壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の

嵐の前兆

 今日という一日の終わりを告げる鐘が学び舎に鳴り響いた。
 場所は第六教室。芳凛と華艶の担当教室だ。 鐘の音が聞こえないのだろうか、扉が開く気配はなく、教室内では華艶が結界を解除したところだった。

「どけ」

 床に横たわる明士へと駆け寄ろうとした流真と彩を押し退けて、芳凛が行く。

 生徒たちの表情は岩のように硬い。本日三回目の結界破壊に疲れ果てた麻雛は、壁に寄り掛かり虚ろな眼差しを明士に向けていた。
  明士の元に近寄る華艶と雛叉。芳凛が明士の胸に片耳を当てると、流真と彩はどちらからともなく手を強く握り締めた。
「か、華艶先生…」
 雛叉の呼びかけに華艶は無反応だった。雛叉は明士の体を見渡す。明士の体には数えるほどしか外傷は見当たらない。最悪の事態を想定して、雛叉がまごついた。

「き…気絶してる、だけ…ですよね…?」 

 息を凝らす生徒たちを前に、華艶が頚動脈に指を滑らせ首を小さく横に振った。 

「やだよ、明士…!」 

 近づこうとする彩を流真は胸に抱き止めた。流真も唇を一文字に結び堪えている。 
「蘇生を開始する」 
 間髪入かんぱついれず、芳凛は明士の唇に自分のそれを重ねた。
 華艶が心臓マッサージを施す。ここで息を吹き返さなければ、明士の物語は終わりだ。修業期間といえ、選ばれし者である彼らに命の保障などない。
 雛叉は胸の前で手を組み、祈った。
(…お願い…! 目を開けてっ)
 芳凛の唇が離れると、明士が苦しげに血泡を咳き上げた。
「……ゲホゲホッ――…せ……せんせい?」 
 開眼一番に飛び込んできた黒い瞳はいつも微笑んで明士を迎えてくれる。また死に損なってしまったと思ったことは明士だけの秘密だ。
 乱れる呼吸に合わせて華艶が、明士の腹部に手を押し当てる。苦痛に顔を歪める明士であったが、芳凛が頭部を胸に抱えた。柔らかい胸に顔を埋め、明士が大きく咳をする。大量の血が芳凛の衣服を赤く染めた。

 息を止めて見守るチームメイトたち。華艶の治癒を終えると、芳凛が明士を抱く手を緩める。

 明士は汚れた口元を手で拭うと、掠れた声で言った。

「……も……う……平気…です」 
「ほ、本当に…?」
 雛叉がおそるおそる明士の顔を覗き込む。充血した雛叉の目を見て、明士が微笑んだ。
「やぁ…雛叉………君は大丈夫…?」
「…大丈夫ってあなた…」
 こんな状態でよく他人を気遣う言葉が出せるものだ。雛叉は驚きを通り越して感心した。

(流真は『移し身』を行うほどの傷を負い、明士は内臓破裂。二人とも死の一歩手前だというのにあの子は――)

 雛叉が、流真にしがみ付いている彩を一瞥する。雛叉の脳裏に暴走した彩の姿が思い出されたが、華艶の声に我に返った。

「ここに手を当てて、雛叉」
 華艶が自分が当てている手の位置を示していた。雛叉が恐々明士の溝内に手を当てる。
「血が溜まっていないか探って。溜まっていたら吐き出させて」
「はい」

 雛叉は服の上から手を当てる。華艶が治癒したとはいえ、明士に痛みを感じさせたくないのだろう。押し当てるのではなく撫でるように気を送る。意識を集中させ体内の澱みを探った。

「……ないようです」

 華艶が確認のために明士の腹部に手をかざした。雛叉とは違い、触れずに悟る手法だ。雛叉はごくりと喉を鳴らした。

(こんなに小さいのに、本当に門番なんだ…)

「…うん。大丈夫だね」

 雛叉がほっと息をつく。 

「ありがとうございます!」 

 芳凛が動けるだけの気を送り込むと、青白かった明士の頬に赤みがさしてきた。
「ぽっくり逝ったかと思ったぜ。ひやひやさせるなよ」
 流真が彩の手を引き明士の元へ歩む。 
「はは…簡単には死なないようにできてるみたいだ」
 明士はゆっくりと体を起こすと、流真の隣でぷるぷると唇を震わせ泣くのを堪えている彩に声を掛けた。
「ごめんね、彩。もう平気だから」 
「………ほ、本当に死んじゃったかと思ったよ~良かったよ~明士ぃ~い」
 おいおいと泣きだした彩の頭を、明士が優しく撫でる。

 そんな三人の様子を雛叉は不思議そうな顔で眺めていた。 

(人って不思議……他人事なのにあんなに泣くんだ)  

 雛叉は自分の中で、好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。

「あいつは大丈夫なのか?」
 流真が雛叉に訊ねた。雛叉は麻雛の方へと目を移す。麻雛は華艶から治療を受けていた。
「うん、大丈夫。力を使い果たしただけだから」
「そっか。じゃあ先生、これで終了だよな?」

「あ? ああ、貧血で倒れないようにしっかり食って早く寝ろ。明日もいつもどおりだ」

 結い上げた髪を解きながら、芳凛が返した。流真は、血で染まった芳凛の体につい目がいく。

「いちいち気にしてたらきりがないぞ、流真」

 芳凛が流すように言った。

「でも…その傷」

「侮るなよ。私の自己治癒能力は基本資質がスノウである門番よりも高いんだ。傷痕なんて残らん」

 自信満々に言い切る芳凛を、流真は射抜くように見ていた。

「……」

 緑眼が黒い瞳から視線を逸らす。

「わかった……じゃあ明日、いつもどおりだな」

「そうだ」

 生徒たちが退室した後、芳凛はふっと息を抜いた。正直なところ、子供の相手は疲れる。疲労の色がうっすらと移る芳凛の横顔を、華艶が見つめる。

「――僕よりも芳凛は自己治癒能力が高いの?」

 華艶の基本資質はスノウだ。芳凛は首をコキコキと鳴らすと右肩を軽く揉んだ。

「さぁな」

「でも今…」

「流真に言ったことか?」

 こくりと華艶が頷いた。

「あいつはうるさいから」

「うるさい?」

「気にするってことだ」

「流真が気にしたら芳凛は困るの?」

「こま……りはしないが、授業が進まなくなるかな」

 一瞬言葉に詰まった芳凛だったが、華艶は質問を続けた。

「でも、流真が気にして傷を負わなくなるかもしれないよ?」

 芳凛がふふふと笑った。

「私も最初はそう思って何も言わなかった。でもそうすると、あいつはもっと自分を傷付けた」

「今日よりもヒドイの?」

「そうだな。はは…指がぶっ飛んだ時はさすがの私も焦ったよ」

 芳凛が目尻に皺を刻みながら笑った。華艶は不思議そうに眺めているが、鼓動は高鳴っていた。

 沈みゆく太陽の朱色が怪しく通路に射し込み落ちる。

 それはまるで数多の生血を欲し、死をおびき寄せる毒蛇の道のように芳凛の目には映った。

 追いかけ追い求め、いつの間にか逃げる自分がいた。そして今、空いてしまった心の隙間を埋める何かを探している……そんな曖昧な錯覚にも似た感情が、確かに芳凛の中で動き始めていた。
「――」

 小さな手が芳凛の手を握り締める。穢れを知らない明澄めいちょうな瞳が芳凛を仰ぎ見ていた。
 沈黙が平静を装うように流れる。

(……この少年は全てを知る者かもしれない)

