武の歴史の誤りを糺す

戦国時代( 5 / 11 )

介者剣法

介者剣法

 

戦国時代の合戦についていろいろ述べてきた。

過去、戦国時代にその起源をもつ流派はかなり現存している。

しかし、250年の太平の世を経、明治、大正、昭和と、時代の大きな変革のなかで、それらの諸流の古武道は、かなりその内容が変わってきている。
当時のメジャーな流派である柳生新陰流、小野派一刀流など、殆ど初期の形態は変化して、いまでは当時の姿を窺い知ることはできない。

その中で、比較的、当時の技法やコンセプトをよく残していると思われるものに天真正伝香取神道流がある。

介者剣法の特徴をよく残しているので、当時の剣法の雰囲気を感じ取る事ができると思う。

他の流派の様に大上段に振りかぶることはしない。

八相か左右の巻打ちを多用する。これは兜の立物が邪魔になって大上段には振りかぶれないからと、鎖や鉄板で防御されていない腕の内側を敵に曝さないようにするためである。

ご覧になればおわかりになると思うが実に様々な刀の使い方をしているし、その技法は精妙を極めている。
勿論、これらの形が、戦国時代そのものであるとは言わない。時代と共に変化した箇所も多いと思う。

しかし、当時の介者剣法を最も色濃く残している流派である。

このように古い流派には、この甲冑剣法を伝えるものがある。

もうひとつの例として、仙台藩に伝わった柳生心眼流という流派がある。
大別して二つの系統に分かれるが、以下に紹介するのは、仙台伊達家の足軽層を中心に広まったものである。

こういった形稽古をやる古い流派は、主たるものの他に外の物として、さまざまな技術が付随する。
当時の、武士の教養科目として様々な武器を扱えるようにしていたのである。

この仙台に伝わった柳生心眼流は、竹永隼人という人が、柳生宗矩に師事して、柳生心眼流を創始したと言われている。

ただ、この流派の主体は柔術である。珍しい振り拳による当て身や蹴りを中心とした独特の技術体系を持つ。
この技のなかで、甲冑組み討ちを彷彿とさせるものにむくりというものがある。
相手の腰からからだを回転させ、後ろに投げるものだが、これは明らかに甲冑捕りを想定しているもので、この流派の基本技である。

この、柳生心眼流は、柔術を主体とし、剣、槍、居合い、薙刀など、あらゆる武器を使う技術を温存している。
この平成の代で、当時の甲冑組み討ちや甲冑剣法の実態を知る上で極めて貴重な流派であるといえよう。

勿論、ここに伝えられた刀法が、戦国時代そのままのものであるとは言えない。
何しろ400年以上も昔のことだ。当時の技法そのままがそっくり残っていると考えるほうが無理がある。代を重ね、時代の変化とともに少しずつ変化したことは間違いがない。

しかし、その大本となる技法は温存されているし、この変化の度合いも、他の流派に比べて遙に小さなものであったことは、確かである。

戦国時代の剣法はどの様なものであったかを知る上で、極めて貴重な流派である。

戦国時代( 6 / 11 )

馬上太刀打ち戦について

馬上太刀打ち戦はなかったか

 

最近、多くの著書を出版されている、あるアマチュア歴史家がいる。
多くの本を出されているので、もはやアマチュアとは言えないだろう。

この人の本は実に説得力があり、私も愛読者の一人である。

理論的にも納得させられるものがあり、今までNHKの歴史番組に登場する御用学者や小説家のいい加減な言動に憤激を禁じえなかったが、このS氏の持論は実に論理的であり、読んでいていちいち胃の腑にすっきり収まるものがあった。

