武の歴史の誤りを糺す

戦国時代( 11 / 11 )

武術の流祖の神仏感応譚について

剣術の源流は、京八流、関東七流で、それから念流、陰流、および香取、鹿島の神道流の三大源流が分かれたといわれているが、その流派創始の経緯は、流祖の超常的、宗教的体験により秘技や極意を会得したとされている。

関東で最も古い伝承は、国摩真人が仁徳天皇の御代、鹿島の高天原に神壇を築いて祈り、神妙剣を発明したという鹿島の太刀の古伝である。
また、新当流を創始した塚原ト伝高幹は、鹿島神宮に千日参籠して神感を得、「一つ太刀」の妙術を考案し、もう一つの有力流派、香取神道流の祖、飯篠長威斎家直も鹿島、香取両神宮に祈って、天真正神道流を開いたといわれている。

念流の念阿弥慈恩は、少年時代、鞍馬山中で修行中、異怪の人から妙術を授かり、16歳の時、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を得、18歳のときには筑紫の安楽寺の修行で剣の奥義を感得した。
なお、一刀流の開祖、伊東一刀斎は中条流の鐘捲自斎より極意を授かり、中条流は念阿弥慈恩の高弟、中条長秀により創始されたのであるから、一刀流の源流は念阿弥慈恩の念流と言ってよい。

また、陰流の愛洲移香斎久忠は日向の国、鵜戸大権現の岩屋において、頭の上で香をたき、37日の祈祷を行って霊験により極意を授かったという。
つまり、この所謂剣術の三大流派は何れも神人や異怪の人から妙技を授かり、或いは神仏に祈祷中の霊験により極意を会得したと伝えられているのである。

さらに剣術以外でも、柔術の祖である竹内流の開祖、竹内中務太夫久盛も地元の西垪和三の宮に参篭して、「腰の廻」を山伏から習ったとされる。

このように、戦国期以前に成立した剣、柔などの武術の成り立ちは、何れも神仏の感応や神人、怪人の指導によるもので、神社、仏閣と極めて密接な関係があることがわかる。

今まで、特に戦後においては、これらの逸話はその流派の権威づけの為の創作であり、全てでたらめであると考えられてきた。あるいは昔の迷信深い人達の妄想にすぎないと。

科学の発達した現在では、ほとんどの人がこの様に考えるのも無理はない。
今現在行われている現代武道は、運動生理学や力学などの科学でその技法の分析や研究がなされているので、武道としては過去最高のレベルにあると思っている人がほとんどであろう。それ故、現代科学で説明できぬ非科学的なこれらの極意開眼譚など、当時の愚かな迷信以外の何ものでもないし、こんな理屈に合わぬことは、本気で考える価値はないと考える。

しかしちょっと待って頂きたい。
これらの伝承が全て後世の権威づけの為の創作や、無知蒙昧で信心深い昔の人間の錯覚や思い込みで片づけてよいものだろうか。
この中に果たして真理が含まれてはいないのだろうか。

そもそも、現代人が昔の人より全ての面において優れているわけではない。
確かに、学校教育や本、テレビなどの情報の氾濫する現代は、全く情報のなかった室町、戦国時代より、問題にならないくらい知識や情報量は多い。
体格も、平均身長160センチ足らずの当時の日本人に比べ、現代人は遥かに大きくはなっている。
しかし、体力はどうであろうか。
実は、昔の日本人は今とは問題にならぬほど力や耐久力はあったのである。

これは、何をするにしても全て人力に頼らざるを得なかった時代と、何でも機械の力でやってしまう現代では体力に大きな差ができるのは当然のことである。

神仏に祈って武術の奥義を開眼し、天狗や異形の人から妙術を習う。
これを馬鹿馬鹿しいと一笑に付してしまわず、虚心坦懐に分析してみるといろいろなことが推測される。

まず、断っておかなければならないことは、当時の剣術は、戦場に於ける甲冑剣術であり、柔術は甲冑捕り、鎧組打ちであったことである。

ここで、大きな誤解を解いておかなければならないことがある。
それは、現在の剣道や柔道をイメージして考えると、それは事実から大きく外れることとなる。ましてや、現在行われている格闘技とも全然違うのである。

現代の武道や格闘技と称するものなどは、あくまでも一定のルールのもとに行われ、何かの拍子に起こる事故を覗いて、相手を殺したり、大怪我を負わせることは無い。
また、負けても死んだり、不具になることはない。

