M.シュナウザー チェルト君のひとりごと  その1

三章 青年の犬のころ( 9 / 20 )

29.お父さんのお出迎え

 

 

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 お父さんは、たいてい月一回は東京に出かけていた。この一泊二日の間はお留守番だった、お母さんと二人で。

 

 夜はお母さんのベッドにもぐりこんで寝ていたのを、お父さんは知らない。僕は一人ではなかったから、夜になってもそんなに怖くはなかった。

 

 お父さんがいるときは、お父さんとお母さんが二階に寝て、僕はリビングの僕のバリケンの中で寝ていた。お父さんがいると僕は安心だったから、夜だって怖くはくはなかった。でも、お父さんがいない夜は、お母さんとこの家を僕が守らなくてはと思っていたから、ちょっと緊張する。そして、本当のことを言えば、ちょっと怖かったのだ。

 

 お父さんが、シュナウザーのキーホルダーをつけた大きなえんじのショルダーバッグを取り出して、書類や洗面道具を詰め始めたら、お父さんは出かけるんだと分かってきた。

 

 駅までは、お父さんが自分でポシェットを運転して、伊豆高原駅の駐車場においていくこともあったけど、たいていは、僕とお母さんがスバルで伊豆高原駅までお見送りしていた。お父さんがショルダーバッグを持って、バイバイと言って駅の中に消えていくのを僕たちは見送っていた。

 

 でも、本当は心の中で僕はわくわくしていたのだ。お父さんが東京にいくと、必ずいいことがあるのを覚えたからだ。だから、行ってらっしゃいと吠えていた。

 

 お父さんが帰ってくるのは、だいたいは次の日の夕方だった。お父さんから電話があると伊豆高原駅につく時間がわかる。それに合わせて、お母さんの運転するスバルで、僕たちは出かける。

 

 駐車場にスバルを止めて、時には僕が歩いて、時にはお母さんに抱っこされて、駅の改札口が見える駅の広いホールで待つ。時間が早すぎたときは、僕たちは、足湯の高台から電車の来るホームを見下ろしていた。

 

 ごっとんごっとんとスピードを落として電車がホームに着く。うまくすると、お父さんの姿が見えて、お母さんが、ほらあそこにいるよって言う。でも、僕は近眼だから、お父さんなんかは見えないのだ。

 

 改札で待っていると、遠くからお父さんが改札口に向かって歩いてくるのがわかる。あっ、お父さんだと分かると、僕はうれしくなって、お母さんに抱っこされたまま、大きなこえで、ヒヒ~~ンと鳴く。駅のホールは天井が高くて、音がよく響く。ホールにいる人が、みんななにがおきたのかと僕のほうを見る。そこで、僕が大きな声でヒヒーンといななくわけだ。みんながニコニコしている。

 

 お母さんは恥ずかしがっているのだけど、僕のいななきは止まらない。だんだん高く大きな声で、ヒヒーン、ヒンヒンと鳴くことになる。僕には止められない。だってお父さんが帰ってきたんだもん。

 

 お父さんは、改札を出ると笑いながらまっすぐ僕のほうへ歩いてくる。僕の頭をなでてくれて、僕を抱っこしてくれると、やっとヒンヒンは止る。

 

 僕がうれしくなるには、お父さんが帰ってきたということのほかに、いいことがあるのを予想していたからなんだ。

 

 お父さんは、帰りに横浜・高島屋のフォッションによって、大きなパン・ドゥ・カンパーニャという、おいしいでかいパンを必ず買ってきていた。それに、時には、成城石井で、ワインや沢山のチーズを買ってきてくれる。もちろん、僕へのお土産ではないのだけど、チーズも必ず僕も食べられるわけ。

 

 同じように、お母さんが横浜に行った帰りも、お父さんに抱かれて、ヒンヒンヒヒ~~ンと、駅のホールでみんなの目を集める。僕は、あそこではいななく犬で有名になっていたんだ。

 

 でも、いつもいいことばかりではない。

 

 ある日、お父さんが遅くなって、乗った電車が伊東駅止まりだったことがある。お父さんは、お母さんに伊東駅まで迎えにきてくれと頼んだらしい。その日は雨。かなり強く降っていた。

 

 お母さんはちょっと困った顔していたけど、僕を連れて、夜道をワイパーをかけながらスバルを運転した。先が良く見えないらしく、身を乗り出して運転している。しかも、大きな道では交通量が多いからと、さくらの里から十足、荻を通る裏道を伊東まで走ったのだ。

 

 カーブの多い道で、僕は助手席で、お母さんの運転が怖かったのだ。こんなんだったら、僕はひとりぼっちの夜の留守番は嫌いだけど、うちにいるほうが良かったなあと思っていた。

