てつんどの独り言 その1

1章 友達、肉親( 25 / 27 )

都電荒川線で鬼子母神へ

 

 久しぶりというのには、少し時間が経ちすぎているかもしれない。21年ぶりに、ちんちん電車 荒川線に乗って、鬼子母神へいって来た。鬼子母神と聞けば、おそらく多くの人が、「恐れ入りやの鬼子母神」と狂歌に歌われた「朝顔祭り」で有名な、台東区下谷(鶯谷駅近く)の真源寺を思い出されると思うが、もう一つ、東京には鬼子母神がある。

 

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<荒川線・大塚>

 

山手線の大塚駅から、早稲田に向かう都電、ちんちん電車 荒川線に乗って、鬼子母神前で降りると、鬼子母神の参道は目の前だ。因みに、なぜちんちん電車と呼ばれるかというと、車内に大きなベルがあり、「次で降ります」と近くのボタンを押すと、「止まります」と、運転手さんが、そのベルをチンチンと鳴らしてくれるからだ。

 

雑司ケ谷の鬼子母神(法明寺)に詣でるだけが、目的ではない。この境内に近い病院、鬼子母神病院で、1991年に親父が肺がんで亡くなった。一度、親父が物理的にくたばった建物を見ておきたかったのだ。

 

豊かなけやきの参道を歩いて鬼子母神に至る。しかし、昔のイメージとは少し違っていた。けやきの大木の数が少なくなって、数えてみると、4本ぐらいしか、大木と言える木は見当たらない。あとは、細い若木たちだけだった。うっそうとした感じが無くなっていた。土地の人に聞いてみたら、600年の年輪を持つ木が、今も存在しているが、あとは、植え替えが進んでいて、感じが変わったようだ。道理で、どこかさびしい姿に見えたのだ。

 

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<けやき>

 

このケヤキ並木の突き当りには、昔は、ついじ塀越しに、広い日本庭園が見え、池には中の島まであるおもむきのある大きな屋敷だった。しかし今は、イトーピアというマンションが建っている。聞けば、日本シルクの社長だった中沢氏の邸宅だった大きな屋敷は無くなって、相続の際、売られたらしい。ちょっと悲しい風景だ。イトーピアに暮らす住民たちは、目の前に、けやき並木が見えて、いい環境に恵まれたのかもしれない。

 

親父は87歳で、この鬼子母神病院で亡くなった。その前日、僕は車で横浜から首都高5号線を走って親父を見舞った。その次の夜、親父は、一人、旅立っていった。110日、東京が初雪の日だった。親父は最後まで絵を描き続けた。病室に油絵の具を持ち込むというので、僕が抑え込んだ。その代わりに、水彩絵の具をさし入れたら喜んで絵を描いて、病院の廊下で個展を開いていた。

 

僕はずっと、親父が一人で旅立っていったこの病院を、一度訪れてみたいと思っていた。記憶では、コンクリートの打ちっぱなしの黒い建物だった。そして、その窓から、鬼子母神の境内が見えていた。

 

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<元病院>

 

行ってみると、建物は同じつくりだが、ピンク色にちかい白色で塗りなおされて、そこに立っていた。明るい感じに見えた。もし病院だったら案内を乞うて、古い人に話を聞いてみたかったのだが、残念、今は東京音楽大学のK館という文字が見える別の印象になっていた。仕方ない、時間が経ったのだから…。

 

帰り道、鬼子母神を訪ねた。ここは昔とまったく変わらない。安産の願いごとで、今も、たくさんのお参りがあるようだ。僕の目的は、仏には悪いけれど、境内の昔からの駄菓子屋を訪れることだった。川口屋は健在だった。銀杏の葉に埋もれながら、店は開いていた。見ると、ブルーの服を着た幼い女の子が買い物をするために、こんにちはと声をかけている。奥から年配の女の人が顔を見せて、その女の子に対応しているのが見える。

 

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<川口屋>

 

僕も何か買ってみたくなり、女の子が去った川口屋に声をかけた。こんにちはとおなじ言葉をかけていた。何度か呼んで、白黒の猫と一緒に姿を現したのが、元気なおばあさん。僕は、並ぶガラス瓶とガラスケースを見まわした。そこには、なつかしい駄菓子が、昔の記憶のように存在していた。

 

まず選んだのは、麩菓子。チョコレートでカバーされた麩(ふ)そのものの形をしている。次に、薄い、薄いウエハースのようなミルクせんべいを手に取った。軽い。おばさんに、古いものは何でしょうと聞くと、くずもちだった。全部で98円。こうでなくっちゃねと、100円玉で買い物をした。昔と同じく、うれしかった。笑顔になっている自分が分かる。

