武の歴史の誤りを糺す

古墳時代( 2 / 4 )

桂甲・騎馬戦闘の鎧

 

 

日本の古代の鎧は、主として徒歩戦用に工夫され発展してきた。これが短甲である。

古墳時代中期にはほぼこの形式は完成し、徒歩戦の鎧としてはほぼ完璧なものとなった。

 

何故、我が国では、徒歩戦が主体であったのか。

言うまでもない。それは我が国の地形が山や森林、沼沢地が多く、騎馬の戦闘に向いていなかった為である。

 

ところが古墳時代後期になると様相は一変する。

中期まであれほど多く副葬されていた短甲が姿を消すのである。

 

代わって副葬されているのが小札で構成された桂甲である。

この桂甲は、古墳時代中期後半に登場し、次第にその数を増してきて、古墳時代後期に至り完全に短甲にとって代わってしまった。

 

長方形や三角板の鉄板や帯金を革紐や鋲で固定した短甲と違って、小さな鉄片、小札を上下に革紐で連結したこの形式の鎧は、短甲とは比較にならぬほど制作に手間がかかる鎧である。

 

したがって、この桂甲の主の古墳の主は、短甲の時代以上に富と権力の増大が進んだことがうかがえる。

 

この桂甲は重ね合わせる部分が多く、防御力も増しているが、それだけ重量も増している。

兜をかぶり、肩鎧、首の周りを守る頸鎧、籠手、膝を守る膝鎧、臑当に相当する足纒までを含めると相当な重量となり、これでは徒歩での長時間の戦闘は無理であろう。

つまり、この鎧は、騎馬戦用の鎧なのである。

 

この桂甲は、草摺は胴部と一体であり、腰の部分は腰札という内部に湾曲した特に長い小札で形成されていて短甲のように本来、別物であった草摺を取り付けたものではない。

 

こうして見ると、桂甲は前代の短甲以上に完璧に全身を隈なく鎧っていてほとんど隙がない完璧な防御がなされている。

その完璧さは後世の戦国時代の当世具足も及ばないほどである。

この完全武装の姿は、映画の「大魔神」を想像して頂ければよく理解できることと思う。

では、なぜ、このように鎧の形式が激変したのか。

 

それは、古墳時代中期からの度重なる朝鮮半島への出兵に関係がある。

 

朝鮮の官製史書である三国史記によると、新羅には紀元前50年以来、度々倭人の襲来が記録されているが、これらの初期のころはさほど大掛かりなものとは思えない。

そして、主に船で来襲しているようで、上陸後は主に徒歩で戦ったものであろう。

又、新羅も主に徒歩で戦ったようで、魏志倭人伝に新羅の前身である辰韓は徒歩で戦うとある。

 

新羅には倭軍はよく侵入を繰り返したようだが、百済とは友好が保たれていたようで、百済とはあまり戦闘の記録がない。

 

紀元400年頃から、倭が朝鮮半島に侵入して百済、新羅を従え、高句麗と戦ったと好太王碑に書かれている。

高句麗は騎馬戦闘を得意とした。

好太王碑の記述によると、404年に倭が帯方界まで攻めてきたが、高句麗の好太王は、これを破り、無数の倭兵を切ったとある。

 

おそらく、この高句麗との戦闘の敗北が契機となり、日本にも騎馬戦闘の技術が取り入れられ、甲冑も、騎馬戦に適した桂甲に変わったものと考えられる。

 

但し、この桂甲は、古墳から出土したものであり、古墳に葬られるほどのその地方の有力者が桂甲を纏っていたことの証明にはなっても、当時の我が国の軍勢全てが騎馬戦闘をやったということではなかろう。

おそらく、騎馬で戦闘に臨めるのは、極めて高位のその地方の豪族一族だけで、その他の兵は、短甲を着て徒歩で戦ったと考える方が自然である。

 

なお、この桂甲が日本国内で考え出され、作られたということは、この基本的構造が前代の短甲の形式を踏襲していることから推測できる。

 

すなわち、鎧の引き合わせが短甲と同じ前であり、肩鎧、頸鎧などの付属具が短甲と同じ形式であることである。

 

このことをみても、本来、北方騎馬民族の鎧である小札鎧を、短甲の技術を駆使して桂甲という完成された甲冑に仕上げた我が国の工人の技術の優秀さは、今日のモノづくり大国日本と相通ずるものがある。

 

 

 

 

古墳時代( 3 / 4 )

衝角付冑・我が国独自の冑

 

 

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古墳時代の短甲や桂甲に付随する冑には、衝角付冑と眉庇付冑の二つの種類があった。

 

この二つの形式は、一見してその構成も成り立ちも全く違うもののように見える。

 

衝角付冑は短甲とその構成や制作手法が同じであることから、これは短甲とともに我が国独自の工夫によって作り出されたものである。

 

衝角付冑は前部が船の衝角のように突き出した独特の形をしているためにこの名前がある。

下から見ると前の部分が尖り桃の種のような形をしている。

 

この構成は独特で、前部の衝角部は杓子状の板金で作り、この杓子の柄の部分が冑の正面となる。これを伏板といいこの形状が衝角付冑の特徴である。

この冑の頂部、すなわち伏板の杓子の楕円状の中央の部分に、三尾鉄と称する先が三俣に分かれた金具を取り付け、その三つの先にや山鳥の羽根を取り付けて飾りとした。

 

冑の主要部分は、この伏板と冑の下部を形成する腰巻の板という帯金と、伏板と腰巻の中間の胴巻という帯金で構成されていて、腰巻と胴巻の前端は伏板の杓子の柄の部分に連結されている。

こうして、伏板と腰巻、胴巻で冑の骨組みを作り、その間に地板という三角形や短冊状の鉄板を革綴や鋲止めで固定し、堅牢無比な衝角付冑が形成されている。

 

これも、短甲と同様、初期の頃は、三角の鉄板を革紐で固定していたが、次第に鋲で留めるようになり、更にこの部分を、三角形や短冊型の鉄板から一枚の板金の地板に代えて、より堅牢なものへと進化していった。

 

この冑の特徴は、冑の前部が船の舳先のような形をしているため、額の前に三角形の空間があり、この部分が三角である為に敵の正面からの斬撃に耐える強度があり、また、敵の攻撃に対して角度があることから、その力の方向を逸らせる効果もあったことが想像できる。

このことは、兵士の額や顔面を敵の刃から守るには極めて有効であったようで、あくまでも機能一点張り、実用価値の高い堅牢な冑として長期間愛用されていたようである。

 

では、何故、この様な形なのかということは、恐らく、最初は革で作ったことの名残であろう。

最初は革で衝角付冑が作られ、その技法で鉄製の冑を作ったためにこの様な独特な形が出来上がったものと思われる。

 

この衝角付冑は、本来、短甲に付属していたもので、その製作手法も全く同一である。

この形式の冑は、よほど当時の我が国の戦闘形態に良く合っていたようで、古墳時代前期に渡って使われ続けてきた。

 

これは眉庇付冑が五世紀中葉から六世紀初期までの短い期間しか古墳の出土が見られないことに対し、衝角付冑は、後には桂甲とともに出土している。

本来は短甲と組み合わせて着用された衝角付冑が、後には桂甲とともに使用されていたことがわかるのである。

衝角付冑の優れた実用性の故であろう。

古墳時代( 4 / 4 )

眉庇付冑・大陸様式の冑

 

 

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構造は、衝角付冑とは比較にならぬほど複雑であり、製作には高度の技術と手間がかかるものである。

また、実用一点張りの衝角付冑と違い、極めて装飾性の強いもので、実戦用というよりむしろ権威を示す為のもののようである。

 

中には、金銅製の部品を多用した非常に煌びやかなものもあり、これは防禦の面では、全て鉄製のものより大幅に劣る。

半円形の大きな眉庇は様々な模様の透かし模様があり、金銅製の物もあった。

 

この眉庇付冑は、本来は桂甲に付随するものであった。

先に述べたように、この桂甲は、倭の軍隊が朝鮮半島に進出を頻繁に繰り返すようになってから出現したもので、その結果、眉庇付冑も、桂甲とともに出現したと考えられる。

 

桂甲は主に騎馬戦に向いた鎧であるので、当然それに付随する眉庇付冑も騎馬の戦闘を想定して作られている。

 

桂甲と眉庇付冑の出現する前、およそ4世紀末から5世紀初めには、倭の軍勢は朝鮮半島に攻め込み、百済と新羅を従え、高句麗と戦っている(好太王碑)。

 

このとき、好太王碑文には、倭を大敗させたとあるが、その真偽はともかくとして、倭の軍隊が帯方地方にまで侵入したことは確かであろう。

 

高句麗は騎馬戦を得意とし、その鎧も騎馬戦に適した小札鎧を纏っていた。

また、乗馬を敵の矢や刃から守る為に馬に鉄面を着け、馬鎧で胴体を保護していたことは、当時の古墳の壁画から知ることができる。

 

では、高句麗の軍勢全体がこの様な完全武装の重装騎馬軍団であったのだろうか。

おそらくそうではあるまい。小札鎧はその製作に手間暇がかかり、極めて高価なものである。

この様な高価な鎧で自分自身と乗馬の身を包むということは、よほどの権力と財力を持った高位の人物でなければ到底無理である。

この壁画に描かれている騎馬武人は、この古墳の主のような高句麗の特別な地位にあった人物なのであろう。恐らく、この様な重装騎兵はその地方の豪族の一族ぐらいで、その他はもっと軽武装の軽騎兵であった筈である。

 

好太王の率いた軍勢は、少数の重装騎馬兵とその他の軽武装の軽騎兵、そして大部分は簡単な武装の歩兵であった。これは、何所の軍隊にも共通した編成である。

 

我国の軍隊はこの様な敵と戦った。そのとき、勝ったか負けたかはわからない。

 

好太王碑は好太王の戦功を顕彰したものである。従って戦争には勝ったとしか書かない。

まさか負けたのを勝ったとは書くまいが、勝敗が五分五分であっても大勝として記録に残すものである。

そこから推察できることは、倭と高句麗は激しい戦闘を交えたことぐらいであろう。

 

その時、倭の軍勢の心に深く刻み込まれたことは、この少数の重装騎兵の突撃であったはずである。

体全体を包み込む小札鎧、馬にまで鉄面を被せ、馬鎧で矢や矛の攻撃を防ぐ。これには主に歩兵戦で戦っていた倭の歩兵には歯がたたなかったのではないか。

 

古代の戦闘は、後世の騎兵の突撃とは違う。同じ重装甲の大勢の重騎兵が集団で突撃することはしない。

指揮官ほか少数の重装備の騎兵が大勢の軽装の騎兵を率いて突撃する。

 

矢や敵の刃のたたない重装甲の重騎兵がまず敵陣に衝撃を与え、敵の第一陣を突破して蹂躙し、その後に軽騎兵が戦果を拡大する。

つまり、当時の重騎兵は現代の戦車の役割を果たしていたのである。

 

その時の衝撃が歩兵主体の倭の軍兵にとって如何に大きかったか。その結果が桂甲と眉庇付冑の登場となるのではないか。

 

多くの学者は、この桂甲と眉庇付冑は朝鮮半島からのものという。これが定説となっている。

しかし、これは形が似ていることと、小札鎧であることから安易に結論づけられたもので、各部分の構成について詳細に比較検討した結果ではない。

 

過去、朝鮮半島から全ての高度な文化がもたらされたということが定説となっている。

中国の高い文化が朝鮮半島を経由して我が国にもたらされたということが何の疑問も無く受け入れられていた。

朝鮮半島は当時、未開の野蛮人であった我が国より遥かに高い文明を持ち、後世の日本の文化は全て朝鮮半島から来たものであるとの思いこみが我が国の学者にあった。

 

確かに地勢学的に見ても、中国から半島伝いに文化が日本に伝わったということは誰もが考えることであろう。

しかし、最近、多くの考古学的発見により、この考えは否定されてきている。

 

では、桂甲と眉庇付冑はどうか。

 

確かに、きっかけは高句麗の重装騎馬兵の着けていた小札鎧や兜であろう。

 

しかし、その構造は、朝鮮半島のものとは根本的に異なる。

 

桂甲もその製作手法は短甲からのものであるし、眉庇付冑も衝角付冑の製作手法を踏襲している。

 

つまり、桂甲は、小札をを使った鎧ではあるが、前で引き合わせる短甲の形式を継承しているし、眉庇付冑も、衝角付冑の伏板の頂面の丸い部分だけを残し、前の杓子の柄の形の部分を無くしたもので、腰巻と胴巻と伏板の間にいろいろな形の地板を革紐や鋲で留めた構造は衝角付冑と同じである。

 

特に、その初期に於いて、この地板の部分は短甲や衝角付冑と同じ三角板を革で綴ったものも存在するし、この部分を多くの細長い短冊型の鉄片で腰巻と胴巻、胴巻と伏板を別々に鋲止めして半球状の鉢を形成しているものもある。

これは、数枚の鉄板を打ち出して半球状の冑鉢を形成する朝鮮半島の冑とは根本的に違う我が国の冑の特徴である。

 

また、眉庇付冑の野球帽のような形は、一見、大陸の冑と同じようにみえるが、こうして詳細に比べてみると、全くこの両者は別物であることがわかる。

 

さらに、その特徴である眉庇は極めて大型で、そこには金鍍金や金銅で細かい透かし模様や点描が施された実に美麗なものもある。

また、腰巻や胴巻にも金鍍金や金銅で飾られ、点描の模様の施されたものもあることから、これは単に実戦の為だけに用いられたものではないようである。

 

我が国では、戦闘の主体はあくまでも歩兵である。騎馬兵はごく少数の極めて位の高い人達に限られていた。

 

この五世紀は、倭国は急速に力を伸ばし、朝鮮半島にまで力を伸ばしていたのであるが、高句麗のような本格的な重装騎兵は存在しなかった。

 

そしてその戦闘法も騎兵の集団戦などではなく、あくまでも個人の武勇に頼る個人戦が主体であり、このような桂甲で全身をよろい、眉庇付冑を被った重装甲の騎馬の武人は、実際に戦闘に加わるのではなく、軍団を指揮する高位の将軍であったと考えられる。

それ故、美麗な甲冑に身を固め、その権威と存在を誇示したのではないか。

 

そう考えると、何故、わざわざ防禦力に劣る金銅を、重要な冑鉢や眉庇に用いたのかということも理解できるし、或いは、この眉庇付冑は、儀仗用に作られた可能性もある。

 

この様な豪華な甲冑は、その地方の首長クラスの古墳から出土している。

このことは何を意味するかというと、その地方の首長クラス、古墳を造営できるほどの地位と財力がなければ、これほど高価で手間のかかる甲冑を持つことは不可能であったということなのである。

そして、副葬品として墳墓に大切に埋葬されたということは、この鎧が如何にこの古墳の主にとって大切なものであったかを雄弁に物語っている。

この華麗な眉庇付冑は、五世紀中葉に姿を現し、六世紀初めには姿を消す。

それ以降は、桂甲に衝角付冑が付随して古墳から出土するようになる。

 

この古墳に副葬された甲冑は、その墓の主の愛用したものであるから、その製作年代は、この古墳の埋葬年代から数十年遡ることになる。

ということはこの眉庇付冑は、五世紀にはいって間もなく作られ初め、五世紀後半にはその製作は中止されたのであろう。

 

では眉庇付冑は、何故、このたかだか五十年余りの期間しか製作されなかったのであろうか。

それは確たる証拠が存在しないのでわからない。

 

しかし、その期間は盛んに朝鮮半島に出兵し、新羅と頻繁に交戦している。

 

この時期と眉庇付冑の製作期間が一致する。つまり、この華麗な冑は、新羅への侵攻が止んだ六世紀には姿を消しているのである。

そして、国外への遠征が止んだと同時に、華美な眉庇付冑は、実用的な衝角付冑にとって代わられることになった。

ということは、この冑は、倭兵を率いて新羅討伐に遠征した各地方の有力豪族のものであったのではなかろうか。

 

こう考えるとこの眉庇付冑が何のために製作され、使用されたのかということがうまく説明できるのではあるまいか。

 

 

 

平安、鎌倉時代( 1 / 6 )

日本の甲冑

日本の鎧について。

 

人のブログを読んでいたら、今の人たちは、我が国の鎧について大きな誤解があることに気がついた。

何処で読みかじったのか知らないが、日本の鎧は、皮でできているので弱いと思いこんでいる人が多いことに気がついた。また、皮だから容易に日本刀で切れるとも。

しかし、実は、日本の鎧は極めて堅牢にできていた。
確かに、平安時代の大鎧はの構成要素である札は牛の皮で出来ていたが、これは皮だけでできているということではなく、鉄の札と交互に犬の皮で横に連結して、横に長い板を作り、これを上下に糸や皮で威して構成されていた。
この最小の単位を小札と呼んだ。
この小札は長さ5センチ、幅は古くは3センチもあった。これは、時代が下るに従って細くなる。

恐らく、この小札が皮でできていた(鉄小札もあったのは説明したとおりである。)のを何かの本でよんで、皮だから弱いと思いこんでいた人もいたことであろう。

しかし、実は、この煉皮の小札は、他所の国の鎧のように、ただ一枚の牛皮を裁断して作ったものではない。一枚の牛皮をそのまま使ったものの数倍の強度と防御力を持つ。

簡単に説明すると、膠を溶かした水に皮を浸し、芯まで膠水が浸通ると、堅木の板の上に置いて鉄の槌で打ち、薄く延ばす。これを数枚重ねて打てば、着いて一枚の板ができる。これに石灰をまぶして乾かせばたやすく矢も通すことのない堅牢無比の甲板ができあがる。
これを上記の大きさに裁断して小札を作るのである。

こうして作った煉皮の小札と鉄小札を横に交互に重ねて一続きの細長い板をつくり、これに黒漆で塗り固め、さらに堅牢なものとなる。

煉皮の小札だけで作られた鎧が如何に信頼されていたかを物語るものに、源氏の家宝の八領の鎧がある。

その内に膝丸という鎧があった。

これは、牛皮のうち、最も堅牢であると言われた膝の皮を牛千頭から取って作ったとされている。

源平合戦の頃、日本弓の威力は他の国の短弓の数倍の威力があった。その強弓を十分防ぐほどの防御力がこの煉皮の小札の鎧にあったということなのである。

これは後世の胴丸や腹巻、腹当にまで用いられ、革製の兜もあった。これを煉鉢の兜という。

源平合戦の時代から戦国動乱の時代まで、我が国の鎧は世界でも第一級の防御力を誇っていたのである。

 


 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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