ところが、当時の剣術や組み討ちはルールも糞もない。
どんな手を使っても、敵を殺さなければならないし、首を取らなければ自分の命をかけて戦う意味がない。

弱かったり、運がなければ殺されて首をとられる。
勝って首をとれば恩賞を与えられ、出世もする。その為、当時の武士達は命をかけて戦った。その点が、現代武道と根本的に違うところである。
それ故、現代の武道の観点から、当時の武術を比較検討しても何の意味もないことがおわかり頂けたと思う。

では、戦場に於ける戦いとはどういうものであったのか。
まず、そこにルールはない。時間も無制限である。敵が逃げるか全滅するまで戦う。
もっとも、敵を皆殺しにするような事例はそんなに多くはなかったのだが。

とにかく決着がつくまで戦い続けなければならない。
その為には、強靭な体力と持久力が不可欠である。

しかし、いくら人並み外れた体力や持久力があっても、長時間無制限に全力を尽くして戦い続けることは不可能である。

そこで、如何に自分の体力を温存しつつ、無駄無く敵を殺す方法が意味をもってくる。
その如何に効率よく敵を倒すかという技術。それが、当時の介者剣法であり、鎧組打ちの技術であった。
現在残っている極めて古い流派はその始まりは、すべて、この介者剣法や小具足、腰のまわりと言われる鎧組打ちにその源を発したものである。

戦闘の技術の習得する方法の最も簡単で効果的なもの。これは徹底的に体を鍛え、力と持久力をつける。現代武道や格闘技に相通じるものである。
小技や精妙な技は廃し、重い大太刀や長巻を振り回して、敵をその重みで斬るというより叩きつぶす。

南北朝以来、戦いの様相が様変わりし、従来の騎射戦から徒歩太刀打ち戦に変化した。
それを如実に物語っているのが、冑の錣の形状である。太刀を振り回す邪魔にならないように水平に開き、笠のような形になっている。これを笠錣という。

そして太刀打ちに際しては、鎌倉期のような片手で振れる太刀ではなく、重量があり、厚重ねの頑丈な長巻や、大太刀が活躍した。

従来の太刀ではとても損傷を与えることが出来ない甲冑も、この重い武器で打たれれば、冑の矧ぎ目の鋲は千切れて飛び、冑の鉢は割れるかへちゃげ、敵の頭部に重大な損傷を与えることができた。

また他の部位も、この重く頑丈な武器で思い切り打たれれば無事では済まない。皮小札は裂け、骨は砕ける。
場合によっては当時の腹巻や胴丸などの鎧もある程度は切り割ることも可能であったろう。

この場合、片手打ちはむりである。
この重く長い武器を扱うには当然両手を使わなければならない。その為、長巻などは、柄が刀身と変わらないほどの長さがあった。

これだけの重量の武器を振り回すには、普通の太刀のような短い柄ではまともに振り回すことはできない。そのために、長巻や大太刀の柄は長くなったのである。

但し、この様な長大で重い武器を自由に扱うことは誰にでもできることではない。
相当の膂力、体力が必要であり、かなりの大力の男でなければこれを自在に使いこなすことはできなかった。

そこで、徹底的に筋力を鍛え、膂力と持久力をつけた。
現在ならばさしづめパワートレーニングというところであろうが、当時は、重く長い木刀で立木打ちのような稽古をやったと思われる。
これに近いのが、薬丸自顕流の稽古法であろう。細かいことや受けることなどはなから考えず、ひたすら敵に見立てた横木を打ちまくる。
つまり、徹底的に斬撃力を鍛えるのである。

この重くて長大な武器で、敵を鎧や兜の上から叩き切るというやり方は、実に派手であり、戦果がわかりやすい。
これは、味方の大将の前で戦う場合、誰の目にもわかりやすいので後の論功行賞に有利であるし、当時の武士の気風にあったため、当時の戦の花形となった。

しかし、この重く長い武器は大きな弱点があった。
破壊力はあるのだが、小技が効かない。
敵を切るときも大振りとなり、体力の消耗も激しい。
大振りして失敗し、敵を切り損ねると、その隙に付け込まれて、鎧の隙間を切られたり、組みつかれて首を敵に渡すことになった。
また、長時間の戦闘では体力が続かず、疲れきって動けなくなったところを攻撃されればひとたまりもなかったであろう。
この様に、南北朝から室町期にかけては、このような長柄の武器の他に、太刀や打刀も重いものが使われ、力任せに振り回すといった膂力に頼る極めて大雑把な刀法であった。

当時の鎧は、高位の武将は従来の大鎧を着ていたが、その他のほとんどは、比較的軽量な胴丸や腹巻をつけていたので、この様な重い武器で打たれるとかなりの損傷を受けたと思われる。
主に戦場では、小手先の技ではなくこの様な力で敵を叩き伏せる刀法が使われていたが、そうなると体格が大きく力のある者が有利となる。

では、敵の鎧の隙間や弱点を正確に狙う精妙な刀法はどうであろう。
これは存在はした筈ではあるが、当初、侍同志の合戦にはあまり使われなかったのではないか。
それは、現在残る古い流派の開眼譚にもあるように、天狗や神人、異形の者からその技を授かっていることから推測できる。

つまり、剣術や柔術の流祖に技を教えたのは、武士ではなかったということである。

天狗は山伏などの密教の修験者、神人は、神社の神官を意味している。
事実、香取、鹿島の神道流は両神宮の神人の間で工夫伝承されてきたものであるし、念流の念阿弥慈恩は寺で僧や異怪の人から妙術を授かっていることから、念流はもともと寺院で研究開発されてきたものである。
何れもこの極めて精妙な技術を必要とする刀法は、宗教者である僧侶や神官によって工夫伝承されてきたと考えてよい。

南北朝から室町、戦国期にかけて、戦争は侍同志のみで戦われていたように思われているが実はそうではない。
神社や寺院の神領や寺領、そして、そのれら領地の境界や水利を巡って記録には残らぬ夥しい数の小規模な合戦が行われていた。
寺院は自身で武力を持ち、神社も宮司、神主自身も城郭を構え、鎧を纏い、武器をとって戦っていたのである。
実は、当時は、神仏混淆により、寺も神社も今ほどの区別がなかった。
平安時代から、東大寺、延暦寺、三井寺、興福寺などの大寺院は自力の武力を持ち、それらの寺の悪僧どもが神輿を担いで強訴を繰り返し、互いに争っていた。

この、後世いわれる僧兵や神人などの戦闘は、武士の主に弓馬を主体としたいくさと違い、長刀や太刀などの打物を取っての徒歩戦であった。
こうして、徒歩立ちで打物を取って戦う中から、次第に工夫されて、それぞれ独特の刀法や組討の法が形成されていったと考えられる。

ただ、これらの技術は、実戦で使われる以外は外部に漏れることがなかった。
なぜなら、この技術が外部に漏れると、相手に研究され、対抗策を工夫されて次の戦に負けることになるからである。
また、当時の僧衆や神人などは、俗世間とはかけ離れた生活をし、価値観も違っていたためにこの技術を外部に漏らす必要もなかった。

ところが時代は代わって、武士の戦闘内容が変わり、弓馬の馳せ弓戦から徒歩戦や山岳、城郭戦が多くなってくると、前述のような長大な重量のある武器による打ち物戦が主体となる。
しかし、これでは余りにも体力の消耗が激しく、弱点も多い。
そこで、神人の中から塚原卜伝などの剣豪が現れ、それまで神社や寺院で密かに伝承されていた武術が広く武士の戦闘に取り入れられるようになった。
これが剣の三代源流と言われる陰流、念流、鹿島香取の神道流である。

では、神仏に祈って剣の奥義を開眼したという話はどうであろう。
これも、そのもともとの修行者が、神社の神人や僧侶であったことと深い関係がある。
当然、修行の場は神社や寺院である。
また、彼らの本職は神職や僧侶であるので、祈祷や読経などの修行をするのは彼らの本職である。
その、修行の最中に、何らかのインスピレーションを受けるのは何の不思議もない。
これは科学者が、インスピレーションを受けて、新しい発見をすることと同じである。

エジソンは「1パーセントのひらめきがなければ99パーセントの努力は無駄である」といっているが、これは、各武術の流祖が修行中に得た1パーセントのひらめき(神仏の感応)を元に、あとは99パーセントの工夫、努力で新しい流派を創設したということなのである。

 

 

江戸、幕末( 1 / 18 )

宮本武蔵

宮本武蔵の実像

 

日本の歴史上の英雄として人気が高い人物に宮本武蔵がいる。

しかし、この人物、実際はどうであったかというとさっぱりわからない。

現在、殆どの日本人の脳裏にある武蔵像は、吉川英治の小説「宮本武蔵」によるものである。

誰も、この吉川英治描くところの宮本武蔵が実在したことを疑わない。偉大な剣豪である事に疑問を呈する者もいない。

しかし、実際はどうであったかを正確に物語る信用に足る文献は極めて少ないのである。

断片的なものを除いてまとまったものは、養子の伊織が建てた顕彰碑である小倉碑文呼ばれる石碑と、武蔵が書いたとされる五輪書ぐらいのものであろう。

しかし、この二つの文献資料も丸呑みするわけにはいかない。

小倉碑文は、養父を顕彰するためのものである。
多少大げさに功績を書いているところもあるだろうし、もしかすると捏造もありえる。また、都合の悪いことは書かない。

これが五輪書の場合は尚更である。弟子に与えた以上、当然、誇張や自慢はあって当然だし、場合によっては捏造や創作もあって不思議ではない。また、都合の悪いことを書かないのは、上記小倉碑文同様である。

その他に、纏った資料としては二天記があるが、これは資料としての価値は上記二例よりはるかに劣る。

なぜならば、これは、武蔵の弟子が武蔵本人や周囲の者から聞いた話をメモに残したものを後世まとめたものであり、これなど明らかに、武蔵の剣法の流派の門弟に流祖の偉業を伝えるために書かれたものであるからだ。
この様に、宮本武蔵なる人物には、確実なところが少ない。

まず、名前を考えてみよう。

最も信頼すべき小倉碑文には「新免武蔵玄信」である。

そして、この武蔵というのは、太郎、次郎等の所謂通称ではない。受領名である。

五輪書には武蔵守とある。

このことから、吉川英治が著書「宮本武蔵」で幼名をたけぞうと読ませているのは大間違いであることがわかる。つまりこの受領名、武蔵守の武蔵をたけぞうと読ませているのだ。

また、現在、武蔵本人が五輪書を書いたということが定説になっている。

しかし、子細に検討すればこれが武蔵が書いたとする証拠はなにもないのである。

内容を見ると、ほぼ同時代、柳生但馬守宗矩の書いた「兵法家伝書」と比べても、時代が合わないような気がしていた。

東京大学資料編纂所教授の山本博文氏の書かれた「日本史の一級資料」という新書がある。

山本氏によればこの五輪書も、武蔵の弟子が、武蔵に仮託して後世書いた可能性があるということである。
そうなれば当然、この内容も後になって権威づけのために粉飾したり、新たに付け加えられたものも少なくないのではないか。

こうしてみると、現在信じられている宮本武蔵像は、その芯の部分以外は後世の創作か、吉川英治の創作である。

もっとも、吉川の宮本武蔵は単なる小説であると割り切って楽しめば良いのだか、この小説が宮本武蔵の伝記であるかのように錯覚している人が殆どである。

この様に、多くの国民大衆が持っている英雄像は、後世の講釈や講談、小説などによって作られたものが多いということを十分認識した上で、小説や大河ドラマなどを楽しまれるべきである。

 

江戸、幕末( 2 / 18 )

坂本龍馬 剣の実力

龍馬の剣術の実力への疑問

 

歴史上の人物で、誰が一番好きかと聞かれたら、その一、二を占めるのが坂本龍馬ではないだろうか。
日本人は非業の死を遂げた人物に対する同情心がとりわけ強い。判官贔屓というやつだ。

特に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」をはじめ、多くの小説、映画、テレビドラマ、漫画にまで、この人物を主人公にした作品は数えきれない。

小説や映画などで歴史上の英雄を描く場合、とかく実像よりはるかに偉大な人物として表現されがちである。

龍馬の場合、剣の実力も、事実以上に誇張されているきらいがある。多くの龍馬フアンにとって、そうであってもらいたいとの心情は理解できるが、大切なことは、本当はどうであったかという真実であろう。

坂本龍馬が小説として登場するのは、明治十六年に高知の土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾著「汗血千里駒」が最初である。龍馬の剣の実力はこの時点で、すでに相当なものであったとして描かれている。

「龍馬は神田お玉ケ池なる千葉周作氏の門に入りて、もっぱら剣道に心を委ね、ひたすら勉強なしたるゆえ、のちには土州藩士に剣客阪本龍馬その人ありとまで算えられて、諸藩を遊歴なすほどに至りける。」

このように、最初に小説に書かれた段階で、すでに相当な剣客であったとされていて、その後、これを下敷きとして、話がだんだんと大きくなっていったものと思われる。

では、事実はどうであったのか。

龍馬の江戸での剣術修行期間は極めて短期間であった。その短い間になぜこの様な土州藩士に坂本龍馬その人ありとまで言われるようになったのか。

多くの龍馬フアンは、「それが龍馬の非凡なところで、これが龍馬の英雄たる所以である。」というであろう。
しかし、それは、小説としては面白くはあっても、事実としては全く説得力に欠けるのである。

では、理論的に納得できる理由はないのか。

ただひとつ考えられることは、土佐ですでに相当な剣術の修行を積んでいて、その基礎があったればこそ、江戸で北辰一刀流の稽古を受けることにより、短期間で瞠目すべき進歩を遂げたというものである。

確かに、龍馬は数え十四歳から江戸に出てくる十九歳までの五年間、小栗流和兵法を日野根弁治について修行していた。
そして、江戸に上がる直前に、師から初伝目録である「小栗流和兵法事目録」一巻を与えられている。

多くの論者は、この事実をもって、坂本竜馬が剣豪であったとする根拠としているのである。

しかし、ちょっと待っていただきたい。

この小栗流という武術、一体何であったのか。

次に、この小栗流を検証してみることにしよう。

江戸、幕末( 3 / 18 )

坂本龍馬 小栗流

龍馬の修行した小栗流は柔術であり剣術ではない。

 

坂本竜馬が武術を修行したのは土佐で小栗流、江戸で北辰一刀流の二流派である。

では、この小栗流とは一体どのようなものだったのだろうか。

多くの書籍では、この流派を剣術を主にしたものであるという。

そして、この小栗流の剣の実力があったことが、のちに北辰一刀流の短期間での長足の進歩の基礎になったように思わせていることが多い。

では、この小栗流は、はたして剣を主体とする流派であったのだろうか。

今現在、高知にはこの流派の伝承者は存在しない。

従って、この小栗流の実像を調べるにあたって、その唯一の資料は、この流派の伝書しかない。

幸いなことには、龍馬が師の日野根弁治より与えられた三巻の伝書、すなわち、「小栗流和兵法事目録」「小栗流和兵法十二箇條並二十五箇條」「小栗流和兵法三箇條」が国立京都博物館に所蔵されている。

まず、この流派の名前である。
「小栗流和」。この「和」は(やわら)である。(やわら)つまり柔術である。世間に流布されているような「剣術」ではない。
この「和」という文字がやわらであるということは、多少なりとも武術に興味のある人ならば、当然知っている筈である。
しかるに、なぜ、やわらが剣術ということになったのか。
それはわからない。
しかし、本々は柔術を主体とする流派であったが、この時代は剣術を主に稽古したのだという論者もいると思う。

では、龍馬が最初に授けられた「小栗流和兵法事目録」を見てみよう。
この目録とは、龍馬が実際に習得した技法の目録であり、これをみればどのような技を習っていたかわかるのである。

まず、太刀の技は、天刀、地刀、抜刀、右曲、左曲の五本のみである。小太刀の七本を入れても十二本でしかない。

一方、やわら(柔)の技はどうか。

取胸、折指、取手、纏頭、取帯の主たる技法に、それぞれ応用技か変化技と思われる移、乱があり、さらに、それら各々に上、中、下、の段階がある。
それらを合計すると、この小栗流和術とは、四十五本ものさまざまな技法を有する極めて充実した内容をもつ優れた柔術の流派であることがわかる。

江戸初期からの古い流派であるので、主たる柔術の他に、外の物として太刀、小太刀、居合、棒なども含む総合武術である。

外の物とは、いわば武士の教養科目ともいうべきものであり、一通り習得すべきものであるが、あくまでも心得としての範囲を出ることはない。
故に、いくらこの太刀技を稽古したところで、たった五本しかない技では、大した進歩は望めまい。
せいぜい、簡単な基本的な形を覚えるにすぎないであろう。

龍馬は幼少のころから寝小便たれで虚弱であったという。

これを、治し、頑健な体を作るには、剣術と柔術とどちらが有効であろうか。

言うまでもなく柔術である。

柔術は、全身を使う。活法や整骨などもあり、こと健康に関するかぎり剣術の比ではない。
龍馬の親も当然、柔術を習わせたと考えるほうが自然である。

龍馬が日野根弁治の小栗流和術に入門したのは、数えで十四歳である。
それから、十九歳で江戸に出立するまでの五年間が彼の修行期間である。

この上京寸前に最初の目録「小栗流和兵法事目録」を与えられている。

入門は十四歳といっても数え年である。満でいえば十二歳。それから数えの十九歳、満十七歳までの五年間でこれだけの技を習得したことになる。
今でいえば、ちょうど中一から高二にあたるか五年間で、これだけの技を習得したということである。
坂本竜馬は、小栗流のやわら(和)では、まずまず優秀であったといえよう。

但し、剣術は、その基礎を修めた程度で江戸に向かったのである。

 


 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
武の歴史の誤りを糺す
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