 本当は残忍で酷薄なもう一人の自分。
 芳凛が鮮麗な顔に微笑を浮かべた。
「華艶。お前は……何のために生まれたのだろうな」
 感情の起伏が見られない華艶から発せられた声音は、驚くほど精悍なものだった。
「僕は――……」 

 

 

 

『罪は罪で洗うしかない』

 屈託ない幼子のような笑顔で謳うように酷悪な台詞をわざと口にした戦友を、葎は思い出していた。

 繰り返し思い出しては忘れようとしてきた。

 五年前の自分と、芳凛、そして――特別すぎた戦友。

 教育課の管理官室で葎は咲矢と肩を並べて窓辺に立っている。風が威力を増していた。

 ざわざわと守りの森が何かを告げているようで、耳を澄ませた。

 雨雲が月を遮り、天は落涙する。夜嵐は世界を暗闇に落とす前兆だとも言われていた。

「…どうも落ち着かんな」
 葎がぼそりと呟く。

「そうね。嵐にならなきゃいいけれど…」

 哀愁ただよう葎の横顔を見つめる咲矢。その視線に気付いているのに葎は振り向かなかった。

 二人の間に流れる空気は、居心地の良いものだ。

 だが、それとは裏腹に咲矢の心は不安定だった。

  

 

 ◇◇◇

 


 明士は居間の赤いソファで流真と肩を並べて座っていた。彩の姿はない。どうやら双子たちの部屋へ遊びに行ったようだ。

 流真の手には漫画本、明士は小説を読んでいる。

 テレビを付けてはいるが、読書の邪魔にならないように音量は下げられているのに、明士は読書に集中できずにいた。なぜなら、流真が奇妙な視線を送っているからだ。

 明士は、文面に目を落したまま口を開いた。

「……ねえ、僕の顔に何かついてるの?」 
 バンッと音を鳴らして漫画本を閉じる流真。逃げるように席を立った。
「べ別に何もついてねーよ。……何か飲むか?」
 明士が笑いを漏らす。
「ふふ。流真らしくないね。僕に何か言いたいことでもあるのかな?」 
 ぎくりと流真の背中が強張る。
「そんなこと――ないよ」
 流真はそっけなく交わしながら、冷蔵庫から紙パックのジュースを取り出してガラスのコップを二つ用意した。一つはもちろん明士の分だ。流真は食卓テーブルにさり気なくコップを置くと、定位置に腰を下ろし向かいの席に明士が着くのを待つ。

 明士がわざと音を立てて本を閉じた。
「別にって感じじゃないけどね」 
「…そんなことねーよ」 
 流真は、もじもじと落ち着かない様子でジュースを一気に飲み干した。
「気持ち悪いなぁ。もしかして彩が居ないから落ち着かないの?」
 会話を楽しむには雰囲気を盛り上げる彩が必要なのだろうか。

「彩がいないだけでこうも静かになるんだね」
「そんなんじゃねーってば」
「……じゃあ一体何なわけ?」 
 流真が、不機嫌そうに口を尖らせ目を細める。
「……もしかして妬いてるの?」
「はぁあ?!」
「先生が僕にキスしたから」
 人工呼吸のことだ。
「ち、ちがっ違う! 別にっそんなんじゃっ………そんなんじゃ………ないよ。馬鹿なこと…言うな…よ……そんな、こと」
 どんどん声が小さくなって最後にはごにょごにょと口籠もって消えた。
「顔赤いよ、流真」
「赤くねぇよ!」
 耳まで真っ赤だ。明士はたまらず声を上げた。
「あははっ 剥きになるってことは正解なんだね」
 冗談で言ったつもりだったのに大当たりだった。そんな流真が可愛く思えて、明士はにちょっとだけ意地悪をしたい気持ちになった。
「じゃあ…どっちに妬いてるの? 芳凛先生に? それとも僕にかな?」
「~~~ッ」 
 紅潮した顔で明士を睨む緑瞳は、憂いを帯びている。
「もう寝るっ!」

「はいはい、おやすみ」
 流真は勢いだって立ち上がると寝室へ逃げ込んだが、ベッドに潜り込む時に生じる擦れる音は聞こえなかった。ベッドの下で膝を抱え蹲っているのだろうと思うと、なおさら可笑しくて明士は失笑した。
(バカ正直だからなぁ、流真は…) 
 異性への特別な感情は掟に反することなのに、率直な性格の流真はすぐ顔に出る。感情豊かと言えば長所に聞こえるが、禁忌を犯すには不向きだと言えた。
(だめだよ…流真)
 選ばれし者に自由なんてない。
(芳凛先生とずっといられたらなんて、そんな夢を見ちゃいけない)
 不必要だと理性で理解できていても、心が認めない。

 明士は流真の気持ちを考えると少し胸が痛んだ。
 追い求める想いは何の役にも立たない。恋などと呼ぶものは、自分たちの世界にはないんだと、明士は思っていた。生きるか死ぬかの状況下では余計な感情は足枷の重石になるだけだ。

 明士は冷静に物事を捉えることができていた。

 館内に鳴り響く、緊急避難の警報の音を耳にするまでは。

 

 

  ◇◇◇

 

     

 夜、二十三時を回ったころだ。
 突然鳴り響いた警告音に、第二棟館内は一瞬で不穏な気に包まれた。

 騒然と生徒たちが自室から飛び出す。
「早く!! 全員部屋から出なさいっ。急いでッ!!」

 慌てふためく生徒たちを誘導するべく現れたのは、当直当番の咲矢だった。
 最上階である五階から順番に生徒を引き連れて非常口の扉を開け、急ぎ足で階段を駆け下りる。避難場所は地下だ。昇降機は閉じ込められる危険があるためあえて使わないことになっていた。
 咲矢と芳凛の生徒が三階。鈴音と准貴、そして華艶の生徒が二階の部屋だった。
 自室を出た明士と流真は非常口の扉の前で待機していた。少し遅れて、化粧っ気のない顔の祥子が少年を背負って現れる。
「遅いぞ、祥子」

 流真が口を切った。

 祥子の背におぶさり、十歳の少年が眠そうに欠伸をしていた。
「悪い。亜樹が寝てて……彩は?」
「双子たちの部屋に行ってるんだ。きっと一緒だよ」
 明士はそう答えつつも嫌な予感がしてならなかった。
 非常口が開かれ咲矢が険しい面持ちで生徒たちと相対した。
「準備万端ね。可年組に続きなさい」

 咲矢の後ろについていた上級生たちが階段を下って行く。
「先生。彩が双子たちの部屋にいるらしいんだ」
 祥子が伝えると、咲矢の表情が一瞬曇った。

「そう……でも、とりあえず地下へ行くのよ。いいわね?」
 流真と明士ちも促され、祥子に着いて階段を下る。しかし、二階の非常口の扉が開かれたとき、そこには彩と双子の姿はなく、舜が准貴の生徒である櫂と恭啓を引き連れて待っていた。

 櫂と恭啓は何とかレンジャーのイラストが入ったパジャマを揃いで着ていたが、流真たちにからかう余裕はない。
「オイッ! 彩と双子はッ!?」
 流真が舜に突っかかり襟首を掴む。意味がわからない舜は怪訝そうに流真の手を払い除けた。
「何言ってんだお前…」
「双子の部屋に行ったきりなんだよっ!」

「やめなさい、流真ッ!! 口喧嘩なんかあとでいくらでもできるわ。今はとにかく階段を下りるのよ。地下へ着いたら可年組の教員が誘導してくれるから。さぁ! 行きなさいっ」
 咲矢が強引に生徒たちを非常階段へと押しやるが、隙をついて流真が二階の通路へと踏み込んだ。
「流真!? ちょっ待ちなさいっ!! ダメよッッ! 流真ッ」
 明士も後を追おうとするが咲矢に通路を阻まれた。
「どいて下さいッ!!」

