名残惜しそうに降り続ける雪が止み掛けていた。積もり積もった雪の上には一人の足跡。
これでは、かくれんぼにならない。
逃げる者も、追う者も、足跡を消すことが出来ない。
だから、降り止まないで……歩んだ道を残したくないから。
◇◇◇
教室を飛び出した鈴音は、学び舎から寮館への渡り廊下の曲がり角で横倒れになって気を失っていた。
「――ってぇ……いきなりなんだあ?」
爆走していた鈴音と衝突したのは准貴だ。彼もまた少し離れたところで尻餅をついている。
頭に手を当てているが負傷したわけではないようだ。視界が定まらず何が起こったのか把握できていない様子であった。
「…………マジかよ!」
視線の先で倒れている人を見て、准貴は驚いて駆け寄った。
「おい、大丈夫かッ おい――…………」
顔を見てさらに驚く。
「鈴音!? なにやってんだよお前ッ!」
鈴音の体を抱き起こすと、頬をペシペシと叩いた。
「しっかりしろ、鈴音、鈴音ッ」
「…うう…」
鈴音が小さいうめき声を上げ、薄っすらと目を開ける。目に映ったのは燃えるような赤い髪の男だった。
「ヒッ!! 何よあんたっ!?」
拒絶に似た悲鳴をあげた鈴音に、准貴は思わずムッとした。
「なによはこっちの台詞だッ いきなりぶつかってきて何なんだ。つうか、頭大丈夫か?」
「あ、頭?」
「そうだよ。お前ぶっ飛んでさ。少しの間だったけど気絶してたんだよ」
そう言えば後頭部がズキズキする。鈴音は状況の把握ができず、しばらく呆けていた。
「何かあったのか?」
鈴音が准貴を見た。背中には准貴の手が添えられている。
「ん? なんだ?」
赤い瞳に鈴音の顔が映る。視界がぼやけて准貴の顔が歪んで見えた。
項垂れると締りの悪い蛇口のように、涙が次から次へと零れ落ちる。
「なんだよ、何で泣くんだ?」
准貴があたふたとして訊くも、鈴音は声を押し殺して泣くばかりだった。
「――――舜のことでまたなんかあったのか?」
鈴音がはっと顔を上げた。赤い目は、真剣な眼差しで鈴音を見ていた。
「お前の口でも勝てねーなら、俺が一発かましてやろうか?」
にかっと子供みたいな笑顔で准貴が続けた。
「やっぱ示しは必要だと思うんだよ。舜みたいに孤立すると周囲を何とも思わなくなるし、誰だって最初から仲間じゃねーんだからさ。やっぱ言わなきゃわかんねーだろ?」
それは鈴音に向けての言葉にも聞こえた。鈴音の涙は止まっていた。
「ほれ。立てるか?」
准貴が鈴音を立たせると、肘から血が出ていることに気付いた。
「……悪ぃな、俺スノウ使えないからさ」
「いい…自分で治すから…」
消えそうな声で鈴音が答えた。准貴が鈴音の頭を撫でる。
「お。やっぱりタンコブできてるな。ちゃんと冷やしとけよって、医療班だったんだからわかるか。ははは……は、はは」
その場から動きそうにない鈴音。准貴はかなり困った状況に陥った。
「…………り、葎を呼ぶか?」
一番無難な名前を挙げたのは、その方がきっと相談しやすいと思ったのだ。だが、鈴音は首を横に振る。准貴はどう接したらいいのか全くわからず途方に暮れた。
普段勝気な鈴音の性格からして下手に口を開くと怒りを買うかもしれないし、かと言ってこのまま放っておくのは正直気が引ける。葎なら上手く話を聞けるのかもしれないが、准貴は完璧な肉体労働派だ。気の利いた台詞も言えないし、慰める自信もなかった。
准貴があれこれ考えていると、鈴音が漸う口を開く。
「あんた授業は?」
「あ? ああ…麻美弥を医務室に連れて行くのにちょっと手間取ってな。今から休憩なんだよ」
「残りの生徒には――…」
なんて説明したの? とは最後まで言えなかった。教員として日の浅い准貴の方が、生徒との関係を上手く作れているように感じたからかもしれない。そんな鈴音の心中を察することなく、准貴はあっけらかんとしていた。
「もちろん話したよ。そしたら恭慶と櫂が麻美弥にしがみついて離れなくってさ。いつ戻ってこれるかわからないなら、一緒に隔離してくれって言い出すし、ほんとまいったよ」
「へぇ…あの二人がね」
「そうなんだよ。まったく人ってわかんねーよな」
意外な話だった。櫂と恭啓はどちらかというと仲間どうこうとつるむのを嫌がるタイプに思っていたからだ。
鈴音が、上目視線で准貴を見た。
「その後どうしたの?」
「ん? まあ………その、ガツンと当て身を少々だな」
「……」
二人の生徒が気絶しているうちに、麻美弥を連れ出したと言うのだ。なんて強引なやり方だろうか。
「鈴音の方は上手くいったのか?」
「……私もあんたと同じよ。結界に閉じ込めて引き離した……」
それが正しいのかは誰にも分からないが。
「でも、口で言ってもわかんねーもんはしかたねーからな。だからって別に暴力ってことじゃねーぞ、俺は」
「分かってるわよ」
准貴の発言は堂々としたものだった。立ち直りが早いのか、今朝落ち込んでいたとは思えないほど、准貴が凛々しく見えた。
昼食時間を大幅にずれているためか、人の行き来がなく館内は静まり返っていた。渡り廊下の窓から見える中庭には、均等に植えられた草花が風に吹かれ香っている。准貴がぎこちなく鈴音の様子を窺っていた。
今朝自分に叱咤を入れた鈴音とは別人のようだと、准貴は思った。
(しかし、まいったな……)
担当教員である鈴音の訴えなしに自分がしゃしゃり出ることはできない。だが、今朝の葎の忠告も効かないとなるとやはり力で抑える方法をとるしか策はないのではないだろうか。
(……いや。でもなぁ――鈴音にもプライドがある、よなぁ…でもやっぱり)
准貴は慣れない頭を使って懸命に考えを巡らせていた。
「あのさ。泣くほど辛いならやっぱ誰かに言った方がいいぞ。俺でも話くらいは聞けるし………そうだ。今から一緒に飯食いに行こう。な? 話聞いてやっからさ」
「昼食は済ませたわ」
「――」
あっけなく話は終了し、中途半端に重い空気が漂った。
「…………………………っだぁあ~~~~っ! それでもいいじゃんかッ」
いきなり発狂した准貴に、鈴音がぎょっとした顔で見る。
「いいから行こうぜ! どうせ舜と顔合わせずらいんだろ? いいじゃん別に今日ぐらいサボっても。葎に何か言われたら俺が庇ってやっから。なっ!」
がっしりと掴まれた両肩に、准貴の優しさを感じる鈴音。だが、鈴音は疑うような眼差しを向けながら呟く。
「……イチゴパフェおごってくれる?」
准貴が目を瞬くと、破顔一笑。鈴音の頭を撫でて、「いいぜ」と言った。
意識の裏側で映し出された光景は、白い雪に落ちた赤い染み。
雪の冷たさと息の白さ。背中に立つ黒い影に金色の糸。
射し照らすのは温かい灯ではなく寒々とした月の雫だった。
『……ちゃん…………ごめんね……ごめんね』
少女の声が震えていた。
「――」
意識を取り戻した舜は、体内から異形のものが消えていることに愕然とした。しかも記憶がぽっかり抜けている。
(――どういう……ことだ?)