この人は、文献をとてもよく精緻に読み込まれていて、そのうえで過去の様々な固定概念を論破しておられる。ある意味で、戦国史の革命児といっても差し支えないと思う。

この様に、すばらしい著作を多く出されているS氏であるが、あまりに資料に拘泥するあまり、残されている遺物に対する思索が十分ではないと思う。

これは、氏に対する非難ではなく、助言であると思っていただきたい。

前にも書いたが、創生期の日本刀は、その形状からして、馬上から片手打ちに斬撃するするのに最適なように作られている。

その特徴は、柄の部分から湾曲がはじまり、切っ先から刀身の根本付近にかけてほぼまっすぐで反りはない。

これは、突くということも重視した造りではないか。

また、柄の部分が短く湾曲している事の意味は、この太刀の使い方について、あることを示唆するものである。

短く、湾曲した柄は、両手に持って振り回すことには適していない。これは明らかに片手打ちを想定して作られたものだ。

太刀を両手に持って正確な繰法を行うには、柄はまっすぐでなければならないし、ある程度の長さが必要である。

初期の太刀はこの部分が短い。つまり両手に持って使う場合には、前の右手と後ろの左手が触れあうほどに接近して持たなければならない。

これは、今の野球のバットやゴルフのクラブを持つような持ち方しかできないということだ。

野球のバットやゴルフクラブを振るのは、その先端の重さを利用して遠心力や重力を利用してふりまわす。

現在の剣道も、居合道もみなこの様な物理力を利用して剣を振っている。

ところが、刀の重量が増すと、この重力や遠心力を使って太刀を振るということができなくなる。

詳しい説明は別項に詳しく説明するが、後の南北朝によく使用された大太刀は、この柄の部分が極めて長く作られている。

これは、バットのようにして持ったのでは、振ることはおろか持ち上げ、構えることもできない。
大太刀は長い柄を利用して両手の間隔を広く持ち、腕だけで振るのではなく体を使って振らなければ到底うまく扱えるものいではない。

以上の理由により、創生期の日本刀は片手で扱えるものでなければならず、太刀を持つ右手の負担を減らす為に、先端を細くして軽量化を図ったことが想像できる。

また、馬上で使ったことが想定される根拠は、その形状にある。

徒武者が使ったものなら、その反りは不利となる。この時期の刀は柄の所から刀身の付け根にかけて大きく湾曲している。

後世の無反りの打刀と比べて見ればよくわかると思うが、同じように振ったばあい、無反りの刀が相手に届くとき、反りがあればまだ敵の体に届くには数センチの余裕がある。

つまり、無反りの刀ではすでに相手に届いて切り倒していても、この根本から大きく反りのある太刀ではまだ相手の体になんら損傷を与えていないことになる。

これは、徒立ちで戦う場合、決定的な弱点となる。

ところが、馬上で大きく振りかぶり、片手打ちの場合は、この様なデリケートな問題は存在しない。
むしろ、この湾曲した刀身のほうが片手で振り回すには振りやすいのである。

S氏は、専ら遠戦指向で、馬上太刀打ちは殆ど行われなかったと主張しておられるが、これは、文献資料の限界と思われる。

当時の武器、甲冑などの遺物をみれば、当然わかることであろう。惜しむらくは、刀剣、武器の専門家の意見を聞いていれば、もう少し違った結論に達したものであろう。

この点は残念でならない。

戦国時代( 7 / 11 )

白兵戦

白兵戦はなかったか

 

前回に続き、S氏の説に疑問を呈したい。

氏の主張に、戦国時代はほとんど遠戦に終始し、近接戦は、弓や、鉄砲で動けなくなった敵を鑓や刀でとどめをさし、首を取るということが主流であったというものがある。

S氏は多くの感状や軍注状を詳細に検討し、そこに記載された怪我の原因や状態などから、殆ど刀傷がなかった、また、鑓傷も、鑓の上の功名が重用視されていた時代であるにもかかわらず、そんなに多くはなかった、それに比べ、鉄砲が普及する前は、矢傷が、その後は鉄砲傷が戦傷の大部分を占めていたと主張されている。

このことは何を意味するかというと、負傷して主君から感状を貰った武者の負傷の原因の第一は、矢傷や鉄砲傷を受けたことによるものであるということである。

以上の例をもって、氏は、現在認識されているほど鑓で突き合う戦闘は多くなかった。ましてや、刀で斬り合うことは殆どなかったと言っておられるのだ。

人間の性として、至近距離で敵と向かい合い、鑓で突き合い、又は、刀で斬り合うことが誰もが避けたがる。
できれば、敵の鑓や刀の届かない距離から、弓矢や鉄砲などの飛び道具で致命傷を負わせられればこれに越したことはないであろう。
故に、白兵戦はよほどのことでもないかぎりやらなかった。そう主張されている。