 風もないのに、咲矢の白髪が揺れている。
「……よく聞きなさい、明士。流真は私が連れ戻すから――」

 真剣な眼差しの咲矢の顔が、明士には強張ったものに見えた。
「なぜ、流真だけなんです? 彩も双子たちもいないのに…ッ!」

 明士は勘の良い生徒だと咲矢は痛感したが、一度吐いた言葉は呑めない。
「今あなたと口論している時間はないのよ。賢いあなたなら分かるはず。舜! 明士を連れて可年組と合流しなさい」

「ええ?!」
 躊躇う舜に咲矢が一喝した。
「早くッ!! これ以上時間を無駄にしないでッ」    
「はっははいッ 行こうぜ、明士」
 舜が明士の腕を掴んだが、その手を明士は大きく振り払った。舜の前にいるのは、いつも笑顔を絶やさない温厚な明士ではなかった。
 刺々しい態度。咲矢を睨みつける藍色の双眸が、何かあったら許さないと強く訴えている。 
「……」
 明士は黙って舜に続いて階段を下りた。
 足音が遠ざかるのを確認し、咲矢が二階の通路に入る。
 閉じた扉に結界を施した方がよいか迷ったが、やめた。

 流真を一人で地下へ行かせることになるかもしれないと思ったのだ。

 

 
 向かう先が例え暗闇でも一滴の光があれば希望が生まれる。
 儚き者の瞳は絶望を示し、影を生み落とすさまを見出したとしても。
 光を拒む手はその中に暗雲を掴み、嘆きの神は癒しの雨を血に染めるのだ。

異形の者

 ――どうして、こんなことになったのだろうか?

 

「さ、彩……」 

 麻雛の声が震えている。

 雛叉と麻雛は自室で彩と相対していた――いや、彩らしき者と言うほうが正しいかもしれない。

 双子たちは数分前のことを思い出していた。  

 

 彩は、夕食も入浴も終えて後は寝るだけという姿で双子たちの部屋を訪れた。

 女子たちのお喋りタイムは長引くのが定番だ。お菓子やジュースも用意したうえで、双子たちも寝間着姿。準備万端といった様子だった。

 彩たちが休憩時間に手伝ったおかげなのだろう。用済みの段ボールが折り畳まれて片隅に置かれ室内は片付いていた。部屋の間取りや広さは二人だろうと三人だろうと同じであった。

「やっぱり広く感じるね~」

 彩がのほほ~んとした口調で話す。

「そお? でも男の子は荷物少ないんじゃない?」

 麻雛がポテトチップスをかじりながら訊いた。

「んっとね~そうでもないよ~。流真も明士も本が多いんだよね~」

「本?」

「そうなの~流真は漫画本なんだけどさ~。単行本じゃなくて雑誌を溜めてるんだよ~だからかさばっちゃうの~」

「明士は?」

「なんか難しい本読んでる~」

「参考書とか?」

「んっとね~…………多分そんな感じ~?」

 分からないんだろうな、と双子たちは思った。

「ねえ、やっぱりさ。男の子と同じ部屋って緊張する?」

 雛叉が話題を変えた。

「なんで~?」

「……もしかして何も感じないの?」

 麻雛が訊くと、彩は首を傾ける。

「何を感じるの~? 双子ちゃんたちはおもしろいね~」

「だって、流真も明士もかっこいいじゃん」

「かっこいいって誰が~?」

 彩がクッキーをかじる。

「だから、流真も明士も、だよ」

 双子が同時に言った。すると、彩が口許に笑みを浮かべこう言った。

「『男女の繋がりは禁忌とする』」

 その凛とした声に双子たちは背筋が緊張した。

「でしょ?」

 彩の表情がすごく大人に見えたのは一瞬だ。

「あ! そうだ。今度は舞ちゃんや祥子ちゃんも呼ぼうよ~」

 いつもの彩の表情と口調になぜか双子たちは安堵した。

 そして、就寝時刻が迫り彩は双子たちの部屋を出て行った――と、思ったのだが、入り口は再び開かれた。

「どうし……たの…」

 麻雛の言葉が途中で切れる。視線の先には、血に飢えた獣のような眼光を放つ彩の姿があった。しかもその背後には――
「麻美弥くん?!」
 胡乱げな眼差しで彩の背後にぴったりと立つ麻美弥の姿は不気味だった。まるで彩を操っているようにも見える麻美弥の様子に、双子たちは違和感を覚えた。

「なんで麻美弥くんが…!」

 異様な空気が漂う中で、双子たちは各々身の危険を察知した。

「雛叉………私が二人に結界を掛けるから、緊急ボタンを押して。いい? チャンスは一回きりよ」
「でも、失敗したら――」
「バカッ そんなこと言ってる間に喰われちゃうわよ」
 二人の脳裏に浮かび上がったのは、今日授業で初めて見た彩の姿だった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 暴走とは――選ばれし者の覚醒に伴う暴発的な症状の一つである。

 体内から湧き上がってくる力を抑制できず、異形者特有の欲望に精神を呑まれることをいうのだが、流真と明士の暴走は珍しいタイプだった。

 彼らの暴走は反動を自分の体のみで受けているが、本来暴走とは外部への向けられる危害がもっとも多い。本能のまま闇雲に暴れるだけの者と、人間を襲い傷つける者。そして、人間や生き物を襲う者には、命を奪うだけの者と、血肉を食らう者と分類されていた。

 典型的な暴走者の姿は、浮き世の世界で生きてきた人なら、月に二、三度の割合で目にするほどだ。その中でも彩は、後者である血肉を喰らう者と思われたが、実際は違ったのだ。

 麻雛の結界が包囲する中で意識を失った彩は、結界壁の外に居る自分たちへ大人びた笑みを浮かべ、こう言った。

 

『大丈夫。私は傷付いたりしないから』

  

 キョトンとする麻雛と雛叉であったが、流真と明士の冷めた眼差しに違和感を抱いた。

 柔らかい毛先が宙に揺れていても、滲みだす気は波風起こさず穏やかだった。

 だから、双子たちは自然と思った。彩は力を抑制できているんだと。しかし、

「基本資質を複数持つ者の特徴は、特異な暴走癖持つことらしい」

 芳凛が、独り言のように告げると、華艶へ結界を引き継ぐよう合図を送った。

 華艶が麻雛の結界の上に自分のそれを重ね合わせると、芳凛が結界の内側へと入り、彩と対峙した。

 すると、彩はまた微笑を浮かべこう言った。

『……だめよ、あなた。私そんなに我慢強くないの知ってるでしょ?』

 いつもの甘ったるい彩の声ではなかった。

「知ってはいるが、お前も彩から言われているだろ?」

『それは………あなたの言うことを聞けってことかしら?』

 クスクスと笑う彩。芳凛は単調に返した。

「違う。力のコントロールを覚えろということだ」

 言い終わると同時に、芳凛が彩の頬を張り倒した。

「なっ?!」

 予想外の出来事に目を瞬いた麻雛は、その瞬間気が抜けたのだろう。本日二回目の結界破壊の衝撃を受けたのだった。一方、雛叉はというと、麻雛のことを心配する余裕もなく、彩の姿に目を奪われていた。