 

 でも、伊東の駅までの夜のお出迎えはこれっきりで、怖い思いをしたのは一度だけだった。怖い思いは、お母さんもしていたんだと僕はおもっている。

 

 帰りはお父さんが運転して、国道145を走ったから、あっという間にうちに着いた。

 

 予想通り、お父さんはいい匂いのするフォッションのパンを買ってきていた。僕もこれでパン・ドゥ・カンパーニャにありつくことができる。幸せな気分だった。だから、お父さんの東京行きは、僕は待ちどうしかったのだ。

 

 

三章 青年の犬のころ( 10 / 20 )

30.番犬の悩み

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 僕は、僕の家を守る責任があると思っている。だって、番犬でもあるのだから。

 

 門扉の掛け金がカチャンと音がすると、僕は玄関に飛んでいく、誰だろうと思いながら。誰かがベルを押して、キンコン・キンコンと鳴らすと誰かが来たと身構える。ドアが開くと、僕は大きき口をあけて、ワオワオ、ワオワオとほえる。時には牙も見せる。大きな声で吼える。だって僕の仕事だから…。

 

 たとえば、お母さんの大学の時の同級生が伊豆高原に住んでいて、時々一人か、誰かもう一人を連れて、お母さんを訪ねてやってきていた。

 

 その同級生は、保険の外交もやっていた。その人にも吼えた。ちょっと後ずさりしたけど、帰ろうとはしない。お母さんが飛んできて僕をおさえた。僕には、どうも気に食わない感じなのだ。たびたび、生命保険の勧誘にくるその人に、お母さんは、どうしたらいいかなと思いながら話を聞いているのがわかっていたからだ。お母さんが困るような人は、うちには上げないぞと吠え掛かった。

 

 何度目かに来たとき、僕は、その人がお母さんとリビングで話し始めるとき、かかとに噛み付いた。ほんのちょっと、僕が怒っているってわかってもらうためだった。それから、その女の人は、僕んちに来なくなった。僕はうちを守ったのだ。

 

 誰でも一応は玄関で吼えることにしている。アンナちゃんとアンナちゃんのお母さんが散歩のついでに、何か持ってきてくれたりする。そのときでも僕は吼えた。アンナちゃんのお母さんは、おやおや、吼えられちゃったと言いながら僕をなででくれる。僕はどうしていいかわからなくなって、吼えるのをやめてしまう。

 

 いつだったか、猫の友達、ミーシャとボニーのお父さんとお母さんが、ワインのボトルを持って遊びにきた。お父さんとお母さんが招待したのだ。

 

 外では、僕は決して吼えないのだけど、中に入ってくる人には、知っている人でも一応は吼えた。お父さんに怒られた。でも、僕にはどうしたらいいのか良くわからないから、ボニーとミーシャのお父さんたちの石和さんにも吼えた。

 

 石和さんは、僕たちが伊豆高原に来て、アンナちゃんの一家の次に、知り合った一家だった。僕の名前、「チェルト」が取り持つ縁だった。僕のことを石和さんに、チェルトですとお父さんが紹介した。イタリア語を話すんですかと、石和さんが訊いた。お父さんが、ミラノに住んでいましたから、少しは話せますと答えた。

 

 実は、石和さんは有名な画家で、日本橋の三越で個展を開いたりしていた。そして、奥さんと知り合ったのは、イタリアのルッカという町で、パトロンがついて絵を描いていたときだったと話していた。僕のお父さんのお父さんも画家だったから、二人は仲良くなって、僕んちに遊びに来たのだ。

 

 その石和さんにも僕は吼えた。怒られた。お二人がリビングまで入ってしまうと、もう僕の仕事は終わりで、今度はなでなでしてもらうか、おいしいものをくれるかを楽しみにする態度にコロリと変わる。  

 

 石和さんは、バローロと、バルバレスコというイタリアの有名なピエモンテ州のワインをお土産にやってきた。ご馳走は僕のお母さんが作っていた。僕も、もうご馳走、ご馳走と、みんなの足元に座って上を見上げている。お父さんが、僕の椅子を出して僕の席を作ってくれた。5人でテーブルを囲む。

 

 みんなが何を食べているのかが僕にもわかる。やっと少し大きなステーキの切れ端を石和さんからもらった。もう、これで石和さんは僕の友達だ。もう絶対に吼えないと心に決めた。

 

 その日、バルバレスコとお父さんが出したワインを2本出して、4人で3本のワインをあけていた。夜遅くなってパーティは終わった。僕には楽しい一日だった。

 

 でも、相変わらず誰には吼えていいのか、いけないのかはわからない。いちおう、玄関では、よく知っている人以外は吼えることにした。番犬の悩みだった。

 

