壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の

異形の者

 ――どうして、こんなことになったのだろうか?

 

「さ、彩……」 

 麻雛の声が震えている。

 雛叉と麻雛は自室で彩と相対していた――いや、彩らしき者と言うほうが正しいかもしれない。

 双子たちは数分前のことを思い出していた。  

 

 彩は、夕食も入浴も終えて後は寝るだけという姿で双子たちの部屋を訪れた。

 女子たちのお喋りタイムは長引くのが定番だ。お菓子やジュースも用意したうえで、双子たちも寝間着姿。準備万端といった様子だった。

 彩たちが休憩時間に手伝ったおかげなのだろう。用済みの段ボールが折り畳まれて片隅に置かれ室内は片付いていた。部屋の間取りや広さは二人だろうと三人だろうと同じであった。

「やっぱり広く感じるね~」

 彩がのほほ~んとした口調で話す。

「そお? でも男の子は荷物少ないんじゃない?」

 麻雛がポテトチップスをかじりながら訊いた。

「んっとね~そうでもないよ~。流真も明士も本が多いんだよね~」

「本?」

「そうなの~流真は漫画本なんだけどさ~。単行本じゃなくて雑誌を溜めてるんだよ~だからかさばっちゃうの~」

「明士は?」

「なんか難しい本読んでる~」

「参考書とか?」

「んっとね~…………多分そんな感じ~?」

 分からないんだろうな、と双子たちは思った。

「ねえ、やっぱりさ。男の子と同じ部屋って緊張する?」

 雛叉が話題を変えた。

「なんで~?」

「……もしかして何も感じないの?」

 麻雛が訊くと、彩は首を傾ける。

「何を感じるの~? 双子ちゃんたちはおもしろいね~」

「だって、流真も明士もかっこいいじゃん」

「かっこいいって誰が~?」

 彩がクッキーをかじる。

「だから、流真も明士も、だよ」

 双子が同時に言った。すると、彩が口許に笑みを浮かべこう言った。

「『男女の繋がりは禁忌とする』」

 その凛とした声に双子たちは背筋が緊張した。

「でしょ?」

 彩の表情がすごく大人に見えたのは一瞬だ。

「あ! そうだ。今度は舞ちゃんや祥子ちゃんも呼ぼうよ~」

 いつもの彩の表情と口調になぜか双子たちは安堵した。

 そして、就寝時刻が迫り彩は双子たちの部屋を出て行った――と、思ったのだが、入り口は再び開かれた。

「どうし……たの…」

 麻雛の言葉が途中で切れる。視線の先には、血に飢えた獣のような眼光を放つ彩の姿があった。しかもその背後には――
「麻美弥くん?!」
 胡乱げな眼差しで彩の背後にぴったりと立つ麻美弥の姿は不気味だった。まるで彩を操っているようにも見える麻美弥の様子に、双子たちは違和感を覚えた。

「なんで麻美弥くんが…!」

 異様な空気が漂う中で、双子たちは各々身の危険を察知した。

「雛叉………私が二人に結界を掛けるから、緊急ボタンを押して。いい? チャンスは一回きりよ」
「でも、失敗したら――」
「バカッ そんなこと言ってる間に喰われちゃうわよ」
 二人の脳裏に浮かび上がったのは、今日授業で初めて見た彩の姿だった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 暴走とは――選ばれし者の覚醒に伴う暴発的な症状の一つである。

 体内から湧き上がってくる力を抑制できず、異形者特有の欲望に精神を呑まれることをいうのだが、流真と明士の暴走は珍しいタイプだった。

 彼らの暴走は反動を自分の体のみで受けているが、本来暴走とは外部への向けられる危害がもっとも多い。本能のまま闇雲に暴れるだけの者と、人間を襲い傷つける者。そして、人間や生き物を襲う者には、命を奪うだけの者と、血肉を食らう者と分類されていた。

 典型的な暴走者の姿は、浮き世の世界で生きてきた人なら、月に二、三度の割合で目にするほどだ。その中でも彩は、後者である血肉を喰らう者と思われたが、実際は違ったのだ。

 麻雛の結界が包囲する中で意識を失った彩は、結界壁の外に居る自分たちへ大人びた笑みを浮かべ、こう言った。

 

『大丈夫。私は傷付いたりしないから』

  

 キョトンとする麻雛と雛叉であったが、流真と明士の冷めた眼差しに違和感を抱いた。

 柔らかい毛先が宙に揺れていても、滲みだす気は波風起こさず穏やかだった。

 だから、双子たちは自然と思った。彩は力を抑制できているんだと。しかし、

「基本資質を複数持つ者の特徴は、特異な暴走癖持つことらしい」

 芳凛が、独り言のように告げると、華艶へ結界を引き継ぐよう合図を送った。

 華艶が麻雛の結界の上に自分のそれを重ね合わせると、芳凛が結界の内側へと入り、彩と対峙した。

 すると、彩はまた微笑を浮かべこう言った。

『……だめよ、あなた。私そんなに我慢強くないの知ってるでしょ?』

 いつもの甘ったるい彩の声ではなかった。

「知ってはいるが、お前も彩から言われているだろ?」

『それは………あなたの言うことを聞けってことかしら?』

 クスクスと笑う彩。芳凛は単調に返した。

「違う。力のコントロールを覚えろということだ」

 言い終わると同時に、芳凛が彩の頬を張り倒した。

「なっ?!」

 予想外の出来事に目を瞬いた麻雛は、その瞬間気が抜けたのだろう。本日二回目の結界破壊の衝撃を受けたのだった。一方、雛叉はというと、麻雛のことを心配する余裕もなく、彩の姿に目を奪われていた。

