いつも、ミラノに帰ると羨ましい光景にぶつかる。本当にうらやましい。
最後の晩餐を見に行ったその帰り、サンタマリア・デッレ・グラツェ教会の反対側の歩道を歩いてメトロの駅に向かっているとき、カメラを持っている僕の気を引く風景があった。
サンタマリア・デッレ・グラツェ教会を目の前に見て、反対側の歩道の奥に、鉄の柵を巡らした落ち着いた5階建てくらいのアパートメントが見えた。
こうしたアパーメント(日本だとマンションと言うだろう)の定番で、入り口から中庭が見え、そこにつながる小道が誘うようにデザインされている。
ちょうど、紫陽花の時期で、うす紫と青い葉が小道を彩っている。そして、その正面には、イタリア式の丸い瓦で葺いた小さな屋根が配置されている。美しく、いつでも人を迎え入れる準備ができているようだ。
夢中になって、柵越しに写真の構図を決めていると、後ろでなんだか車の音がする。何だろうと振り返ると、一台の小型のランチャが、僕が写真を撮っている鉄の扉に直角に入ってこようとしている。なんだかよく理解できなかった。車から、30代くらいの女性が出てきて、僕にニコリとした。
カメラを持ったまま呆然としていた僕だが、もしかしたらここに車が入るんじゃないかと、やっと状況が呑み込めた。あわてて、僕はゴメンナサイ、とても素敵なアプローチなので写真を撮らしてもらっていたのです。
ここに車を入れるのですかと訊いた。そうだと言う。にこやかに、写真を撮り終ってくださって結構ですと言う。あわてて、構図を決めて撮った写真がこの絵。話をきくと、この4階建ての大きなアパートに、一家5人で暮らしているという。ランチャを運転しているのがお母さんだと話してくれた。
羨ましいという言葉が、僕の口をすべりだしていた。
聞くとこのアパートメントも400年も経っているという。しかも、有名な教会のすぐそば。素晴らしい環境に、こんなアパートを持っているなんて、ほんとに羨ましい!
僕がどいた門は彼女が開いて、ランチャは小道を中庭の方に消えて行った。
この地域が素晴らしい環境であることも、羨ましいのだが、それは決して環境のせいだけではない。僕の住んでいた、ちょっと下町のコルソ・ブエノスアイレスのアパートメントでも同じだ。夕暮れ、勤め帰りの人が呼び鈴を押して門を開け、郵便物をチェックして中庭に消えていく。
彼らは、何百年も、こうしたアパートで暮らしている。
内装は、何十年に一回とか、機会があるとリノヴェートしているようだけれど、決して日本のように、50年くらいで建て替えだという必要はないのだ。だから、日本のように、親が家を建て、その子供も自分の代で家を建て替えるなんて馬鹿なことはない。
彼らは、家を建て替えるという概念はない。内装を必要に応じて、3~400万円くらいかけて一回やれば、一代の生活は十分。子供たちが、また結婚するとかの時に内装変えをやればいい。
日本のように、39年もの住宅ローンなどを組んで、常にその返済に追い立てられて、消費に金を回せないということはないわけだ。だから、羨ましい。
社会資本の蓄積が個人の生活を豊かにしている。結果として、国も新しいことをやろうと汲々とはしていない。しかも、基本的には同じ所に、その家族は何代にもわたって住んでいるから、地域社会が壊れるということもない。みんな子どものころからの知り合いの集合体なのだ。
だから、各々の個人の店も、同じ場所で、同じものを扱い続けて商売になる。大きなことを考えなければ、生活はそれなりに維持できるわけだ。
こうした世界は、単にイタリアにとどまらない。多くのヨーロッパの国、民族が同じように古くからの社会資本を大切にして、ゆたかな住生活をその上に築いている。
日本だって湿度のことがあるから…、なんて言って木造にこだわることもないと思うし、一戸建てにこだわる必要もないと思う。新しい建物の構造材を発明して、300年 でも400年でももつ集合住宅を街につくればいい。
聞くところによると、日本では最新のマンションの寿命も50年くらいとふんでいるようだ。おかしなことだ。
ミラノで見られるこんな生活は、日本人の発想にはないのでは…と考えるわけだ。やはり、羨ましいのだ。
