武の歴史の誤りを糺す

戦国時代( 7 / 11 )

白兵戦

白兵戦はなかったか

 

前回に続き、S氏の説に疑問を呈したい。

氏の主張に、戦国時代はほとんど遠戦に終始し、近接戦は、弓や、鉄砲で動けなくなった敵を鑓や刀でとどめをさし、首を取るということが主流であったというものがある。

S氏は多くの感状や軍注状を詳細に検討し、そこに記載された怪我の原因や状態などから、殆ど刀傷がなかった、また、鑓傷も、鑓の上の功名が重用視されていた時代であるにもかかわらず、そんなに多くはなかった、それに比べ、鉄砲が普及する前は、矢傷が、その後は鉄砲傷が戦傷の大部分を占めていたと主張されている。

このことは何を意味するかというと、負傷して主君から感状を貰った武者の負傷の原因の第一は、矢傷や鉄砲傷を受けたことによるものであるということである。

以上の例をもって、氏は、現在認識されているほど鑓で突き合う戦闘は多くなかった。ましてや、刀で斬り合うことは殆どなかったと言っておられるのだ。

人間の性として、至近距離で敵と向かい合い、鑓で突き合い、又は、刀で斬り合うことが誰もが避けたがる。
できれば、敵の鑓や刀の届かない距離から、弓矢や鉄砲などの飛び道具で致命傷を負わせられればこれに越したことはないであろう。
故に、白兵戦はよほどのことでもないかぎりやらなかった。そう主張されている。

なるほど、この説は如何にも理屈がとおっている。そういった面があっただろうことは容易に納得できる。
おそらく、軍役で自分の領地や家から呼び出され、いやいやながら従軍する場合はそうであろう。

しかし、実際はどうであったろう。

当時の戦争は、焼き働き、刈り働き、人取り、など、何でもござれの時代であった。

自分の田や畑を刈り取られ、家屋敷を焼かれ、家族は囚われて奴隷となり、売り払われる。そして、戦闘では、自分の朋輩や身近な人たちが敵に討ち取られて死んでゆく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。
そんななかで、どれほどの人間が平静を保ち、敵から距離を置いて弓や鉄砲の狙撃だけで終始することできたのだろうか。

憎しみが極限まで高まり、人間やけくそになれば、果たして遠く離れて鉄砲や弓矢だけで我慢できるものであろうか。

当然、それだけでは我慢できなくなり、鑓や長刀、長巻き、刀で敵を気が済むまで切り刻みたい衝動に駆られることであろう。
そこに、計算も理性もない、ただあるのは敵憎しの思いだけである。

そして、お互いが刀槍をとって死闘を繰り広げれば、当然どちらかが討ち取られるまでこの戦いが続く。鑓の柄を切り折られれば太刀で戦い、懐に飛び込まれれば組み討ちとなる。
その組み討ちに勝ち、首を取れば恩賞を与えられる。

こうした流れとなるのは人間としてごく当然の成り行きなのではなかろうか。

もう一つあるのは、確かに弓は遠くから敵を狙うことができる。鉄砲にしてもしかり。

だが、何れも急所に当たらなければ致命傷とはならない。しかも相手は具足(鎧)を着けている。とくに当世具足は鉄砲に対してかなりの防御力がある。現存する具足の胴に鉄砲の当たった跡のあるものがあり、裏まで突き抜けていない。
弓もしかり。ある程度近寄り、真芯に当てなければ矢は鎧を突き通すことができない。
つまり、完全武装し、具足で全身をくまなく鎧われた敵を確実に倒すには、弓や鉄砲では不確実である。
負傷者に鉄砲傷や矢傷が大いにのは、裏を返せば、鉄砲や矢では、敵を確実に殺すことができないということの何よりの証拠ではなかろうか。
感状を受けた負傷者は、矢や鉄砲傷を受けたが死ななかったということなのだから。