僅かに鈴音の気が室内に残っている。
もしかして、異形のものと相対したのだろうか。そんな不安を感じ蹌踉と教室から出る。
(まさか『ヤツ』にやられたんじゃ…)
体に掛かる倦怠感から思うように動けず、舜は教室の入り口で扉にしがみついた。
座り込むように膝が屈折した時、誰かに腕を掴まれ驚いたが、悲鳴を上げ前に腰が落ちた。
だんまりする舜に葎は心配そうに訊ねた。
「どうしたんだ?」
不審に思った葎が室内をざっと見渡す。僅かだが、鈴音の発動残響を感じ胸騒ぎを覚えた。
時として体罰も必要だとは言ったが、鈴音がここまでするとは到底考えられない。歩く力も残っていない舜の様子からして明らかに奇怪しかった。
「担当教員はどこへ行った?」
舜は答えなかった。何て言えばいいのか頭に浮かばないし、ここは黙っているのが得策だと思ったのだ。
「舜。喋ることはできるだろ。私の質問に答えなさい」
「………」
舜は頑固として口を開かなかった。葎は舜を通路の壁に寄りかからせると教室へと足を踏み入れる。葎は鈴音の残響へと意識を集中させた。
(――鈴音にしては珍しいな。雷を使ったのか…)
生徒相手に使う代物じゃない。通路でへたり込んだ舜を見やる。
(何か入り込んだか………?)
舜の体力の消耗は異常なものだった。このままでは立つことも困難だろう。
「舜」
見上げる舜の額に葎が手を当てた。思わず肩をすくめた舜に葎は温情の言葉をかける。
「動けるだけの気を送るだけだ。そのままじゃ部屋にも戻れないだろ」
舜は素直に応じた。
「―――」
額から流れ込む葎の気は温かく心地よいものだった。舜は瞼を閉じて身を任せる。葎がふいに眉をひそめる。舜から微小だが何か感じ取ったのだ。嫌悪感が葎の胸中で渦巻いた。
「………これでいいだろ。立ってみなさい」
葎が促すがまま舜は立ち上がった。体が嘘みたいに軽い。
「ずいぶんと無茶なことをしたな…」
舜は咄嗟の返答に窮した。
「え?」
体の震いが止まらない。葎はそのまま続けた。
「雑魚ならとうに食われてお陀仏だ。どちらから誘ったかは聞かんが次の命はないぞ」
「――」
「いいか、舜。これは命令じゃない。決めるのはお前自身だ」
葎は耳から舜を蔑んだ。
「お前が何をしたいのかくらい予想はつく。だけど言っとくぞ。お前がここへ来ることになったのは鈴音のせいじゃないんだ。偶然なんだよ」
舜は驚きを隠せずすぐ顔を上げた。恐れを含んだ目を葎に向ける。葎の視線は厳酷なほど冷淡なものだ。舜はただならぬ恐怖に震撼した。
「…………お前を襲った暴走者より、私の方が恐ろしいか?」
舜は再び床に座り込んでしまった。
葎は舜と同視線に体を落としすと、厳かに告げる。
「復讐なんて馬鹿な真似をするなら、鈴音と対等の力をつけてからにするんだな。間違っても異形の力を借りてするもんじゃない」
「――」
「『ヤツ』から何か得られたか? 特別な力を与えてくれたか? よく考えてみることだ。つらいのはお前だけじゃない。苦しいのはお前だけじゃないんだ。自分だけなんて甘ったれた考え方はお前を縛り身動きを取れなくするだけだぞ」
葎が去った後も、舜の体の震えはしばらく続いた。
朝の集会の時とは比べ物にならない。あの威圧感。格の違いは歴然だった。
葎は『ヤツ』のことを知っているのだ。
舜の中で、葎に対して嫉妬に似た感情が生まれていた。
今日という一日の終わりを告げる鐘が学び舎に鳴り響いた。
場所は第六教室。芳凛と華艶の担当教室だ。 鐘の音が聞こえないのだろうか、扉が開く気配はなく、教室内では華艶が結界を解除したところだった。
「どけ」
床に横たわる明士へと駆け寄ろうとした流真と彩を押し退けて、芳凛が行く。
生徒たちの表情は岩のように硬い。本日三回目の結界破壊に疲れ果てた麻雛は、壁に寄り掛かり虚ろな眼差しを明士に向けていた。
明士の元に近寄る華艶と雛叉。芳凛が明士の胸に片耳を当てると、流真と彩はどちらからともなく手を強く握り締めた。
「か、華艶先生…」
雛叉の呼びかけに華艶は無反応だった。雛叉は明士の体を見渡す。明士の体には数えるほどしか外傷は見当たらない。最悪の事態を想定して、雛叉がまごついた。
「き…気絶してる、だけ…ですよね…?」
息を凝らす生徒たちを前に、華艶が頚動脈に指を滑らせ首を小さく横に振った。
「やだよ、明士…!」
近づこうとする彩を流真は胸に抱き止めた。流真も唇を一文字に結び堪えている。
「蘇生を開始する」
間髪入れず、芳凛は明士の唇に自分のそれを重ねた。
華艶が心臓マッサージを施す。ここで息を吹き返さなければ、明士の物語は終わりだ。修業期間といえ、選ばれし者である彼らに命の保障などない。
雛叉は胸の前で手を組み、祈った。
(…お願い…! 目を開けてっ)
芳凛の唇が離れると、明士が苦しげに血泡を咳き上げた。
「……ゲホゲホッ――…せ……せんせい?」
開眼一番に飛び込んできた黒い瞳はいつも微笑んで明士を迎えてくれる。また死に損なってしまったと思ったことは明士だけの秘密だ。
乱れる呼吸に合わせて華艶が、明士の腹部に手を押し当てる。苦痛に顔を歪める明士であったが、芳凛が頭部を胸に抱えた。柔らかい胸に顔を埋め、明士が大きく咳をする。大量の血が芳凛の衣服を赤く染めた。
息を止めて見守るチームメイトたち。華艶の治癒を終えると、芳凛が明士を抱く手を緩める。
明士は汚れた口元を手で拭うと、掠れた声で言った。
「……も……う……平気…です」
「ほ、本当に…?」
雛叉がおそるおそる明士の顔を覗き込む。充血した雛叉の目を見て、明士が微笑んだ。
「やぁ…雛叉………君は大丈夫…?」
「…大丈夫ってあなた…」
こんな状態でよく他人を気遣う言葉が出せるものだ。雛叉は驚きを通り越して感心した。
(流真は『移し身』を行うほどの傷を負い、明士は内臓破裂。二人とも死の一歩手前だというのにあの子は――)
雛叉が、流真にしがみ付いている彩を一瞥する。雛叉の脳裏に暴走した彩の姿が思い出されたが、華艶の声に我に返った。
「ここに手を当てて、雛叉」
華艶が自分が当てている手の位置を示していた。雛叉が恐々明士の溝内に手を当てる。