イタリアでは、長距離でも車で旅する人が多い。
僕も若くて元気なころは、ミラノ~ローマの600km、ミラノ~ヴェネチア300kmなんかを平気で走っていた。100km、1時間換算で走れるから計算も簡単。
何しろ、日本が初めて高速道路を建設するときに真似た仕組みが、イタリアのアウトストラーダだから、日本人にとってはなんだかなじみやすい。
しかし、正直、もう長距離を自分で運転はしたくない。ということで、長距離の移動は電車に頼る事になる。
今回の旅でも、ミラノ~フィレンツエとチンクエテッレ~ミラノ間は電車にした。イタリアの電車で怖いのは、時々、ストライキがおきて、突然ですが使えませんという危険はある。でも今回は、ストライキは起きなかった。
でもいろいろなことが起きた。
そのことを書いて、今後の読者のイタリア電車の旅の参考になればと思っている。イタリア国鉄は、今はトレニタリア (trenitalia) という会社が運営している。
僕の日本の出発前から、実は問題が起きていた。トレニタリアは、オンラインで切符も、座席指定特急券も予約できるし、クレジットカードで決済ができるから、個人旅行では非常に便利。
旅の日程から、ある日のミラノ~フィレンツエの一等の特急券が必要だった。トレニタリアのHPにアクセスして、切符を手に入れようとしていた。
もう先は、エウロスター(ES)という名前でイタリア国内の高速鉄道は走っていた。しかし、最近は従来の線路とは違った新しい線路を主要都市間に巡らせて、300km/時以上の速度で走るフレッチャ・ロッサ号(赤い矢号)が、美しいデザインでミラノ~サレルノ間を走っている。そのAV9521、10:20ミラノ発の切符を手に入れるところで、つまづいた。
電車を決めて、予約を入れようとする。
トレニタリアのHPは、予約できましたと通知してくるので、支払いの作業に入り、PINコードを入れ、カード会社の認証が終わり、後はオンラインティケットの発行だけ。
ところが、そこでエラーとなる。
Error code:1007 Error in ticket Generation(切符発行エラー)と表示され、少し待つと、Error code:9007 Dear customer, the transaction is unsuccessful. No charges made. Please try again later. (処理はうまくいきませんでした。支払いは発生していません。後でもう一度やってください。)とくる。
この切符が取れないと、次の行程が組めないから、1時間ほどしてやってみると、全く同じことが起きる。クーとつぶやきながら、同じことをやってみる。
5回も同じことをやっても、全く同じことがおこる。
しょうがない、飛行機の切符を買ったH.I.S.に、同じ電車を予約して入手してくれるように頼んだ。H.I.Sからは翌日OKが来て、一件落着と思っていた。
海外でのクレジットカードの支払で、問題が起きた経験があるから、僕はクレジット会社のHPで状況をチェックすることをいつも行っている。
ある日、クレジット会社のHPをチェックすると、トレニタリアからとんでもない請求がカード会社に行われていた。トレニタリアのHPからティケットを手に入れようとした僕の5回にわたる苦闘が、そのままチャージされている。一回6、000円 x 5回というわけだ。クー。
No charges made. って言って来たじゃないか。クー、クソーだ。
仕方がない、クレジットカード会社の国際部に電話して、事情を説明。トレニタリアからのエラーメッセージも証拠としてメールして、支払わないでいいように頼んだ。
しばらくして、クレジット会社から、僕にはこの金額はチャージしないで、イタリアのこのカード会社の支店に、現地でトレニタリアとの話をつけてもらうと回答が来た。よかった。エラーメッセージを保存しておいたのがよかったのだ。
後から、H.I.S.から同じ電車のティケットが届いて、予定の組み替えはしなくて済んだ。ネットでのトレニタリアとのやり取り、ご注意を!
