遺伝子分布論 22K

「転」( 9 / 11 )

マルーシャの憂鬱

  彼女が憂鬱となる原因は何であろうか。
 
 マルーシャ・マフノは、比較的裕福な家庭に
 生まれた。この際、比較的、という言葉は
 あまりふさわしくないかもしれない。
 
 不動産や有価証券などの資産を多く抱えながら、
 マルーシャの父は会社も経営していた。
 月のラグランジュ点第3エリアにおける、
 最も規模の大きい軍事企業である。
 
 マルーシャの父、ステパーン・マフノは、
 普通の人間である。この場合の普通というのは、
 会社の業績に対してそれほど熱心でもなかった
 し、兵器が好きでもなかったし、お金に
 執心しているわけでもないという意味だ。
 
 しかし、それが却って経営にプラスになって
 いるのか、業績自体は非常によい。元々、
 第3エリア自体に兵器に詳しい人間も
 多く集まっていること、
 
 業績にうるさくないことが、のんびりした
 落ち着いた社風を作り、それが多様な人材を
 集める結果となっていること。
 
 民間人視点が入ることで、多種の兵器が
 考案されつつも、うまく取捨選択がなされ、
 それが実際の市場で、主に戦場であるが、
 成功を収めていた。
 
 マルーシャは、そういったことを、小さいころ
 から理解し、学んでいた。父も、とくに隠す
 ところなく、事実と現実を学ばせた。
 
 それと同時に、小さいころから、やりたい
 習い事はなんでもやらせた。それは、父
 自身が小さいころからやってきたことでも
 あった。
 
 それもあって、バンドで音楽活動をやる、
 という話になったときも、特に反対はされ
 なかった。
 
 父ステパーン・マフノが経営するマフノ重工は、
 その名の通り、世襲制でマフノ家が常に経営
 を握っている。
 
 そして、マフノ家には、代々受け継がれている
 記録がある。マフノ家の歴史、と言っても
 よいだろうか。
 
 その歴史を初めて読んだとき、マルーシャは
 マフノ家に生まれたことを後悔したものだ。
 それから父とそのことについて話したり、
 父の家業に対する姿勢を知るうちに、その
 後悔は次第に薄れていった。
 
 その歴史とは、如何に世の中に、戦争を
 増やしていくか、その手法と実践の記録だった。
 それは、歴史書などでその実態を明らかに
 されたものもあれば、そうでないものもある。
 
 民衆をいかに操作して戦争に向かわせるかの
 記録だった。
 

「転」( 10 / 11 )

マルーシャの憂鬱2

  マルーシャは、憂鬱になるほど、何か他の
 ことに打ち込んだ。
 
 最初はピアノだった、友達と一緒にやるゲーム、
 バンドの音楽活動、そしてその延長のジムでの
 トレーニング。
 
 とくに、限界まで体を追い込んで、呼吸が気を
 失いそうなレベルまで達したあと、すべてが
 すっきりする感触がした。
 
 父は家で経営を見ることも多かった。かなり
 小さなうちから、父のリモート会議に参加して
 いた。参加というよりは、その場にいた、と
 いったほうがいいかもしれないが。
 
 しかし、そうやって経営の空気を学んでいく。
 
 特につらかったのが、軍事企業が集まって行わ
 れる会合だった。
 
 産業団体連合会と呼ばれるその会合で、マフノ家
 は何代か前から会長を務めている。太陽系内の
 すべての軍事企業はもちろん、一般企業の軍事
 部門からも人が集まる。
 
 というと膨大な人数になるため、下位団体が地域
 ごとに組織されていて、そこから代表が来るので
 ある。それでも数千人規模になるのだが。
 
 会合では、父はとても冷たい人間になる。その
 理由も徐々にわかってきた。ああいう場でトップ
 を保ち続けるためには、まずトップであるとの
 イメージをまわりに植え付けなければならない。
 
 マルーシャの思い込みなのかもしれないが、
 とても特殊な人間が集まるのである。会合で
 会っていろいろと話し込むうちに、様々な特殊な
 趣味が顔をのぞかせるのである。
 
 そういうのに立ち向かうためには、非情の人間に
 なりきるしかない。父は、それ用の化粧までして、
 髪型を決めて、会合に臨む。そして、夕食では、
 血の滴るほとんど焼けていないステーキを、
 旨そうに食す。
 
 そんな父を見ているうちに、マルーシャのほうも
 少し楽しくなってきた。ハロウィンパーティに
 参加していると思えば良いのである。
 
 マルーシャも、冷酷そうに見える化粧をして、
 ドレスを着て、血の滴るステーキを食べる演技を
 見て、思わず吹き出してしまうのであるが、これ
 が周りから見ると、血も凍る景色となる。いつ
 しか氷の美少女とまで呼ばれるようになった。
 
 今では、母とも相談しながら、様々な演出を
 考える。特に、会合が第3エリアの都市マヌカ
 で開催されるときは、地元ということもあって、
 シェフやその他スタッフも巻き込める。
 

「転」( 11 / 11 )