 

鬼子母神のケヤキ並木に戻ってきて人に聞くと、鬼子母神病院は、今は診療所になって、並木の正面にあるときいた。何か古い姿の写真でもないかと、診療所に入り込み、受付の人に聞いてみた。2004年に移転して、病院から診療所に変わっているという。病院時代の事務長に聞いてみれば、なにか分かるかもと言われたが、帰りを待つこともなく診療所を出た。待合室には、お年寄りばかりが、20人くらい、静かに順番を待っているのが見えた。やはり、町の人たちの面倒を見ているようだ。

 

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<駄菓子>

 

都の天然記念物に指定されたという、けやき並木を背にして、僕は都電、鬼子母神前駅に戻った。もうせん、このあたりは、ひなびた東京の町屋が続き、のんびりとちんちん電車が走っていたものだが、鬼子母神前や雑司が谷駅あたりは、大規模な道路工事が行われていて、至るところ工事中で土埃が舞っていた。その中を、ちんちん電車が、大塚に向かって走っていく。

 

目を上げると、池袋サンシャインビルが、すぐそこに見えた。もう2度と来ることはないだろうと、僕は大塚駅で降りた。

1章 友達、肉親( 26 / 27 )

バレンタインデーに思う

 

 今年のバレンタインデーは、久しぶりに、知り合いからいくつかのプレゼントをもらった。

 

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<マリアージュの2缶>

 

 まずは、マリアージュ社のマルコポーロと、オレンジペコーの紅茶セット。そして、これとマリアージュ(:相性)のいい、アンリシャルパンティエのプチ・ガトーのセット。あとは、まあちょっとしたチリ産の赤ワインだった。チョコレート系は全くなかった。

 

 早速、味あわせていただいたのは、マルコポーロとプチ・ガトーだった。

 

 マルコポーロは、僕の大好きな紅茶で(逆に言えば、僕はあまり紅茶を飲まない)、新しい水からお湯を沸かして、ポットの中で茶葉をジャンピングさせると、部屋中に香りが立ってくる。そして、残り香が結構長く部屋にある。ゆたかな気分になる。感謝しながら、その時間を楽しむことが出来た。

 

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<プチ・ガトー>

 

 もともと、バレンタインデーは、ローマ時代のバレンタインに由来するものだが、ヨーロッパでは、214日を恋人や友達、家族と愛を交わすための贈り物の日として定着している。つまり、日本の1970年代後半から定着した、「女性から男性に愛を告白するために、チョコレートを送る」なんてことは全くなく、男性からも、女性からも、子供たちへも、親たちへも、自由に、気軽にプレゼントして、他の人に対する、自分の気持ちを表現する機会として使われている。

 

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<ミラノ・モンテナポレオーネのバレンタインの飾りつけ>

 

 日本的な女性からの男性へのチョコレートのプレゼントとは、チョコレートメーカーの販売促進作戦によるものだった。今も、東京・大森にあるメリーチョコレートの作戦勝ちだったわけだ。

 

 僕自身が現役のころ、つまり1980年代に僕の会社にもその波が及んできて、本命チョコだとか、義理チョコだとかが流行っていたものだ。しかし、既婚者の僕には、そんな本命チョコなんてものは来るはずもなく、義理チョコが僕のマネージャーボックスにいくつか置かれていただけだった。独身者の間では、それなりのチョコレートが動いていたようだ。

 

 日本的なバレンタイン・チョコレートの騒ぎは、僕の子供たちの間で活発だったような記憶がある。長男がいくつもらったとか、チビが本命と義理チョコを使い分けたとか、たわいのない会話の記憶がある。彼らにすれば、記憶に残る物語があるのかもしれない。

 

 僕にとってバレンタインデーというのは、僕の心の母となった、99歳を迎えるミュリエル ジエームズ博士の誕生日だということだ。

 

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<ミュリエル ジェームズ>

 

 彼女は、最愛のご主人をなくし、そして、最愛の一人息子のジョンをも亡くして、今は、身寄りのない一人の時間をカルフォルニアの高級ケアーハウスで送っている。今年も、読んでもらえるかどうかは分からないが、グリーティングカードをメールした。誕生日のお祝いと、彼女に対する永遠の「ありがとう」を伝えるためだ。

 