「……どういうことなの!」

 彩が芳凛の腕に噛みついて、ぶら下がっているではないか。

 暴走者特有の気の乱れは一切感じられないというのに、血をすする卑しい音はしっかりと耳に届いていた。

 雛叉は顔を顰める。暴走していないならなぜ、血肉を求めているのか。雛叉は混乱していた。

 眉一つ動かさない教員たちは、さすがと言うべきなのか、非情と言うべきか。

 芳凛は、容赦なく彩が噛みついたままの腕を横振りにし結界壁へと叩きつけた。

「――ッ」

 強化ガラス以上に強固な結界壁に体を打ちつけた衝撃で彩の口は腕から外れたが、唇に付着した血を舌でペロリと舐めていた。

『あなたの血ってホント美味しい……なぜかしら? 門番の血は皆こんなにもおいしいの?』

 彩は口角を吊り上げて笑うと、耳朶を突く高音を発した。

 キィ――――ン…

 と、室内に木霊する超音波に、思わず耳を塞いだ生徒たち。芳凛と華艶は涼しい顔をしていた。

「もう、終わりか?」

 肩で息をする彩に、芳凛が問うた。

『……私に何の得があるのか彩に聞いたわ』

「それで?」

『私がこのままじゃ彩を壊してしまうんでしょ?』

「……」

『私ばかじゃないの。だからあなたの言うことは聞くことにするわ』

「ほぅ。微々たるもんだが進歩だな」

『そうね。だから心配しないで。私は傷付いたりしないから――――』 

 彩はそう告げると、体をゆっくりと床に寝かした。そして、十秒ほど経った頃、顔を伏せた彩が曇った声で呟いた。

「………痛いよ先生」

「そうだな。でもよくやった」

「へへへ…褒めてくれる?」

「ああ」

 芳凛は、素に戻った彩の頭を優しく撫でた。

「今のは……何?」

 雛叉は状況の把握ができていない。

「彩は二重人格者なんだよ」

 答えたのは明士だ。

「二重?!」

「彩はお姉ちゃんって呼んでるけどね」

 無表情で彩を眺める明士の隣で、流真が相槌を打った。

「姉ちゃんは恐ろしく彩一筋でさ……。俺たちにも容赦なく噛み付いてくるから理解させるまで大変だったんだよ」

「噛み付くってことは暴走してんじゃん!」

「いやいやいや。それがまた別問題なんだよな。あの姉ちゃんの場合、暴走するしない関係なく、まず敵だと感じたら襲ってくるんだよ。でも今は大丈夫だぞ。先生が説明してからは噛みにこなくなったからさ」

 それって本当に大丈夫な話なんだろうか?

「姉ちゃんはさ。普通に彩を守ってるつもりなんだろうけど、とにかくズルいんだよ。俺らが寝てるときに現れて噛むのなんの…さすがの俺も、横っ腹を噛まれたときは頭張り倒したくらいだからさぁ」

 ははは、と引き攣った笑い声を上げる流真であるが、明士は深刻な面持ちであった。

「そしたらそのあと暴走が始まってほんと、大変だったよね……」

「あんときの姉ちゃんすっげー恐かったよな…」

「うん…」

 流真と明士が冷めた目で見つめていたわけが、何となくわかった雛叉だった。

 

 

 ◇◇◇

 

 追憶を終えた雛叉は、恐怖ですくみそうな足を必死で立たせていた。

 座り込んだら終わりだ。麻美弥はともかく、彩は容赦なく襲い掛かってくるだろう。

「ダメもとでもやるしかない。次の機会はきっとないから」
 覚悟を決めた麻雛。雛叉も腹をくくった。
「…わかった」
 運がいいのか悪いのか。今日習ったばかりの術が、こんな形で役立つとは思いもしなかった。恐怖心からか麻雛に自嘲した笑みが出た。
「こうなりゃ妬けだわ」
 一拍あけて言霊を唱えると同時に、雛叉が入り口へと駆けた。

 壁に備え付けられている緊急ボタンを塞いでいる蓋ごと力いっぱい叩き割る。

 けたたましく鳴り響く警告音にすら反応を示さない彩を麻雛の結界が取り囲うと、雛叉は入り口の扉を開け放った。
「先生!! 華艶、先生ーーーッ」
 咄嗟にでた名は担当教員の華艶だったことに、雛叉自身驚いていた。
 警報が鳴り渡る通路には、双子たちの部屋を除外するように防壁が左右に聳え立つ。
「な、何よこれっ!?」
 隔離されたのだ。
「ど、どうしたらいいの……」
 閉じ込められた。雛叉は漠然とした失意の中に身を投じそうになった。
「ひ、な…雛叉っ」
 雛叉は恐怖を振り払い首を左右に振り、麻雛の傍に向かい両肩をしっかりと抱いた。

 麻雛は彩に掛けた結界に圧を掛ける。だがそれは玉子の殻のように薄いものだった。
「…そばに、いてよね…」
 力なく麻雛が言う。      
「わかってる。ずっと一緒よ」

 雛叉と麻雛は、途中覚醒者ではなく力を宿し生まれた双子だった。彼女たちの覚醒は誕生と同時なのだ。

 戸籍上は麻雛が姉になっているが、本当はどちらでもない。無残に大破された分娩室に駆け付けた救命士が、たまたま先に抱き上げたのが麻雛だっただけ。

 生まれた時も二人。だから生きるのも死ぬのも二人だと、雛叉は思っていた。

 運命が二人を分かつ時を告げたとしても、何があっても離れない。彼女たちはそう誓い合い生きてきたのだ。

 結界壁に蜘蛛の巣のようなヒビが入る。

 雛叉は麻雛を強く抱きしめた。

(割れちゃうっ!)

 もうだめだ。そう覚悟を決めた時だった。

 閉鎖された通路の防壁を打ち砕く爆風とともに姿を現したのは、准貴と鈴音だった。
 ずかずかと部屋へ入る准貴の後ろから鈴音が叫ぶ。

「大丈夫!? 雛叉、麻雛!!」   

 呼びかけと同時に麻雛の結界が砕け散った。反動が麻雛を襲う。雛叉は麻雛に飛びついて必死で守ろうとしたが、力及ばず一緒に飛ばされた。

「ッ!」

 壁に叩きつけられた衝撃に備え、二人は無意識に体に力を込めた。しかし、壁に激突したのは准貴だった。彼は身を挺して彼女たちを庇ったのだ。
「いたたた……くそっ…二人とも無事か?」
「…准貴、先生……」

 双子たちの目に涙が浮かんだ。准貴が壁と双子たちの間に入ってくれたおかげで二人は無傷だ。だが、准貴を見て気が抜けた麻雛は一言も発することなく意識を失った。
「おいおい……ここで気絶するか?! 雛叉、お前は動けるんだな?」
「は、はいっ」
「よし! それじゃあとりあえず非常口へ出ろ」