一方、鑓で突かれた者は確実に死に至る。前にも書いたが、鑓を突き刺して抜くとき、切っ先を上にピンと跳ね上げて引き抜く。これにより突かれた敵は大きく内臓をえぐられ、確実に死に至る。
刀で斬り合う場合も、内兜、裏小手、腕の裏側、小股を切られ、兜を打ち落とされたあと、頭を打ち破られれば、これも容易に致命傷を受ける。
そして、組み討ちで組み敷かれ、首を掻かれる。

こうして、刀槍をとっての戦闘や、組み討ちなどの白兵戦では、確実にどちらかが死に、首を掻かれることになるのである。

これが、刀や鑓傷を受けた負傷者が少ない原因である。刀や鑓、組み討ちなどの白兵戦をやれば、ほぼ、必ずと言っていいほど死ぬのだから負傷して生き残っている訳はないのである。

また、もう一つの証拠としては、現在残る、戦国時代に起源をもつ古武道の剣術、槍術、柔術(組み討ち)の流派である。
およそ400年前の技法そのままと言えないかも知れないが、様々な形が残っている。

これら全てが後世のでっち上げとでもいうのであろうか。
しかし、由緒正しい流派では、実に精妙な技が残されており、とても頭の中だけで作り上げたものとは思えない。

以上の理由により、刀槍、組み討ちによる近接戦は、戦闘の最終段階に確実に存在したものと考える。

 

戦国時代( 8 / 11 )

騎馬戦

騎馬白兵戦はなかったか

 

前述のS氏の「騎馬隊はなかった」という説には大いに賛同するものである。

当時の軍制から考えると、まず、後世の騎兵隊のようなものは無かった。これは言えると思う。

しかし、全く騎乗して戦闘をしなかったかといえばそうではあるまい。

平安、鎌倉以来の伝統的な戦法で馳弓戦を行う者もいただろうし、当然、太刀を取って戦うものもいたはずだ。
馬上での鑓、長刀の使用も無かったとは言えないと思う。
但し、これは手綱から手を離し、両手を使うためかなりの熟練が必要である。

恐らく、最もよく行われたのは、左手に手綱をもち、右片手で太刀を振るうことであろう。これは、日本刀誕生以来行われてきたことだ。

但し、こうは言っても、当時の騎馬武者が刀でチャンバラをやったと言うつもりはない。刀や長刀で鎧や兜が切れるわけはないからだ。

この目的とするところは、敵を馬から突き落としたり、組み討ちに持ち込む為のものであったろう。

なぜ、この様な事を言うかというと、馬鎧が存在するからである。

この馬鎧は錬皮製の小札でできており、軽くて丈夫だ。この馬鎧札を使った人間の具足が存在する。
これは、この馬鎧の信頼性を雄弁に物語っている。

S氏の説のように、戦闘前に、全騎馬武者が下馬して戦うなら、この馬鎧は必要なかろう。

前にも言ったように、当時の馬がポニー並の小柄であった為に、重い頼武者を乗せて白兵戦などできないと言う説には殆ど根拠がない。

S氏はこう言う。

「NHKが歴史番組制作にあたって実験してみたことがある。中世の馬と同じ体高130センチ、体重350キログラムの馬に、体重50キログラムの乗員と、甲冑相当分45キロの砂袋を乗せて走らせたところ、分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばってしまったという。旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートル(中略)、はるかに劣っている。」
しかし、この実験に使ったのは現代の馬である。
戦国期の和種の馬は、今の野原でのんびり草を繰っている馬とはちがう。遙に強健で重い重量にも耐えた。現代の馬で当時の馬を語ることはできない。

また、馬の大きさも、全てが小さかったわけではあるまい。
当然、乗る人間の体格に合わせて選んだ筈である。
当時、小柄であった日本人の中にも大男がいたように、馬も大きな馬がいたはずだ。