「……どういうことなの!」

 彩が芳凛の腕に噛みついて、ぶら下がっているではないか。

 暴走者特有の気の乱れは一切感じられないというのに、血をすする卑しい音はしっかりと耳に届いていた。

 雛叉は顔を顰める。暴走していないならなぜ、血肉を求めているのか。雛叉は混乱していた。

 眉一つ動かさない教員たちは、さすがと言うべきなのか、非情と言うべきか。

 芳凛は、容赦なく彩が噛みついたままの腕を横振りにし結界壁へと叩きつけた。

「――ッ」

 強化ガラス以上に強固な結界壁に体を打ちつけた衝撃で彩の口は腕から外れたが、唇に付着した血を舌でペロリと舐めていた。

『あなたの血ってホント美味しい……なぜかしら? 門番の血は皆こんなにもおいしいの?』

 彩は口角を吊り上げて笑うと、耳朶を突く高音を発した。

 キィ――――ン…

 と、室内に木霊する超音波に、思わず耳を塞いだ生徒たち。芳凛と華艶は涼しい顔をしていた。

「もう、終わりか?」

 肩で息をする彩に、芳凛が問うた。

『……私に何の得があるのか彩に聞いたわ』

「それで?」

『私がこのままじゃ彩を壊してしまうんでしょ?』

「……」

『私ばかじゃないの。だからあなたの言うことは聞くことにするわ』

「ほぅ。微々たるもんだが進歩だな」

『そうね。だから心配しないで。私は傷付いたりしないから――――』 

 彩はそう告げると、体をゆっくりと床に寝かした。そして、十秒ほど経った頃、顔を伏せた彩が曇った声で呟いた。

「………痛いよ先生」

「そうだな。でもよくやった」

「へへへ…褒めてくれる?」

「ああ」

 芳凛は、素に戻った彩の頭を優しく撫でた。

「今のは……何?」

 雛叉は状況の把握ができていない。

「彩は二重人格者なんだよ」

 答えたのは明士だ。

「二重?!」

「彩はお姉ちゃんって呼んでるけどね」

 無表情で彩を眺める明士の隣で、流真が相槌を打った。

「姉ちゃんは恐ろしく彩一筋でさ……。俺たちにも容赦なく噛み付いてくるから理解させるまで大変だったんだよ」

「噛み付くってことは暴走してんじゃん!」

「いやいやいや。それがまた別問題なんだよな。あの姉ちゃんの場合、暴走するしない関係なく、まず敵だと感じたら襲ってくるんだよ。でも今は大丈夫だぞ。先生が説明してからは噛みにこなくなったからさ」

 それって本当に大丈夫な話なんだろうか?

「姉ちゃんはさ。普通に彩を守ってるつもりなんだろうけど、とにかくズルいんだよ。俺らが寝てるときに現れて噛むのなんの…さすがの俺も、横っ腹を噛まれたときは頭張り倒したくらいだからさぁ」

 ははは、と引き攣った笑い声を上げる流真であるが、明士は深刻な面持ちであった。

「そしたらそのあと暴走が始まってほんと、大変だったよね……」

「あんときの姉ちゃんすっげー恐かったよな…」

「うん…」

 流真と明士が冷めた目で見つめていたわけが、何となくわかった雛叉だった。

 

 

 ◇◇◇

 

 追憶を終えた雛叉は、恐怖ですくみそうな足を必死で立たせていた。

 座り込んだら終わりだ。麻美弥はともかく、彩は容赦なく襲い掛かってくるだろう。

「ダメもとでもやるしかない。次の機会はきっとないから」
 覚悟を決めた麻雛。雛叉も腹をくくった。
「…わかった」
 運がいいのか悪いのか。今日習ったばかりの術が、こんな形で役立つとは思いもしなかった。恐怖心からか麻雛に自嘲した笑みが出た。
「こうなりゃ妬けだわ」
 一拍あけて言霊を唱えると同時に、雛叉が入り口へと駆けた。

 壁に備え付けられている緊急ボタンを塞いでいる蓋ごと力いっぱい叩き割る。

 けたたましく鳴り響く警告音にすら反応を示さない彩を麻雛の結界が取り囲うと、雛叉は入り口の扉を開け放った。
「先生!! 華艶、先生ーーーッ」
 咄嗟にでた名は担当教員の華艶だったことに、雛叉自身驚いていた。
 警報が鳴り渡る通路には、双子たちの部屋を除外するように防壁が左右に聳え立つ。
「な、何よこれっ!?」
 隔離されたのだ。
「ど、どうしたらいいの……」
 閉じ込められた。雛叉は漠然とした失意の中に身を投じそうになった。
「ひ、な…雛叉っ」
 雛叉は恐怖を振り払い首を左右に振り、麻雛の傍に向かい両肩をしっかりと抱いた。

 麻雛は彩に掛けた結界に圧を掛ける。だがそれは玉子の殻のように薄いものだった。
「…そばに、いてよね…」
 力なく麻雛が言う。      
「わかってる。ずっと一緒よ」

 雛叉と麻雛は、途中覚醒者ではなく力を宿し生まれた双子だった。彼女たちの覚醒は誕生と同時なのだ。

 戸籍上は麻雛が姉になっているが、本当はどちらでもない。無残に大破された分娩室に駆け付けた救命士が、たまたま先に抱き上げたのが麻雛だっただけ。

 生まれた時も二人。だから生きるのも死ぬのも二人だと、雛叉は思っていた。

 運命が二人を分かつ時を告げたとしても、何があっても離れない。彼女たちはそう誓い合い生きてきたのだ。

 結界壁に蜘蛛の巣のようなヒビが入る。

 雛叉は麻雛を強く抱きしめた。

(割れちゃうっ!)

 もうだめだ。そう覚悟を決めた時だった。

 閉鎖された通路の防壁を打ち砕く爆風とともに姿を現したのは、准貴と鈴音だった。
 ずかずかと部屋へ入る准貴の後ろから鈴音が叫ぶ。

「大丈夫!? 雛叉、麻雛!!」   

 呼びかけと同時に麻雛の結界が砕け散った。反動が麻雛を襲う。雛叉は麻雛に飛びついて必死で守ろうとしたが、力及ばず一緒に飛ばされた。

「ッ!」

 壁に叩きつけられた衝撃に備え、二人は無意識に体に力を込めた。しかし、壁に激突したのは准貴だった。彼は身を挺して彼女たちを庇ったのだ。
「いたたた……くそっ…二人とも無事か?」
「…准貴、先生……」

 双子たちの目に涙が浮かんだ。准貴が壁と双子たちの間に入ってくれたおかげで二人は無傷だ。だが、准貴を見て気が抜けた麻雛は一言も発することなく意識を失った。
「おいおい……ここで気絶するか?! 雛叉、お前は動けるんだな?」
「は、はいっ」
「よし! それじゃあとりあえず非常口へ出ろ」

「へ?」
 准貴が麻雛を抱き上げる。鈴音が結界を張っている間に生徒の避難が優先された。
「でも、先生…麻美弥くんが…」
「今、近づくのは無理だ。鈴音が囲ったからな」
 今の中央では、床に片膝を付き両手を結界壁に添える鈴音がいる。鈴音の結界の中にはもちろん彩と麻美弥がいた。麻美弥はやはり、彩の背後にぴったりとついている。

 准貴が僅かに目を眇めた。

「先生ッ。彩の様子がおかしいの」

「……」

「私たち、今日一緒に授業受けたんだけど、彩の暴走はあんなんじゃないのッ」

「……」

「よくわかんないけど、彩ちゃんの中にはもう一人彩ちゃんがいるのよ。選ばれし者の力を持っているのはそのもう一人なの。でも彼女の暴走は普通のものとはちょっと違ってて、何て言うかちゃんと会話ができるのよ! だから彼女言ってた。私は傷付かないって。でも今は――」