「へ?」
 准貴が麻雛を抱き上げる。鈴音が結界を張っている間に生徒の避難が優先された。
「でも、先生…麻美弥くんが…」
「今、近づくのは無理だ。鈴音が囲ったからな」
 今の中央では、床に片膝を付き両手を結界壁に添える鈴音がいる。鈴音の結界の中にはもちろん彩と麻美弥がいた。麻美弥はやはり、彩の背後にぴったりとついている。

 准貴が僅かに目を眇めた。

「先生ッ。彩の様子がおかしいの」

「……」

「私たち、今日一緒に授業受けたんだけど、彩の暴走はあんなんじゃないのッ」

「……」

「よくわかんないけど、彩ちゃんの中にはもう一人彩ちゃんがいるのよ。選ばれし者の力を持っているのはそのもう一人なの。でも彼女の暴走は普通のものとはちょっと違ってて、何て言うかちゃんと会話ができるのよ! だから彼女言ってた。私は傷付かないって。でも今は――」

 よだれを垂らし咆哮を上げる彩へと視線は向けられた。

「あんなの彩の暴走じゃないッ」

 黙って雛叉の話に耳を傾けていた准貴がようやく口を開いた。

「わかった。でも今、お前ができることはここから離れることだ。それはわかるよな?」

「――――はい」

 准貴は項垂れる雛叉の背中を押しやると、麻雛を肩に担いで部屋を後にした。

 非常口へと向かう途中。前方から駆けてくる流真を見て驚いた准貴は思わず怒鳴った。
「何してんだ、お前っ! さっさと地下へ行けっ!!」
 流真の耳には聞こえていないようだ。准貴を完全無視して雛叉に話し掛けた。
「おいっ! 彩は? 彩はどうしたんだよ」

「え…と、その…」 

 狼狽える雛叉の肩を流真が掴む。
「なんで彩と一緒じゃねーだよっ!」
 流真は雛叉を突き飛ばして駆け出した。
「ちょっ、待てこらぁーッ!!」
 准貴は追いかけようとしたが、肩に担いだ麻雛を放り出すわけにも行かず立ち尽くす。そんな時、
「准貴ッ 流真を見なかった!?」
 咲矢が流真を追って非常口から出てきたのだ。
「おお!! ちょうどよかった。麻雛を看てやってくれ。俺は流真を捕まえてくるから」
「逃がしたのっ!?」

 信じられないという表情をした咲矢に、准貴の心は少し傷付いた。
「しかたねーだろ! 俺は麻雛を抱えてたんだよっ」
 ちゃっかり言い訳だけは忘れずに、准貴が身を翻す。
 流真に彩の姿を見せるわけにはいかないと思い、准貴は全力疾走した。しかし思いの外流真の足は速かった。准貴が到着したときにはすでに流真は部屋の中に足を踏み入れていたのだ。
「さ、い……?」 

 胡乱げな眼差しを流真に向けた彩は、にやりと歪んだ笑みを刻んだ。

(…なんだ? 姉ちゃんじゃない……なんでッ)

 流真の戸惑いが手に取るように准貴には分かった。

 理解できているつもりでいたことが、一変して裏返ってしまった。だから、彼は彼女に裏切られたようにも感じているのかもしれないし、拒絶されたようにも感じているかもしれない。

「お前がここに居ても何にもならないんだよ。いいから地下へ避難しろ」
 准貴が腕を掴む。放心状態の流真は、腰が抜けたように座り込んでしまった。
「マジかよ! しっかりしてくれよ…」 
  だから言わんこっちゃない。
「…がう……こんなの彩じゃない…」
 彩を凝視する流真の瞳が揺れている。
「そんなことわかってんだよっ! だからとりあえず――」
「こんなの暴走じゃないっ! 何なんだっ 彩はどうしたんだよっ」
 すがりつく流真に准貴は何も答えなかった。
 確かに彩は暴走しているわけではなかった。だから、流真を仲間だと気づくはずがない。

 彩は、異形の残影にとり憑かれ肉体を異形に操られているのだ。しかも、その原因を作ったのは、彩の背後に張り付いて離れない麻美弥だった。

(……隔離されたはずの麻美弥が何でうろついてんだよ、くそったれっ!)

 准貴は胸の内で歯噛みした。
「何をしている?」
 准貴が咄嗟に振り返った。
「……芳凛…」
  その名前に流真がぴくりと反応を示した。
「――せん、せい……彩が………」
 芳凛は、流真に一瞥もくれずに鈴音へと歩み寄ると、後ろに立った。
「状況は?」
「よくないの一言よ」
「この様子じゃあ、大層なことになりそうだな…」

「ほんと、その通りだわね」

 隔離したはずの生徒がなぜ自由の身になっているのか。

 生徒ですら感じる異様さ。教員なら抱く疑念はそれよりも強いはずだ。しかし、それは今解決すべき問題ではないことを教員たちは分かっていた。
 彩の視線が芳凛へと移る。
「クックク……ヨウヤク、見ツケタゾ……ッ」

 聞き覚えのある少女の声音ではない。芳凛の眼差しが剣呑なものへと一変した。 
「ほぅ…………言葉を話すとは、雑魚ではなかったか」
「ねぇ、芳凛。結界を縮めるから麻美弥をお願いできる?」

 背中越しに交わされる会話。芳凛は即座に返した。

「承知」
 その言葉の余韻が消え止まないうちに、鈴音が床に両手をついた。
 空気が張り詰め、ざわめく。
 少しずつ結界範囲が圧縮されているのだ。だが、あざ笑うように異形のものは告げた。
「逃ガサヌヨ……逃ガサヌヨ……コレラハ、我ノモノトナッタ…」
「あいにくだが、貴様にくれてやるものなど持ち合わせていない」
 芳凛が話しながら麻美弥へと歩を進めた。
 鈴音によって拘束された異形は、身を縛る結界の中でも狂気に満ちた笑みを絶やさなかった。
 芳凛は彩の後ろで呆けている麻美弥の背中へと手を伸ばすと触れる手前で気を放つ。
「ガァッ」
 麻美弥は白目をむいて倒れた。

 芳凛は、麻美弥を肩に軽々と担ぎ上げると異形から距離を取る。
 台所の近くで座り込んでいる流真には目もくれず、
「准貴。一緒に連れて行け」
 そう告げると、麻美弥を放り投げた。
「おおおおっと、あっぶねーなッ!? もっと優しくしてくれよ!」
「うるさい。さっさと連れて行け」
 芳凛は冷たく言い放つ。