「血が溜まっていないか探って。溜まっていたら吐き出させて」
「はい」
雛叉は服の上から手を当てる。華艶が治癒したとはいえ、明士に痛みを感じさせたくないのだろう。押し当てるのではなく撫でるように気を送る。意識を集中させ体内の澱みを探った。
「……ないようです」
華艶が確認のために明士の腹部に手をかざした。雛叉とは違い、触れずに悟る手法だ。雛叉はごくりと喉を鳴らした。
(こんなに小さいのに、本当に門番なんだ…)
「…うん。大丈夫だね」
雛叉がほっと息をつく。
「ありがとうございます!」
芳凛が動けるだけの気を送り込むと、青白かった明士の頬に赤みがさしてきた。
「ぽっくり逝ったかと思ったぜ。ひやひやさせるなよ」
流真が彩の手を引き明士の元へ歩む。
「はは…簡単には死なないようにできてるみたいだ」
明士はゆっくりと体を起こすと、流真の隣でぷるぷると唇を震わせ泣くのを堪えている彩に声を掛けた。
「ごめんね、彩。もう平気だから」
「………ほ、本当に死んじゃったかと思ったよ~良かったよ~明士ぃ~い」
おいおいと泣きだした彩の頭を、明士が優しく撫でる。
そんな三人の様子を雛叉は不思議そうな顔で眺めていた。
(人って不思議……他人事なのにあんなに泣くんだ)
雛叉は自分の中で、好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。
「あいつは大丈夫なのか?」
流真が雛叉に訊ねた。雛叉は麻雛の方へと目を移す。麻雛は華艶から治療を受けていた。
「うん、大丈夫。力を使い果たしただけだから」
「そっか。じゃあ先生、これで終了だよな?」
「あ? ああ、貧血で倒れないようにしっかり食って早く寝ろ。明日もいつもどおりだ」
結い上げた髪を解きながら、芳凛が返した。流真は、血で染まった芳凛の体につい目がいく。
「いちいち気にしてたらきりがないぞ、流真」
芳凛が流すように言った。
「でも…その傷」
「侮るなよ。私の自己治癒能力は基本資質がスノウである門番よりも高いんだ。傷痕なんて残らん」
自信満々に言い切る芳凛を、流真は射抜くように見ていた。
「……」
緑眼が黒い瞳から視線を逸らす。
「わかった……じゃあ明日、いつもどおりだな」
「そうだ」
生徒たちが退室した後、芳凛はふっと息を抜いた。正直なところ、子供の相手は疲れる。疲労の色がうっすらと移る芳凛の横顔を、華艶が見つめる。
「――僕よりも芳凛は自己治癒能力が高いの?」
華艶の基本資質はスノウだ。芳凛は首をコキコキと鳴らすと右肩を軽く揉んだ。
「さぁな」
「でも今…」
「流真に言ったことか?」
こくりと華艶が頷いた。
「あいつはうるさいから」
「うるさい?」
「気にするってことだ」
「流真が気にしたら芳凛は困るの?」
「こま……りはしないが、授業が進まなくなるかな」
一瞬言葉に詰まった芳凛だったが、華艶は質問を続けた。
「でも、流真が気にして傷を負わなくなるかもしれないよ?」
芳凛がふふふと笑った。
「私も最初はそう思って何も言わなかった。でもそうすると、あいつはもっと自分を傷付けた」
「今日よりもヒドイの?」
「そうだな。はは…指がぶっ飛んだ時はさすがの私も焦ったよ」
芳凛が目尻に皺を刻みながら笑った。華艶は不思議そうに眺めているが、鼓動は高鳴っていた。
沈みゆく太陽の朱色が怪しく通路に射し込み落ちる。
それはまるで数多の生血を欲し、死を誘き寄せる毒蛇の道のように芳凛の目には映った。
追いかけ追い求め、いつの間にか逃げる自分がいた。そして今、空いてしまった心の隙間を埋める何かを探している……そんな曖昧な錯覚にも似た感情が、確かに芳凛の中で動き始めていた。
「――」
小さな手が芳凛の手を握り締める。穢れを知らない明澄な瞳が芳凛を仰ぎ見ていた。
沈黙が平静を装うように流れる。
(……この少年は全てを知る者かもしれない)
本当は残忍で酷薄なもう一人の自分。
芳凛が鮮麗な顔に微笑を浮かべた。
「華艶。お前は……何のために生まれたのだろうな」
感情の起伏が見られない華艶から発せられた声音は、驚くほど精悍なものだった。
「僕は――……」
『罪は罪で洗うしかない』
屈託ない幼子のような笑顔で謳うように酷悪な台詞をわざと口にした戦友を、葎は思い出していた。
繰り返し思い出しては忘れようとしてきた。
五年前の自分と、芳凛、そして――特別すぎた戦友。
教育課の管理官室で葎は咲矢と肩を並べて窓辺に立っている。風が威力を増していた。
ざわざわと守りの森が何かを告げているようで、耳を澄ませた。
雨雲が月を遮り、天は落涙する。夜嵐は世界を暗闇に落とす前兆だとも言われていた。
「…どうも落ち着かんな」
葎がぼそりと呟く。
「そうね。嵐にならなきゃいいけれど…」
哀愁ただよう葎の横顔を見つめる咲矢。その視線に気付いているのに葎は振り向かなかった。
二人の間に流れる空気は、居心地の良いものだ。
だが、それとは裏腹に咲矢の心は不安定だった。
◇◇◇
明士は居間の赤いソファで流真と肩を並べて座っていた。彩の姿はない。どうやら双子たちの部屋へ遊びに行ったようだ。
流真の手には漫画本、明士は小説を読んでいる。
テレビを付けてはいるが、読書の邪魔にならないように音量は下げられているのに、明士は読書に集中できずにいた。なぜなら、流真が奇妙な視線を送っているからだ。
明士は、文面に目を落したまま口を開いた。
「……ねえ、僕の顔に何かついてるの?」
バンッと音を鳴らして漫画本を閉じる流真。逃げるように席を立った。
「べ別に何もついてねーよ。……何か飲むか?」
明士が笑いを漏らす。
「ふふ。流真らしくないね。僕に何か言いたいことでもあるのかな?」
ぎくりと流真の背中が強張る。
「そんなこと――ないよ」
流真はそっけなく交わしながら、冷蔵庫から紙パックのジュースを取り出してガラスのコップを二つ用意した。一つはもちろん明士の分だ。流真は食卓テーブルにさり気なくコップを置くと、定位置に腰を下ろし向かいの席に明士が着くのを待つ。
明士がわざと音を立てて本を閉じた。
