女教師の賭け

 薄汚い市営住宅に引っ越したのは15年前である。運が良かったのか日当たりのよい二階の204号室が空いていた。母親はこの部屋に入れたことがとても嬉しかったのかニコニコした笑顔を振りまいているのをぼんやりではあるが憶えている。確かにここは格段に家賃が安い。しかし、母親の性格からするともっと小奇麗なコーポを好んでいたのではないかと思われる。
 真美雄が幼少のころ、母、裕子はクラブで働いていた。服装は周りから見ると派手であったに違いない。台所ではいつも料理をしながらロックを聴いて楽しそうに踊っていた。裕子は真美雄の前で悲しい顔を一度も見せたことがない。そのためか、父親がいないことに寂しさを感じたことがない。
 女子高を卒業後、家を飛び出した。そして、東京でキャバ嬢となった。今の仕事は中学に入学したころからだ。世間体を考えて転職したのかもしれない。おそらく、おばさんが勧めたに違いない。この会社に入れたのはおばさんのご主人のコネだ。女子高卒業後長い間風俗の仕事をしていたが、教師であった両親の躾で茶道、華道をやっていたため礼儀正しかった。ピアノとクラッシクバレーは小学校のときまでやらされていた。
 裕子は中学に入ると一切の習い事をやめた。また、部活も帰宅部だった。長女と三女は両親の方針に従ったが、裕子は従わなかった。小学校の「将来の夢」と題した卒業作文に女優になりたいと夢を書いた。それを読んだ両親は馬鹿にしたように笑ったのだ。そのとき以来、親との間に溝ができた
 真美雄は母親の若いころのことはおばさんに聞いた程度のことしか知らない。裕子は自分のことを真美雄に話したがらない。過去を後ろめたいと思っているのではなく、話の流れで輝雄の話をせざるを得なくなることを恐れている。輝雄との恋愛は裕子にとって宝石よりも輝く宝だ。だが、真美雄に話す勇気はない。あのときの出来事を話すことは愛する輝雄を傷つけるようであり、真美雄までも同じ事になるのではないかと不吉な予感が突如襲ってくるのだ。

                ~美の衝撃~
   

 

 

真美雄にとって学校生活は針のむしろとなっている。高一、高二と全国的な賞どころか福岡地区の賞にも該当しなかった。学校からは授業料泥棒のように見られている。ある教師からは学校を辞めろと暴言をはかれた。真美雄は何度退学しようかと思ったことだろう。退学を申し出るたびに思いとどまらせたのが絵美先生なのだ。絵筆を握れなくなった真美雄になぜか手を差し伸べる。
 卒業まで五ヶ月の辛抱と唇をかみ締める。時間が早く経つことだけしかもはや頭にない。市営住宅から通うような貧乏学生は真美雄だけだ。彼には学友はいない。また、真美雄から友達を作る気持ちはまったくない。周りの学生の贅沢な話を聞いているとムカつくだけだ。貧乏であることを隠す気持ちはないが、同情されると惨めになる。だから、夜、小遣いを稼ぐためにピザの宅配のバイトをやっている。

 最近の真美雄の行動を裕子は心配している。自暴自棄になり父輝雄の二の舞を踏むのではないかと恐れている。時々不思議な夢の話を裕子に話すようになった。黄色のロングヘアの男がたびたび夢に現れる。男は絵を両手に持って差し出すと思いっきり放り投げる。長い黄色の髪を首に巻き泣いている。何か叫びながら手招きする。絵の具をなめては笑っている。
 「母さん、昨日も見たよ、あの男」真美雄はテーブルで独り言を言う。裕子はどのように返事していいかわからず相槌を打つだけだ。真美雄の顔がますます輝雄に似てきた。あのときの輝雄の死に顔が突然裕子の目の前に現れた。裕子の全身から血の気が引いた。真美雄が黄色い髪の男がと言ったとき、気を失い裕子は倒れた。急患センターに運び込まれたときは夜中の一時を過ぎていた。 
春日信彦
作家:春日信彦
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