大学時代を思ってみれば…

4章 モラトリアムは終わって( 4 / 20 )

谷中の墓地と日暮里駅あたりは、

 

谷中の墓地にはいっぱい思い出があるのだが、どちらかと言うと、ちょっと暗い感じのものなのはどうしてなのだろうかと思う。

 

共に語れる身内がみんな没してしまって、共有できる者がいないからかもしれない。もう僕しか、その頃の谷中を生きていた者はこの世にいないからだ。

 

生まれは、谷中。でもそのちょっと前まで、家は道一本隔てた荒川区日暮里九丁目だったようだ。姉達は、第一日暮里小学校に通っていたという。東京で唯一、富士の見える富士見坂で有名になった今の西日暮里のほうだ。

 

山の手線の内側に、荒川区があるってことはあまり知られていない。最近、元気な商店街の代名詞みたいに言われている「谷中銀座」の、日暮里駅から階段を下りて右手は荒川区だ。

 

僕の生まれた時には、親父は谷中の墓地に隣接する所にアトリエを建てて住んでいた。結果として、谷中生まれ。

 

僕にとって、東京に最初に戻ってきて一人で住んだ谷中には現実味があるが、それ以前の話はみんな身内からの受け売りだ。3歳以前だったから、覚えていることなんてあるはずもない。

 

そんな中には、谷中の墓地で遊んでいるうちに迷子になって、上のほうの交番(今の五重塔跡の側)に連れて行かれたらすぐ分かったのに、電車の線路の下側の交番に連れて行かれたから、なかなか家に帰れなかったと言うエピソードも受け売りだ。「xxちゃんは、谷中の墓地で迷子になったんだよ」って、ずっと言われながら大きくなった。

 

日暮里駅に電車を見によく連れて行ってもらったことも、姉に話してもらったことだ。きっと、今の南口のある歩道橋が、その場所だったのではないかと思う。その道はもみじ坂と言って、登るとすぐ墓地になる。

 

先日、僕のうちのベランダに出ていたら、コトコトーン、コトコトーンと電車の音が丘の斜面を這い上がってきた。何故だか分からないけれど、ひどく懐かしさを感じた。きっと何十年も前のちっちゃい時に、この音を聞きながら過ごしたに違いないとふっと思った。それは、耳に慣れたやさしい音だったのだ。電車の音を間近に聞きながら住んだところは、谷中の他に思いつかない。僕の潜在意識のなかに、刷り込まれた音なのかも知れないとカミさんと話した。

 

確かに、焼ける前のアトリエがあったのは日暮里駅の斜め上のあたりだ。その家から電車の発着音とか、コロロコロコローンという走り去る電車の音が聞こえたに違いない。そこに立ってみると、日暮里駅の歩道橋の上からは田端にむかって、右から京成、常磐、東北、高崎と並び、最後に京浜東北と山手線が入組んで走っている。あとで新幹線が高崎線と山手線の間に割り込んできたから、日暮里はもう線路で満杯だ。

 

きっと祖母とか、母とか、姉とかに手を引かれて、ずっと電車が流れてくるのを飽きもしないで見つづけていた自分が見える。

 

谷中の墓地は桜の名所でもあるし、朝の散歩の道でもある。犬の散歩道でもある。また最近は、「谷・根・千」で有名になって、たくさんの人が歩く散策の町にもなった。みんな、セピア色の世界を夢見ているようだけれど、住んで見るとけして住み易い所ではない。丘の上はいいとしても、谷筋はちょっと…と思う。

 

谷中の墓地は平坦のようだが、線路側には開けたいくつかの斜面がある。そんな所まで入り込んでみると、静けさがある。朝露にぬれながら、東の空の太陽を仰ぎ見ることもできる。鳥の声がする。そしてそこにも、電車の音がする。

 

この谷中の墓地は、上野桜木町を通る「言問通り」(寛永寺陸橋までは名ばかりの細道だが)に向かう道でもある。この「言問通り」を通って、親父の亡がらを白山の寺まで運んだ朝を思い出す。そして翌日、告別式を終えて今度は同じ道を逆に走って、町屋の火葬場まで運んだことも思い出す。

 

親父の友達の絵描きさん達も、この谷中から、いやこの世からどんどん消えていってしまった。そんな意味では、谷中は懐かしいいけれど、僕にとっても過去の土地になりつつあるようだ。

4章 モラトリアムは終わって( 5 / 20 )

46 親父に教わった銀座

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4章 モラトリアムは終わって( 6 / 20 )

親父に教わった銀座

 

前に浅草を書いたときに、そういえば銀座もイッパイ親父におそわった事があると思った。

 

親父がまだ谷中に戻ってくる前も、戻ってきてからも、銀座には思い出がある。

 

縦の線で言えば、有楽町から築地までに、いろんな店や出来事が浮かんでくる。最初は、「煉瓦亭」の食い物かもしれない。いわゆる洋食屋さんで高級感はないものの、懐かしく食べたのを思い出す。おそらく本家のヨーロッパには同じ物は探せない。

 

今の日産のショールームの先に、銀座では珍しいそば屋があったが、いつの間にか消えている。「藪」といっていたと思うけれど、もうさだかではない。捜してみると分かるけど、東京ではそば屋がドンドン消えていっているというのが実感だ。そば自体が、若い人たちに魅力がないのかもしれないし、コスト・パフォーマンスの点でもちょっと高いのかもしれない。そば好きには悲しい現象だ。

 

さらに隅田川に向かって行くと、歌舞伎座のはすむかいの三原はしの角っこに、ビルの谷間に埋もれながら、昔からの木造の店と看板で商売を続け頑張っている店がある。この「大野屋」も、親父に教えてもらった日本手ぬぐいの店だ。藍染のブルーがきれいだった。歌舞伎座に近いので、頑張っていられるのかもしれない。

 

もっと行くと、築地郵便局裏の「江戸銀」になる。すしは大好きだが、値段がわからなくて金のない学生の身では入るのをためらっていた。そういう時の親父は頼もしかった。先日折があって、夕方早くに行ってみたら、昔と替わらない店構えで商売していた。しかし、古色蒼然とした姿には驚いた。後で聞くと、新館ができたといっていた。今日のお客を迎える名前を書いた歓迎の看板は変わらない。

 

場外の寿司屋も思い出しながら行ってみたが、満員だったり、無くなっていたりして、結果として一見の大きな明るい寿司屋に入った。カウンターが好きなので、空を待って滑り込んだ。しかし、隣がいけなかった。中年の女の人が2人で来ていて、話しながらだらだらと寿司を食っている。握ってもらった寿司は、そこに置きっぱなしで話に夢中だ。さらに悪いことに、タバコを二人とも吸っている。灰皿に置きっぱなしになっているタバコが燻っている。僕のすしの味も香りも台無しだ。草々に勘定して退散した。いけないなあ~と思った。

 

横の線にはイッパイある。一丁目から行くと「つばめグリル」、「中華第一楼」や文房具の「伊東屋」だったりする。「伊東屋」に入ると時間がドンドン過ぎて、約束の時間に遅れたりした思いでがある。ここにいると、飽きることがない。

 

親父に教えてもらって一番印象的だったのは、「菊水」だと思う。ここは、僕がパイプを始めるきっかけになった店で、親父がそこによく行っていたからだ。最初のパイプを買ったのはここだった。そこで何を買ったのかは覚えていない。その後,それが尾をひいて、結果としてヨーロッパに行った時もパイプに目が行って、ついいろいろと買ってしまった。

 

 ついこの前まで、僕の手元に10本くらいはあったけど、息子はパイプをやらないというので、友達のTにみんなまとめて送ってしまった。使ってくれる人の元にあるのがいい。

 

思い出してみると、アイルランドのピーターソン、フランスのブッショカンやシャコム、イタリアのザビネッリ、イギリスのダンヒルとか、スリービーなんかがあった。「菊水」では、愛用していたピーターソンのブライヤーにクラックを入れてしまって、銀巻きで補修してもらった覚えもある。

 

タバコは、いつも軽いアン・フォーラだった。デュポンとカルティエのライターもここでお世話になった。特にデュポンには手間がかかった。詰め替えガスが専用で、そこかしこでは売っていなかったのだから、銀座まででかけた。

 

一般にタバコが吸われなくなって、特にパイプはその香りが強くて世間で敬遠されている今では「菊水」は大変だと思うけど、がんばって残っていって欲しい店だ。

 

そして最後は、資生堂パーラーとその画廊が親父の教えた銀座のとっぱずれということになる。

 

いろんな意味で、親父には教わったことがイッパイあるのに今さら驚く。

4章 モラトリアムは終わって( 7 / 20 )

47 夏・後立山の縦走

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徳山てつんど
作家:徳山てつんど
大学時代を思ってみれば…
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