「別にって感じじゃないけどね」
「…そんなことねーよ」
流真は、もじもじと落ち着かない様子でジュースを一気に飲み干した。
「気持ち悪いなぁ。もしかして彩が居ないから落ち着かないの?」
会話を楽しむには雰囲気を盛り上げる彩が必要なのだろうか。
「彩がいないだけでこうも静かになるんだね」
「そんなんじゃねーってば」
「……じゃあ一体何なわけ?」
流真が、不機嫌そうに口を尖らせ目を細める。
「……もしかして妬いてるの?」
「はぁあ?!」
「先生が僕にキスしたから」
人工呼吸のことだ。
「ち、ちがっ違う! 別にっそんなんじゃっ………そんなんじゃ………ないよ。馬鹿なこと…言うな…よ……そんな、こと」
どんどん声が小さくなって最後にはごにょごにょと口籠もって消えた。
「顔赤いよ、流真」
「赤くねぇよ!」
耳まで真っ赤だ。明士はたまらず声を上げた。
「あははっ 剥きになるってことは正解なんだね」
冗談で言ったつもりだったのに大当たりだった。そんな流真が可愛く思えて、明士はにちょっとだけ意地悪をしたい気持ちになった。
「じゃあ…どっちに妬いてるの? 芳凛先生に? それとも僕にかな?」
「~~~ッ」
紅潮した顔で明士を睨む緑瞳は、憂いを帯びている。
「もう寝るっ!」
「はいはい、おやすみ」
流真は勢いだって立ち上がると寝室へ逃げ込んだが、ベッドに潜り込む時に生じる擦れる音は聞こえなかった。ベッドの下で膝を抱え蹲っているのだろうと思うと、なおさら可笑しくて明士は失笑した。
(バカ正直だからなぁ、流真は…)
異性への特別な感情は掟に反することなのに、率直な性格の流真はすぐ顔に出る。感情豊かと言えば長所に聞こえるが、禁忌を犯すには不向きだと言えた。
(だめだよ…流真)
選ばれし者に自由なんてない。
(芳凛先生とずっといられたらなんて、そんな夢を見ちゃいけない)
不必要だと理性で理解できていても、心が認めない。
明士は流真の気持ちを考えると少し胸が痛んだ。
追い求める想いは何の役にも立たない。恋などと呼ぶものは、自分たちの世界にはないんだと、明士は思っていた。生きるか死ぬかの状況下では余計な感情は足枷の重石になるだけだ。
明士は冷静に物事を捉えることができていた。
館内に鳴り響く、緊急避難の警報の音を耳にするまでは。
◇◇◇
夜、二十三時を回ったころだ。
突然鳴り響いた警告音に、第二棟館内は一瞬で不穏な気に包まれた。
騒然と生徒たちが自室から飛び出す。
「早く!! 全員部屋から出なさいっ。急いでッ!!」
慌てふためく生徒たちを誘導するべく現れたのは、当直当番の咲矢だった。
最上階である五階から順番に生徒を引き連れて非常口の扉を開け、急ぎ足で階段を駆け下りる。避難場所は地下だ。昇降機は閉じ込められる危険があるためあえて使わないことになっていた。
咲矢と芳凛の生徒が三階。鈴音と准貴、そして華艶の生徒が二階の部屋だった。
自室を出た明士と流真は非常口の扉の前で待機していた。少し遅れて、化粧っ気のない顔の祥子が少年を背負って現れる。
「遅いぞ、祥子」
流真が口を切った。
祥子の背におぶさり、十歳の少年が眠そうに欠伸をしていた。
「悪い。亜樹が寝てて……彩は?」
「双子たちの部屋に行ってるんだ。きっと一緒だよ」
明士はそう答えつつも嫌な予感がしてならなかった。
非常口が開かれ咲矢が険しい面持ちで生徒たちと相対した。
「準備万端ね。可年組に続きなさい」
咲矢の後ろについていた上級生たちが階段を下って行く。
「先生。彩が双子たちの部屋にいるらしいんだ」
祥子が伝えると、咲矢の表情が一瞬曇った。
「そう……でも、とりあえず地下へ行くのよ。いいわね?」
流真と明士ちも促され、祥子に着いて階段を下る。しかし、二階の非常口の扉が開かれたとき、そこには彩と双子の姿はなく、舜が准貴の生徒である櫂と恭啓を引き連れて待っていた。
櫂と恭啓は何とかレンジャーのイラストが入ったパジャマを揃いで着ていたが、流真たちにからかう余裕はない。
「オイッ! 彩と双子はッ!?」
流真が舜に突っかかり襟首を掴む。意味がわからない舜は怪訝そうに流真の手を払い除けた。
「何言ってんだお前…」
「双子の部屋に行ったきりなんだよっ!」
「やめなさい、流真ッ!! 口喧嘩なんかあとでいくらでもできるわ。今はとにかく階段を下りるのよ。地下へ着いたら可年組の教員が誘導してくれるから。さぁ! 行きなさいっ」
咲矢が強引に生徒たちを非常階段へと押しやるが、隙をついて流真が二階の通路へと踏み込んだ。
「流真!? ちょっ待ちなさいっ!! ダメよッッ! 流真ッ」
明士も後を追おうとするが咲矢に通路を阻まれた。
「どいて下さいッ!!」
風もないのに、咲矢の白髪が揺れている。
「……よく聞きなさい、明士。流真は私が連れ戻すから――」
真剣な眼差しの咲矢の顔が、明士には強張ったものに見えた。
「なぜ、流真だけなんです? 彩も双子たちもいないのに…ッ!」
明士は勘の良い生徒だと咲矢は痛感したが、一度吐いた言葉は呑めない。
「今あなたと口論している時間はないのよ。賢いあなたなら分かるはず。舜! 明士を連れて可年組と合流しなさい」
「ええ?!」
躊躇う舜に咲矢が一喝した。
「早くッ!! これ以上時間を無駄にしないでッ」
「はっははいッ 行こうぜ、明士」
舜が明士の腕を掴んだが、その手を明士は大きく振り払った。舜の前にいるのは、いつも笑顔を絶やさない温厚な明士ではなかった。
刺々しい態度。咲矢を睨みつける藍色の双眸が、何かあったら許さないと強く訴えている。
「……」
明士は黙って舜に続いて階段を下りた。
足音が遠ざかるのを確認し、咲矢が二階の通路に入る。
閉じた扉に結界を施した方がよいか迷ったが、やめた。
流真を一人で地下へ行かせることになるかもしれないと思ったのだ。
向かう先が例え暗闇でも一滴の光があれば希望が生まれる。
儚き者の瞳は絶望を示し、影を生み落とすさまを見出したとしても。
光を拒む手はその中に暗雲を掴み、嘆きの神は癒しの雨を血に染めるのだ。
――どうして、こんなことになったのだろうか?