 僕がIBMで30年間、楽しく働けたのは、半分はミュリエルのお蔭。あと半分は、日本で僕のコーチングをやってもらった、これも心の親父、O先生だ。残ながら、O先生は沖縄でのワークショップ中に倒れられ、70歳で天国に召された。

 

 ミュリエルには、夏のカリフォルニア、タホ湖での2週間のTAのワークショップでお世話になった。タホ湖畔のコンドで2週間、グループでワークショップが開かれ、世界中から20人くらいの参加者が集まり、24時間、模擬家族を作り一緒に寝起きする。

 

 すると、いくら外面をつくろっていても、この濃密な24時間の連続の時間、空間の共有の中では、外面はかき消され、その本質が明らかになる。それを、グループの中で、また、全体コースの中で、自分にフィードバックしてもらう。すると、それまでは全く自分では知らなかった自分を知ることになる。もう、ほんとに素のままの自分でいるしかないわけだ。

 

 生まれて49年たって初めて、このコースで自分がどんな行動をしているのか、他人にはどう見えているのか、自分は本当にはどんなパーソナリティを待った自己なのかと気付いたわけだ。

 

 このチャンスがなければ、僕はIBMの後の第二のキャリアを持つことはできなかっただろうし、自分と乖離した自分を演じていたことになっただろうと思う。だから、ミュリエルには感謝し続けているわけだ。

 

 来年のバレンタインデーまで頑張ってくれれば、100歳のミュリエルということになる。

 

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<ダース>

 

 チョコの話に戻ると、僕は森永のダースという100円チョコを愛用している。

 

 ついでに言うと、ホワイトデーとか、最近のはやりの「恵方巻」とか、とても僕の感覚には合わない。横並びの日本人の感覚が、そんな風習をはびこらせるのだろうが…。「恵方巻」は、僕には「アホウ巻」と読めて仕方がない。

1章 友達、肉親( 27 / 27 )

一番古い恩師を亡くしました

 僕の一番古い恩師を91歳で亡くしました。僕が高校2年の頃の担任で、卒業までお世話になった、58年前の恩師です。

 

 親父の都合で、僕にとっては唐突にも、淡路島の洲本高校に転校試験をうけて転校し、奥野先生のクラスに入ったことがきっかけ。彼は、若くて、英語の先生でした。県立洲本高校で、1年と2学期を過ごしましたが、この間、密度の濃い付き合いをいただきました。

 

 転校生(つまり島外からのよそ者)の僕に対して、先生は積極的にかかわってくださいました。部活では、自分では想像もしていなかった演劇部に誘われ、まごまごしていた僕を、育てっていただきました。僕も、それに乗り、自分で太宰治のむずかしい芝居を演出するまでに、積極的な行動をとれるようにもなりました。つまり、それまでの暗い思春期の真最中の僕を、そのメランコリックな世界から開放してくださったといってもいいでしょう。

 

 先生は、僕が来る前から「ポチ」とあだ名がついていました。何故だかわかりませんが、「ポチ」と親しみを込めて、生徒に呼ばれていました。決して、馬鹿にした呼び方ではなく、ユーモラスなあだ名として呼ばれていたと思います。

 

 その年の秋の体育会では、組対抗の応援のため、高さ15mほどの張りぼてを作るのが洲本高校の伝統でした。もともとの旧制洲本中学のバンカラな伝統が、こんなところに現れていたのでしょう。前年の1957年、ロシアの衛星、スプートニク2号にのせられて地球を周ったライカ犬からヒントを得て、スプートニクとポチの張りぼてを作ることになりました。

 

 夜、暗くなるまで、皆で作業し、竹の骨組みを作り、紙を張り、ポチの絵を描いたスプートニクを作りあげたのです。雨の日には、体育館まで張りぼてを避難させました。

 

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<1958年のスプートニクとポチ>

 

 この張りぼてを作る作業の中で、その頃、男子生徒のあこがれだったマドンナ、STさんと親しくなることができました。それは、この張りぼてを作っていて夜、遅くなり、誰かが彼女を大浜海岸に近い自宅まで送り届けることになりました。真っ先に手を挙げたのが僕だったのです。その後、何度か彼女をチャリの荷台に横乗りで乗せ、彼女は僕につかまって、チャリで帰宅したものです。その後、彼女とは東京で再開し、一緒の部屋に泊まるという重要なじゃんけんに負けて、友達付き合いが続きました。

 