 異形の力が増幅した。

「逃サヌト申シタゾ……!」
 波打つ気は波紋を広げ疾風を生み出す。鈴音の結界を破壊するつもりだ。
「甘い、わよッ」
 鈴音が声高らかに力を解き放つ。
「汝、主を示せ。闇のくさび。暁に見える星。イベラの契約。繋ぎし波風。北方より来る風。我が声に応えよ」
 結界がギシギシと音を立てひしめいた。
「流真さっさと立て!」
 准貴が力ずくで流真を立たせると、麻美弥を担いで開かれたままの入り口へと向かった。しかし、扉は鼻先で閉じられる。
「ヤラヌヨ……ソレハ、主ノにえダ……」
「贄ですって? おかしなこと言う異形ね」
 鈴音が咄嗟に返した。
「くそっ! 開かねーぞ!」
 舌打ちする准貴。
「どうする芳凛。准貴がもたついてたせいで閉じ込められたわよ」 
「俺のせいかよっ! そういえば葎たちはどうしたんだっ」
「ばかね。医務室に生徒がいるでしょ。華艶と向かったんだわ。助勢は望めないわね」
 医務室には残影が憑いた生徒を眠らせていた。麻美弥が抜け出したが、あともう一人舞が眠っているのだ。
「――なぁ…ドアぶち破ってもいい?」
 准貴が素で訊いた。
「許可してあげたいけどね…だめよ。彩に跳ね返っちゃう」
「じゃあ、どうするんだよッ」
 准貴が声を荒げた。

「うるっさいわね! 大きな声出したって何も変わんないわよッ」

「それもそうだな。ごめん」

 一人納得する准貴に、鈴音は苛立っていた。

「鈴音。准貴たちの所へ下がって結界を張れ」
 唐突な芳凛の指示に、鈴音は当惑した。
「いいけど………一体何をするつもり?」
「そのあと、彩の結界を解いて准貴たちの結界を強化しろ」
「ちょちょっと待って…」
「待てない。こうしているうちにも彩は闇に落ちる」
 落ちたら最後、もう戻らない。
「わかったわ!」
 じりじりと鈴音が後退した。准貴たちを背に庇い、結界を成す。
「芳凛は来ないのか?」
「ばか。あんたも防御してよね。言っとくけど、結界だけじゃ芳凛からの衝撃は免れないわ」     
「マジかよッ」
 鈴音が手を打ち鳴らした。

 彩を囲っていた結界が崩壊すると、異形が放つ疾風が室内を巻き込んで威力を現す。
「きたわよ!」
 准貴が慌てて鈴音の結界壁に手を添え発動した。
「くそっ!」
 結界だけでは余波は防げない。透明だった結界壁が白く濁る。結界が強化されたのだ。

 黒髪が激しく舞い上がる。風刃は芳凛の体を切り刻んで鮮血が烈風に飛散した。その後ろ姿を見守る准貴が息を呑むと、脳裏に映像が浮かび上がった。

 闇夜を背中に背負い、月よりも煌々と輝きを放つ少女の姿だ。

「……ア、アァ………オマエ…ハ、闇ノ………声………ノ者カ……?」
 風音が耳朶を打つ。彼らの声は鈴音たちの耳には届かなかった。
「闇の、声だと?」
 芳凛が鼻でせせら嗤った。
「戯言を。このまま立ち去れ。今なら見逃してやる」
「……かぐわシイ…美シイ者ヨ――――オマエハ……彼ノ者カ…? 似テイル……我ラノ…主…」
「他人の空似だ」 
「…違、ウ……違ウ……違ウ…違ウゾ…ッ!!」
 彩の中の異形は興奮していたが、芳凛は淡々と返す。
「そうだ。私はお前の主じゃない。お喋りは終わりだ」 
 最期の言葉を告げると同時に、芳凛は一歩足を踏み出す。瞬きよりも早く異形の背後へ回り込むと、芳凛の左手が彩の背中に触れた。
「主の元に帰るがいい」
 芳凛は容赦なく気の波動を打ち放つ。
「ガハッ…!」 
 仰け反る身体。背骨が弓のようにしなった。
 彩の口から吐き出されるのは煤煙だった。宙を彷徨い天井へ張り付く残影へと芳凛は右手を伸ばした。拳を開き、
「塵の如く消しされ。この手の中は混沌だ」
 握り潰すように拳を閉じる。残影は芳凛の手によって消散されていく。 
「違ウ……オマエ、ハ………アノ……」 
 やがて残響は失せて、芳凛の腕の中に彩が抱かれていた。

 芳凛は彩の額に手を当てる。残影の気配が完全に消えたことに息を延ぶ。
「終わったわね…」
 鈴音が力を抜いた。結界が解かれると流真が彩へと這うように近寄ると、横たわる彩の顔を見て安堵した。と、芳凛の指が流真の額に命中した。
「痛ッ」     
「ばかが…。足手まといもここまで立派だと殺意を覚えるな」 
「…う……なんだよ。彩が心配だったんだから仕方ないじゃんか」
 流真が額をさすっている。
「お前の命は、仕方ないで捨てれる程度なのか?」
 流真が押し黙った。芳凛はため息を大袈裟についた。
「自分の命も守れんやつが一体誰を守るというんだ?」
「――ごめん……なさい」
「運がよかったと思え。次はない。鈴音。とりあえずこの場で彩を守護してくれ。私は葎の元へ行く」
「わかったわ。ほらっ流真、邪魔だからそこどきなさい」
  すっかり邪魔者扱いを受ける羽目になった流真だったが、彩が無事でなによりだった。
「じゃあ俺はこいつらを地下へ引っ込めてくるとするか」 
 准貴がおどけた笑顔で扉を開くと、開かれた扉の先に、咲矢が神妙な面持ちで待ち構えていた。
「なんだ咲矢。待ってたのか」
「……ええ、入れなかったのよ―――で、無事終わったのかしら?」
「まあな」
「そう。じゃあ、准貴と鈴音はそのまま地下へ行って生徒を確認して。そのあと明士と舜を探すのを手伝ってちょうだい」
「舜がいないの!?」 
  鈴音が驚きの一声を上げた。流真も呆然としている。まさかあの明士が行動に出るとは思いもしなかったのだ。
「……慎重派の明士がね。まったくほとほと手を焼く生徒ばかりだ」
  芳凛が嘆息した。

 