なるほど、この説は如何にも理屈がとおっている。そういった面があっただろうことは容易に納得できる。
おそらく、軍役で自分の領地や家から呼び出され、いやいやながら従軍する場合はそうであろう。

しかし、実際はどうであったろう。

当時の戦争は、焼き働き、刈り働き、人取り、など、何でもござれの時代であった。

自分の田や畑を刈り取られ、家屋敷を焼かれ、家族は囚われて奴隷となり、売り払われる。そして、戦闘では、自分の朋輩や身近な人たちが敵に討ち取られて死んでゆく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。
そんななかで、どれほどの人間が平静を保ち、敵から距離を置いて弓や鉄砲の狙撃だけで終始することできたのだろうか。

憎しみが極限まで高まり、人間やけくそになれば、果たして遠く離れて鉄砲や弓矢だけで我慢できるものであろうか。

当然、それだけでは我慢できなくなり、鑓や長刀、長巻き、刀で敵を気が済むまで切り刻みたい衝動に駆られることであろう。
そこに、計算も理性もない、ただあるのは敵憎しの思いだけである。

そして、お互いが刀槍をとって死闘を繰り広げれば、当然どちらかが討ち取られるまでこの戦いが続く。鑓の柄を切り折られれば太刀で戦い、懐に飛び込まれれば組み討ちとなる。
その組み討ちに勝ち、首を取れば恩賞を与えられる。

こうした流れとなるのは人間としてごく当然の成り行きなのではなかろうか。

もう一つあるのは、確かに弓は遠くから敵を狙うことができる。鉄砲にしてもしかり。

だが、何れも急所に当たらなければ致命傷とはならない。しかも相手は具足(鎧)を着けている。とくに当世具足は鉄砲に対してかなりの防御力がある。現存する具足の胴に鉄砲の当たった跡のあるものがあり、裏まで突き抜けていない。
弓もしかり。ある程度近寄り、真芯に当てなければ矢は鎧を突き通すことができない。
つまり、完全武装し、具足で全身をくまなく鎧われた敵を確実に倒すには、弓や鉄砲では不確実である。
負傷者に鉄砲傷や矢傷が大いにのは、裏を返せば、鉄砲や矢では、敵を確実に殺すことができないということの何よりの証拠ではなかろうか。
感状を受けた負傷者は、矢や鉄砲傷を受けたが死ななかったということなのだから。

一方、鑓で突かれた者は確実に死に至る。前にも書いたが、鑓を突き刺して抜くとき、切っ先を上にピンと跳ね上げて引き抜く。これにより突かれた敵は大きく内臓をえぐられ、確実に死に至る。
刀で斬り合う場合も、内兜、裏小手、腕の裏側、小股を切られ、兜を打ち落とされたあと、頭を打ち破られれば、これも容易に致命傷を受ける。
そして、組み討ちで組み敷かれ、首を掻かれる。

こうして、刀槍をとっての戦闘や、組み討ちなどの白兵戦では、確実にどちらかが死に、首を掻かれることになるのである。

これが、刀や鑓傷を受けた負傷者が少ない原因である。刀や鑓、組み討ちなどの白兵戦をやれば、ほぼ、必ずと言っていいほど死ぬのだから負傷して生き残っている訳はないのである。

また、もう一つの証拠としては、現在残る、戦国時代に起源をもつ古武道の剣術、槍術、柔術(組み討ち)の流派である。
およそ400年前の技法そのままと言えないかも知れないが、様々な形が残っている。

これら全てが後世のでっち上げとでもいうのであろうか。
しかし、由緒正しい流派では、実に精妙な技が残されており、とても頭の中だけで作り上げたものとは思えない。

以上の理由により、刀槍、組み討ちによる近接戦は、戦闘の最終段階に確実に存在したものと考える。

 

戦国時代( 8 / 11 )

騎馬戦

騎馬白兵戦はなかったか

 