 よだれを垂らし咆哮を上げる彩へと視線は向けられた。

「あんなの彩の暴走じゃないッ」

 黙って雛叉の話に耳を傾けていた准貴がようやく口を開いた。

「わかった。でも今、お前ができることはここから離れることだ。それはわかるよな?」

「――――はい」

 准貴は項垂れる雛叉の背中を押しやると、麻雛を肩に担いで部屋を後にした。

 非常口へと向かう途中。前方から駆けてくる流真を見て驚いた准貴は思わず怒鳴った。
「何してんだ、お前っ! さっさと地下へ行けっ!!」
 流真の耳には聞こえていないようだ。准貴を完全無視して雛叉に話し掛けた。
「おいっ! 彩は? 彩はどうしたんだよ」

「え…と、その…」 

 狼狽える雛叉の肩を流真が掴む。
「なんで彩と一緒じゃねーだよっ!」
 流真は雛叉を突き飛ばして駆け出した。
「ちょっ、待てこらぁーッ!!」
 准貴は追いかけようとしたが、肩に担いだ麻雛を放り出すわけにも行かず立ち尽くす。そんな時、
「准貴ッ 流真を見なかった!?」
 咲矢が流真を追って非常口から出てきたのだ。
「おお!! ちょうどよかった。麻雛を看てやってくれ。俺は流真を捕まえてくるから」
「逃がしたのっ!?」

 信じられないという表情をした咲矢に、准貴の心は少し傷付いた。
「しかたねーだろ! 俺は麻雛を抱えてたんだよっ」
 ちゃっかり言い訳だけは忘れずに、准貴が身を翻す。
 流真に彩の姿を見せるわけにはいかないと思い、准貴は全力疾走した。しかし思いの外流真の足は速かった。准貴が到着したときにはすでに流真は部屋の中に足を踏み入れていたのだ。
「さ、い……?」 

 胡乱げな眼差しを流真に向けた彩は、にやりと歪んだ笑みを刻んだ。

(…なんだ? 姉ちゃんじゃない……なんでッ)

 流真の戸惑いが手に取るように准貴には分かった。

 理解できているつもりでいたことが、一変して裏返ってしまった。だから、彼は彼女に裏切られたようにも感じているのかもしれないし、拒絶されたようにも感じているかもしれない。

「お前がここに居ても何にもならないんだよ。いいから地下へ避難しろ」
 准貴が腕を掴む。放心状態の流真は、腰が抜けたように座り込んでしまった。
「マジかよ! しっかりしてくれよ…」 
  だから言わんこっちゃない。
「…がう……こんなの彩じゃない…」
 彩を凝視する流真の瞳が揺れている。
「そんなことわかってんだよっ! だからとりあえず――」
「こんなの暴走じゃないっ! 何なんだっ 彩はどうしたんだよっ」
 すがりつく流真に准貴は何も答えなかった。
 確かに彩は暴走しているわけではなかった。だから、流真を仲間だと気づくはずがない。

 彩は、異形の残影にとり憑かれ肉体を異形に操られているのだ。しかも、その原因を作ったのは、彩の背後に張り付いて離れない麻美弥だった。

(……隔離されたはずの麻美弥が何でうろついてんだよ、くそったれっ!)

 准貴は胸の内で歯噛みした。
「何をしている?」
 准貴が咄嗟に振り返った。
「……芳凛…」
  その名前に流真がぴくりと反応を示した。
「――せん、せい……彩が………」
 芳凛は、流真に一瞥もくれずに鈴音へと歩み寄ると、後ろに立った。
「状況は?」
「よくないの一言よ」
「この様子じゃあ、大層なことになりそうだな…」

「ほんと、その通りだわね」

 隔離したはずの生徒がなぜ自由の身になっているのか。

 生徒ですら感じる異様さ。教員なら抱く疑念はそれよりも強いはずだ。しかし、それは今解決すべき問題ではないことを教員たちは分かっていた。
 彩の視線が芳凛へと移る。
「クックク……ヨウヤク、見ツケタゾ……ッ」

 聞き覚えのある少女の声音ではない。芳凛の眼差しが剣呑なものへと一変した。 
「ほぅ…………言葉を話すとは、雑魚ではなかったか」
「ねぇ、芳凛。結界を縮めるから麻美弥をお願いできる?」

 背中越しに交わされる会話。芳凛は即座に返した。

「承知」
 その言葉の余韻が消え止まないうちに、鈴音が床に両手をついた。
 空気が張り詰め、ざわめく。
 少しずつ結界範囲が圧縮されているのだ。だが、あざ笑うように異形のものは告げた。
「逃ガサヌヨ……逃ガサヌヨ……コレラハ、我ノモノトナッタ…」
「あいにくだが、貴様にくれてやるものなど持ち合わせていない」
 芳凛が話しながら麻美弥へと歩を進めた。
 鈴音によって拘束された異形は、身を縛る結界の中でも狂気に満ちた笑みを絶やさなかった。
 芳凛は彩の後ろで呆けている麻美弥の背中へと手を伸ばすと触れる手前で気を放つ。
「ガァッ」
 麻美弥は白目をむいて倒れた。

 芳凛は、麻美弥を肩に軽々と担ぎ上げると異形から距離を取る。
 台所の近くで座り込んでいる流真には目もくれず、
「准貴。一緒に連れて行け」
 そう告げると、麻美弥を放り投げた。
「おおおおっと、あっぶねーなッ!? もっと優しくしてくれよ!」
「うるさい。さっさと連れて行け」
 芳凛は冷たく言い放つ。

 異形の力が増幅した。

「逃サヌト申シタゾ……!」
 波打つ気は波紋を広げ疾風を生み出す。鈴音の結界を破壊するつもりだ。
「甘い、わよッ」
 鈴音が声高らかに力を解き放つ。
「汝、主を示せ。闇のくさび。暁に見える星。イベラの契約。繋ぎし波風。北方より来る風。我が声に応えよ」
 結界がギシギシと音を立てひしめいた。
「流真さっさと立て!」
 准貴が力ずくで流真を立たせると、麻美弥を担いで開かれたままの入り口へと向かった。しかし、扉は鼻先で閉じられる。
「ヤラヌヨ……ソレハ、主ノにえダ……」
「贄ですって? おかしなこと言う異形ね」
 鈴音が咄嗟に返した。
「くそっ! 開かねーぞ!」
 舌打ちする准貴。
「どうする芳凛。准貴がもたついてたせいで閉じ込められたわよ」 
「俺のせいかよっ! そういえば葎たちはどうしたんだっ」
「ばかね。医務室に生徒がいるでしょ。華艶と向かったんだわ。助勢は望めないわね」
 医務室には残影が憑いた生徒を眠らせていた。麻美弥が抜け出したが、あともう一人舞が眠っているのだ。
「――なぁ…ドアぶち破ってもいい?」
 准貴が素で訊いた。
「許可してあげたいけどね…だめよ。彩に跳ね返っちゃう」
「じゃあ、どうするんだよッ」
 准貴が声を荒げた。

「うるっさいわね! 大きな声出したって何も変わんないわよッ」

「それもそうだな。ごめん」

 一人納得する准貴に、鈴音は苛立っていた。

「鈴音。准貴たちの所へ下がって結界を張れ」
 唐突な芳凛の指示に、鈴音は当惑した。
「いいけど………一体何をするつもり?」
「そのあと、彩の結界を解いて准貴たちの結界を強化しろ」
「ちょちょっと待って…」
「待てない。こうしているうちにも彩は闇に落ちる」
 落ちたら最後、もう戻らない。
「わかったわ!」
 じりじりと鈴音が後退した。准貴たちを背に庇い、結界を成す。
「芳凛は来ないのか?」
「ばか。あんたも防御してよね。言っとくけど、結界だけじゃ芳凛からの衝撃は免れないわ」     
「マジかよッ」
 鈴音が手を打ち鳴らした。

