武の歴史の誤りを糺す

戦国時代( 8 / 11 )

騎馬戦

騎馬白兵戦はなかったか

 

前述のS氏の「騎馬隊はなかった」という説には大いに賛同するものである。

当時の軍制から考えると、まず、後世の騎兵隊のようなものは無かった。これは言えると思う。

しかし、全く騎乗して戦闘をしなかったかといえばそうではあるまい。

平安、鎌倉以来の伝統的な戦法で馳弓戦を行う者もいただろうし、当然、太刀を取って戦うものもいたはずだ。
馬上での鑓、長刀の使用も無かったとは言えないと思う。
但し、これは手綱から手を離し、両手を使うためかなりの熟練が必要である。

恐らく、最もよく行われたのは、左手に手綱をもち、右片手で太刀を振るうことであろう。これは、日本刀誕生以来行われてきたことだ。

但し、こうは言っても、当時の騎馬武者が刀でチャンバラをやったと言うつもりはない。刀や長刀で鎧や兜が切れるわけはないからだ。

この目的とするところは、敵を馬から突き落としたり、組み討ちに持ち込む為のものであったろう。

なぜ、この様な事を言うかというと、馬鎧が存在するからである。

この馬鎧は錬皮製の小札でできており、軽くて丈夫だ。この馬鎧札を使った人間の具足が存在する。
これは、この馬鎧の信頼性を雄弁に物語っている。

S氏の説のように、戦闘前に、全騎馬武者が下馬して戦うなら、この馬鎧は必要なかろう。

前にも言ったように、当時の馬がポニー並の小柄であった為に、重い頼武者を乗せて白兵戦などできないと言う説には殆ど根拠がない。

S氏はこう言う。

「NHKが歴史番組制作にあたって実験してみたことがある。中世の馬と同じ体高130センチ、体重350キログラムの馬に、体重50キログラムの乗員と、甲冑相当分45キロの砂袋を乗せて走らせたところ、分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばってしまったという。旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートル(中略)、はるかに劣っている。」
しかし、この実験に使ったのは現代の馬である。
戦国期の和種の馬は、今の野原でのんびり草を繰っている馬とはちがう。遙に強健で重い重量にも耐えた。現代の馬で当時の馬を語ることはできない。

また、馬の大きさも、全てが小さかったわけではあるまい。
当然、乗る人間の体格に合わせて選んだ筈である。
当時、小柄であった日本人の中にも大男がいたように、馬も大きな馬がいたはずだ。

また、当時の当世具足は源平、鎌倉期の大鎧より遙に軽くなっている。その重量は20kgを少しこえた程度であろう。この45kgは重すぎる。

さらに誤解があるのは、当時、他の国の軍馬は皆大きかったということである。当時のどの国の馬もさほど大きなものではなかった。時代は遡るが世界を席巻したジンギスカンの蒙古の馬も平均1m35cmほどの高さである。
我が国の馬とさほど違うわけではない。

殆どの人は、現在のサラブレッドをイメージしていると思われるが、これは、17世紀から18世紀にかけて、アラブ種とイギリス在来種を交配して改良したもので、当初は152cmそこそこしかなかった。
そして、19世紀初頭には162cm余りの体高となり、現在は160~170cmである。

サラブレッドでさえ、その当初は150cmを少し越える体高しかなかったのである。
また、その元となったアラブ種は体高150cmである。

ポニーの基準が148cmであるから、かのアラブ馬でさえポニーより2センチ高かっただけなのである。
如何であろう、我が国の軍馬が取り立てて小さいわけではなかったことがおわかりいただけたと思う。
この戦国の時代、サラブレットは存在せず、世界の軍馬はほとんどが今の基準のポニーであったのだ。

ただ、言えることは、山城や陣地戦、田や畑など、で戦う事が多く、実際は下馬して戦う場合が多かったことは確かである。

また、戦う方法も、走りながら弓を射る馳せ弓は例外として、打ち物で戦う場合は、走りながらということは無理である。互いに馳せ寄り、馬を乗り回しながらの戦いであったと思われる。