P.S.
最新情報によれば、2012年8月26日より、民間会社ITALO(イタロ)が、ミラノ~ローマ間、580kmをノンストップで、2時間45分で結ぶフェラーリ特急のサービスを始めたようです。
僕が4週間、イタリアに滞在している間、雨が降ったのは、僕がジェット・ラグを消して本番のトスカーナに出かけられるようにと、ミラノにいた間の半日だけだった。
疲れを取るためだから、あまり無理はしないで気の向くまま街を歩いて、僕がご無沙汰していた10年間のブランクを埋めればよかった。
ホテル・アンバシャトーリはミラノのど真ん中だから、歴史的な中心街(チェントロストリコ)ならどこでも歩いて行ける。
モンテナポレオーネ通りと言えば、日本女性が目の色を変えて有名なブランド品を買いあさる街だから、日本でも十分に名前は知られていると思う。世界中に知られた一流のブランド・ブティックが細い一方通行の道を挟んで両側に並んでいる。周辺を合わせると、ざっと100店くらいが集まっている地域だ。
アンバショアトーリから東に歩くと3分でサンバビラ。そこから左へ曲がればこの通りだ。
僕は有名ブランドには全く興味はない。でもヴェトリーナ(ショウ・ウインド)を見て歩くのは楽しい。それこそ、ミラノの天才芸術家たちがこぞって、独自のヴェトリーナを美しく、モダンに、質高く作り上げていてくれるからだ。ありとあらゆるブティックが、今流行の、これからはやりそうな色彩を個性的に準備してくれている。何も買わなくても、楽しめるのだ。ブランドの名前を挙げればきりがないから、名前のリストはここでは作らない。
僕も行ってみたい店が4軒あった。
今日は雨が降るかも…との予報だったので、折り畳み傘をもって、ゆっくりと歩いてみようと出かけたら雨が降り出した。激しい雨でなければ、こちらの人はあまり傘を差さないで平気で歩いている。でも、ざっと降ってきた。歩道で物売りをしているライセンスのない商売人たちは、お巡りさんの目を気にしながら、さっと折り畳み傘を取り出して、傘のない人に売りつけている。こんな商売もあるのだと、感心した。買っている人もいた。何ともタイミングの良さが売りなのだ。
僕が行ってみたかったのは、テーブル・ウエアのアレッシ(Aessi)、家具のダ ドリアデ(Da Dirade)、タオル専門店のフレッテ (Frette)、そして、ランチはイル・サルマイオ(Il salmaio) なんて気持ちで歩きはじめたら、雨だ。
一番近いアレッシからと、記憶にある場所を探すけれど見当たらない。アレッシはイタリアン・デザインの美しいテーブル・ウエアの店で、できれば冷やかしだけではなく、気に入ったものがあったら買ってもいいと思って出かけたわけだ。しかし、店がない。
最初からへこむ。雨も降るし、気分が暗くなる。近くの店の人が、雨を見上げながら手持ち無沙汰に店の前に立っている。訊いてみるしかない。最近移転したんだって教えてくれた。500mくらいあるモンテナポレオーネ通りを端から端まで歩くことになる。仕方ない。「この次」があるわけではないから行ってみる。
モテオッティ通りを左に曲がって、ちょっと心細くなりながら少し歩くと、店が見えた。訊いたとおりに店を見つけられてよかった。だが、ヴェトリーナからデザインを見るが、ピンとくるものがない。残念と引き返す。
同じ通りにダ ドリアデの店があるので、イタリアン・デザインの家具たちを見る。シチュエーションごとに配置された家具たちは、とても魅力的だ。色もいい。欲しくなるけれど、家具は買っては帰れないし、横浜の僕んちに置ける様なものは見つからない。下手をすると、その一つだけ浮いてしまうだろう。見るだけ、見るだけと、自分を追い出すわけだ。