マルーシャの憂鬱3

  マルーシャの父、ステパーン・マフノは、
 自身の会社の仕事中も冷たくはあるが、
 それは態度だけである。
 
 社内も社長以下はみなのびのびやっている。
 
 家の中では、ふつうの人だ。ペットと
 のんびりしたり、プロの球技の試合を
 眺めたり。休みの日はよく釣りにいく。
 会社以外の人間関係がある。
 
 父は言う。
 自分は今の立場に合っていない。ただ、
 非人間的な者が、技術や権力を握ったときの
 ことを考えると、自分がやっていたほうが
 よいのでは、と。
 
 産業団体連合会の会合でも、基本は外に
 対する印象を大事にするように決定していく。
 一見冷たいような決定も、最終的によい
 方向へいくようにする。
 
 それを、冷たい人間というイメージをたもち
 つつ行う。なので時には犠牲も伴う。
 
 そういった立場を、悪意の人間が手に入れれば、
 おそらく様々なことが可能だ。それは、過去の
 悲しい歴史たちが証明している。
 
 そんなこともあって、マルーシャは、自分
 もふつうの人間の感覚をしっかり身につけた
 うえで、そのような立場を継いだほうが
 よいかもしれない、そう思うようになってきた。
 
 もう少し時が経てば、彼女のまわりの同年代たち
 とも、彼女の境遇について相談できるように
 なるはずだ。
 
 実際、同年代ではないが、コンサルタントの
 ナミカ・キムラとはかなりのことが話せるように
 なっていた。父も経営の相談をしている。
 
 父は言う。
 軍事企業は、本来は営利企業として経営しては
 いけないのかもしれないと。もう少し人類が
 賢くなって、仕組み自体を見直せればいい、と。
 
 第3エリアの軍事企業に関しては、情報開示は
 かなり綿密に行われている。父もそれに対して
 積極的だ。
 
 それが為されなかった場合、歴史が示すように、
 企業の利益のかなりの部分が、戦争を誘導
 するための工作に使われる。
 
 そのやり方は、まずターゲットとなる国の
 メディアを押えるのだ。公共放送がある
 ことが望ましい。
 
 おそろしい話だ、とマルーシャは思う。
 しかし、友がいる限り、自分は間違った道を
 選ぶことはないとも思う。
 
 おそらく今後、遠くない将来に、結婚相手を
 見つけ、経営にも深く関わっていくだろうが、
 今のメンバーで活動も続けていきたい、
 そう思うマルーシャだった。
 

「決」( 1 / 28 )

ピエールの話

  ピエール・ネスポリは、身長もそれほど低いと
 いうわけではなく、どちらかというとハンサムの
 部類に入るだろうか。
 
 しかし、どことなくニセモノ感が漂う、宇宙世紀
 前の言い方をするなら、売れないホストを思わ
 せる外見、という言葉がぴったりかもしれない。
 
 しかし彼は、意識が高かった。今日も、仕事を
 休んで、外交に関するシンポジウムに参加して
 いる。そして、これから発表を行う予定だった。
 
 タイトルは、知的生命体外交。
 
 その発表の様子を見ていく前に、彼の仕事に
 ついて少し触れておこう。時は宇宙世紀
 22012年、25歳になった彼は、コンサル
 タント事務所に勤務していた。
 
 大学もフルコースで出ており、生物学を専攻して
 いたが、月のラグランジュ点第3エリアの
 マイナーな大学だった。
 
 しかも配属された研究室が人気がなく、教授が
 退官直前ということもあって、生徒はピエール
 一人だった。その教授も、最近亡くなったと
 風の噂に聞いている。
 
 それでは彼の発表を見ていこう。
 
 その日は、シンポジウムの最終日ということも
 あってか、会場全体も雑談が飛び交い、出席者も
 リラックスした雰囲気であった。
 
 ピエールは、他の意識が高い同年代の仲間にこの
 様子を見せようと、自分の発表の動画撮影の
 許可も取っている。
 
 意気揚々と入ってくるピエール。しかし、会場内
 に何かを見つけ一気に挙動不審になる。
 
 彼は、コンサルタント事務所の所長の姿を
 会場内に見つけた。少し発表の場所から遠いが、
 あれはキムラ所長だ。なぜこんなところに
 いるのか?
 
 ピエールは、事務所に採用される際、直接の上司
 セルジオ・イグチとしか面接していない。
 キムラ所長もあまり事務所に姿を見せないので、
 2回ほど元気に挨拶したのみだ。
 
 今日の件はセルジオには説明しているつもりだが、
 キムラ所長にはそれが届いているのだろうか。
 仕事を休んでこういう場に出席していることに、
 どういった印象を持たれてしまうのか。
 良い印象を持たれればいいのだが。
 
 おふっ、こっちをめっちゃ睨んでるぞ、でも
 この様子を今まさに配信してるんだ、
 ひるんだ様子を見せてはいけない・・・。
 
 一方こちらは、もちろんナミカ・キムラである。
 タイトルが気になったので、この発表にだけ
 参加していた。
 
Josui
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