 彩を囲っていた結界が崩壊すると、異形が放つ疾風が室内を巻き込んで威力を現す。
「きたわよ!」
 准貴が慌てて鈴音の結界壁に手を添え発動した。
「くそっ!」
 結界だけでは余波は防げない。透明だった結界壁が白く濁る。結界が強化されたのだ。

 黒髪が激しく舞い上がる。風刃は芳凛の体を切り刻んで鮮血が烈風に飛散した。その後ろ姿を見守る准貴が息を呑むと、脳裏に映像が浮かび上がった。

 闇夜を背中に背負い、月よりも煌々と輝きを放つ少女の姿だ。

「……ア、アァ………オマエ…ハ、闇ノ………声………ノ者カ……?」
 風音が耳朶を打つ。彼らの声は鈴音たちの耳には届かなかった。
「闇の、声だと?」
 芳凛が鼻でせせら嗤った。
「戯言を。このまま立ち去れ。今なら見逃してやる」
「……かぐわシイ…美シイ者ヨ――――オマエハ……彼ノ者カ…? 似テイル……我ラノ…主…」
「他人の空似だ」 
「…違、ウ……違ウ……違ウ…違ウゾ…ッ!!」
 彩の中の異形は興奮していたが、芳凛は淡々と返す。
「そうだ。私はお前の主じゃない。お喋りは終わりだ」 
 最期の言葉を告げると同時に、芳凛は一歩足を踏み出す。瞬きよりも早く異形の背後へ回り込むと、芳凛の左手が彩の背中に触れた。
「主の元に帰るがいい」
 芳凛は容赦なく気の波動を打ち放つ。
「ガハッ…!」 
 仰け反る身体。背骨が弓のようにしなった。
 彩の口から吐き出されるのは煤煙だった。宙を彷徨い天井へ張り付く残影へと芳凛は右手を伸ばした。拳を開き、
「塵の如く消しされ。この手の中は混沌だ」
 握り潰すように拳を閉じる。残影は芳凛の手によって消散されていく。 
「違ウ……オマエ、ハ………アノ……」 
 やがて残響は失せて、芳凛の腕の中に彩が抱かれていた。

 芳凛は彩の額に手を当てる。残影の気配が完全に消えたことに息を延ぶ。
「終わったわね…」
 鈴音が力を抜いた。結界が解かれると流真が彩へと這うように近寄ると、横たわる彩の顔を見て安堵した。と、芳凛の指が流真の額に命中した。
「痛ッ」     
「ばかが…。足手まといもここまで立派だと殺意を覚えるな」 
「…う……なんだよ。彩が心配だったんだから仕方ないじゃんか」
 流真が額をさすっている。
「お前の命は、仕方ないで捨てれる程度なのか?」
 流真が押し黙った。芳凛はため息を大袈裟についた。
「自分の命も守れんやつが一体誰を守るというんだ?」
「――ごめん……なさい」
「運がよかったと思え。次はない。鈴音。とりあえずこの場で彩を守護してくれ。私は葎の元へ行く」
「わかったわ。ほらっ流真、邪魔だからそこどきなさい」
  すっかり邪魔者扱いを受ける羽目になった流真だったが、彩が無事でなによりだった。
「じゃあ俺はこいつらを地下へ引っ込めてくるとするか」 
 准貴がおどけた笑顔で扉を開くと、開かれた扉の先に、咲矢が神妙な面持ちで待ち構えていた。
「なんだ咲矢。待ってたのか」
「……ええ、入れなかったのよ―――で、無事終わったのかしら?」
「まあな」
「そう。じゃあ、准貴と鈴音はそのまま地下へ行って生徒を確認して。そのあと明士と舜を探すのを手伝ってちょうだい」
「舜がいないの!?」 
  鈴音が驚きの一声を上げた。流真も呆然としている。まさかあの明士が行動に出るとは思いもしなかったのだ。
「……慎重派の明士がね。まったくほとほと手を焼く生徒ばかりだ」
  芳凛が嘆息した。

 

 夜風が嵐を呼んでしまった。吹き荒れる守りの森は、不気味な動きを影に刻む。

 それはまるで、大きく体を揺らし何かに向けて威嚇しているようだった。

 

白きものと黒きもの

 咲矢が芳凛と肩を並べて医務室へと向かっていた。

 特殊回路はいつもと変わらず寒々としている。

 二人の足音が交互に響いた。まるで音を刻むように。
「知らない間に仲良くなったみたいね」
 沈黙を破り先に口をついたのは咲矢だった。
「何が?」

 芳凛と咲矢は、前方を見据えたまま慌てる様子もなく一定の歩幅で進んでいる。
「鈴音と准貴よ。それにあなたもね」
 芳凛は無言で返す。咲矢が何を言いたいのか察したからだ。咲矢が含み笑いをする。
「何だ?」
「別に。准貴の誘いは断ったんでしょ?」
「……だから?」
「葎が喜ぶわ。あなたが葎から離れない限り、彼はずっとあなたを想い続けられるもの」 
 嫌味を感じるには十分すぎる言葉をあえて咲矢は口に出した。だが、芳凛から聞かされる答えは咲矢の想像以上に冷めたものだった。
「お前が傍にいてやればいい」
 不快感を感じながらも咲矢は平常心を保つ努力をしていた。
「ええ…いるわよ…貴女よりもずっと近くに――でも………私じゃダメなのよ」
「――」
「分かってるんでしょ? 葎は貴女が…」
「咲矢」
 芳凛は一言で咲矢の言葉を打ち止めた。

 白い瞳に映る黒瞳は揺れていた。

「…いいじゃないの。貴女と二人きりで話す機会なんて滅多にないんだから。あなたは私を避けているようだし」
 事実なのだろうか。芳凛は返事に迷っているようだった。
「お前と話す必要があるとは思えない」  
「逃げないで。たまには話を聞いてくれてもばちは当たらないと思うわ」
「……葎に聞いてもらえばいい。私は面倒なことに関わりたくない」
「そんな事を言ってもだめよ。すべてはあなたを中心に回ってるんだから」
 芳凛が立ち止まる。数歩先で咲矢が振り返った。
「……回りくどい言い方をせず、はっきり言ったらどうだ?」
 咲矢の目が芳凛の右腕に移る。衣服に染みていた血が範囲を広げている。
「……傷が――」
 芳凛はすべての資質を持つ特殊な門番だ。当然、自己治癒能力の高いスノウも持っている。スノウを持つ身にしては傷の治りが遅い、と咲矢は思った。
「…葎が、嫌がるわ」 
 咲矢が伸ばした手を芳凛は振り払った。

 芳凛は咲矢を見据えた。
「葎が嫌がろうが関係ない。私は私の仕事するだけだ。無意味な話を続けるつもりならお喋りは終わりだ」
「でも、あなたは今、仕事の話じゃないのに私と喋ってくれてるわ。それって葎が関わることだからでしょ?」
 咲矢は芳凛の口から何を聞きたいのだろう。
「……ねぇ芳凛。あなたはこの世界のしがらみにいつまで付き合うつもりなの? 大樹は次の手を打ってくるわ。華艶を寄越したのだってそう。その時、葎はあなたを守るためにまた傷付く。あなたを手元に置くために、彼がどんな犠牲を払っているのか知ってるんでしょ?」
「……どのことを言っているんだ?」
 咲矢が怪訝な顔をした。芳凛の言葉はまるで咲矢より葎の事を理解しているように聞こえた。
「どのことって…どういう」
 芳凛の双眸は咲矢を冷酷に見つめる。ぞくりと背筋に冷たいものが伝う。鈍っていた感覚が研ぎ澄まされる瞬間だった。
 追憶の狭間に仕舞い込んだ脅威を思い出し、咲矢は戦慄を覚えた。
「―――白けた話だな。お前は私よりも葎の傍にいるというのに…憐れだ」
 嘲笑した台詞を口にするその様ですら彼女に尊さを感じてしまう。咲矢はそんな自分が嫌いで仕方なかった。
 どれだけの生きとし死せるものたちが、幾度となく輪廻を繰り返そうとも変わらないものがある。
 遥か昔、付き従い共有した時間を思い出させても、それは芳凛のようで芳凛ではない。