「さ、彩……」
麻雛の声が震えている。
雛叉と麻雛は自室で彩と相対していた――いや、彩らしき者と言うほうが正しいかもしれない。
双子たちは数分前のことを思い出していた。
彩は、夕食も入浴も終えて後は寝るだけという姿で双子たちの部屋を訪れた。
女子たちのお喋りタイムは長引くのが定番だ。お菓子やジュースも用意したうえで、双子たちも寝間着姿。準備万端といった様子だった。
彩たちが休憩時間に手伝ったおかげなのだろう。用済みの段ボールが折り畳まれて片隅に置かれ室内は片付いていた。部屋の間取りや広さは二人だろうと三人だろうと同じであった。
「やっぱり広く感じるね~」
彩がのほほ~んとした口調で話す。
「そお? でも男の子は荷物少ないんじゃない?」
麻雛がポテトチップスをかじりながら訊いた。
「んっとね~そうでもないよ~。流真も明士も本が多いんだよね~」
「本?」
「そうなの~流真は漫画本なんだけどさ~。単行本じゃなくて雑誌を溜めてるんだよ~だからかさばっちゃうの~」
「明士は?」
「なんか難しい本読んでる~」
「参考書とか?」
「んっとね~…………多分そんな感じ~?」
分からないんだろうな、と双子たちは思った。
「ねえ、やっぱりさ。男の子と同じ部屋って緊張する?」
雛叉が話題を変えた。
「なんで~?」
「……もしかして何も感じないの?」
麻雛が訊くと、彩は首を傾ける。
「何を感じるの~? 双子ちゃんたちはおもしろいね~」
「だって、流真も明士もかっこいいじゃん」
「かっこいいって誰が~?」
彩がクッキーをかじる。
「だから、流真も明士も、だよ」
双子が同時に言った。すると、彩が口許に笑みを浮かべこう言った。
「『男女の繋がりは禁忌とする』」
その凛とした声に双子たちは背筋が緊張した。
「でしょ?」
彩の表情がすごく大人に見えたのは一瞬だ。
「あ! そうだ。今度は舞ちゃんや祥子ちゃんも呼ぼうよ~」
いつもの彩の表情と口調になぜか双子たちは安堵した。
そして、就寝時刻が迫り彩は双子たちの部屋を出て行った――と、思ったのだが、入り口は再び開かれた。
「どうし……たの…」
麻雛の言葉が途中で切れる。視線の先には、血に飢えた獣のような眼光を放つ彩の姿があった。しかもその背後には――
「麻美弥くん?!」
胡乱げな眼差しで彩の背後にぴったりと立つ麻美弥の姿は不気味だった。まるで彩を操っているようにも見える麻美弥の様子に、双子たちは違和感を覚えた。
「なんで麻美弥くんが…!」
異様な空気が漂う中で、双子たちは各々身の危険を察知した。
「雛叉………私が二人に結界を掛けるから、緊急ボタンを押して。いい? チャンスは一回きりよ」
「でも、失敗したら――」
「バカッ そんなこと言ってる間に喰われちゃうわよ」
二人の脳裏に浮かび上がったのは、今日授業で初めて見た彩の姿だった。
◇◇◇
暴走とは――選ばれし者の覚醒に伴う暴発的な症状の一つである。
体内から湧き上がってくる力を抑制できず、異形者特有の欲望に精神を呑まれることをいうのだが、流真と明士の暴走は珍しいタイプだった。
彼らの暴走は反動を自分の体のみで受けているが、本来暴走とは外部への向けられる危害がもっとも多い。本能のまま闇雲に暴れるだけの者と、人間を襲い傷つける者。そして、人間や生き物を襲う者には、命を奪うだけの者と、血肉を食らう者と分類されていた。
典型的な暴走者の姿は、浮き世の世界で生きてきた人なら、月に二、三度の割合で目にするほどだ。その中でも彩は、後者である血肉を喰らう者と思われたが、実際は違ったのだ。
麻雛の結界が包囲する中で意識を失った彩は、結界壁の外に居る自分たちへ大人びた笑みを浮かべ、こう言った。
『大丈夫。私は傷付いたりしないから』
キョトンとする麻雛と雛叉であったが、流真と明士の冷めた眼差しに違和感を抱いた。
柔らかい毛先が宙に揺れていても、滲みだす気は波風起こさず穏やかだった。
だから、双子たちは自然と思った。彩は力を抑制できているんだと。しかし、
「基本資質を複数持つ者の特徴は、特異な暴走癖持つことらしい」
芳凛が、独り言のように告げると、華艶へ結界を引き継ぐよう合図を送った。
華艶が麻雛の結界の上に自分のそれを重ね合わせると、芳凛が結界の内側へと入り、彩と対峙した。
すると、彩はまた微笑を浮かべこう言った。
『……だめよ、あなた。私そんなに我慢強くないの知ってるでしょ?』
いつもの甘ったるい彩の声ではなかった。
「知ってはいるが、お前も彩から言われているだろ?」
『それは………あなたの言うことを聞けってことかしら?』
クスクスと笑う彩。芳凛は単調に返した。
「違う。力のコントロールを覚えろということだ」
言い終わると同時に、芳凛が彩の頬を張り倒した。
「なっ?!」
予想外の出来事に目を瞬いた麻雛は、その瞬間気が抜けたのだろう。本日二回目の結界破壊の衝撃を受けたのだった。一方、雛叉はというと、麻雛のことを心配する余裕もなく、彩の姿に目を奪われていた。