前述のS氏の「騎馬隊はなかった」という説には大いに賛同するものである。

当時の軍制から考えると、まず、後世の騎兵隊のようなものは無かった。これは言えると思う。

しかし、全く騎乗して戦闘をしなかったかといえばそうではあるまい。

平安、鎌倉以来の伝統的な戦法で馳弓戦を行う者もいただろうし、当然、太刀を取って戦うものもいたはずだ。
馬上での鑓、長刀の使用も無かったとは言えないと思う。
但し、これは手綱から手を離し、両手を使うためかなりの熟練が必要である。

恐らく、最もよく行われたのは、左手に手綱をもち、右片手で太刀を振るうことであろう。これは、日本刀誕生以来行われてきたことだ。

但し、こうは言っても、当時の騎馬武者が刀でチャンバラをやったと言うつもりはない。刀や長刀で鎧や兜が切れるわけはないからだ。

この目的とするところは、敵を馬から突き落としたり、組み討ちに持ち込む為のものであったろう。

なぜ、この様な事を言うかというと、馬鎧が存在するからである。

この馬鎧は錬皮製の小札でできており、軽くて丈夫だ。この馬鎧札を使った人間の具足が存在する。
これは、この馬鎧の信頼性を雄弁に物語っている。

S氏の説のように、戦闘前に、全騎馬武者が下馬して戦うなら、この馬鎧は必要なかろう。

前にも言ったように、当時の馬がポニー並の小柄であった為に、重い頼武者を乗せて白兵戦などできないと言う説には殆ど根拠がない。

S氏はこう言う。

「NHKが歴史番組制作にあたって実験してみたことがある。中世の馬と同じ体高130センチ、体重350キログラムの馬に、体重50キログラムの乗員と、甲冑相当分45キロの砂袋を乗せて走らせたところ、分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばってしまったという。旧陸軍の基準では、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートル(中略)、はるかに劣っている。」
しかし、この実験に使ったのは現代の馬である。
戦国期の和種の馬は、今の野原でのんびり草を繰っている馬とはちがう。遙に強健で重い重量にも耐えた。現代の馬で当時の馬を語ることはできない。

また、馬の大きさも、全てが小さかったわけではあるまい。
当然、乗る人間の体格に合わせて選んだ筈である。
当時、小柄であった日本人の中にも大男がいたように、馬も大きな馬がいたはずだ。

また、当時の当世具足は源平、鎌倉期の大鎧より遙に軽くなっている。その重量は20kgを少しこえた程度であろう。この45kgは重すぎる。

さらに誤解があるのは、当時、他の国の軍馬は皆大きかったということである。当時のどの国の馬もさほど大きなものではなかった。時代は遡るが世界を席巻したジンギスカンの蒙古の馬も平均1m35cmほどの高さである。
我が国の馬とさほど違うわけではない。

殆どの人は、現在のサラブレッドをイメージしていると思われるが、これは、17世紀から18世紀にかけて、アラブ種とイギリス在来種を交配して改良したもので、当初は152cmそこそこしかなかった。
そして、19世紀初頭には162cm余りの体高となり、現在は160~170cmである。

サラブレッドでさえ、その当初は150cmを少し越える体高しかなかったのである。
また、その元となったアラブ種は体高150cmである。

ポニーの基準が148cmであるから、かのアラブ馬でさえポニーより2センチ高かっただけなのである。
如何であろう、我が国の軍馬が取り立てて小さいわけではなかったことがおわかりいただけたと思う。
この戦国の時代、サラブレットは存在せず、世界の軍馬はほとんどが今の基準のポニーであったのだ。

ただ、言えることは、山城や陣地戦、田や畑など、で戦う事が多く、実際は下馬して戦う場合が多かったことは確かである。

また、戦う方法も、走りながら弓を射る馳せ弓は例外として、打ち物で戦う場合は、走りながらということは無理である。互いに馳せ寄り、馬を乗り回しながらの戦いであったと思われる。

その場合、全力疾走で長距離走る必要はない。短距離のインターバルで十分であるし、途中馬を休ませる事もできる。

いずれにせよ、西洋の騎士のように、槍を小脇に抱え、楯を持って正面からぶつかるようなやり方は、我が国の小さい馬では無理であったことは確かである。

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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