フレッテは、昔通りの場所にあった。やっとホッとする。ヴェトリーナから、店をのぞいてみる。タオル系のものの専門店で、気に入った店だ。しかし、値段がおそろしく高い。色も思っていたほどの美しさはない。
イタリアでは、バーゲンの時とか、大量販売の店以外では、人々はウインドーショッピングでしっかりいろんな店を見て歩いて、自分のものを選ぶのが普通だ。そして、本当に買うと決めて店に入るのが一般的。買いたいものがないから、フレッテに入る気にはならなくて歩き続ける。しかも、雨。
ランチはイル・サルマイオでと決めていた。古くからの店で、サラミの専門店だ。しかも、モンテナポレオーネにあるという特別な店でもある。
しかし雨の中を、記憶をたどって、それらしい区画を探すけれど、見当たらない。モンテナポレオーネ通りの真ん中あたりの、サンバビラから行くと右側にちょっと門をくぐった中庭に店はあったはずだ。しかし見つからない。
ここは、レストランとカフェと、サラミ類や、日本でいうデリカテッセン(?)のガストロノミアの売り場があって楽しい場所だった。まだ僕がイタリアになれない頃、入り込んで、そこの店の人がフリウリのサンダニエーレの生ハムと、パルマのそれを目の前でそいで試食させてくれて、その味が全く違うことを教えてくれた思い出のある店だ。
誰かに、イタリア旅行で、モンテナポレーネ近辺でどこか食事ができるところは…と訊かれたら、いつもこの店を教えていたのに見つからない。悔しいし残念。ちなみに、イル・サルマイオとは、サラミ屋さんということだ。
フレッタの近くで、やはり、店から外を見ている土地の人らしい男の人に訊いてみた。アレッシと同じように、最近、このモンテナポレオーネから移転したようだ。そんなに遠くない、しかし、少し離れた別の通りだと言う。名前がIl salmaio di Montenapoleone というぐらいだから、本当はこの通りにあるべきなのだが…移転していた。確かに、こんなブティックの聖地にサラミ屋さんがあるのはおかしいかもしれなのだが。疲れていた僕は、探してみるのをやめた。
これで、僕の行きたかった四つの店のうち、二か所には振られたわけだ。雨の中、頑張って新しい店を探しにいく気も失せて、暗い、人通りの少ないモンテナポレオーネの通りを抜けて、ホテルに帰ってきた。気分的にも疲れていた。
P.S.
最近のコリエーレ・デッラ・セーラ紙のミラノ版の情報だと、未来のミラノの中心街にしようと開発の進むコルソ コモ(ガリバルディ駅の近く)では、「新しいモンテナポレオーネ」を作ろうと、50店舗くらいの計画が進行中。2014年中の完成予定とか。でも、本物が消えることはないと思う。
<帰国後 見つけたイル・サルマイオのホームページ 確かに移転していた>
フィレンツエのホテルの場所は、旧メディチ家の住居、パラッツオ・メディチの斜め前のフェニーチェ(不死鳥)。フィレンツエのドゥオモやウフィッツイ美術館に近くて、しかもロレンツオ広場とその入口のスーパーマーケットにも近く、こんなに便利なホテルはない。ホテル自体は決して、不死鳥のように美しいわけではないのだが。
公共の施設の修復に、珍しくも日本人が多額の寄付をして完成した「天国の門」で知られているサンジョバンニ洗礼堂も、部屋から通りの左手奥に見える。
このホテルにある唯一のバルコニーに出ると、通りが見渡せる。斜め前はリチェオ(工業高校)だが、幸い夏休みに入っていたから、こちらを見られる心配はない。でも、バルコニーにいるバミューダとタンクトップの僕は、通りからは目立ったようで、通りの向こう側の歩道を歩くまだ好奇心の強い若い女性には、隠された微笑みが見える。きっと、僕に気づいているけど、見ないふりをするよう彼らは教育されているから見て見ないふり。