「……どういうことなの!」
彩が芳凛の腕に噛みついて、ぶら下がっているではないか。
暴走者特有の気の乱れは一切感じられないというのに、血をすする卑しい音はしっかりと耳に届いていた。
雛叉は顔を顰める。暴走していないならなぜ、血肉を求めているのか。雛叉は混乱していた。
眉一つ動かさない教員たちは、さすがと言うべきなのか、非情と言うべきか。
芳凛は、容赦なく彩が噛みついたままの腕を横振りにし結界壁へと叩きつけた。
「――ッ」
強化ガラス以上に強固な結界壁に体を打ちつけた衝撃で彩の口は腕から外れたが、唇に付着した血を舌でペロリと舐めていた。
『あなたの血ってホント美味しい……なぜかしら? 門番の血は皆こんなにもおいしいの?』
彩は口角を吊り上げて笑うと、耳朶を突く高音を発した。
キィ――――ン…
と、室内に木霊する超音波に、思わず耳を塞いだ生徒たち。芳凛と華艶は涼しい顔をしていた。
「もう、終わりか?」
肩で息をする彩に、芳凛が問うた。
『……私に何の得があるのか彩に聞いたわ』
「それで?」
『私がこのままじゃ彩を壊してしまうんでしょ?』
「……」
『私ばかじゃないの。だからあなたの言うことは聞くことにするわ』
「ほぅ。微々たるもんだが進歩だな」
『そうね。だから心配しないで。私は傷付いたりしないから――――』
彩はそう告げると、体をゆっくりと床に寝かした。そして、十秒ほど経った頃、顔を伏せた彩が曇った声で呟いた。
「………痛いよ先生」
「そうだな。でもよくやった」
「へへへ…褒めてくれる?」
「ああ」
芳凛は、素に戻った彩の頭を優しく撫でた。
「今のは……何?」
雛叉は状況の把握ができていない。
「彩は二重人格者なんだよ」
答えたのは明士だ。
「二重?!」
「彩はお姉ちゃんって呼んでるけどね」
無表情で彩を眺める明士の隣で、流真が相槌を打った。
「姉ちゃんは恐ろしく彩一筋でさ……。俺たちにも容赦なく噛み付いてくるから理解させるまで大変だったんだよ」
「噛み付くってことは暴走してんじゃん!」
「いやいやいや。それがまた別問題なんだよな。あの姉ちゃんの場合、暴走するしない関係なく、まず敵だと感じたら襲ってくるんだよ。でも今は大丈夫だぞ。先生が説明してからは噛みにこなくなったからさ」
それって本当に大丈夫な話なんだろうか?
「姉ちゃんはさ。普通に彩を守ってるつもりなんだろうけど、とにかくズルいんだよ。俺らが寝てるときに現れて噛むのなんの…さすがの俺も、横っ腹を噛まれたときは頭張り倒したくらいだからさぁ」
ははは、と引き攣った笑い声を上げる流真であるが、明士は深刻な面持ちであった。
「そしたらそのあと暴走が始まってほんと、大変だったよね……」
「あんときの姉ちゃんすっげー恐かったよな…」
「うん…」
流真と明士が冷めた目で見つめていたわけが、何となくわかった雛叉だった。
◇◇◇
追憶を終えた雛叉は、恐怖ですくみそうな足を必死で立たせていた。
座り込んだら終わりだ。麻美弥はともかく、彩は容赦なく襲い掛かってくるだろう。
「ダメもとでもやるしかない。次の機会はきっとないから」
覚悟を決めた麻雛。雛叉も腹をくくった。
「…わかった」
運がいいのか悪いのか。今日習ったばかりの術が、こんな形で役立つとは思いもしなかった。恐怖心からか麻雛に自嘲した笑みが出た。
「こうなりゃ妬けだわ」
一拍あけて言霊を唱えると同時に、雛叉が入り口へと駆けた。
壁に備え付けられている緊急ボタンを塞いでいる蓋ごと力いっぱい叩き割る。
けたたましく鳴り響く警告音にすら反応を示さない彩を麻雛の結界が取り囲うと、雛叉は入り口の扉を開け放った。
「先生!! 華艶、先生ーーーッ」
咄嗟にでた名は担当教員の華艶だったことに、雛叉自身驚いていた。
警報が鳴り渡る通路には、双子たちの部屋を除外するように防壁が左右に聳え立つ。
「な、何よこれっ!?」
隔離されたのだ。
「ど、どうしたらいいの……」
閉じ込められた。雛叉は漠然とした失意の中に身を投じそうになった。
「ひ、な…雛叉っ」
雛叉は恐怖を振り払い首を左右に振り、麻雛の傍に向かい両肩をしっかりと抱いた。
麻雛は彩に掛けた結界に圧を掛ける。だがそれは玉子の殻のように薄いものだった。
「…そばに、いてよね…」
力なく麻雛が言う。
「わかってる。ずっと一緒よ」
雛叉と麻雛は、途中覚醒者ではなく力を宿し生まれた双子だった。彼女たちの覚醒は誕生と同時なのだ。
戸籍上は麻雛が姉になっているが、本当はどちらでもない。無残に大破された分娩室に駆け付けた救命士が、たまたま先に抱き上げたのが麻雛だっただけ。
生まれた時も二人。だから生きるのも死ぬのも二人だと、雛叉は思っていた。
運命が二人を分かつ時を告げたとしても、何があっても離れない。彼女たちはそう誓い合い生きてきたのだ。
結界壁に蜘蛛の巣のようなヒビが入る。
雛叉は麻雛を強く抱きしめた。
(割れちゃうっ!)