 言っておくけど、僕は決して外では誰にも、犬にも、猫にも、人間にも吠え掛かったことはない。噛み付きに行ったこともない。

 

 だから保険の外交員さんに僕が噛み付いたのは、本当に例外だったのだ。

 

 

 

三章 青年の犬のころ( 11 / 20 )

31.ミレッミリアに連れて行かれた

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 僕は車が大好きだ。

 

 本当は助手席が一番だけど、でも、後ろでもいい。お留守番は、とてもつまんないから。みんなと一緒にいられるのがうれしい。

 

 必ず遠出では、僕のシートベルトがつけられちゃう。これは、いやなのだけど、がまんがまん。

 

 お天気だったら窓を開けてもらう。首を出して、シュナウの目印の鼻の周りの毛と、まつげが風に吹かれるのが好きだ。そうしていると、ぐにゃぐにゃ曲がった道でも気持ちが悪くなることはなくて、平気だから。

 

 ある日、お父さんが、朝、新聞を読んでいたら、急に大きな声で、ミッレミリアがくると騒いだ。

 

 

 僕は何のことかは分らない。お父さんはお母さんに、出かけようと言った。僕はそれは聞き逃さない。出かけようというと、どこかに行くんだとわかる。おいてきぼりにならないように、みんなの動きを、目と耳で探る。僕の気持ちは、お出かけ・お出かけモードにうつっている。

 

 ミッレミリアというのは、自動車レースだとお父さんがお母さんに説明している。でも、僕にはよくわからない。

 

 もともとは、イタリアのローマから、北のフィルトレとか、ヴェローナ、ブレシアまでのクラシックカーの往復レースだったという。1927年に始まった世界的に有名なものだそうだ。ミレミリアとは、イタリア語で1000マイルという意味だといっていた。1600キロ走るんだって…。

 

 そのレースの日本版が、東京をスタートして、だいたい3泊4日でおこなわれて、人気になっているんだって。その年のレースが、僕の近くの大室山から北に走る伊豆スカイラインの熱海峠をチェックポイントにするのだとお父さんは知ったのだ。それで出かけることになったわけだ。

 

 どのくらい走るのかは僕にはわからなかった。

 

 スバルは、ボロボロという音を出しながら、すごいスピードで走った。残念だったのは、天気があまりよくなかったことと、窓を開けてもらって首を出すには、スピードが早すぎて、僕はあきらめるしかなかった。2時間くらいの遠出だった。

 

 いろんなチビのオープンカーや、でかい古いセダンとか、色もいっぱい。楽しい車たちが、ボアボア、ボンボン、ブツブツといろんな音を出しながら、熱海から登ってきて、この峠でチェックを受けて、箱根のほうに走っていく。ちょっとの間、近くの駐車場に止まって、僕たちに短い間、車を見せてくれた。

 

 そのときは、アルファロメオがスポンサーとして、その大会を支援していた。お父さんは、初めて見るアルファの「147」に夢中。ほしそうな顔をしていたけど、高いやといってあきらめた。でも、エンジンを開けてもらったり、後部座席にすわたったり、トランクの広さなんかを確認していた。これだったら、うちには十分だなあ…とか言って未練があるようだった。

  

 僕は、でもそのとき、ウンチがしたくなって場所を探していた。

 

 ロッジの周りには、ミッレミリアを見ようとたくさんの人がやってきていた。中には、ワンちゃんずれの人もいた。

 

 僕はみんなからできるだけ離れようと、出そうなウンチを我慢しながら、お尻をだんだん下げながらウンチをする場所を探していた。芝生を抜けて、どんどん端っこのほうに歩いていった。だんだんお尻が下がってきて、もうがまんできなくなって、僕はそこでウンチをした。お母さんが、あわてて追いかけてきて、僕のウンチを始末してくれた。やっと、僕は元気になって、なでてもらうためにみんながいるほうにリードを引っ張って、お母さんを歩かせた。

 

 熱海峠には休憩用のロッジがあって、いろんな軽食もだしていた。でも犬連れでは入れないらしく、お父さんとお母さんが、僕を車に閉じ込めて食事に行った。

 

 何十台もの、古いプジョ-、イゾッタ、マセラーティ、メルセデス、フィアット、もちろんアルファも、お年寄りたちなのに元気に走ってきて、そして、箱根・十国峠のほうに走り去った。僕も、いっぱいかわいいって言われたし、ワンちゃんにも会ったし、なでてもらって、うれしい一日だった。帰りの車の中で、僕はすっかり眠り込んでいた。目が覚めたら、うちだった。

 

<この写真はflickrから Ed Callowさんの Ferraro166をお借りしました>

 ライセンス“ BY”です

 

三章 青年の犬のころ( 12 / 20 )

32.僕の好きな場所、嫌いな場所、悔しい場所

ベランダ.jpg(ベランダのジャスミン)

 

 ぼくんちは二階建てで、二階のベランダはかなりでかくて、3人ぐらい、ゆったり食事ができる広さだった。ベランダのフェンスは、白いアルミでできていた。このフェンスに、お父さんが、頑張って庭からカロライナ・ジャスミンのつるの枝を伸ばして、巻きつけていた。

 

 春と秋に、とてもいい匂いのする黄色いラッパのような形をした小さな花が2週間ぐらい、たくさん一度に咲く。盛りが過ぎると、小さな花、一つ一つが風に乗って、くるくる回りながら落ちていく。

 

 でもこの場所が、僕にはうちの中で一番怖い場所だった。前に話したようにチビのころ、二階から階段を一気に転がり落ちたことがある。だから、大体二階は怖かった。でもベランダが怖くなった原因はお父さんにある。

 

 ある日、お母さんのアメリカ人の友達に送る写真を撮ることになって、僕とお父さんがベランダに出ていた。お母さんが、下から僕たちを見上げてカメラを構えていた。初めは、僕はお父さんに抱かれて、ベランダのフェンスから、シュナウひげをのぞかせていた。ちょっと高いなあという感じだったけれど、まあだいじょうぶだった。

 

 ところが、急にお父さんは、僕一人をそのフェンスに手をかけさせて顔をのぞかせた。そして、そのまま、僕の写真を撮りに自分もお母さんのところに下りて行ってしまったのだ。僕は、急に怖くなって、そこで固まって動けなくなっていた。怖かった。なんだか、僕は高いところが苦手のようだ。尻尾は垂れて、前足は震えていた。

 

 お父さんはお母さんと並んで、カメラを覗き込みながら、僕の方を見上げていた。僕は、お父さんのつけたポーズのまま、フェンスから逃げることもできないで、固まって震えていた。それを、お父さんが笑いながら、写真に撮っていた。

 

 僕が、動けなくなっているのに気が付いたのは、お母さんだった。怖いんじゃないのってお父さんに言っていた。そう、僕は怖かったのだ。その姿が、今でもアルバムのどこかにあるはずだ。嫌な思い出。

 

 この恐怖の気持ちが解けていくには時間がかかったんだ。僕を怖くなくしたのは、ベランダでのおひるごはんだった。

 

 天気がいい日、時々、テーブルと椅子を出して、ベランダで、大島や利島や神津島を見ながら食事をしていた。そこに、僕も僕のボウルを持って参加していた。お父さんが焼いた太いソーセージなんかも、酸っぱいサワークラウト、いい香りのするパンなどと一緒にテーブルに並ぶ。二人はワインを飲んでご機嫌。

 

 僕はみんなと一緒にいるのが好きだったし、ソーセージの香りにつられて、抱かれて二階に上った。怖いベランダだったけど、できるだけフェンスから離れて、僕は僕のボウルに入ってくるソーセージに集中していた。おいしさが、僕の怖い気持ちを忘れさせていた。

 

 そんなことが、何回かあって、僕のフェンス恐怖症は、ベランダは美味しい物がもらえるところに変わっていった。二階で食べようとお父さんが言うのを聞くと、もう一人で、階段を横になりながら登って行って、ベランダの前で待っていた。もう怖くはなかった。

 

 好きな場所、それは、リビングの角、ガラス越しに暖かい光が差し込む、庭用のプラスチックの椅子が重ねてあるその上。僕のにおいのするクッションがあって、リビングにいるみんなの様子がよく見える。おいしい匂いがすると、そこから首を上げると、何が起きているかが、すっかり見える。安心の場所だ。

 

 でも、ある日、年上のコーギーの友達、アンナちゃんが遊びに来た。僕はアンナちゃんと遊んでリビングを駆け回っていた。と、その時、アンナちゃんが、ポンと僕のお気に入りの椅子の上に上った。僕は、あわてて隣のソファから飛んで、椅子を取り戻しに行った。椅子の上でアンナちゃんと争ったけど、からだの重い大きなアンナちゃんを椅子から降ろすことはできなかった。僕は椅子の下から見上げていた。自分のお気に入りの場所を、アンナちゃんに奪われてくやしい思いをした。

 

 それに、お姉さんのアンナちゃんには、アンナちゃんの庭でも、首をかみつかれていたから、はじめから勝てるわけはなかったのだ。

 

 だから、好きな場所を取られた僕は、その椅子の上は、くやしい場所でもあるんだ。

 

 

徳山てつんど
作家:德山てつんど
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