時刻が0時を回ったころ、嵐は弱まり守りの森は静けさを取り戻していた。木立ちが屹立し館を見守っている。
自室に戻った芳凛は浴槽に身体を沈めている。熱いお湯が身体の芯まで行き渡り、疲労を溶かし出していくようだ。心地よい脱力感に想い存分身を任せたあと浴室から出ると、ソファに腰を下ろす葎がいた。
もちろん全裸だったが、葎が用意したのだろう寝間着代わりのワンピースがカウンターに置かれていた。
「……鍵を掛けたはずだが」
用意された衣服を着用すると、怪訝そうな面持ちで葎の隣に座る芳凛。間近になって葎が着替えを済ませていることに気付いた。よく見れば髪も湿っている。葎は早業でシャワーを浴び、芳凛の部屋を訪れたようだ。
身体を温めすぎたのか、芳凛が額の汗をタオルで拭った。
「用はなんだ?」
「ちゃんと髪を拭かないと風邪ひくよ」
葎ががしがしと芳凛の髪を拭いた。
「…わざわざ、私の髪を拭きにきたわけじゃないだろ。早く用件を言え」
拭き終わると、芳凛の頭にタオルを被せ顎の下で結んだ。そしてぷっと噴出す。
「これが赤いタオルなら、赤ずきんちゃんなんだけどな」
葎は微笑むが芳凛はむっと眉間を寄せる。
「…用がないなら部屋に戻れ。私は疲れてるんだ」
昨夜もあまり眠れていなかった。
「久しぶりに一緒に寝ようか?」
「……頭までおかしくなってきたのか」
「ははっ。そんな真顔で言われるとちょっと傷付くなぁ」
そう言うと葎は芳凛の背中に腕を回し胸に抱き寄せた。芳凛は拒まなかった。
「なんだ?」
「咲矢が言ったことは綺麗さっぱり忘れてくれ」
「……」
「お前が答えたとおり俺が望んだことだ。お前を巻き込むつもりはないがお前を手放す気もないよ。例え神がお前を奪おうとしてもだ」
葎の鼓動は穏やかだった。
「俺は託真のようにお前を残して一人では死なない。逝く時はお前を道連れにするからな」
芳凛が葎の胸を押した。
「…………神などいない。だから私は託真を殺した。この先お前を殺すことになったとしても、私はきっと躊躇はしない」
「でも、俺はまだ生きてるよ」
「葎……『特別』なんていらないんだ。私はお前の特別にはなれない」
芳凛は葎を突き放すように立ち上がった。葎の手が素早く芳凛の腕を掴みとった。
「お前は特別だよ。俺にとっても託真にとってもな」
「……」
「その託真の精霊がなぜお前を『主』と呼ぶんだ?」
「――」
「黙るなよ。不思議に思うのは当然じゃないか? 花劉はもともと託真のものだ。もしかして、お前のそばにザイドがいないことと関係あるのか?」
「全くの無関係だ。ザイドがいないのは、私が華艶を傍に置くからだ」
「なんだ、やっぱり拗ねてるのか。大人気ないな」
「……わかっていたなら訊く必要はないだろ」
芳凛が少し苛立ち始めた。それに気づいている葎ではあったが気にする風はない。
「もう一つ答えてもらってないよ。花劉はどうしてだ?」
「バカが勝手にそう呼んでるだけだろ。いい加減なのは奴の特権だ」
「本当か?」
「嘘をつく理由がない」
葎は黒い瞳の奥を強く見詰めた。
「……いいだろう。だが、花劉とは彩の印を消したら繋がりを断ち切れ。いいか、絶対だぞ」
「何を剥きになってるんだ」
「ダメなものはダメなんだ。俺は昔から奴は好かん」
「お前の好き嫌いで私は動かない。どうしてもと言うなら、お前も『ゲドウ』と契りを断ち切ることだ。私を殺す前に先に命が消えるぞ。そうなれば私が一人生き残ることになる。私を道連れにするのではないのか?」
「……それとこれとは別問題だろ。ごちゃ混ぜにするなよ」
「本気で言っているのか?」
以前から無意識に感じていたかもしれない疑惑は、数年前より色濃く鮮明に浮き彫りになっていた。
道筋をたどれば根は同じではないだろうか。何者かに仕組まれているのではないか。そんな疑念が芳凛の中で生まれていた。
芳凛は葎がどこまで踏み込んでいるのか確かめなければならなかった。
誰も巻き込みたくなかった。仮に葎自身が望んだとしても、芳凛は彼を遠ざけたかった。
「……他に俺から何か聞きたいことは?」
「何もない。話は終わりだ。帰れ」
素っ気無い返答で締めくくろうとした芳凛に、葎は苦笑した。
「お前も嘘をつくのが下手だ」
芳凛の黒髪を手で掬うと、渇ききらない湿った髪にそっと唇を付けた。
「随分と伸びたな…」
腰まで垂れる黒髪に目を流した。
「前線にいた頃とは違い、対価にする必要がないからな」
髪や血肉は、力を増幅させるために肉体の一部を代償に力を引き出す道具として使われる。その代償を対価という。
「お前はいつも適当に切り落とすから、あとで切り揃えるのが大変だった」
懐かしい過去が思い出される。
あの頃は本当に生きることに精一杯で無知だった。
「芳凛。本当に一緒に寝ないのか?」
「随分大きな寝言だな」
「ザイドがいないんだろ? 一人で眠れるのか?」
芳凛は昔から寝付けない体質だった。学徒の頃は葎と託真が両挟みでくっついて寝ていたが、一人部屋になってからは毎晩ザイドが寝付くまで傍にいたのだ。
葎が部屋に来た理由の主要を悟って芳凛は何も答えなかった。
芳凛は葎の匂いと温もりに顔を埋め眠りに落ちた。
身体に添えられる腕が心地よく、子供の頃を夢見ていた。
時を止めて巻き戻せたら……そしたら、もっと上手く言える。
今よりもっと君を強く感じられるのにと、夢の中で誰かが囁いた気がした。