もうだめだ。そう覚悟を決めた時だった。
閉鎖された通路の防壁を打ち砕く爆風とともに姿を現したのは、准貴と鈴音だった。
ずかずかと部屋へ入る准貴の後ろから鈴音が叫ぶ。
「大丈夫!? 雛叉、麻雛!!」
呼びかけと同時に麻雛の結界が砕け散った。反動が麻雛を襲う。雛叉は麻雛に飛びついて必死で守ろうとしたが、力及ばず一緒に飛ばされた。
「ッ!」
壁に叩きつけられた衝撃に備え、二人は無意識に体に力を込めた。しかし、壁に激突したのは准貴だった。彼は身を挺して彼女たちを庇ったのだ。
「いたたた……くそっ…二人とも無事か?」
「…准貴、先生……」
双子たちの目に涙が浮かんだ。准貴が壁と双子たちの間に入ってくれたおかげで二人は無傷だ。だが、准貴を見て気が抜けた麻雛は一言も発することなく意識を失った。
「おいおい……ここで気絶するか?! 雛叉、お前は動けるんだな?」
「は、はいっ」
「よし! それじゃあとりあえず非常口へ出ろ」
「へ?」
准貴が麻雛を抱き上げる。鈴音が結界を張っている間に生徒の避難が優先された。
「でも、先生…麻美弥くんが…」
「今、近づくのは無理だ。鈴音が囲ったからな」
今の中央では、床に片膝を付き両手を結界壁に添える鈴音がいる。鈴音の結界の中にはもちろん彩と麻美弥がいた。麻美弥はやはり、彩の背後にぴったりとついている。
准貴が僅かに目を眇めた。
「先生ッ。彩の様子がおかしいの」
「……」
「私たち、今日一緒に授業受けたんだけど、彩の暴走はあんなんじゃないのッ」
「……」
「よくわかんないけど、彩ちゃんの中にはもう一人彩ちゃんがいるのよ。選ばれし者の力を持っているのはそのもう一人なの。でも彼女の暴走は普通のものとはちょっと違ってて、何て言うかちゃんと会話ができるのよ! だから彼女言ってた。私は傷付かないって。でも今は――」
よだれを垂らし咆哮を上げる彩へと視線は向けられた。
「あんなの彩の暴走じゃないッ」
黙って雛叉の話に耳を傾けていた准貴がようやく口を開いた。
「わかった。でも今、お前ができることはここから離れることだ。それはわかるよな?」
「――――はい」
准貴は項垂れる雛叉の背中を押しやると、麻雛を肩に担いで部屋を後にした。
非常口へと向かう途中。前方から駆けてくる流真を見て驚いた准貴は思わず怒鳴った。
「何してんだ、お前っ! さっさと地下へ行けっ!!」
流真の耳には聞こえていないようだ。准貴を完全無視して雛叉に話し掛けた。
「おいっ! 彩は? 彩はどうしたんだよ」
「え…と、その…」
狼狽える雛叉の肩を流真が掴む。
「なんで彩と一緒じゃねーだよっ!」
流真は雛叉を突き飛ばして駆け出した。
「ちょっ、待てこらぁーッ!!」
准貴は追いかけようとしたが、肩に担いだ麻雛を放り出すわけにも行かず立ち尽くす。そんな時、
「准貴ッ 流真を見なかった!?」
咲矢が流真を追って非常口から出てきたのだ。
「おお!! ちょうどよかった。麻雛を看てやってくれ。俺は流真を捕まえてくるから」
「逃がしたのっ!?」
信じられないという表情をした咲矢に、准貴の心は少し傷付いた。
「しかたねーだろ! 俺は麻雛を抱えてたんだよっ」
ちゃっかり言い訳だけは忘れずに、准貴が身を翻す。
流真に彩の姿を見せるわけにはいかないと思い、准貴は全力疾走した。しかし思いの外流真の足は速かった。准貴が到着したときにはすでに流真は部屋の中に足を踏み入れていたのだ。
「さ、い……?」
胡乱げな眼差しを流真に向けた彩は、にやりと歪んだ笑みを刻んだ。
(…なんだ? 姉ちゃんじゃない……なんでッ)
流真の戸惑いが手に取るように准貴には分かった。
理解できているつもりでいたことが、一変して裏返ってしまった。だから、彼は彼女に裏切られたようにも感じているのかもしれないし、拒絶されたようにも感じているかもしれない。
「お前がここに居ても何にもならないんだよ。いいから地下へ避難しろ」
准貴が腕を掴む。放心状態の流真は、腰が抜けたように座り込んでしまった。
「マジかよ! しっかりしてくれよ…」
だから言わんこっちゃない。
「…がう……こんなの彩じゃない…」
彩を凝視する流真の瞳が揺れている。
「そんなことわかってんだよっ! だからとりあえず――」
「こんなの暴走じゃないっ! 何なんだっ 彩はどうしたんだよっ」
すがりつく流真に准貴は何も答えなかった。
確かに彩は暴走しているわけではなかった。だから、流真を仲間だと気づくはずがない。
彩は、異形の残影にとり憑かれ肉体を異形に操られているのだ。しかも、その原因を作ったのは、彩の背後に張り付いて離れない麻美弥だった。
(……隔離されたはずの麻美弥が何でうろついてんだよ、くそったれっ!)
准貴は胸の内で歯噛みした。
「何をしている?」
准貴が咄嗟に振り返った。
「……芳凛…」
その名前に流真がぴくりと反応を示した。
「――せん、せい……彩が………」
芳凛は、流真に一瞥もくれずに鈴音へと歩み寄ると、後ろに立った。
「状況は?」
「よくないの一言よ」
「この様子じゃあ、大層なことになりそうだな…」
「ほんと、その通りだわね」
隔離したはずの生徒がなぜ自由の身になっているのか。
生徒ですら感じる異様さ。教員なら抱く疑念はそれよりも強いはずだ。しかし、それは今解決すべき問題ではないことを教員たちは分かっていた。
彩の視線が芳凛へと移る。
「クックク……ヨウヤク、見ツケタゾ……ッ」
聞き覚えのある少女の声音ではない。芳凛の眼差しが剣呑なものへと一変した。
「ほぅ…………言葉を話すとは、雑魚ではなかったか」
「ねぇ、芳凛。結界を縮めるから麻美弥をお願いできる?」
背中越しに交わされる会話。芳凛は即座に返した。
「承知」
その言葉の余韻が消え止まないうちに、鈴音が床に両手をついた。
空気が張り詰め、ざわめく。
少しずつ結界範囲が圧縮されているのだ。だが、あざ笑うように異形のものは告げた。
「逃ガサヌヨ……逃ガサヌヨ……コレラハ、我ノモノトナッタ…」
「あいにくだが、貴様にくれてやるものなど持ち合わせていない」
芳凛が話しながら麻美弥へと歩を進めた。
