家族を作り一緒に寝起きする。
すると、いくら外面をつくろっていても、この濃密な24時間の連続の時間、空間の共有の中では、外面はかき消され、その本質が明らかになる。それを、グループの中で、また、全体コースの中で、自分にフィードバックしてもらう。すると、それまでは全く自分では知らなかった自分を知ることになる。もう、ほんとに素のままの自分でいるしかないわけだ。
生まれて49年たって初めて、このコースで自分がどんな行動をしているのか、他人にはどう見えているのか、自分は本当にはどんなパーソナリティを待った自己なのかと気付いたわけだ。
このチャンスがなければ、僕はIBMの後の第二のキャリアを持つことはできなかっただろうし、自分と乖離した自分を演じていたことになっただろうと思う。だから、ミュリエルには感謝し続けているわけだ。
来年のバレンタインデーまで頑張ってくれれば、100歳のミュリエルということになる。
<ダース>
チョコの話に戻ると、僕は森永のダースという100円チョコを愛用している。
ついでに言うと、ホワイトデーとか、最近のはやりの「恵方巻」とか、とても僕の感覚には合わない。横並びの日本人の感覚が、そんな風習をはびこらせるのだろうが…。「恵方巻」は、僕には「アホウ巻」と読めて仕方がない。
僕の一番古い恩師を91歳で亡くしました。僕が高校2年の頃の担任で、卒業までお世話になった、58年前の恩師です。
親父の都合で、僕にとっては唐突にも、淡路島の洲本高校に転校試験をうけて転校し、奥野先生のクラスに入ったことがきっかけ。彼は、若くて、英語の先生でした。県立洲本高校で、1年と2学期を過ごしましたが、この間、密度の濃い付き合いをいただきました。
転校生(つまり島外からのよそ者)の僕に対して、先生は積極的にかかわってくださいました。部活では、自分では想像もしていなかった演劇部に誘われ、まごまごしていた僕を、育てっていただきました。僕も、それに乗り、自分で太宰治のむずかしい芝居を演出するまでに、積極的な行動をとれるようにもなりました。つまり、それまでの暗い思春期の真最中の僕を、そのメランコリックな世界から開放してくださったといってもいいでしょう。
先生は、僕が来る前から「ポチ」とあだ名がついていました。何故だかわかりませんが、「ポチ」と親しみを込めて、生徒に呼ばれていました。決して、馬鹿にした呼び方ではなく、ユーモラスなあだ名として呼ばれていたと思います。
その年の秋の体育会では、組対抗の応援のため、高さ15mほどの張りぼてを作るのが洲本高校の伝統でした。もともとの旧制洲本中学のバンカラな伝統が、こんなところに現れていたのでしょう。前年の1957年、ロシアの衛星、スプートニク2号にのせられて地球を周ったライカ犬からヒントを得て、スプートニクとポチの張りぼてを作ることになりました。
夜、暗くなるまで、皆で作業し、竹の骨組みを作り、紙を張り、ポチの絵を描いたスプートニクを作りあげたのです。雨の日には、体育館まで張りぼてを避難させました。
<1958年のスプートニクとポチ>
この張りぼてを作る作業の中で、その頃、男子生徒のあこがれだったマドンナ、STさんと親しくなることができました。それは、この張りぼてを作っていて夜、遅くなり、誰かが彼女を大浜海岸に近い自宅まで送り届けることになりました。真っ先に手を挙げたのが僕だったのです。その後、何度か彼女をチャリの荷台に横乗りで乗せ、彼女は僕につかまって、チャリで帰宅したものです。その後、彼女とは東京で再開し、一緒の部屋に泊まるという重要なじゃんけんに負けて、友達付き合いが続きました。
奥野先生の影響は、僕だけではありませんでした。僕が洲本高校で最初の友達になった炬口勝弘の変化にもかかわっていらっしゃいました。その変化には、僕もかかわっていたと思います。はじめの彼の印象は、がり勉で、暗い印象で、一人ぼっちで洲本に下宿していました。その彼を、彼が憧れていた東京の空気を持つ僕の親父、姉、そして僕の世界に引き入れたのです。彼の性格は明るくなりました。そして、どんどん、がり勉から離れていきました。淡路島の西海岸、都志の出身で、ご両親の期待を背負って、有名大学に入ってもらいたいとの希望から、少しずつずれていったのです。 こうして、炬口勝弘は、僕の大の親友になったわけです。根暗のがり勉の彼が、演劇部に入って芝居を始めたなんてことは、画期的な出来事でした。