 その者が言っていたのだ。
『自分がしたい事と、するべき事は違う』
 咲矢は怖かった。芳凛がすべて奪い去るのではないかと。大切なものを穢してしまうのではないかと。
「……お願いよ、芳凛。葎を開放して……あなたの言うことなら聞くかもしれない」
「葎が選んだ道だ」
 芳凛が軽く首を振った。咲矢の目は涙で潤んでいた。
「お願い。彼を止めて」
 もう、彼の手は重さに耐えられない。双肩に圧し掛かる犠牲は彼には重すぎる。
 そう、泣き崩れる咲矢を無表情に見つめる芳凛の背後から、思い掛けない声が掛けられた。
「血に塗れた手はもう元に戻らないよ、咲矢」 
 咲矢が震骸して顔を上げた。
 潤んだ瞳に映ったのは、淡い切なさ含んだ笑みを浮かべる葎だった。
「芳凛の言うとおりだ。俺の選んだ道なんだよ」
「…ど…うして……」
 いつから聞いていたのか。そう訊ねたかったが、声にならなかった。
「葎」
 芳凛が呼ぶ。ごく自然に呼ばれた名には、微塵の動揺も色づいていない。
 その時、咲矢は心底脱力感を味わった。自分がどれほど懸念ししがみつこうと、芳凛の心を動かすことはできないのだと痛感したのだ。
「華艶は?」
「いや、そのなんだけど、厄介な事になってね」
「厄介事?」
 咲矢が毅然と振舞い、会話に入った。

 涙を拭い背筋を伸ばす。彼女もまた、与えられた仕事を遂行しなければならないのだ。
「舞の様子を華艶と見守っていたんだが、その、ある二人の生徒が飛び込んできて……それで、ただ今『暴走』中だ」
 苦笑いをする葎に芳凛と咲矢は言葉を失った。
 一難去っててまた一難。慌ただしいこの世界は、休む時間を与えてくれるほど優しくはなかった。
 

精霊の花劉

 蹲うずくまる明士。

 雄叫びをあげる舜。

 明士に襲い掛かろうと手を伸ばし涎を垂らす舞。

 正常な医務室を思い出せないくらい荒れ果てた室内は血生臭い空間と姿を変えていた。
 長城きっての美貌の持ち主と謳われる美女二人は、その情景を目にした途端、端麗な顔に陰を落とす。
「まいったわね…」
 咲矢がぼそっとぼやいた。
「なんでこんなことになったんだ?」
 准貴がさっぱりわからん、とばかり腕組みをして唸った。
「しかしまぁ……その、あれだな。芳凛と鈴音は大当たりだな」
  能天気な准貴の台詞だが、そのとおりである。鈴音は見事に全滅だ。さすがの鈴音も愚の根も出ない。
 華艶が三人の生徒に拘束をかけているとはいえ長続きはしないだろう。のん気な教員たちは医務室内で作戦会議を開いていた。
「『ただの』暴走を起こしてる二人を先にとめるか?」
 准貴が提案したが、鈴音に即座却下された。 
「だめよ。舞は残影持ちで暴走してんだから、先に舞を抑えなくちゃ」
 鈴音が言う。
「あぁ……何て言ったらいいのかしら。ここまで面倒なことになると笑うに笑えないわ」  
 咲矢が落胆している。
 そんな井戸端会議をしている最中に、誰かの血が准貴の頬に的中した。
「うおっ!? なんでもいいから早くしようぜッ あいつら出血多量で死にそうだ」 
 准貴の一言が決め手になった。
  数分後――。血まみれの三人の生徒が瀕死の状態で床に転がっていた。
「――――」
「――…」
「――…」
「えー…っと…とりあえず」
 鈴音が舞の治癒を始めた。それを見て咲矢が舜に取り掛かる。もう一人、明士を見下ろす芳凛はなぜか迷っていた。
 明士の『暴走』症状はいつも内側からだった。