鈴音によって拘束された異形は、身を縛る結界の中でも狂気に満ちた笑みを絶やさなかった。
芳凛は彩の後ろで呆けている麻美弥の背中へと手を伸ばすと触れる手前で気を放つ。
「ガァッ」
麻美弥は白目をむいて倒れた。
芳凛は、麻美弥を肩に軽々と担ぎ上げると異形から距離を取る。
台所の近くで座り込んでいる流真には目もくれず、
「准貴。一緒に連れて行け」
そう告げると、麻美弥を放り投げた。
「おおおおっと、あっぶねーなッ!? もっと優しくしてくれよ!」
「うるさい。さっさと連れて行け」
芳凛は冷たく言い放つ。
異形の力が増幅した。
「逃サヌト申シタゾ……!」
波打つ気は波紋を広げ疾風を生み出す。鈴音の結界を破壊するつもりだ。
「甘い、わよッ」
鈴音が声高らかに力を解き放つ。
「汝、主を示せ。闇の楔。暁に見える星。イベラの契約。繋ぎし波風。北方より来る風。我が声に応えよ」
結界がギシギシと音を立てひしめいた。
「流真さっさと立て!」
准貴が力ずくで流真を立たせると、麻美弥を担いで開かれたままの入り口へと向かった。しかし、扉は鼻先で閉じられる。
「ヤラヌヨ……ソレハ、主ノ贄ダ……」
「贄ですって? おかしなこと言う異形ね」
鈴音が咄嗟に返した。
「くそっ! 開かねーぞ!」
舌打ちする准貴。
「どうする芳凛。准貴がもたついてたせいで閉じ込められたわよ」
「俺のせいかよっ! そういえば葎たちはどうしたんだっ」
「ばかね。医務室に生徒がいるでしょ。華艶と向かったんだわ。助勢は望めないわね」
医務室には残影が憑いた生徒を眠らせていた。麻美弥が抜け出したが、あともう一人舞が眠っているのだ。
「――なぁ…ドアぶち破ってもいい?」
准貴が素で訊いた。
「許可してあげたいけどね…だめよ。彩に跳ね返っちゃう」
「じゃあ、どうするんだよッ」
准貴が声を荒げた。
「うるっさいわね! 大きな声出したって何も変わんないわよッ」
「それもそうだな。ごめん」
一人納得する准貴に、鈴音は苛立っていた。
「鈴音。准貴たちの所へ下がって結界を張れ」
唐突な芳凛の指示に、鈴音は当惑した。
「いいけど………一体何をするつもり?」
「そのあと、彩の結界を解いて准貴たちの結界を強化しろ」
「ちょちょっと待って…」
「待てない。こうしているうちにも彩は闇に落ちる」
落ちたら最後、もう戻らない。
「わかったわ!」
じりじりと鈴音が後退した。准貴たちを背に庇い、結界を成す。
「芳凛は来ないのか?」
「ばか。あんたも防御してよね。言っとくけど、結界だけじゃ芳凛からの衝撃は免れないわ」
「マジかよッ」
鈴音が手を打ち鳴らした。
彩を囲っていた結界が崩壊すると、異形が放つ疾風が室内を巻き込んで威力を現す。
「きたわよ!」
准貴が慌てて鈴音の結界壁に手を添え発動した。
「くそっ!」
結界だけでは余波は防げない。透明だった結界壁が白く濁る。結界が強化されたのだ。
黒髪が激しく舞い上がる。風刃は芳凛の体を切り刻んで鮮血が烈風に飛散した。その後ろ姿を見守る准貴が息を呑むと、脳裏に映像が浮かび上がった。
闇夜を背中に背負い、月よりも煌々と輝きを放つ少女の姿だ。
「……ア、アァ………オマエ…ハ、闇ノ………声………ノ者カ……?」
風音が耳朶を打つ。彼らの声は鈴音たちの耳には届かなかった。
「闇の、声だと?」
芳凛が鼻でせせら嗤った。
「戯言を。このまま立ち去れ。今なら見逃してやる」
「……芳シイ…美シイ者ヨ――――オマエハ……彼ノ者カ…? 似テイル……我ラノ…主…」
「他人の空似だ」
「…違、ウ……違ウ……違ウ…違ウゾ…ッ!!」
彩の中の異形は興奮していたが、芳凛は淡々と返す。
「そうだ。私はお前の主じゃない。お喋りは終わりだ」
最期の言葉を告げると同時に、芳凛は一歩足を踏み出す。瞬きよりも早く異形の背後へ回り込むと、芳凛の左手が彩の背中に触れた。
「主の元に帰るがいい」
芳凛は容赦なく気の波動を打ち放つ。
「ガハッ…!」
仰け反る身体。背骨が弓のようにしなった。
彩の口から吐き出されるのは煤煙だった。宙を彷徨い天井へ張り付く残影へと芳凛は右手を伸ばした。拳を開き、
「塵の如く消しされ。この手の中は混沌だ」
握り潰すように拳を閉じる。残影は芳凛の手によって消散されていく。
「違ウ……オマエ、ハ………アノ……」
やがて残響は失せて、芳凛の腕の中に彩が抱かれていた。
芳凛は彩の額に手を当てる。残影の気配が完全に消えたことに息を延ぶ。
「終わったわね…」
鈴音が力を抜いた。結界が解かれると流真が彩へと這うように近寄ると、横たわる彩の顔を見て安堵した。と、芳凛の指が流真の額に命中した。
「痛ッ」
「ばかが…。足手まといもここまで立派だと殺意を覚えるな」
「…う……なんだよ。彩が心配だったんだから仕方ないじゃんか」
流真が額をさすっている。
「お前の命は、仕方ないで捨てれる程度なのか?」
流真が押し黙った。芳凛はため息を大袈裟についた。
「自分の命も守れんやつが一体誰を守るというんだ?」
「――ごめん……なさい」
「運がよかったと思え。次はない。鈴音。とりあえずこの場で彩を守護してくれ。私は葎の元へ行く」
「わかったわ。ほらっ流真、邪魔だからそこどきなさい」
すっかり邪魔者扱いを受ける羽目になった流真だったが、彩が無事でなによりだった。
「じゃあ俺はこいつらを地下へ引っ込めてくるとするか」
准貴がおどけた笑顔で扉を開くと、開かれた扉の先に、咲矢が神妙な面持ちで待ち構えていた。
「なんだ咲矢。待ってたのか」
「……ええ、入れなかったのよ―――で、無事終わったのかしら?」
「まあな」
「そう。じゃあ、准貴と鈴音はそのまま地下へ行って生徒を確認して。そのあと明士と舜を探すのを手伝ってちょうだい」
「舜がいないの!?」
鈴音が驚きの一声を上げた。流真も呆然としている。まさかあの明士が行動に出るとは思いもしなかったのだ。
「……慎重派の明士がね。まったくほとほと手を焼く生徒ばかりだ」
芳凛が嘆息した。
夜風が嵐を呼んでしまった。吹き荒れる守りの森は、不気味な動きを影に刻む。
それはまるで、大きく体を揺らし何かに向けて威嚇しているようだった。