炬口とは、彼が早稲田の仏文にいたころ頃から、さらに親しくなりました。彼のかみさんを口説き落とすための体の良い道具に使われ、彼はその女史とねんごろになり、結婚しました。そして、生まれてきた男の子に、炬口名前の一文字と、僕の名前の一文字をとった「炬口炬人」という名前を付けました。彼は僕に恩義を感じていた表れでした。
炬口からの情報で、奥野先生の住所を知り、それからずっと賀状のやり取りが続きました。年賀状は、生きているしるしです。そんな付き合いが何十年も続いていました。
奥野先生と再会するきっかけは、皮肉にも、炬口の脳梗塞の発作でした。炬口は、将棋界の写真を撮り始め、有名な写真家になり、羽生さんを主に追っかけていました。しかし、独り暮らしのお袋さんの看病のため、単身、仕事の量を減らして、淡路に帰って行きました。
そこに、脳こうそくの発作です。意識がなくなり、訪ねても仕方がないので、様子見をしていました。僕自身も、心臓に病気を持っていて、フットワークは軽くはなかったのです。彼に意識が戻ったと聞いたのは、2011年の末。翌年1月、僕はリスクを冒して、神戸空港まで飛びました。そして、レンタカーで、炬口が収容されていた病院を見舞いました。その時、奥野先生とも51年ぶりの再会を果たしました。
<入院中の炬口>
結果的には、炬口が僕の奥野先生との再会を段取りしてくれたといってもいいでしょう。洲本で、同窓会の世話役をやってくださっている沢井女史と一緒にミニミニ同窓会をやりました。奥野先生はお元気でした。それが、2012年1月。
<ミニ同窓会>
2013年には、淡路で同窓会があり、その際、奥野先生ともお目にかかりました。もちろん炬口とも。その後、炬口は脳梗塞の後遺症で、昨年、5月10日に天国に。大の親友を亡くし、僕は寂しくなりました。
<奥野先生:2013年>
そして、この2016年5月、奥野先生の訃報に接しました。しかも、亡くなったのが、炬口と同じ、5月10日でした。奥野先生は、91歳でしたから、大往生と言えるでしょう。しかし、炬口と同じ日に亡くなるとは、炬口が呼びに来たのかもしれません。
こうして、僕の一番古い恩師を亡くしました。それでなくても、友人、知人をどんどん亡くしている今日この頃、僕の生きられる時間も確実に短くなっているのを感じます。
恩師といえば、大学時代の恩師、桂田利吉先生も1993年、91歳で他界。大学の教養の頃、これもお世話になり、迷惑をかけた、松太郎先生も、ほかの大学を1993年に退官され、消息は不明です。おそらく今、94歳。ご無事かどうか案じています。
カスケットリスト(棺桶リスト)の乗っている、友達、先輩には、できるだけ早く会っておこうと、心がせかされる出来事でした。合掌。
環境考古学者の考えること
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共済病院12月13日 午後3時
だんだん分かってきた・ネットコミュニケーション
2008年3月にブログを再開して、何とか書き続け、もうすぐ1年になります。
前にも書いたように僕の心臓は遺伝性の「肥大型心筋症」で、これ自体は直すことは出来ません。それから派生して出てくる症状、「心房細動」の発作を薬(劇薬といわれています)で止めるのがいま出来る治療です。最新の物理的な根治療法、「カテーテル・アブレーション」もやりましたが、結果は6ヶ月で再発。薬頼りの日々が続きます。発作が起きると胸が苦しくなります。
この3月3日、ひな祭りは残念ながら、悪い意味で記念すべき日になりました。今まで、「心房細動」は長くても2週間ぐらい薬を飲み増して我慢すれば、なんとか正常な脈(同調律)に戻りました。が、今回はダメでした。発作を止めるには電気ショックしかなく、入院の予定で病院を訪ねました。しかし、そこで発見されたことは、より危険な症状である「心室頻拍」発症の確認でした。この「心室頻拍」は、突然死の「心室細動」の引き金になりやすいと言われています。大学病院は満床。入院の予定も立たず、劇薬の倍増で、様子見になりました。ですから、今も不整脈の嵐の中です。
以前であれば、ショックで鬱の世界に舞い戻る可能性が大でしたが、今は鬱に関してはドラッグ・フリーになった自分自身に救われて、まぁ精神的には元気でいます。後は薬と神様にお任せするっきゃありません。
死へのカウントダウンが、どのあたりかはわかりませんが、着実に進んでいるようです。一方、いっぱい、いっぱいエッセイに書きたいことが浮かんできているのだから、筆を早めなくては…とも思います。