また、当時の当世具足は源平、鎌倉期の大鎧より遙に軽くなっている。その重量は20kgを少しこえた程度であろう。この45kgは重すぎる。

さらに誤解があるのは、当時、他の国の軍馬は皆大きかったということである。当時のどの国の馬もさほど大きなものではなかった。時代は遡るが世界を席巻したジンギスカンの蒙古の馬も平均1m35cmほどの高さである。
我が国の馬とさほど違うわけではない。

殆どの人は、現在のサラブレッドをイメージしていると思われるが、これは、17世紀から18世紀にかけて、アラブ種とイギリス在来種を交配して改良したもので、当初は152cmそこそこしかなかった。
そして、19世紀初頭には162cm余りの体高となり、現在は160~170cmである。

サラブレッドでさえ、その当初は150cmを少し越える体高しかなかったのである。
また、その元となったアラブ種は体高150cmである。

ポニーの基準が148cmであるから、かのアラブ馬でさえポニーより2センチ高かっただけなのである。
如何であろう、我が国の軍馬が取り立てて小さいわけではなかったことがおわかりいただけたと思う。
この戦国の時代、サラブレットは存在せず、世界の軍馬はほとんどが今の基準のポニーであったのだ。

ただ、言えることは、山城や陣地戦、田や畑など、で戦う事が多く、実際は下馬して戦う場合が多かったことは確かである。

また、戦う方法も、走りながら弓を射る馳せ弓は例外として、打ち物で戦う場合は、走りながらということは無理である。互いに馳せ寄り、馬を乗り回しながらの戦いであったと思われる。

その場合、全力疾走で長距離走る必要はない。短距離のインターバルで十分であるし、途中馬を休ませる事もできる。

いずれにせよ、西洋の騎士のように、槍を小脇に抱え、楯を持って正面からぶつかるようなやり方は、我が国の小さい馬では無理であったことは確かである。

 

戦国時代( 9 / 11 )

組み討ちと槍術

前に、戦国時代の剣法とはどの様なものかということを説明したが、戦場では斬り合いばかりが行われているわけではない。

まず、遠距離では弓、鉄砲。石弓も使われたと古記録に散見する。礫打ちも盛んに使われたようだ。
攻城戦では、下からよじ登ってくる敵に対し、大石なども落とされた。これはけっこう威力があったらしい。

その次ぎに白兵戦になると、鑓、長刀、棒等で戦い、それが使えなくなると刀を使う。
鑓や長刀に比べて、刀は間合いが短く不利であるが、これは長物を持つ敵の懐に飛び込む必要がある。

そうなると必然的に、組み討ちとなり、これで相手を組み伏せて首を掻く。この形は柔術各流派に残っている。

鎧を着て演武する流派は先ほどの柳生心眼流もあるが、この流派の柔術は、振り拳を多用しはなはだ特殊であり、普遍的な技ということになると適当ではないので、ここには取り上げない。

一番近いと思われるものに、竹内流という流派がある。
この流派に期限は極めて古く、創始は天文元年(1532)まで遡る。創始者は美作(岡山県)一ノ瀬城主、竹内中務大輔久盛である。
久盛は愛宕神の化身と思われる山伏に小刀で相手を制する組み討ちの秘伝「腰廻」と捕縛の術を授かったとされている。

しかし、もっとも良く行われたもの。槍術は数えるほどしか残っていない。

古来、鑓は叩く物と言われている。

本来、足軽の長柄鑓は別として、鎧武者の鑓は余り長くない。ただ突くだけではなく、石突きを返して突いたり、打ったりするため、長くなると、唯突くだけか上下に叩くしか出来なくなるからである。
これが、足軽の長柄鑓と、武者の持ち鑓との違いである。

残念ながら、この武者鑓の使い方を残している鑓の流派は数少ない。

その内、もっとも古体を良く残しているのが佐分利流である。

当時、鑓は、柄に短い穂先を付けた素鑓が標準であったが、穂先に鎌を着けた鎌鑓や、柄に鍵を付けた鍵鑓も大いに使われた。

この佐分利流は、鍵鑓を使う。

長大な穂先を付けた柄に付いた鍵で、実にうまく敵の素鑓を絡め、巻き捨てる。

また、両刃の付いた剣の様な形の穂先で、飛び込みざま首を切る技など、如何にも戦国時代の荒々しい姿を良く残していると思う。

 

戦国時代( 10 / 11 )

水軍の軍船

水軍の軍船とは

 

町おこしのイベントや祭りなどでよく和船レースが行われているし、海と関連の深い神社の祭りでも和船によるセレモニーが行われている。

この場合、殆どが多くの漕ぎ手が後ろ向きに座り、櫂で漕いでいる。

これが、歴史的事実に反していることは前にも書いた。

特に、瀬戸内海のある島で行われている水軍祭りでは、多くの若者が漕ぎ手となり、かなりの観光客も来ているようだ。

たしかに客寄せのイベントとしては成功しているのかもしれないが、過去に存在しなかった櫂船による競漕を、さも歴史的事実でもあるかのように宣伝して客寄せをしているのは如何なものであろう。

何故ならば、水軍の軍船は、櫂で漕ぐことはなく、全てが櫓の高度な操船技術で微妙な潮の流れや、潮流の変化を乗り切っていたのだから。

ただ、単純に推進力を得るだけの櫂では、このような高等な芸当はできない。

また、戦闘用の軍船の場合、櫂で漕ぐことは、致命的な欠陥があった。

櫂で漕ぐと、漕ぐことのみに人手が取られ、戦闘に参加する人数が少なくなる。

櫓の場合は、漕ぐ人員は櫂に比べてはるかに少なくてすむ。その分、戦闘員を多く乗せることができたわけである。

櫂は、座って漕ぐためにすぐには戦闘に参加できない。

ところが、櫓の場合、立って漕ぐのでそのまま直ぐにでも戦闘に参加できる。また、櫓を操りながら、敵船に焙烙を投げ込むこともできた。

こういった理由で瀬戸内水軍では殆ど櫓を使っていたのである。

軍船が櫂を使うことが、どれだけ船いくさに不利であったかおわかりいただけたことと思う。

当時の水軍の軍船は、櫓の数と船体の大きさ、矢倉の有無で、その種類が決まった。

一番大きな戦艦にあたる安宅船、巡洋艦にあたる関船、速さと軽快性の小早である。

とくに俊敏な動きが要求される小早では、直接、敵船に接舷して乗り込んだり、矢を射こむ、あるいは焙烙という一種の手りゅう弾のようなものを投げ込んだり、やがらもがらという長柄の武器などを使い、直ぐにでも戦闘に入らなければならなかった。

このとき、座りこんで櫂を漕いでいたらどうだろう。たちまち立ちあがる暇もなく殺されてしまったことは間違いない。

また、軍船に限らず、一般の船もほとんどが櫓を使っていたことは、多くの文献資料や絵巻物からもあきらかである。

たかが祭りではないか、何で漕ぐかぐらいで目くじらを立てることは無いではないか。当事者が楽しんでいるのだからそれでいいではないかという意見もあろう。

また、櫓を漕げる人間がいないのだからしかたがない。あまり技術のいらない櫂で漕いでもよいではないか。そのような事情も理解はできる。

しかし。である。櫓を使って船を操る技術は、日本の貴重な海の文化である。

このような祭りやイベントを機会に、その貴重な技術を後の世に伝える必要があろう。

そもそも、櫓を漕げる人間がこの様な水軍の島にも少なくなってしまったことが問題なのではないか。

むしろ、これを機会に、島の若者に櫓を漕ぐ技術を伝え、和船建造の技術を保存し、在りし日の村上水軍の小早船の櫓による競漕を再現してはどうだろう。

ただ、集客だけのために、歴史的事実に反することをやるより遥かに有意義なことだと思う。


 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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