 夜風が嵐を呼んでしまった。吹き荒れる守りの森は、不気味な動きを影に刻む。

 それはまるで、大きく体を揺らし何かに向けて威嚇しているようだった。

 

白きものと黒きもの

 咲矢が芳凛と肩を並べて医務室へと向かっていた。

 特殊回路はいつもと変わらず寒々としている。

 二人の足音が交互に響いた。まるで音を刻むように。
「知らない間に仲良くなったみたいね」
 沈黙を破り先に口をついたのは咲矢だった。
「何が?」

 芳凛と咲矢は、前方を見据えたまま慌てる様子もなく一定の歩幅で進んでいる。
「鈴音と准貴よ。それにあなたもね」
 芳凛は無言で返す。咲矢が何を言いたいのか察したからだ。咲矢が含み笑いをする。
「何だ?」
「別に。准貴の誘いは断ったんでしょ?」
「……だから?」
「葎が喜ぶわ。あなたが葎から離れない限り、彼はずっとあなたを想い続けられるもの」 
 嫌味を感じるには十分すぎる言葉をあえて咲矢は口に出した。だが、芳凛から聞かされる答えは咲矢の想像以上に冷めたものだった。
「お前が傍にいてやればいい」
 不快感を感じながらも咲矢は平常心を保つ努力をしていた。
「ええ…いるわよ…貴女よりもずっと近くに――でも………私じゃダメなのよ」
「――」
「分かってるんでしょ? 葎は貴女が…」
「咲矢」
 芳凛は一言で咲矢の言葉を打ち止めた。

 白い瞳に映る黒瞳は揺れていた。

「…いいじゃないの。貴女と二人きりで話す機会なんて滅多にないんだから。あなたは私を避けているようだし」
 事実なのだろうか。芳凛は返事に迷っているようだった。
「お前と話す必要があるとは思えない」  
「逃げないで。たまには話を聞いてくれてもばちは当たらないと思うわ」
「……葎に聞いてもらえばいい。私は面倒なことに関わりたくない」
「そんな事を言ってもだめよ。すべてはあなたを中心に回ってるんだから」
 芳凛が立ち止まる。数歩先で咲矢が振り返った。
「……回りくどい言い方をせず、はっきり言ったらどうだ?」
 咲矢の目が芳凛の右腕に移る。衣服に染みていた血が範囲を広げている。
「……傷が――」
 芳凛はすべての資質を持つ特殊な門番だ。当然、自己治癒能力の高いスノウも持っている。スノウを持つ身にしては傷の治りが遅い、と咲矢は思った。
「…葎が、嫌がるわ」 
 咲矢が伸ばした手を芳凛は振り払った。

 芳凛は咲矢を見据えた。
「葎が嫌がろうが関係ない。私は私の仕事するだけだ。無意味な話を続けるつもりならお喋りは終わりだ」
「でも、あなたは今、仕事の話じゃないのに私と喋ってくれてるわ。それって葎が関わることだからでしょ?」
 咲矢は芳凛の口から何を聞きたいのだろう。
「……ねぇ芳凛。あなたはこの世界のしがらみにいつまで付き合うつもりなの? 大樹は次の手を打ってくるわ。華艶を寄越したのだってそう。その時、葎はあなたを守るためにまた傷付く。あなたを手元に置くために、彼がどんな犠牲を払っているのか知ってるんでしょ?」
「……どのことを言っているんだ?」
 咲矢が怪訝な顔をした。芳凛の言葉はまるで咲矢より葎の事を理解しているように聞こえた。
「どのことって…どういう」
 芳凛の双眸は咲矢を冷酷に見つめる。ぞくりと背筋に冷たいものが伝う。鈍っていた感覚が研ぎ澄まされる瞬間だった。
 追憶の狭間に仕舞い込んだ脅威を思い出し、咲矢は戦慄を覚えた。
「―――白けた話だな。お前は私よりも葎の傍にいるというのに…憐れだ」
 嘲笑した台詞を口にするその様ですら彼女に尊さを感じてしまう。咲矢はそんな自分が嫌いで仕方なかった。
 どれだけの生きとし死せるものたちが、幾度となく輪廻を繰り返そうとも変わらないものがある。
 遥か昔、付き従い共有した時間を思い出させても、それは芳凛のようで芳凛ではない。

 その者が言っていたのだ。
『自分がしたい事と、するべき事は違う』
 咲矢は怖かった。芳凛がすべて奪い去るのではないかと。大切なものを穢してしまうのではないかと。
「……お願いよ、芳凛。葎を開放して……あなたの言うことなら聞くかもしれない」
「葎が選んだ道だ」
 芳凛が軽く首を振った。咲矢の目は涙で潤んでいた。
「お願い。彼を止めて」
 もう、彼の手は重さに耐えられない。双肩に圧し掛かる犠牲は彼には重すぎる。
 そう、泣き崩れる咲矢を無表情に見つめる芳凛の背後から、思い掛けない声が掛けられた。
「血に塗れた手はもう元に戻らないよ、咲矢」 
 咲矢が震骸して顔を上げた。
 潤んだ瞳に映ったのは、淡い切なさ含んだ笑みを浮かべる葎だった。
「芳凛の言うとおりだ。俺の選んだ道なんだよ」
「…ど…うして……」
 いつから聞いていたのか。そう訊ねたかったが、声にならなかった。
「葎」
 芳凛が呼ぶ。ごく自然に呼ばれた名には、微塵の動揺も色づいていない。
 その時、咲矢は心底脱力感を味わった。自分がどれほど懸念ししがみつこうと、芳凛の心を動かすことはできないのだと痛感したのだ。
「華艶は?」
「いや、そのなんだけど、厄介な事になってね」
「厄介事?」
 咲矢が毅然と振舞い、会話に入った。

 涙を拭い背筋を伸ばす。彼女もまた、与えられた仕事を遂行しなければならないのだ。
「舞の様子を華艶と見守っていたんだが、その、ある二人の生徒が飛び込んできて……それで、ただ今『暴走』中だ」
 苦笑いをする葎に芳凛と咲矢は言葉を失った。
 一難去っててまた一難。慌ただしいこの世界は、休む時間を与えてくれるほど優しくはなかった。
 

精霊の花劉

 蹲うずくまる明士。

 雄叫びをあげる舜。

 明士に襲い掛かろうと手を伸ばし涎を垂らす舞。

 正常な医務室を思い出せないくらい荒れ果てた室内は血生臭い空間と姿を変えていた。
 長城きっての美貌の持ち主と謳われる美女二人は、その情景を目にした途端、端麗な顔に陰を落とす。
「まいったわね…」
 咲矢がぼそっとぼやいた。
「なんでこんなことになったんだ?」
 准貴がさっぱりわからん、とばかり腕組みをして唸った。
「しかしまぁ……その、あれだな。芳凛と鈴音は大当たりだな」
  能天気な准貴の台詞だが、そのとおりである。鈴音は見事に全滅だ。さすがの鈴音も愚の根も出ない。
 華艶が三人の生徒に拘束をかけているとはいえ長続きはしないだろう。のん気な教員たちは医務室内で作戦会議を開いていた。
「『ただの』暴走を起こしてる二人を先にとめるか?」
 准貴が提案したが、鈴音に即座却下された。 
「だめよ。舞は残影持ちで暴走してんだから、先に舞を抑えなくちゃ」
 鈴音が言う。
「あぁ……何て言ったらいいのかしら。ここまで面倒なことになると笑うに笑えないわ」  
 咲矢が落胆している。
 そんな井戸端会議をしている最中に、誰かの血が准貴の頬に的中した。
「うおっ!? なんでもいいから早くしようぜッ あいつら出血多量で死にそうだ」 
 准貴の一言が決め手になった。
  数分後――。血まみれの三人の生徒が瀕死の状態で床に転がっていた。
「――――」
「――…」
「――…」
「えー…っと…とりあえず」
 鈴音が舞の治癒を始めた。それを見て咲矢が舜に取り掛かる。もう一人、明士を見下ろす芳凛はなぜか迷っていた。
 明士の『暴走』症状はいつも内側からだった。

 本日二回目の吐血。さすがにまずい。ここは『移し身』を行うのが妥当だろう。
 分かっているも葎の目が気になった。咲矢との会話のせいなのだろうか、芳凛は躊躇っていた。
 そんな芳凛を見てか華艶が動く。明士の腹部に手を当て治癒を始めた。
「あ。そういえば、彩を双子たちの部屋に寝かしたままなんだけど」
 思い出したように鈴音が葎に報告した。
「残影は抜いたのか?」
「芳凛が強引に。でも命に別状なかったわ。運がよかったのね」    
  葎が渋面になった。
しるしは?」
「部位まで確認していないわ。でも恐らく付けられてるでしょうね」
 印とは、異形が普通の傷跡に似せてつける傷のことだ。残影が去り際につけることが多い。印をつけられたものは一生異形に追い回されることになる。よほど旨そうな匂いでもするのだろう。だが一つだけ印を消す方法があった。
「ねぇ、芳凛。ザイドを貸してくれない?」
「……」
「ザイドって誰だよ?」
 准貴だ。鈴音は説明することにうんざりという顔を向けた。
「…傷を消すたった一つの方法は『精霊』に消してもらうことよ」
 話を引き継いだのは咲矢だ。
 『精霊』とは、神の眷属と呼称される者だ。異形と同様に扱われることが多いが全く異なる種となる。
 簡単に言えば異形は醜い姿形をしているが、精霊は神の眷属と言われるだけあって見目麗しい容姿をしていることが多い。
 精霊と契りを交わすには、従えるに値する価値を持つ門番であることと、彼らの機嫌と好みが重視される。容易に『いいですよ~』とほざいたかと思うと、ある日突然あっさりと切り捨てられているから、十分注意が必要だった。
「芳凛。精霊もってんだ。すげーな!」
 自分のことのように嬉しそうな准貴を横目に、
「ザイドは使えん」
 芳凛がぼそっと言う。
「どうして?」
 鈴音が首を傾げた。
「へそを曲げて出て来ない」
「ええっ!? 忠実なザイドが珍しいわね」
「……」    
「ほほぅ。あのザイドがなぁ」
 葎が思慮深い面持ちで華艶をちらりと見た。
「まぁ…ないものはしかたない。医療班で精霊を持つ者を寄越してもらうとしよう」
 すると、咲矢と鈴音が複雑な顔をして葎に何か訴えていた。
「仕方ないだろうが。そんな目で見るな」
「なんだよ。春伊しゅんいか? あいつかぁ…俺もちょっと気が進まねーなぁ」
「そう言うてくれるな。変わり者ではあるが、有能だ」
「…単なる変人でしょ。極力関わりたくないわ」
 芳凛と華艶を除いた教員は、医療班の話で盛り上がっていた。芳凛が会話に加わることはなかった。 
「華艶、明士はどうだ?」
「うん――………」
 ヤバイと言うことなのだろう。華艶はぷつりと黙り込んだ。芳凛が明士の頭を優しく撫でた。
「…芳凛。僕がするよ」
 躊躇う芳凛の様子から何か察したのだろう。華艶がさりげなく申し出たが芳凛は頷かなかった。
「なんなら、私がしようか?」
 葎が二人の様子を見て申し入れたが、芳凛は一向に頷かない。
「おい…明士、ヤバくね?」
 准貴が気づくのも当然だ。明士の顔は血の気が失せて呼吸も細くなっていた。
「……」
 芳凛は腹を決めたようだ。無言で立ち上がると明士から少し距離をとる。深呼吸をして、口を開いた。
「汝、主を示せ」
 透き通った声が室内に木霊した。ふわりと優しい風が芳凛の髪を揺らす。
「――いざなえ、我が息、我が声に」
 唱えられた言霊に葎がぎょっとした。
「待てっ!! そいつはまずいっっ!」
「なんだなんだ?」
 准貴を省いた教員たちは顔を歪ませる。
「――風の吹く都、舜風舞う花、振れる振り子が刻む白夜」
 突風に見舞われ目を閉じた。気配を感じさせない声がそよ風のように彼らの耳元で囁く。
「もったいない、目を瞑るなよ」
 居場所が変わる瞬間だ。躯体が引き裂かれる錯覚に陥り、別空間へ移動したと教員たちは悟る。
 恐る恐る目を開くと、視界を覆う白い花びらが群れをなし舞っていた。
「……すっげーな、おい…」
 准貴が呆気にとられ周囲を見渡した。
 美しいの一言である。見た事もない、澄んだ純白の花々の化身とも言える花びらが舞い散る様は幻想の世界だ。
「だろ? …おや、君は新顔さんだね」
 姿なき者が軽い口調で告げた。
「うっわぁ……」
 准貴が感動に浸っている。と、葎と鈴音はなぜか不機嫌だった。姿なき者が語りかける。
「やっと、呼びやがったな。我があるじよ」
「どうでもいいから、明士の体を治せ」
 芳凛がぶっきら棒に言い捨てた。
「明士? 誰だそりゃあ」
「とぼけるな。さっさとしろ。万が一死んだらお前のせいだ」 
「おいおい…身に覚えのない罪は被る気ねーぞ」
 姿なき者はぶつくさ言いながら、花弁の大群を明士へと向ける。花弁が明士の体を埋め尽くした。
 さわさわと、優しい音が聞こえる。花弁がこすれる音なのだろうか。
「舞に憑いた残影も消し去れ」
「ったく、久しぶりだって言うのに人使いが荒いな。感動の再開を味わう間もないじゃないか」
 不満げに花弁たちが舞へと飛び移った。明士は穏やかな寝息をたてている。
「――気づいてたのか、芳凛」
 葎がぼそっと耳打ちした。
「朝から鼻に付く臭いを感じてはいたがな。しかし、呼び出しに即効おでましとは…よほど近い所にいたようだ」
 鈴音が煙たい顔を露わに、舞に群がる花弁に向けて奥歯を噛みしめた。    
「あんた…これが狙いだったわね…」
「くくくっ。お前はやっぱり可愛いやつだな。ちゃんと約束を守って芳凛たちには言わずにいてくれたようだし」
  花弁が優雅に人型を象った。鈴音に顔を突きつけるように現れた白髪の青年は、魅惑な笑みを鮮やかな赤眼に浮かべた。象牙色の肌に宝石のような赤い瞳が怪し く光る。真綿のような肌触りのよい布を無造作に羽織る姿は、まさしく神の子と呼ばれるに等しい存在感を醸し出していた。 
 すかさず、葎が芳凛の隣から毒づいた。
「ついでに印も消していけよ。花劉かりゅう
「ははは。お前は相変わらずムカつく野郎だな、おい」
「お互い様だ。そう何度も呼び出してやるもんか。用が済んだら、さっさと消えろ」
 葎との痴話げんかを終えると、花劉が肩をすくめる仕草をした。
「なんて顔してんだ、咲矢。美人が台無しだぜ?」
 異界に来てから一言も発しない咲矢に、からかうような視線を送る。  
「…ご忠告ありがとう」
 口許を引き攣らせながら、咲矢が無理に笑った。
「おお! もう一人初顔がいるじゃないか」
 華艶が思わず芳凛のそばへと駆けた。
「なんだ、恥ずかしいのか? へぇ…珍しい毛色をしているな。顔もいい」
「近寄るな。ばかが移る」
 しっし、と手を振って花劉を追い払う葎だった。芳凛はさりげなく華艶を後ろに隠した。
「花劉っていうのか、あんた。えらい別嬪だな。男にしとくの勿体無いじゃん」
 のん気に准貴が声を掛けた。
「おや。君の名前はなんていうのかな」
「俺は准貴だ。よろしくな、花劉」
 初対面の挨拶をにこやかに交わす准貴に、鈴音は怒りの回し蹴りを入れてやりたくなった。だが、花劉が舞を助けてくれたことには変わりなく、怒りを静かに抑えた。
 芳凛が明士の傍らに立つと、腕を振り払い、白い空間に亀裂が刻んだ。それは出口のようなものだ。
「さあさあ、帰りましょ」
 咲矢が先頭で亀裂に飛び込んだ。 
  准貴が舜を担ぎ上げると、舞を脇に抱えた。鈴音がその後ろを歩いて、亀裂の中へと消えていく。葎と華艶が芳凛を待っていた。
「芳凛」
 花劉が呼び止めた。芳凛は振り返らなかった。花の香りが体に纏わり付く。
「彩の痕跡はまだだ。すぐ俺を呼ぶことになるよ」
「……首を洗って待っていろ」
「はいはい」
 にこやかに手を振り見送る花劉に、葎は違和感を感じた。 
 清らかな純潔を髣髴させる花園は、穢すためだけに白い世界を作り上げているように思えた。
 無垢な世界はすべてを消滅させるもののようだ。なぜなら、時として人は人を守り、人を傷付ける。
 傷跡は癒えることなく、消えず忘れる事もできない。
 もし、魂が存在するならば。
  もし、生まれかわりが存在するならば、その者に何を求めるのだろうか。
 何かを代償に何かを得たならば、
『友』を得たとき、彼は何を失ったのだろう。
『友』を失ったとき、彼女は何を得たのか。
 今の葎に答えは出せなかった。
 儚く、厳しく、脆く、強い。その友であり、愛しい人を救うためには、何を代償に差し出せば望みは叶うのだろうかと、思いを馳せるだけしかできないのだ。
 
 緊急避難の解除の報せが全館に行き渡ったころ、地下に身を潜めていた生徒たちがそぞろと自室へと戻って行く。
 鈴音の生徒二人は療養が必要で医務室で一晩過ごす事となった。
 自室に一人で入った流真は、激しい自省の念に苛まれていた。
 三人では少し窮屈さを感じさせた室内が、寂寥感に包まれている。
 居た堪れない感情が湧き上がってくるも、感傷に浸る時間を与えず、ドアが叩かれた。
 開かれた先に、明士を担いだ准貴がいた。
「気を失っているだけだから、心配すんな」 
 大股でずかずかと足を踏み入れると、寝室のベッドに明士を寝かした。
 血で汚れた寝衣に目が留まり、流真の表情が硬く強張った。
 どくどくと心臓が脈打つ。
 なぜ、芳凛が来ないんだろう。自分たちの軽はずみな行動に怒っているのだろうか。
 流真は泣きそうになった。
 准貴が小さく嘆息すると、流真に告げる。
「いいか、流真。よく聞け。仲間を守る立場になりたかったら、強くなることだ。芳凛を困らせることがお前たちのするべきことじゃない。そうだろ?」
「……………はい」
 准貴の言おうとしていることは何となく理解できた。力もないのに先々を考えず飛び出したのは死に急ぐ行為だ。
「わかったら、もう寝ろ」
 閉じられた扉が境界線のように感じた。
 ――近づけない。
 追いかけても届かない思いはあるのだと、実感する。
 地面に転がる石よりも役に立たない自分に、流真は打ちひしがれていた。
         

 時刻が0時を回ったころ、嵐は弱まり守りの森は静けさを取り戻していた。木立ちが屹立し館を見守っている。         
 自室に戻った芳凛は浴槽に身体を沈めている。熱いお湯が身体の芯まで行き渡り、疲労を溶かし出していくようだ。心地よい脱力感に想い存分身を任せたあと浴室から出ると、ソファに腰を下ろす葎がいた。

 もちろん全裸だったが、葎が用意したのだろう寝間着代わりのワンピースがカウンターに置かれていた。

「……鍵を掛けたはずだが」
 用意された衣服を着用すると、怪訝そうな面持ちで葎の隣に座る芳凛。間近になって葎が着替えを済ませていることに気付いた。よく見れば髪も湿っている。葎は早業でシャワーを浴び、芳凛の部屋を訪れたようだ。
 身体を温めすぎたのか、芳凛が額の汗をタオルで拭った。
「用はなんだ?」
「ちゃんと髪を拭かないと風邪ひくよ」
 葎ががしがしと芳凛の髪を拭いた。
「…わざわざ、私の髪を拭きにきたわけじゃないだろ。早く用件を言え」
 拭き終わると、芳凛の頭にタオルを被せ顎の下で結んだ。そしてぷっと噴出す。
「これが赤いタオルなら、赤ずきんちゃんなんだけどな」
 葎は微笑むが芳凛はむっと眉間を寄せる。
「…用がないなら部屋に戻れ。私は疲れてるんだ」
 昨夜もあまり眠れていなかった。
「久しぶりに一緒に寝ようか?」
「……頭までおかしくなってきたのか」   
「ははっ。そんな真顔で言われるとちょっと傷付くなぁ」
 そう言うと葎は芳凛の背中に腕を回し胸に抱き寄せた。芳凛は拒まなかった。
「なんだ?」
「咲矢が言ったことは綺麗さっぱり忘れてくれ」
「……」
「お前が答えたとおり俺が望んだことだ。お前を巻き込むつもりはないがお前を手放す気もないよ。例え神がお前を奪おうとしてもだ」
 葎の鼓動は穏やかだった。
「俺は託真のようにお前を残して一人では死なない。逝く時はお前を道連れにするからな」
 芳凛が葎の胸を押した。
「…………神などいない。だから私は託真を殺した。この先お前を殺すことになったとしても、私はきっと躊躇はしない」
「でも、俺はまだ生きてるよ」
「葎……『特別』なんていらないんだ。私はお前の特別にはなれない」
 芳凛は葎を突き放すように立ち上がった。葎の手が素早く芳凛の腕を掴みとった。
「お前は特別だよ。俺にとっても託真にとってもな」
「……」
「その託真の精霊がなぜお前を『主』と呼ぶんだ?」  
「――」
「黙るなよ。不思議に思うのは当然じゃないか? 花劉はもともと託真のものだ。もしかして、お前のそばにザイドがいないことと関係あるのか?」
「全くの無関係だ。ザイドがいないのは、私が華艶を傍に置くからだ」
「なんだ、やっぱり拗ねてるのか。大人気ないな」
「……わかっていたなら訊く必要はないだろ」
 芳凛が少し苛立ち始めた。それに気づいている葎ではあったが気にする風はない。
「もう一つ答えてもらってないよ。花劉はどうしてだ?」
「バカが勝手にそう呼んでるだけだろ。いい加減なのは奴の特権だ」
「本当か?」
「嘘をつく理由がない」
 葎は黒い瞳の奥を強く見詰めた。
「……いいだろう。だが、花劉とは彩の印を消したら繋がりを断ち切れ。いいか、絶対だぞ」
「何を剥きになってるんだ」
「ダメなものはダメなんだ。俺は昔から奴は好かん」
「お前の好き嫌いで私は動かない。どうしてもと言うなら、お前も『ゲドウ』と契りを断ち切ることだ。私を殺す前に先に命が消えるぞ。そうなれば私が一人生き残ることになる。私を道連れにするのではないのか?」
「……それとこれとは別問題だろ。ごちゃ混ぜにするなよ」
「本気で言っているのか?」
 以前から無意識に感じていたかもしれない疑惑は、数年前より色濃く鮮明に浮き彫りになっていた。
  道筋をたどれば根は同じではないだろうか。何者かに仕組まれているのではないか。そんな疑念が芳凛の中で生まれていた。
 芳凛は葎がどこまで踏み込んでいるのか確かめなければならなかった。
 誰も巻き込みたくなかった。仮に葎自身が望んだとしても、芳凛は彼を遠ざけたかった。
「……他に俺から何か聞きたいことは?」
「何もない。話は終わりだ。帰れ」
 素っ気無い返答で締めくくろうとした芳凛に、葎は苦笑した。
「お前も嘘をつくのが下手だ」
 芳凛の黒髪を手で掬うと、渇ききらない湿った髪にそっと唇を付けた。
「随分と伸びたな…」
 腰まで垂れる黒髪に目を流した。
「前線にいた頃とは違い、対価にする必要がないからな」
 髪や血肉は、力を増幅させるために肉体の一部を代償に力を引き出す道具として使われる。その代償を対価という。
「お前はいつも適当に切り落とすから、あとで切り揃えるのが大変だった」
 懐かしい過去が思い出される。
 あの頃は本当に生きることに精一杯で無知だった。
「芳凛。本当に一緒に寝ないのか?」
「随分大きな寝言だな」
「ザイドがいないんだろ? 一人で眠れるのか?」
 芳凛は昔から寝付けない体質だった。学徒の頃は葎と託真が両挟みでくっついて寝ていたが、一人部屋になってからは毎晩ザイドが寝付くまで傍にいたのだ。
 葎が部屋に来た理由の主要を悟って芳凛は何も答えなかった。
 芳凛は葎の匂いと温もりに顔を埋め眠りに落ちた。
 身体に添えられる腕が心地よく、子供の頃を夢見ていた。
     
 時を止めて巻き戻せたら……そしたら、もっと上手く言える。
 今よりもっと君を強く感じられるのにと、夢の中で誰かが囁いた気がした。

糸倉万葉(いとくらかずは)
壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の
3
  • 0円
  • ダウンロード

19 / 22

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント