女教師の賭け

 すでに、学校にも母親にも進学をせず就職する意思を伝えている。真美雄は母子家庭で私立高校に進学できる家庭環境ではなかった。彼は中学卒業後、定時制高校に通いながら独学で絵を勉強することに決めていたが、文部科学大臣賞が特待生としての条件として認められ付属高校に入学できた。これは意外な幸運であった。また、この幸運は真美雄に画家となる夢が実現できるかのような錯覚を起こさせた。
 真美雄の名づけ親は父親輝雄だが、ガンで亡くなった。このことは子供のころに母から聞かされた。だが、高校一年のときに母の妹のおばさんから事実を知らされた。このことは口止めされていたらしいが真美雄の懇願に負けて告白した。事実とは父輝雄は失踪したのだ。また、結婚した当時、父は学生だった。知りえたのはこれだけである。彼はもっと詳しいことを聞き出そうとしたが、それ以上のことはかたくなに拒否された。
 失踪の事実を知ってからは父親について勝手な空想をするようになった。特に絵を描き始めるとなぜか脳裏に見たこともない男の顔がぼんやり現れるようになった。そのとき、男の顔をじっと見つめるのだがしばらくすると消えていく。この男は父親の亡霊じゃないかと思っているが、決して不快ではない。できれば何か話しかけてくれないかと思っている。この男は若い。二十歳前後で学生のように見える。
 この男が現れると真美雄は時々話しかけることがある。「父さんか?」と声をかけると、男は何も答えず遠ざかっていく。男の顔は何度か点滅すると消える。最後に黄色い長い髪が渦を巻くように広がりながら消えていく。父が失踪した後の消息は定かでない。生きているのか死んでいるのかわからない。この男は死んだ男の亡霊なのかもしれない。父の亡霊なのか?
 薄汚い市営住宅に引っ越したのは15年前である。運が良かったのか日当たりのよい二階の204号室が空いていた。母親はこの部屋に入れたことがとても嬉しかったのかニコニコした笑顔を振りまいているのをぼんやりではあるが憶えている。確かにここは格段に家賃が安い。しかし、母親の性格からするともっと小奇麗なコーポを好んでいたのではないかと思われる。
 真美雄が幼少のころ、母、裕子はクラブで働いていた。服装は周りから見ると派手であったに違いない。台所ではいつも料理をしながらロックを聴いて楽しそうに踊っていた。裕子は真美雄の前で悲しい顔を一度も見せたことがない。そのためか、父親がいないことに寂しさを感じたことがない。
 女子高を卒業後、家を飛び出した。そして、東京でキャバ嬢となった。今の仕事は中学に入学したころからだ。世間体を考えて転職したのかもしれない。おそらく、おばさんが勧めたに違いない。この会社に入れたのはおばさんのご主人のコネだ。女子高卒業後長い間風俗の仕事をしていたが、教師であった両親の躾で茶道、華道をやっていたため礼儀正しかった。ピアノとクラッシクバレーは小学校のときまでやらされていた。
 裕子は中学に入ると一切の習い事をやめた。また、部活も帰宅部だった。長女と三女は両親の方針に従ったが、裕子は従わなかった。小学校の「将来の夢」と題した卒業作文に女優になりたいと夢を書いた。それを読んだ両親は馬鹿にしたように笑ったのだ。そのとき以来、親との間に溝ができた
 真美雄は母親の若いころのことはおばさんに聞いた程度のことしか知らない。裕子は自分のことを真美雄に話したがらない。過去を後ろめたいと思っているのではなく、話の流れで輝雄の話をせざるを得なくなることを恐れている。輝雄との恋愛は裕子にとって宝石よりも輝く宝だ。だが、真美雄に話す勇気はない。あのときの出来事を話すことは愛する輝雄を傷つけるようであり、真美雄までも同じ事になるのではないかと不吉な予感が突如襲ってくるのだ。
春日信彦
作家:春日信彦
女教師の賭け
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