大学時代を思ってみれば…

2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 36 / 36 )

谷中三崎町の路地

Nさんと鍋屋横丁にいるとき、親父から電話が来た。大家さんちへの呼び出し電話だ。

 

親父の行動はとても突飛で、急にどこかに住みだしたり、住んでたところを放棄して後始末を僕にさせたり、困った癖があった。だから、チョット構えて電話に出た。「やっと、谷中にアトリエを借りたからな…」と親父。「エッ!」と思った。その頃、神戸の近くに親父はいた。チョット危険だなとも思った。親父は毎年、都美術館の展覧会に出かけていたから、早く東京に戻りたかったのだ。

 

早速行ってみた。日暮里を北口に出て、坂を登ってパンの日暮屋さんとか、佃煮の中野さんとか、谷中せんべい屋さんとかを過ぎていく。でも、谷中銀座への階段は下りずに、犬やさんのところを左のほうへだらだら坂を降りていくと質屋さんがある。ぶつかった道をドンドン左に行くと初音町。小公園のところから路地を入っていく。両手を広げて歩くと、両側の家に手が触れそうな道だ。戦争で焼けなかった木造の二階家がつながる道だ。ここが、谷中三崎町、「さんさき」と読む。

 

入って見ると、アトリエは結構広いが、二階の6畳の和室は廊下の端っこに、小さな流しの付いた変な部屋だった。もちろん親父はまだ住んではいなかった。人が住むのはチョット難しい、ガランとした空間があった。展覧会にでてきた時に、見て適当に決めたものらしい。アトリエとしてしは使えそうではあった。親父の気持ちとしては、昔住んでいた谷中の墓地の近くの、山の上が望みだったのだろうけれど、金も無く谷の路地を選ぶしかなかったのだろう。2、3分歩くと、もうそこは三崎坂だった。谷中小学校が左手に見え、右へ歩くとすぐ、団子坂下の都電通りだった。

 

谷中というと、最近「谷中、根津、千駄木」をまとめて「谷・根・千」というらしい。とんでもないまとめ方だと思っている。谷中は上野の山の続きで西斜面。根津は本郷の丘と上野の山との間の谷間。そして千駄木は本郷の丘の東斜面。古い町並みが残っているから、散歩用に適当にまとめたのではないかと思っている。確かに、太平洋戦争でも焼け残った木造の民家が残って入る。特に谷中の谷間と根津はそうだ。でも、「谷・根・千」と聞いたとき、「根」は「根岸」だと思った。根岸は谷中と切っても切り離せない同じ流れの中にあるからだ。JRの線路が分断したが、文化的にはつながっている。鶯谷、豆腐料理の「笹乃雪」、「羽二重団子」、そして「芋坂」、その先が谷中の墓地だ。名づけた人は、この辺のことをどう考えたのだろうか?

 

話が横道にそれてしまったが、谷中のアトリエは俺には関係ないやと思いながら、中野に戻っていた。

 

ある日、親父から電報が来た。

「ニモツオクル タノム」だった。今の言葉で言うと「ヤバイ」だった。しょうがないので、Nさんと一緒に出かけた。待っているとトラックの運転手さんが、飛び込んできた。「荷物運びをどうするんですか」っていう。華奢なNさんと、僕と運転手さんだけ。問題は、トラックは家の前までは路地だから入れない。一番近づいても、初音児童公園の柏湯あたりまでだ。後は、細い路地。リヤカーも今の台車もない。人力でりんご箱にして20~30個を運ぶ羽目になった。しかも、天気が悪くなって、小雨まで降り始めた。「やめてよ!」って、ぶつぶつ言いながら時間が過ぎていった。もうすっかり暮れてしまった頃、部屋の真ん中に荷物の小山が出来た。

 

これが物心ついた後、初めての生まれた土地「谷中」への回帰だった。

 

 

(絵は、アトリエです。パレットが壁に見えます)

3章 一人での時間の過ごし方…( 1 / 36 )

26 東京に天文台があるって、知ってますか?

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3章 一人での時間の過ごし方…( 2 / 36 )

東京に天文台があるって、知ってますか?

三鷹には、いい思い出がある。大学の教養で、自然科学関係ではA先生の人柄に惹かれて、天文学を取った。その頃、天文学を教養でやっている大学はあまりなかった。

 

高校では物理とか化学とか生物などをとったけれど、天文は初めてだった。まっさらな気分で講義に出た。夜の実習があったりして、夜暗くなって屋上に出たりした。A先生は、飄々とした感じの方で、きっと小さい時からずっと自分の世界に入り込んで、そのまま学問として「天文」をやっていらしたとしか思えない。

 

目の輝きは子供のそれと全く変わらない。大学という世界でも、いろいろ政治的なことや、権力闘争的なことなどがあったが、A先生は孤高を保っていらした。娘さんが学生として大学にいらしたように、うすぼんやりだが記憶している。

 

三鷹の東京天文台でのフィールド・ワークは、星を見るのだからやはり夜だった。授業に出るという感じではなくて、ぶらりと午後遊びに出かける感じだった。

 

数人と待ち合わせて、まずは時間つぶしに深大寺に行ってみることになった。その頃三鷹近辺では、深大寺が少しずつ有名になってきていた。京王線のつつじヶ丘からバスだった。神代植物園は出来たばかりで、植物園?てな感じでしかなかった。

 

深大寺は古くからの天台の寺で、武蔵野の欅の小さな林の中に小さな寺があって、こじんまりとした武蔵野の風景を残していた。「なんじゃもんじゃ」って名前の木があった記憶がある。深大寺蕎麦がいわゆる「名物」だった。何回か深大寺には行ったことがあるが、しかし僕の記憶では、その頃の深大寺まわりの蕎麦屋には、あまりいい思い出がない。何だか、値段が高いわりにはあまり美味いとはいえない蕎麦を出していたようだ。田舎蕎麦で売っていたのかもしれないが…。最近、行っていないので確かなことはいえない。

 

その頃の東京天文台は、ほとんど一般には公開されていなくて、何だか閉鎖的なサイトだったと記憶している。そんな訳だから、A先生に連れられてみてまわった構内や、望遠鏡たちはとても珍しい体験だった。僕たちのフィールド・ワークは、大赤道儀室の望遠鏡で夜空をのぞくという授業だった。先生の後輩らしき人たちが、僕たちを案内してくれて構内のいろんな施設を驚きながらみた記憶がある。

 

結構寒かったから、秋だったのだと思う。「月面」へ人間が降り立つなんてことを、まだ想像もしていない時期だったから、望遠鏡で見た「月面」はホントに美しかった。それこそ、一度は見てみたい土星を見たり、他の地球の惑星たちとか、遠くの恒星を見たりしたが、実は僕にとっては月が一番印象的だったのだ。それにしても、星を観測している間、参加したみんなが何だか、息を潜めて小声で話していたのを思い出す。なぜだったのだのだろう…。

 

三鷹の東京天文台は、いまは国立天文台として、最近は一般の人にも開放されていると聞いた。一度出かけてみるのも楽しいのではないだろうか。だって、遠い山の中まで出かけなくても、東京に本当の天文台があるんだから。

 

(写真は、国立天文台HPより転載しました)

3章 一人での時間の過ごし方…( 3 / 36 )

27 帰れなくなった二人

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徳山てつんど
作家:徳山てつんど
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