大学時代を思ってみれば…

1章 新宿界隈( 14 / 14 )

新宿の飲み屋さんたち

お茶を飲むのはもっぱら、Fugetsudoだったけれど、食べる時は飲むというのが普通だった。先日、あるサイトで松本竣介の新宿を見つけた。そこに、とても懐かしい風景を発見した。

 

中央通りを駅に向かって歩いていって、武蔵野館のところで左折し、甲州街道のガードに向かっていくと、ガードの手前に右に上っていく階段があった。その階段を上ると、新宿駅南口、甲州街道口に着く。今、「東南口」なんてわけの分からない名前が付いてるあたりだ。TAKASHIMAYAなんてものはそこになかった。そこは、国鉄の中央線方面への待機列車用の線路達が占有していた。

 

この南口に上る階段の手前、右側に小さな屋根ののっかった煉瓦造りの公衆トイレがあった。このトイレと甲州街道のガードを松本竣介は描いていた。僕たちの時代よりもっと前からあったらしい。

 

トイレの右側から階段を上ると、小さな広場と、ちっちゃな飲み屋の集落があった。なんて名前の町だったか、もう忘れてしまっているが、ちゃんと名前があった。女性達もいて、僕たちビンボウ学生には、とても似つかわしい、やさしい感じの、でもチョット哀れな感じの店たちだった。トイレも店には無くて、共同トイレだった。寒い冬は、いっぺんに酔いがさめた。

 

お世話になったのは、なんといっても西口の焼きとり街だった。今も時々、お世話になっているから、もう40年も経つわけだ。「ニ幸」のまえから、天井の低いガードをくぐって西口に出る。すぐ、左に曲がると、おねーさん方が、袖をつかんで離さない細い路地で、すぐ平屋の新宿駅西口の前に出た。駅の前には、スバルビルが目に飛び込んでくるぐらいで、何もなかった。

 

僕の行きつけは、今「思いで横丁」といってる狭い路地を中ほどまで進むと、良い匂いと大きな声で「いらっしゃい」とむかえてくれる「宝来」だ。狭い店で、下がカウンターで10人も入るといっぱいだ。2~3人で飲むにはもってこいだった。

 

僕の定番は、タン、ハツ、カシラ、塩で2~3本ずつ。お新香とちっちゃな煮込み。それに、ビールだった。でもその頃、ビールはときどきだった。なにしろ高級品だったから、僕たちには。日本酒が多くなったけど、最後にはレモン・ハイが口を洗ってくれるから、おきまりになった。もちろん、味はピカイチ。時には、レバーをたれで頼む。もう、それで大満足。

 

客足が途絶えないから、時には空くまで店の外で待つこともあった。近くに同じような店があるのだから、そこに行けばいいところを、がんばって待つ。特別、愛想がいいわけではないが、やっぱり他にはいけない。馴れと安心感だ。一通りのコースが終わりごろになると、店の前のほかの客の待ち具合を見る。

 

大学に入ってから、大人数になると中央線に面した横丁の、大きいほうの宝来屋さんに出かけることが多くなった。ここで、若い助教授を囲んで、金があればほんとによく飲んだものだ。安くて、うまければそれで通いつめることになる。遅くなってもまだ話し足りないと、若い奥さんの迷惑も考えず、何人かで、新宿西武線の最終電車で「井荻」の先生の家までなだれ込んだものだ。そんなことが、何度もあった。でも、ぼくたちは、M先生がだいすきだった。この時期が、一番多く宝来家さんに、かよった頃かもしれない。

 

就職した会社が、東京から小田急線の沿線に移ってからも、通ったものだ。でも、ひとりだと、ちょっぴりさびしい。話し相手の無い焼き鳥屋さんでは、人の話を聞くでもなく聞く羽目になる。やっぱ、愚痴ってるのが聞こえてくる。そんなときには、早めに「おかんじょ!」て、声をかけて、店を出ることになる。

 

新聞に、この街に火事があったと書かれた時は、あわてて場所を確かめたものだ。大ガードの近くから出た火が、何軒も焼いたときは、もうこの街はだめかなとがっかりした。東京消防庁が、今までの規格で再建を許すわけがないと…。でも、消防庁にも訳のわかるやつがいたらしい。元どおりに再建された。

 

今度、子供達でもつれて行ってみるかな、久しぶりに…。

 

(この写真は、宝来家さんから了解を得て貼り付けたものです)

2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 1 / 36 )

8 早稲田から、鍋屋横丁へ

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2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 2 / 36 )

早稲田から、鍋屋横丁へ

僕が、一人で東京に戻ると言ったとき、 親父は「まさかの時にはこいつらに会え」と、3人の名前を教えてくれた。

 

一人は、東横線の日吉。一人は埼玉県の川口市だったけれど、草加に近いところだった。そしてもう一人が、中野に住んでいた。

 

早稲田・面影橋のTの下宿、3帖はやはり二人が住めるようなものではなかった。1ヶ月ぐらいは居候をしていたと思う。下宿屋のおばさんにもだんだん睨まれるようになった。でも、自分で家賃をはらって部屋を借りる余裕は、まだ無かった。日吉も、川口も転がり込めるような状況にはなかった。親切にはしてもらったけれど。

 

最後に、相談を持ちかけたのは、中野に住んでいた女性で、2つ年上だったNさん。簡単に、「同居してる人がOKって言ったら、うちにくれば」といってくれた。

 

「新中野」という、面白みのない名前の駅を降りて「鍋屋横丁」を中野に向かって下っていく。神田川の支流、桃園川の三味線橋のたもと、7.5畳のアパートで、女二人と男一人の3人での奇妙な生活がはじまった。神田川にそって、その上流に引っ越したわけだ。

 

台所は共同。トイレも共同。洗面所も共同。風呂は近くの銭湯だった。Nさんは、きれいな人で素敵だった。僕とのウマも合った。でも、男と女の関係には成れなかった。だれも信じないが、本当だった。そうでも無ければ、女二人と男一人が同じ部屋で住めるわけがない、1年近くも。

 

Nさんには、会う少し以前に深刻な性的トラウマにあっていた。

ひとり上京して、大学に入ったとき、後見人になるべき人から性的暴力受けたようだ。そして、その影響は長く続いていた。それいらい、この精神的原因で男と女の関係には入れなくなってしまっていた。才能もあり、美しくもあり、チャーミングだったのだけれど。正直いうと、何度かは試してみたのだけれど、でも駄目だった。しかし、それ以外ではすべてうまく行った。幸福な時間だったといえるかもしれない。

 

同じ部屋にいた、Kさんも才能があったが、僕とはチョット距離があった。それで、一緒に住めたのだろう。一番入り口に近いところに僕が寝て、まんなかにNさん、そしてKさんと3本川で寝たものだ。シュラフを買わされたのを覚えている。

 

そういえば、Nさんと最初に待ち合わせたのが、やっぱりFugetsudoだった。そして、通りの反対側にあった地下の店で二人とも、その晩、そのまま酔っぱらっていた。ウマが合った。異性にはいい友達はできないというけれど、それは間違いだと思う。

 

このNさんとの出会いは、その後、僕の生き方に大きく影響していった。

2章 奇妙な同棲生活、そして別れ( 3 / 36 )

9 海の外に僕の目が向いたわけ

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徳山てつんど
作家:徳山てつんど
大学時代を思ってみれば…
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