その場合、全力疾走で長距離走る必要はない。短距離のインターバルで十分であるし、途中馬を休ませる事もできる。

いずれにせよ、西洋の騎士のように、槍を小脇に抱え、楯を持って正面からぶつかるようなやり方は、我が国の小さい馬では無理であったことは確かである。

 

戦国時代( 9 / 11 )

組み討ちと槍術

前に、戦国時代の剣法とはどの様なものかということを説明したが、戦場では斬り合いばかりが行われているわけではない。

まず、遠距離では弓、鉄砲。石弓も使われたと古記録に散見する。礫打ちも盛んに使われたようだ。
攻城戦では、下からよじ登ってくる敵に対し、大石なども落とされた。これはけっこう威力があったらしい。

その次ぎに白兵戦になると、鑓、長刀、棒等で戦い、それが使えなくなると刀を使う。
鑓や長刀に比べて、刀は間合いが短く不利であるが、これは長物を持つ敵の懐に飛び込む必要がある。

そうなると必然的に、組み討ちとなり、これで相手を組み伏せて首を掻く。この形は柔術各流派に残っている。

鎧を着て演武する流派は先ほどの柳生心眼流もあるが、この流派の柔術は、振り拳を多用しはなはだ特殊であり、普遍的な技ということになると適当ではないので、ここには取り上げない。

一番近いと思われるものに、竹内流という流派がある。
この流派に期限は極めて古く、創始は天文元年(1532)まで遡る。創始者は美作(岡山県)一ノ瀬城主、竹内中務大輔久盛である。
久盛は愛宕神の化身と思われる山伏に小刀で相手を制する組み討ちの秘伝「腰廻」と捕縛の術を授かったとされている。

しかし、もっとも良く行われたもの。槍術は数えるほどしか残っていない。

古来、鑓は叩く物と言われている。

本来、足軽の長柄鑓は別として、鎧武者の鑓は余り長くない。ただ突くだけではなく、石突きを返して突いたり、打ったりするため、長くなると、唯突くだけか上下に叩くしか出来なくなるからである。
これが、足軽の長柄鑓と、武者の持ち鑓との違いである。

残念ながら、この武者鑓の使い方を残している鑓の流派は数少ない。

その内、もっとも古体を良く残しているのが佐分利流である。

当時、鑓は、柄に短い穂先を付けた素鑓が標準であったが、穂先に鎌を着けた鎌鑓や、柄に鍵を付けた鍵鑓も大いに使われた。

この佐分利流は、鍵鑓を使う。

長大な穂先を付けた柄に付いた鍵で、実にうまく敵の素鑓を絡め、巻き捨てる。

また、両刃の付いた剣の様な形の穂先で、飛び込みざま首を切る技など、如何にも戦国時代の荒々しい姿を良く残していると思う。

 

戦国時代( 10 / 11 )

水軍の軍船

水軍の軍船とは

 

町おこしのイベントや祭りなどでよく和船レースが行われているし、海と関連の深い神社の祭りでも和船によるセレモニーが行われている。

この場合、殆どが多くの漕ぎ手が後ろ向きに座り、櫂で漕いでいる。

これが、歴史的事実に反していることは前にも書いた。

特に、瀬戸内海のある島で行われている水軍祭りでは、多くの若者が漕ぎ手となり、かなりの観光客も来ているようだ。

たしかに客寄せのイベントとしては成功しているのかもしれないが、過去に存在しなかった櫂船による競漕を、さも歴史的事実でもあるかのように宣伝して客寄せをしているのは如何なものであろう。

何故ならば、水軍の軍船は、櫂で漕ぐことはなく、全てが櫓の高度な操船技術で微妙な潮の流れや、潮流の変化を乗り切っていたのだから。

ただ、単純に推進力を得るだけの櫂では、このような高等な芸当はできない。

また、戦闘用の軍船の場合、櫂で漕ぐことは、致命的な欠陥があった。

櫂で漕ぐと、漕ぐことのみに人手が取られ、戦闘に参加する人数が少なくなる。

櫓の場合は、漕ぐ人員は櫂に比べてはるかに少なくてすむ。その分、戦闘員を多く乗せることができたわけである。

櫂は、座って漕ぐためにすぐには戦闘に参加できない。

ところが、櫓の場合、立って漕ぐのでそのまま直ぐにでも戦闘に参加できる。また、櫓を操りながら、敵船に焙烙を投げ込むこともできた。

こういった理由で瀬戸内水軍では殆ど櫓を使っていたのである。

軍船が櫂を使うことが、どれだけ船いくさに不利であったかおわかりいただけたことと思う。

当時の水軍の軍船は、櫓の数と船体の大きさ、矢倉の有無で、その種類が決まった。

一番大きな戦艦にあたる安宅船、巡洋艦にあたる関船、速さと軽快性の小早である。

とくに俊敏な動きが要求される小早では、直接、敵船に接舷して乗り込んだり、矢を射こむ、あるいは焙烙という一種の手りゅう弾のようなものを投げ込んだり、やがらもがらという長柄の武器などを使い、直ぐにでも戦闘に入らなければならなかった。

このとき、座りこんで櫂を漕いでいたらどうだろう。たちまち立ちあがる暇もなく殺されてしまったことは間違いない。

また、軍船に限らず、一般の船もほとんどが櫓を使っていたことは、多くの文献資料や絵巻物からもあきらかである。

たかが祭りではないか、何で漕ぐかぐらいで目くじらを立てることは無いではないか。当事者が楽しんでいるのだからそれでいいではないかという意見もあろう。

また、櫓を漕げる人間がいないのだからしかたがない。あまり技術のいらない櫂で漕いでもよいではないか。そのような事情も理解はできる。

しかし。である。櫓を使って船を操る技術は、日本の貴重な海の文化である。

このような祭りやイベントを機会に、その貴重な技術を後の世に伝える必要があろう。

そもそも、櫓を漕げる人間がこの様な水軍の島にも少なくなってしまったことが問題なのではないか。

むしろ、これを機会に、島の若者に櫓を漕ぐ技術を伝え、和船建造の技術を保存し、在りし日の村上水軍の小早船の櫓による競漕を再現してはどうだろう。

ただ、集客だけのために、歴史的事実に反することをやるより遥かに有意義なことだと思う。


 

戦国時代( 11 / 11 )

武術の流祖の神仏感応譚について

剣術の源流は、京八流、関東七流で、それから念流、陰流、および香取、鹿島の神道流の三大源流が分かれたといわれているが、その流派創始の経緯は、流祖の超常的、宗教的体験により秘技や極意を会得したとされている。

関東で最も古い伝承は、国摩真人が仁徳天皇の御代、鹿島の高天原に神壇を築いて祈り、神妙剣を発明したという鹿島の太刀の古伝である。
また、新当流を創始した塚原ト伝高幹は、鹿島神宮に千日参籠して神感を得、「一つ太刀」の妙術を考案し、もう一つの有力流派、香取神道流の祖、飯篠長威斎家直も鹿島、香取両神宮に祈って、天真正神道流を開いたといわれている。

念流の念阿弥慈恩は、少年時代、鞍馬山中で修行中、異怪の人から妙術を授かり、16歳の時、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を得、18歳のときには筑紫の安楽寺の修行で剣の奥義を感得した。
なお、一刀流の開祖、伊東一刀斎は中条流の鐘捲自斎より極意を授かり、中条流は念阿弥慈恩の高弟、中条長秀により創始されたのであるから、一刀流の源流は念阿弥慈恩の念流と言ってよい。

また、陰流の愛洲移香斎久忠は日向の国、鵜戸大権現の岩屋において、頭の上で香をたき、37日の祈祷を行って霊験により極意を授かったという。
つまり、この所謂剣術の三大流派は何れも神人や異怪の人から妙技を授かり、或いは神仏に祈祷中の霊験により極意を会得したと伝えられているのである。

さらに剣術以外でも、柔術の祖である竹内流の開祖、竹内中務太夫久盛も地元の西垪和三の宮に参篭して、「腰の廻」を山伏から習ったとされる。

このように、戦国期以前に成立した剣、柔などの武術の成り立ちは、何れも神仏の感応や神人、怪人の指導によるもので、神社、仏閣と極めて密接な関係があることがわかる。

今まで、特に戦後においては、これらの逸話はその流派の権威づけの為の創作であり、全てでたらめであると考えられてきた。あるいは昔の迷信深い人達の妄想にすぎないと。

科学の発達した現在では、ほとんどの人がこの様に考えるのも無理はない。
今現在行われている現代武道は、運動生理学や力学などの科学でその技法の分析や研究がなされているので、武道としては過去最高のレベルにあると思っている人がほとんどであろう。それ故、現代科学で説明できぬ非科学的なこれらの極意開眼譚など、当時の愚かな迷信以外の何ものでもないし、こんな理屈に合わぬことは、本気で考える価値はないと考える。

しかしちょっと待って頂きたい。
これらの伝承が全て後世の権威づけの為の創作や、無知蒙昧で信心深い昔の人間の錯覚や思い込みで片づけてよいものだろうか。
この中に果たして真理が含まれてはいないのだろうか。

そもそも、現代人が昔の人より全ての面において優れているわけではない。
確かに、学校教育や本、テレビなどの情報の氾濫する現代は、全く情報のなかった室町、戦国時代より、問題にならないくらい知識や情報量は多い。
体格も、平均身長160センチ足らずの当時の日本人に比べ、現代人は遥かに大きくはなっている。
しかし、体力はどうであろうか。
実は、昔の日本人は今とは問題にならぬほど力や耐久力はあったのである。

これは、何をするにしても全て人力に頼らざるを得なかった時代と、何でも機械の力でやってしまう現代では体力に大きな差ができるのは当然のことである。

神仏に祈って武術の奥義を開眼し、天狗や異形の人から妙術を習う。
これを馬鹿馬鹿しいと一笑に付してしまわず、虚心坦懐に分析してみるといろいろなことが推測される。

まず、断っておかなければならないことは、当時の剣術は、戦場に於ける甲冑剣術であり、柔術は甲冑捕り、鎧組打ちであったことである。

ここで、大きな誤解を解いておかなければならないことがある。
それは、現在の剣道や柔道をイメージして考えると、それは事実から大きく外れることとなる。ましてや、現在行われている格闘技とも全然違うのである。

現代の武道や格闘技と称するものなどは、あくまでも一定のルールのもとに行われ、何かの拍子に起こる事故を覗いて、相手を殺したり、大怪我を負わせることは無い。
また、負けても死んだり、不具になることはない。

ところが、当時の剣術や組み討ちはルールも糞もない。
どんな手を使っても、敵を殺さなければならないし、首を取らなければ自分の命をかけて戦う意味がない。

弱かったり、運がなければ殺されて首をとられる。
勝って首をとれば恩賞を与えられ、出世もする。その為、当時の武士達は命をかけて戦った。その点が、現代武道と根本的に違うところである。
それ故、現代の武道の観点から、当時の武術を比較検討しても何の意味もないことがおわかり頂けたと思う。

では、戦場に於ける戦いとはどういうものであったのか。
まず、そこにルールはない。時間も無制限である。敵が逃げるか全滅するまで戦う。
もっとも、敵を皆殺しにするような事例はそんなに多くはなかったのだが。

とにかく決着がつくまで戦い続けなければならない。
その為には、強靭な体力と持久力が不可欠である。

しかし、いくら人並み外れた体力や持久力があっても、長時間無制限に全力を尽くして戦い続けることは不可能である。

そこで、如何に自分の体力を温存しつつ、無駄無く敵を殺す方法が意味をもってくる。
その如何に効率よく敵を倒すかという技術。それが、当時の介者剣法であり、鎧組打ちの技術であった。
現在残っている極めて古い流派はその始まりは、すべて、この介者剣法や小具足、腰のまわりと言われる鎧組打ちにその源を発したものである。

戦闘の技術の習得する方法の最も簡単で効果的なもの。これは徹底的に体を鍛え、力と持久力をつける。現代武道や格闘技に相通じるものである。
小技や精妙な技は廃し、重い大太刀や長巻を振り回して、敵をその重みで斬るというより叩きつぶす。

南北朝以来、戦いの様相が様変わりし、従来の騎射戦から徒歩太刀打ち戦に変化した。
それを如実に物語っているのが、冑の錣の形状である。太刀を振り回す邪魔にならないように水平に開き、笠のような形になっている。これを笠錣という。

そして太刀打ちに際しては、鎌倉期のような片手で振れる太刀ではなく、重量があり、厚重ねの頑丈な長巻や、大太刀が活躍した。

従来の太刀ではとても損傷を与えることが出来ない甲冑も、この重い武器で打たれれば、冑の矧ぎ目の鋲は千切れて飛び、冑の鉢は割れるかへちゃげ、敵の頭部に重大な損傷を与えることができた。

また他の部位も、この重く頑丈な武器で思い切り打たれれば無事では済まない。皮小札は裂け、骨は砕ける。
場合によっては当時の腹巻や胴丸などの鎧もある程度は切り割ることも可能であったろう。

この場合、片手打ちはむりである。
この重く長い武器を扱うには当然両手を使わなければならない。その為、長巻などは、柄が刀身と変わらないほどの長さがあった。

これだけの重量の武器を振り回すには、普通の太刀のような短い柄ではまともに振り回すことはできない。そのために、長巻や大太刀の柄は長くなったのである。

但し、この様な長大で重い武器を自由に扱うことは誰にでもできることではない。
相当の膂力、体力が必要であり、かなりの大力の男でなければこれを自在に使いこなすことはできなかった。

そこで、徹底的に筋力を鍛え、膂力と持久力をつけた。
現在ならばさしづめパワートレーニングというところであろうが、当時は、重く長い木刀で立木打ちのような稽古をやったと思われる。
これに近いのが、薬丸自顕流の稽古法であろう。細かいことや受けることなどはなから考えず、ひたすら敵に見立てた横木を打ちまくる。
つまり、徹底的に斬撃力を鍛えるのである。

この重くて長大な武器で、敵を鎧や兜の上から叩き切るというやり方は、実に派手であり、戦果がわかりやすい。
これは、味方の大将の前で戦う場合、誰の目にもわかりやすいので後の論功行賞に有利であるし、当時の武士の気風にあったため、当時の戦の花形となった。

しかし、この重く長い武器は大きな弱点があった。
破壊力はあるのだが、小技が効かない。
敵を切るときも大振りとなり、体力の消耗も激しい。
大振りして失敗し、敵を切り損ねると、その隙に付け込まれて、鎧の隙間を切られたり、組みつかれて首を敵に渡すことになった。
また、長時間の戦闘では体力が続かず、疲れきって動けなくなったところを攻撃されればひとたまりもなかったであろう。
この様に、南北朝から室町期にかけては、このような長柄の武器の他に、太刀や打刀も重いものが使われ、力任せに振り回すといった膂力に頼る極めて大雑把な刀法であった。

当時の鎧は、高位の武将は従来の大鎧を着ていたが、その他のほとんどは、比較的軽量な胴丸や腹巻をつけていたので、この様な重い武器で打たれるとかなりの損傷を受けたと思われる。
主に戦場では、小手先の技ではなくこの様な力で敵を叩き伏せる刀法が使われていたが、そうなると体格が大きく力のある者が有利となる。

では、敵の鎧の隙間や弱点を正確に狙う精妙な刀法はどうであろう。
これは存在はした筈ではあるが、当初、侍同志の合戦にはあまり使われなかったのではないか。
それは、現在残る古い流派の開眼譚にもあるように、天狗や神人、異形の者からその技を授かっていることから推測できる。

つまり、剣術や柔術の流祖に技を教えたのは、武士ではなかったということである。

天狗は山伏などの密教の修験者、神人は、神社の神官を意味している。
事実、香取、鹿島の神道流は両神宮の神人の間で工夫伝承されてきたものであるし、念流の念阿弥慈恩は寺で僧や異怪の人から妙術を授かっていることから、念流はもともと寺院で研究開発されてきたものである。
何れもこの極めて精妙な技術を必要とする刀法は、宗教者である僧侶や神官によって工夫伝承されてきたと考えてよい。

南北朝から室町、戦国期にかけて、戦争は侍同志のみで戦われていたように思われているが実はそうではない。
神社や寺院の神領や寺領、そして、そのれら領地の境界や水利を巡って記録には残らぬ夥しい数の小規模な合戦が行われていた。
寺院は自身で武力を持ち、神社も宮司、神主自身も城郭を構え、鎧を纏い、武器をとって戦っていたのである。
実は、当時は、神仏混淆により、寺も神社も今ほどの区別がなかった。
平安時代から、東大寺、延暦寺、三井寺、興福寺などの大寺院は自力の武力を持ち、それらの寺の悪僧どもが神輿を担いで強訴を繰り返し、互いに争っていた。

この、後世いわれる僧兵や神人などの戦闘は、武士の主に弓馬を主体としたいくさと違い、長刀や太刀などの打物を取っての徒歩戦であった。
こうして、徒歩立ちで打物を取って戦う中から、次第に工夫されて、それぞれ独特の刀法や組討の法が形成されていったと考えられる。

ただ、これらの技術は、実戦で使われる以外は外部に漏れることがなかった。
なぜなら、この技術が外部に漏れると、相手に研究され、対抗策を工夫されて次の戦に負けることになるからである。
また、当時の僧衆や神人などは、俗世間とはかけ離れた生活をし、価値観も違っていたためにこの技術を外部に漏らす必要もなかった。

ところが時代は代わって、武士の戦闘内容が変わり、弓馬の馳せ弓戦から徒歩戦や山岳、城郭戦が多くなってくると、前述のような長大な重量のある武器による打ち物戦が主体となる。
しかし、これでは余りにも体力の消耗が激しく、弱点も多い。
そこで、神人の中から塚原卜伝などの剣豪が現れ、それまで神社や寺院で密かに伝承されていた武術が広く武士の戦闘に取り入れられるようになった。
これが剣の三代源流と言われる陰流、念流、鹿島香取の神道流である。

では、神仏に祈って剣の奥義を開眼したという話はどうであろう。
これも、そのもともとの修行者が、神社の神人や僧侶であったことと深い関係がある。
当然、修行の場は神社や寺院である。
また、彼らの本職は神職や僧侶であるので、祈祷や読経などの修行をするのは彼らの本職である。
その、修行の最中に、何らかのインスピレーションを受けるのは何の不思議もない。
これは科学者が、インスピレーションを受けて、新しい発見をすることと同じである。

エジソンは「1パーセントのひらめきがなければ99パーセントの努力は無駄である」といっているが、これは、各武術の流祖が修行中に得た1パーセントのひらめき(神仏の感応)を元に、あとは99パーセントの工夫、努力で新しい流派を創設したということなのである。

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
武の歴史の誤りを糺す
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