 奥野先生の影響は、僕だけではありませんでした。僕が洲本高校で最初の友達になった炬口勝弘の変化にもかかわっていらっしゃいました。その変化には、僕もかかわっていたと思います。はじめの彼の印象は、がり勉で、暗い印象で、一人ぼっちで洲本に下宿していました。その彼を、彼が憧れていた東京の空気を持つ僕の親父、姉、そして僕の世界に引き入れたのです。彼の性格は明るくなりました。そして、どんどん、がり勉から離れていきました。淡路島の西海岸、都志の出身で、ご両親の期待を背負って、有名大学に入ってもらいたいとの希望から、少しずつずれていったのです。 こうして、炬口勝弘は、僕の大の親友になったわけです。根暗のがり勉の彼が、演劇部に入って芝居を始めたなんてことは、画期的な出来事でした。

 

 炬口とは、彼が早稲田の仏文にいたころ頃から、さらに親しくなりました。彼のかみさんを口説き落とすための体の良い道具に使われ、彼はその女史とねんごろになり、結婚しました。そして、生まれてきた男の子に、炬口名前の一文字と、僕の名前の一文字をとった「炬口炬人」という名前を付けました。彼は僕に恩義を感じていた表れでした。

 

炬口からの情報で、奥野先生の住所を知り、それからずっと賀状のやり取りが続きました。年賀状は、生きているしるしです。そんな付き合いが何十年も続いていました。 

 

奥野先生と再会するきっかけは、皮肉にも、炬口の脳梗塞の発作でした。炬口は、将棋界の写真を撮り始め、有名な写真家になり、羽生さんを主に追っかけていました。しかし、独り暮らしのお袋さんの看病のため、単身、仕事の量を減らして、淡路に帰って行きました。

 

そこに、脳こうそくの発作です。意識がなくなり、訪ねても仕方がないので、様子見をしていました。僕自身も、心臓に病気を持っていて、フットワークは軽くはなかったのです。彼に意識が戻ったと聞いたのは、2011年の末。翌年1月、僕はリスクを冒して、神戸空港まで飛びました。そして、レンタカーで、炬口が収容されていた病院を見舞いました。その時、奥野先生とも51年ぶりの再会を果たしました。

 

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<入院中の炬口>

 

結果的には、炬口が僕の奥野先生との再会を段取りしてくれたといってもいいでしょう。洲本で、同窓会の世話役をやってくださっている沢井女史と一緒にミニミニ同窓会をやりました。奥野先生はお元気でした。それが、2012年1月。

 

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<ミニ同窓会>

 

2013年には、淡路で同窓会があり、その際、奥野先生ともお目にかかりました。もちろん炬口とも。その後、炬口は脳梗塞の後遺症で、昨年、5月10日に天国に。大の親友を亡くし、僕は寂しくなりました。

 

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<奥野先生:2013年>

 

そして、この2016年5月、奥野先生の訃報に接しました。しかも、亡くなったのが、炬口と同じ、5月10日でした。奥野先生は、91歳でしたから、大往生と言えるでしょう。しかし、炬口と同じ日に亡くなるとは、炬口が呼びに来たのかもしれません。

 

 こうして、僕の一番古い恩師を亡くしました。それでなくても、友人、知人をどんどん亡くしている今日この頃、僕の生きられる時間も確実に短くなっているのを感じます。

 

 恩師といえば、大学時代の恩師、桂田利吉先生も1993年、91歳で他界。大学の教養の頃、これもお世話になり、迷惑をかけた、松太郎先生も、ほかの大学を1993年に退官され、消息は不明です。おそらく今、94歳。ご無事かどうか案じています。

 

 カスケットリスト(棺桶リスト)の乗っている、友達、先輩には、できるだけ早く会っておこうと、心がせかされる出来事でした。合掌。

 

 

2章 フラグメンタルな…( 1 / 21 )

フラグメンタルな… タイトル一覧

 

  環境考古学者の考えること

 

  汗臭い新宿

 

  自分史を映しだす車たち(その1)

 

  自分史を映しだす車たち(その2)

 

  久しぶりに夢中でTVを見た

 

  福島原発事故の真実

 

  入院、そしてオペ

 

  入院の日々

 

  夢の助言

 

  もう今年(2011)は終わり

 

  夏祭り

 

  金属疲労で「笑っていいとも」が終る 

 

  女性にとっていい仕事:SE

 

  いとおしいパートナーの高齢化

 

  物に対するこだわり

 

  夢で恋をした

 

  怪我の想い出を集めてみると

 

  異種の動物たちの友情

 

  共済病院12月13日 午後3

 

  だんだん分かってきた・ネットコミュニケーション

 

徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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