 本日二回目の吐血。さすがにまずい。ここは『移し身』を行うのが妥当だろう。
 分かっているも葎の目が気になった。咲矢との会話のせいなのだろうか、芳凛は躊躇っていた。
 そんな芳凛を見てか華艶が動く。明士の腹部に手を当て治癒を始めた。
「あ。そういえば、彩を双子たちの部屋に寝かしたままなんだけど」
 思い出したように鈴音が葎に報告した。
「残影は抜いたのか?」
「芳凛が強引に。でも命に別状なかったわ。運がよかったのね」    
  葎が渋面になった。
しるしは?」
「部位まで確認していないわ。でも恐らく付けられてるでしょうね」
 印とは、異形が普通の傷跡に似せてつける傷のことだ。残影が去り際につけることが多い。印をつけられたものは一生異形に追い回されることになる。よほど旨そうな匂いでもするのだろう。だが一つだけ印を消す方法があった。
「ねぇ、芳凛。ザイドを貸してくれない?」
「……」
「ザイドって誰だよ?」
 准貴だ。鈴音は説明することにうんざりという顔を向けた。
「…傷を消すたった一つの方法は『精霊』に消してもらうことよ」
 話を引き継いだのは咲矢だ。
 『精霊』とは、神の眷属と呼称される者だ。異形と同様に扱われることが多いが全く異なる種となる。
 簡単に言えば異形は醜い姿形をしているが、精霊は神の眷属と言われるだけあって見目麗しい容姿をしていることが多い。
 精霊と契りを交わすには、従えるに値する価値を持つ門番であることと、彼らの機嫌と好みが重視される。容易に『いいですよ~』とほざいたかと思うと、ある日突然あっさりと切り捨てられているから、十分注意が必要だった。
「芳凛。精霊もってんだ。すげーな!」
 自分のことのように嬉しそうな准貴を横目に、
「ザイドは使えん」
 芳凛がぼそっと言う。
「どうして?」
 鈴音が首を傾げた。
「へそを曲げて出て来ない」
「ええっ!? 忠実なザイドが珍しいわね」
「……」    
「ほほぅ。あのザイドがなぁ」
 葎が思慮深い面持ちで華艶をちらりと見た。
「まぁ…ないものはしかたない。医療班で精霊を持つ者を寄越してもらうとしよう」
 すると、咲矢と鈴音が複雑な顔をして葎に何か訴えていた。
「仕方ないだろうが。そんな目で見るな」
「なんだよ。春伊しゅんいか? あいつかぁ…俺もちょっと気が進まねーなぁ」
「そう言うてくれるな。変わり者ではあるが、有能だ」
「…単なる変人でしょ。極力関わりたくないわ」
 芳凛と華艶を除いた教員は、医療班の話で盛り上がっていた。芳凛が会話に加わることはなかった。 
「華艶、明士はどうだ?」
「うん――………」
 ヤバイと言うことなのだろう。華艶はぷつりと黙り込んだ。芳凛が明士の頭を優しく撫でた。
「…芳凛。僕がするよ」
 躊躇う芳凛の様子から何か察したのだろう。華艶がさりげなく申し出たが芳凛は頷かなかった。
「なんなら、私がしようか?」
 葎が二人の様子を見て申し入れたが、芳凛は一向に頷かない。
「おい…明士、ヤバくね?」
 准貴が気づくのも当然だ。明士の顔は血の気が失せて呼吸も細くなっていた。
「……」
 芳凛は腹を決めたようだ。無言で立ち上がると明士から少し距離をとる。深呼吸をして、口を開いた。
「汝、主を示せ」
 透き通った声が室内に木霊した。ふわりと優しい風が芳凛の髪を揺らす。
「――いざなえ、我が息、我が声に」
 唱えられた言霊に葎がぎょっとした。
「待てっ!! そいつはまずいっっ!」
「なんだなんだ?」
 准貴を省いた教員たちは顔を歪ませる。
「――風の吹く都、舜風舞う花、振れる振り子が刻む白夜」
 突風に見舞われ目を閉じた。気配を感じさせない声がそよ風のように彼らの耳元で囁く。
「もったいない、目を瞑るなよ」
 居場所が変わる瞬間だ。躯体が引き裂かれる錯覚に陥り、別空間へ移動したと教員たちは悟る。
 恐る恐る目を開くと、視界を覆う白い花びらが群れをなし舞っていた。
「……すっげーな、おい…」
 准貴が呆気にとられ周囲を見渡した。
 美しいの一言である。見た事もない、澄んだ純白の花々の化身とも言える花びらが舞い散る様は幻想の世界だ。
「だろ? …おや、君は新顔さんだね」
 姿なき者が軽い口調で告げた。
「うっわぁ……」
 准貴が感動に浸っている。と、葎と鈴音はなぜか不機嫌だった。姿なき者が語りかける。
「やっと、呼びやがったな。我があるじよ」
「どうでもいいから、明士の体を治せ」
 芳凛がぶっきら棒に言い捨てた。
「明士? 誰だそりゃあ」
「とぼけるな。さっさとしろ。万が一死んだらお前のせいだ」 
「おいおい…身に覚えのない罪は被る気ねーぞ」
 姿なき者はぶつくさ言いながら、花弁の大群を明士へと向ける。花弁が明士の体を埋め尽くした。
 さわさわと、優しい音が聞こえる。花弁がこすれる音なのだろうか。
「舞に憑いた残影も消し去れ」
「ったく、久しぶりだって言うのに人使いが荒いな。感動の再開を味わう間もないじゃないか」
 不満げに花弁たちが舞へと飛び移った。明士は穏やかな寝息をたてている。
「――気づいてたのか、芳凛」
 葎がぼそっと耳打ちした。
「朝から鼻に付く臭いを感じてはいたがな。しかし、呼び出しに即効おでましとは…よほど近い所にいたようだ」
 鈴音が煙たい顔を露わに、舞に群がる花弁に向けて奥歯を噛みしめた。    
「あんた…これが狙いだったわね…」
「くくくっ。お前はやっぱり可愛いやつだな。ちゃんと約束を守って芳凛たちには言わずにいてくれたようだし」
  花弁が優雅に人型を象った。鈴音に顔を突きつけるように現れた白髪の青年は、魅惑な笑みを鮮やかな赤眼に浮かべた。象牙色の肌に宝石のような赤い瞳が怪し く光る。真綿のような肌触りのよい布を無造作に羽織る姿は、まさしく神の子と呼ばれるに等しい存在感を醸し出していた。 
 すかさず、葎が芳凛の隣から毒づいた。
「ついでに印も消していけよ。花劉かりゅう
「ははは。お前は相変わらずムカつく野郎だな、おい」
「お互い様だ。そう何度も呼び出してやるもんか。用が済んだら、さっさと消えろ」
 葎との痴話げんかを終えると、花劉が肩をすくめる仕草をした。
「なんて顔してんだ、咲矢。美人が台無しだぜ?」
 異界に来てから一言も発しない咲矢に、からかうような視線を送る。  
「…ご忠告ありがとう」
 口許を引き攣らせながら、咲矢が無理に笑った。
「おお! もう一人初顔がいるじゃないか」
 華艶が思わず芳凛のそばへと駆けた。
「なんだ、恥ずかしいのか? へぇ…珍しい毛色をしているな。顔もいい」
「近寄るな。ばかが移る」
 しっし、と手を振って花劉を追い払う葎だった。芳凛はさりげなく華艶を後ろに隠した。
「花劉っていうのか、あんた。えらい別嬪だな。男にしとくの勿体無いじゃん」
 のん気に准貴が声を掛けた。
「おや。君の名前はなんていうのかな」
「俺は准貴だ。よろしくな、花劉」
 初対面の挨拶をにこやかに交わす准貴に、鈴音は怒りの回し蹴りを入れてやりたくなった。だが、花劉が舞を助けてくれたことには変わりなく、怒りを静かに抑えた。
 芳凛が明士の傍らに立つと、腕を振り払い、白い空間に亀裂が刻んだ。それは出口のようなものだ。
「さあさあ、帰りましょ」
 咲矢が先頭で亀裂に飛び込んだ。 
  准貴が舜を担ぎ上げると、舞を脇に抱えた。鈴音がその後ろを歩いて、亀裂の中へと消えていく。葎と華艶が芳凛を待っていた。
「芳凛」
 花劉が呼び止めた。芳凛は振り返らなかった。花の香りが体に纏わり付く。
「彩の痕跡はまだだ。すぐ俺を呼ぶことになるよ」
「……首を洗って待っていろ」
「はいはい」
 にこやかに手を振り見送る花劉に、葎は違和感を感じた。 
 清らかな純潔を髣髴させる花園は、穢すためだけに白い世界を作り上げているように思えた。
 無垢な世界はすべてを消滅させるもののようだ。なぜなら、時として人は人を守り、人を傷付ける。
 傷跡は癒えることなく、消えず忘れる事もできない。
 もし、魂が存在するならば。
  もし、生まれかわりが存在するならば、その者に何を求めるのだろうか。
 何かを代償に何かを得たならば、
『友』を得たとき、彼は何を失ったのだろう。
『友』を失ったとき、彼女は何を得たのか。
 今の葎に答えは出せなかった。
 儚く、厳しく、脆く、強い。その友であり、愛しい人を救うためには、何を代償に差し出せば望みは叶うのだろうかと、思いを馳せるだけしかできないのだ。
 
 緊急避難の解除の報せが全館に行き渡ったころ、地下に身を潜めていた生徒たちがそぞろと自室へと戻って行く。
 鈴音の生徒二人は療養が必要で医務室で一晩過ごす事となった。
 自室に一人で入った流真は、激しい自省の念に苛まれていた。
 三人では少し窮屈さを感じさせた室内が、寂寥感に包まれている。
 居た堪れない感情が湧き上がってくるも、感傷に浸る時間を与えず、ドアが叩かれた。
 開かれた先に、明士を担いだ准貴がいた。
「気を失っているだけだから、心配すんな」 
 大股でずかずかと足を踏み入れると、寝室のベッドに明士を寝かした。
 血で汚れた寝衣に目が留まり、流真の表情が硬く強張った。
 どくどくと心臓が脈打つ。
 なぜ、芳凛が来ないんだろう。自分たちの軽はずみな行動に怒っているのだろうか。
 流真は泣きそうになった。
 准貴が小さく嘆息すると、流真に告げる。
「いいか、流真。よく聞け。仲間を守る立場になりたかったら、強くなることだ。芳凛を困らせることがお前たちのするべきことじゃない。そうだろ?」
「……………はい」
 准貴の言おうとしていることは何となく理解できた。力もないのに先々を考えず飛び出したのは死に急ぐ行為だ。
「わかったら、もう寝ろ」
 閉じられた扉が境界線のように感じた。
 ――近づけない。
 追いかけても届かない思いはあるのだと、実感する。
 地面に転がる石よりも役に立たない自分に、流真は打ちひしがれていた。
         

糸倉万葉(いとくらかずは)
壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の
3
  • 0円
  • ダウンロード

18 / 22

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント