大学時代を思ってみれば…

3章 一人での時間の過ごし方…( 36 / 36 )

夏の過ぎ去った海

学生の頃、どこの海に行ったことが多いのだろうかと考えると、やはり

三浦半島ということになる。

 

もちろん江ノ島も、鎌倉も、千葉の海にも、伊豆の海にも行ったが、手軽さ、回数からいうと三浦半島になる。いつも京浜急行で出かけた。すか線には材木座行きくらいしか記憶が無い。海に行くには、広軌で揺れながら沿線の軒先すれすれにガンガン走る、赤と白の京急しかなかった。

 

そして、どうゆうわけか行き先は相模灘に面した西海岸ということになる。東側にも、三浦海岸とか海水浴場はあるのだが、東京湾の汚れたイメージが強くて、敬遠していたのかもしれない。その点では、西海岸は少しきれいだというイメージがあったのだろう。

 

逗子の浜には苦い思い出がある。流れ込む川のドロが浜を汚して、海底で足元がヌルッとする。気持ちが悪くて海に入れず、一日中岩場でねっころがっていたのを鮮明に覚えている。まだ、海岸と町が有料道路で分断される前の話だ。それ以来、川の流れ込む入り江の海水浴は避けることにしている。

 

京急逗子から、バスで森戸海岸とかにも出かけた。何度か行ったのだが、誰といったかはもう思い出せない。ただ、森戸と聞くと、焼きイカのにおいがふっと鼻を抜けていく。そんな記憶が実際にあるのだろう。

 

気に入っていたのは秋谷から、佐島・天神島、荒崎、長浜あたりになる。海水浴が目的で砂の上にねっころがって、体を焼くには長浜が一番だった。こじんまりして、江ノ島のような喧騒にはならない小さな浜だ。車のない頃は、ちょっとアクセスがよくない分、静かだった。ひなびた感じだった。

 

屹立する丘のある荒崎は、そのすばらしい縦縞模様で人をひきつける。何度も足を運んだ。ここでは、潮の満ち干で水溜りがそこかしこにできる。磯遊びにはもってこいだ。

 

小さいけれどこの丘はすばらしい。風の強い日などは、丘の上では立っていられないほどの風が相模湾から吹き付ける。熊笹の丘の上からは他に無い風景が広がる。相模湾独り占めという感じだ。遠く江ノ島、富士、伊豆半島も視界に入るすばらしい位置にある。特に夕暮れがいい。

 

大学の連中とも、荒崎からそれに続く洞窟群をたどって、海岸線に沿って歩いたものだ。小さな浜が途中にあって、簡単なものを食わせてくれる。飽きの来ない海の楽しさがある。

 

佐島の魚は新鮮。安く食わしてくれた。でもちょっとアクセスが悪くて損をしている。しかし、逆にそれがいいのかもしれない。変なものがむやみに建たない。

 

その点、秋谷などは完全に変わってしまって昔の面影は無い。地中海風のヴィラとか、レストランとか、マンションとかが統一もなくでき上がってしまった。

 

もっと南に下ると、シー・ボニアがある。本格的ヨット・ハーバーのはしりだ。友達の親父がグループで船を持っていて、呼ばれて一度遊びに行ったことがある。でも、船の遊びしか出来ない人工的な港だった。僕たちにふさわしい場所ではなかった。

 

もっともっと行くと、城ヶ島ということになる。ここも西の端の岬に立つと、夕日がすばらしい。嵐の時期にその岬に立ったことがある。嵐もいい。

 

東海岸で唯一、気持ちのいい場所がある。それは崎。浦賀水道に出入りする船を見ていると飽きない。そして人が少ない。

 

夏の終わりになると、きびしい太陽の下で平気で自然と遊んだ夏が思いをよぎる。

 

(この荒崎の絵は、横須賀・田浦で写真店を経営されている石渡さんが撮影されたもので、ご了解を得て借用したものです)

 

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/syasinn/145 maedagawa-.html

4章 モラトリアムは終わって( 1 / 20 )

44 浅草って言えば…

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4章 モラトリアムは終わって( 2 / 20 )

浅草って言えば…

 

浅草って言えば、どうしても亡くなった親父との思い出になってしまう。

親父は、太平洋戦争以前の一時期、谷中にアトリエを建てるまで浅草・三筋町に住んでいたと聞いた。親父にとっても、浅草は懐かしい町だったのだ。

 

親父には僕は中学卒業で放り出されて、あとは自分でやっていけって言われたことは前に書いた。そんなわけで、一時期、親父が許せなかったし、怒ってもいた。だから、付き合いはほとんどなかった。そんな関係が少し変わってきたのは、僕が大学に入って1~2年してからだ。

 

その後親父も東京に帰ってくるのだが、彼が東京に出かけて来たときには、一緒に飯を食ったり、酒を飲んだりできる心のゆとりみたいなものができてきた。

 

浅草の並木の味の濃いだしの蕎麦や、長浦の蕎麦を教えてくれたのも親父だった。今では、いつ行っても入れないヨシカミを教えてくれたのも親父。松喜を教えてくれたのも彼。やげん掘りも親父からの受け売りがもう40年も続いているってわけだ。

 

ある年の三社祭には一緒に出かけた。そこで教えてもらったのが、松風。昭和のはじめからやってる飲み屋さんで、最近はメジャーになってきたようだ。

 

最初の頃は、何だか店の人のほうが客より偉いような感じで、飲ませてもらっているという感じが学生の分際の自分にはあった。燗番の大柄のオヤッさんがよく通る声で、「菊正が行く~、台の3番さん」とか言っている声が今でも思い出される。

 

その後、オヤッさんの息子とおぼしき人達が、3代ほど代わる代わる燗番をしているが、皆良い声をしている。女衆はお勘定場にしかいないようだ。全くの男の世界だ。きびきびしていて、気持ちがいい。当初は、お客も女の人だけってのは、いなかったような気がする。なにか、店には言わずと知れた不文律があったのかもしれない。

 

もうせんは、隣の魚屋で刺身を作ってもらって持ち込んでいる人もいた。

店には、食べ物は本当に酒のつまみという物しかない。おでんとか、煮凝りだとか、御新香だとか、小鉢が主流だ。そしてこの店のユニークさは、お一人さま、3本までと酒の量が決まっていることだ。燗が一本運ばれると、小鉢の突き出しが一緒に来る。それで、何本呑んでるか、がわかる仕組みだ。いい店だ。店の張り紙もユニーク。となりの客へのお酌も禁じている。要は、自分で自分の量をのみなさいということだ。

 

この店には、もう40年近く通っていることになる。何時だったか、いちばん古いオヤッさんが燗台にいて、僕は一人で台で飲んでいた。見てると銚子に酒を汲む枡が、もう使い慣れて手の延長のように動く。よくみるとその人の指がとても長いのに気がついた。僕に指も長いほうだが、比べてみると第一関節分くらい長い。いい手をしてますねと声をかけたら、「イヤー」といったきりだ。声は昔と変わらない。

 

僕は、日本酒を飲むときは、グラスにチェイサーとしてお水を貰うことにしている。舌を、洗うために。どんなに辛口でも銚子を一本あけると、どうしても舌が甘さを感じてしまうからだ。

 

松風で、ひとつだけ僕にとって残念なのは、昔は菊正の樽があったのだが、もう何年来樽は真澄しかないことだ。とにかく、長く元気で続いて欲しい店の筆頭だ。

4章 モラトリアムは終わって( 3 / 20 )

45 谷中の墓地と日暮里駅あたりは、

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徳山てつんど
作家:徳山てつんど
大学時代を思ってみれば…
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