もっと小さな子たちは素直だから、僕を見上げてにっこりする。こちらが手を振ると、はにかんでまっすぐ前を見ながら、自分の手を自分の横でひらひらさせる。気がついているんだけど、お母さんに注意されているらしく、振り返ることもなく僕の前を通り過ぎていく。
その通りでは、面白いものを見ていた。
それは、イタリアの公共工事。洗礼堂に向かって伸びるマルテッリ通りの石畳を、新しいものに取り換える作業をしている工事の人たちがいた。
実は僕は、工事の作業を見ているのが好きだ。
むかし日本で、会社の中にテニスコートを作る作業が始まった時、やじ馬で、昼休みには皆で、今日は、何をやってんだろうとみていた。工事はこうやってやるんだとかを見ていて楽しんでいたのを思い出す。
また、東京の隅田川そばの高層ビルにいるころは、僕のいるビルのすぐそばで高層ビルの建設工事が始った。毎日、昼休みには、トビの人が、下の人とうまく連絡しながら、巨大なクレーンでパネルや、鋼材を引き上げて、所定の場所に取りつけていくのを見て楽しんでいた。だから、こんな工事にも目が向いたわけだろう。
マルテッリ通りの工事人は合計5名。新しい敷石を運んできたトラックから、大きな一枚ずつを、簡単なショベルカーみたいなもので舗装の土台となる砂地に降ろしていく。しかし、そこは工事をしている区画のはずれ。
敷石の基礎には道を掘り返し、砂をまき、圧力で平らにして、その上に隙間なく新しい敷石を敷いていく作業だ。単調だけれど、これから何十年、何百年使い続けるか分からない石畳だから、慎重に工事を進めているらしい。
毎日、バルコニーや、通りかかりで現場を見ているのだが、それがなかなか進まない。
見ていると、時間がかかる工事をやっている。基礎をつくる人は基礎を作る人。他の人は、その作業が終わって、新しい敷石を並べられる状態になるまで待っている。自分の仕事は自分の仕事で、他の人の仕事を積極的に助けようとは思わないらしい。
二、三枚、敷石を置ける基礎ができると、やおらショベルカーを運転する人が、端っこに降ろされた新しい敷石を取りに、ショベルカーを運転して近づいていく。敷石にロープをかける人がいて、その人の作業が終わると、二人でバランスを取って、ショベルカーはゆっくりゆっくり、新しい敷石を敷く場所まで運ぶ。そこにもう一人の助っ人が、ロープにショベルカーの鉤をかけて、釣り降ろせるようにしている。ショベルカーがその敷石を地面に降ろす。
置く位置を石を敷く職人さんが調整しているようだ。それから敷石を敷く作業が注意深く行われる。確かに、敷石は、真っすぐ敷けばいいというものではなく、必ず、真ん中が少し高くなって、雨水が両端に流れるように工夫されている。一番重要な作業ではある。
では、彼が敷石の微調整をやっている間、他の人は何をしているかと言えば、自分の作業の順番が来るまで待っているのだ。
たとえば、その時間を使って、端っこの新しい敷石たちを基礎を作っている場所まで運んでおくとかすればいいのに、なんて思うのは日本人根性か。後の二人の助っ人は、自分の出番まで、周りの通行人とおしゃべりなんかをして、時間が過ぎていく。
こうした順番で作業が進むように、監督の人がスーパーバイズしている。これで5人。
正確に測ったわけではないが、だいたい一日に2m位が新しい敷石に変わっていく。結果として、僕がフェニーチェにいた5日間に10~12mの敷石が伸びてきただけだ。
まあ、公共工事で、フィレンツエ市が施工主だから、のんびりやっているかも知れない。ワークシェアリング(仕事を分け合って、雇用を守る)の考え方からすれば、これも意味があるかもしれない。でもせっかちな僕には、やっていられない仕事の進め方だ。日本にはない仕事の仕方だと思った。
「そんなに急いでどこに行く」と言う昔のCMの言葉が浮かんできた。つくづく、自分の貧乏症に気がついてしまう出来事だった。