今日のエントリーは暗い話しに見えるかもしれませんが、そうではなく、実は久しぶりに触発されたコラムを紹介したいと書いています。もちろんコラムニストへの相談も無しですが…。チョッと乱暴な議論もありますが…。
日経ビジネス オンラインのコラムの、「この国のゆくえ」シリーズ
2009年2月4日(水)で取りあげられた「今の資本主義はもう、やめてくれ」の
“森の国”の思想が次の経済システムを作る
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090203/184786/?P=1
です。
語りは、 安田喜憲(やすだ・よしのり)先生。数千年のスパンで文明の盛衰を見つめる環境考古学者です。
米国金融システムの崩壊からもたらされた世界を巻き込む恐慌の中で、日本は輸出依存型の経済構想と、ヴィジョンを持たない世襲政治と、官僚の独善的国の運営に身をゆだね、大揺れの現状にまごまごしているように見えます。こんな中で、安田先生は社会考古学者として、今の金融危機をどう見ているのかを語られます。
先生は、地理学者として、自然と人間の関係に着目し、「気候が変わると文明が崩壊する」「森がなくなったら人類の生活が困窮する」などというテーマを研究され、地理学が環境考古学に発展していったようです。
>「ギリシャ文明は木を切り尽くしたために崩壊した」では、
「こんな禿げ山のところで文明が発展するはずがない」。そして、「木を切り尽くしたために、文明が崩壊した」と実証されます。
>「表土が流出し、内海を埋め、マラリアの巣窟になった」ためギリシャは滅び、ローマもしかり。
>「価値観の収斂が文明の破壊につながった」では、
文明が発展する中で森が破壊され、禿げ山になった。多神教の死滅、そして、砂漠化が進行し、星空の彼方に天国の世界があるという妄想が生まれ、一神教が出現する。それがキリスト教。ローマ文明の持っていた多様性はキリスト教を国教として以降、失われていく。
>「森林の消滅とともに広まったキリスト教」では、
「環境破壊はキリスト教の原罪」だと指摘されます。ローマ文明はヨーロッパ全体に広がります。そこには森林の伐採が伴います。そして、燃やす木がなくなって、石炭に手をつける。産業革命となる。そして、その過程で誕生した思想が市場原理主義。
マルサスは「人口論」で、「神の命の通り一生懸命働いていれば豊かになれるはずだ」。「貧しい人間は神の命に背いた人間であり、罰を受けているんだ」と決め付ける。市場原理主義は「神の見えざる手」を後ろ盾に、市場の自由な競争に任せておけば世の中うまくいくと考えて、ここに今の市場原理主義が大手を振ってまかり通ることになる基礎があると語られる。
>「人間以外の生命に対する畏怖の念がなかった」では、
今の市場原理主義を伴う資本主義は一神教であるキリスト教から生まれた。自然と人間の関わりを聖書でうたっていないキリスト教は、自然に対する畏敬の念がない。キリスト教社会で生まれた今の経済理論は環境に想いを巡らせる発想がそもそもない。だからこそ、地球環境問題も生じたと論を進める。
資源を収奪し、欲望を肥大化。地球環境の問題も生まれた。
>「式年遷宮を1300年続けられることが日本人の喜び」では、
一神教の世界は、現代の世界を支配している市場原理主義、妄想の世界を生んだ。金融システムも数字だけで生きている虚構の世界に過ぎないと断じる。
日本人は生きとし生けるものを崇拝し、他人の幸せを考え、慈悲の心を持って、人と自然が接するという素晴らしい伝統があった。でも、今は「成長こそが素晴らしい」という市場原理主義がはびこる。伊勢神宮の式年遷宮はゼロ成長での、持続性の維持の喜びではないかと語る。そして、肥大化する欲望を放置すれば、「2050~70年に現代文明は崩壊する」と予言する。
>「イースター島の崩壊は森林破壊から始まった」では、
島の人口の増加が、島全体の衰亡への道を開いたと実証。イースター島は、今や、地球の置かれている姿に符合すると語る。さらには、地球温暖化の現象が崩壊への道をたどる動きに拍車をかけると指摘する。
>「次のシステムを作るのは多神教の国、日本」では、
一神教の世界観に立脚した経済システムに代わる経済理論、経済システムを作るのは多神教の世界観を持つ日本しかありませんと言い切る。
僕が、いくらアブリッジを作っても、真意は伝わりません。ぜひ、時間を見つけて、このコラム(5ページ)を読まれることをお勧めします。今の問題の根幹に触れた思いをいたしました。安田先生、ありがとうございました。