咲矢が芳凛と肩を並べて医務室へと向かっていた。
特殊回路はいつもと変わらず寒々としている。
二人の足音が交互に響いた。まるで音を刻むように。
「知らない間に仲良くなったみたいね」
沈黙を破り先に口をついたのは咲矢だった。
「何が?」
芳凛と咲矢は、前方を見据えたまま慌てる様子もなく一定の歩幅で進んでいる。
「鈴音と准貴よ。それにあなたもね」
芳凛は無言で返す。咲矢が何を言いたいのか察したからだ。咲矢が含み笑いをする。
「何だ?」
「別に。准貴の誘いは断ったんでしょ?」
「……だから?」
「葎が喜ぶわ。あなたが葎から離れない限り、彼はずっとあなたを想い続けられるもの」
嫌味を感じるには十分すぎる言葉をあえて咲矢は口に出した。だが、芳凛から聞かされる答えは咲矢の想像以上に冷めたものだった。
「お前が傍にいてやればいい」
不快感を感じながらも咲矢は平常心を保つ努力をしていた。
「ええ…いるわよ…貴女よりもずっと近くに――でも………私じゃダメなのよ」
「――」
「分かってるんでしょ? 葎は貴女が…」
「咲矢」
芳凛は一言で咲矢の言葉を打ち止めた。
白い瞳に映る黒瞳は揺れていた。
「…いいじゃないの。貴女と二人きりで話す機会なんて滅多にないんだから。あなたは私を避けているようだし」
事実なのだろうか。芳凛は返事に迷っているようだった。
「お前と話す必要があるとは思えない」
「逃げないで。たまには話を聞いてくれてもばちは当たらないと思うわ」
「……葎に聞いてもらえばいい。私は面倒なことに関わりたくない」
「そんな事を言ってもだめよ。すべてはあなたを中心に回ってるんだから」
芳凛が立ち止まる。数歩先で咲矢が振り返った。
「……回りくどい言い方をせず、はっきり言ったらどうだ?」
咲矢の目が芳凛の右腕に移る。衣服に染みていた血が範囲を広げている。
「……傷が――」
芳凛はすべての資質を持つ特殊な門番だ。当然、自己治癒能力の高いスノウも持っている。スノウを持つ身にしては傷の治りが遅い、と咲矢は思った。
「…葎が、嫌がるわ」
咲矢が伸ばした手を芳凛は振り払った。
芳凛は咲矢を見据えた。
「葎が嫌がろうが関係ない。私は私の仕事するだけだ。無意味な話を続けるつもりならお喋りは終わりだ」
「でも、あなたは今、仕事の話じゃないのに私と喋ってくれてるわ。それって葎が関わることだからでしょ?」
咲矢は芳凛の口から何を聞きたいのだろう。
「……ねぇ芳凛。あなたはこの世界のしがらみにいつまで付き合うつもりなの? 大樹は次の手を打ってくるわ。華艶を寄越したのだってそう。その時、葎はあなたを守るためにまた傷付く。あなたを手元に置くために、彼がどんな犠牲を払っているのか知ってるんでしょ?」
「……どのことを言っているんだ?」
咲矢が怪訝な顔をした。芳凛の言葉はまるで咲矢より葎の事を理解しているように聞こえた。
「どのことって…どういう」
芳凛の双眸は咲矢を冷酷に見つめる。ぞくりと背筋に冷たいものが伝う。鈍っていた感覚が研ぎ澄まされる瞬間だった。
追憶の狭間に仕舞い込んだ脅威を思い出し、咲矢は戦慄を覚えた。
「―――白けた話だな。お前は私よりも葎の傍にいるというのに…憐れだ」
嘲笑した台詞を口にするその様ですら彼女に尊さを感じてしまう。咲矢はそんな自分が嫌いで仕方なかった。
どれだけの生きとし死せるものたちが、幾度となく輪廻を繰り返そうとも変わらないものがある。
遥か昔、付き従い共有した時間を思い出させても、それは芳凛のようで芳凛ではない。
その者が言っていたのだ。
『自分がしたい事と、するべき事は違う』
咲矢は怖かった。芳凛がすべて奪い去るのではないかと。大切なものを穢してしまうのではないかと。
「……お願いよ、芳凛。葎を開放して……あなたの言うことなら聞くかもしれない」
「葎が選んだ道だ」
芳凛が軽く首を振った。咲矢の目は涙で潤んでいた。
「お願い。彼を止めて」
もう、彼の手は重さに耐えられない。双肩に圧し掛かる犠牲は彼には重すぎる。
そう、泣き崩れる咲矢を無表情に見つめる芳凛の背後から、思い掛けない声が掛けられた。
「血に塗れた手はもう元に戻らないよ、咲矢」
咲矢が震骸して顔を上げた。
潤んだ瞳に映ったのは、淡い切なさ含んだ笑みを浮かべる葎だった。
「芳凛の言うとおりだ。俺の選んだ道なんだよ」
「…ど…うして……」
いつから聞いていたのか。そう訊ねたかったが、声にならなかった。
「葎」
芳凛が呼ぶ。ごく自然に呼ばれた名には、微塵の動揺も色づいていない。
その時、咲矢は心底脱力感を味わった。自分がどれほど懸念ししがみつこうと、芳凛の心を動かすことはできないのだと痛感したのだ。
「華艶は?」
「いや、そのなんだけど、厄介な事になってね」
「厄介事?」
咲矢が毅然と振舞い、会話に入った。
涙を拭い背筋を伸ばす。彼女もまた、与えられた仕事を遂行しなければならないのだ。
「舞の様子を華艶と見守っていたんだが、その、ある二人の生徒が飛び込んできて……それで、ただ今『暴走』中だ」
苦笑いをする葎に芳凛と咲矢は言葉を失った。
一難去っててまた一難。慌ただしいこの世界は、休む時間を与えてくれるほど優しくはなかった。
蹲る明士。
雄叫びをあげる舜。
明士に襲い掛かろうと手を伸ばし涎を垂らす舞。
正常な医務室を思い出せないくらい荒れ果てた室内は血生臭い空間と姿を変えていた。
長城きっての美貌の持ち主と謳われる美女二人は、その情景を目にした途端、端麗な顔に陰を落とす。
「まいったわね…」
咲矢がぼそっとぼやいた。
「なんでこんなことになったんだ?」
准貴がさっぱりわからん、とばかり腕組みをして唸った。
「しかしまぁ……その、あれだな。芳凛と鈴音は大当たりだな」
能天気な准貴の台詞だが、そのとおりである。鈴音は見事に全滅だ。さすがの鈴音も愚の根も出ない。
華艶が三人の生徒に拘束をかけているとはいえ長続きはしないだろう。のん気な教員たちは医務室内で作戦会議を開いていた。
「『ただの』暴走を起こしてる二人を先にとめるか?」
准貴が提案したが、鈴音に即座却下された。
「だめよ。舞は残影持ちで暴走してんだから、先に舞を抑えなくちゃ」
鈴音が言う。
「あぁ……何て言ったらいいのかしら。ここまで面倒なことになると笑うに笑えないわ」
咲矢が落胆している。
そんな井戸端会議をしている最中に、誰かの血が准貴の頬に的中した。
「うおっ!? なんでもいいから早くしようぜッ あいつら出血多量で死にそうだ」
准貴の一言が決め手になった。
数分後――。血まみれの三人の生徒が瀕死の状態で床に転がっていた。
「――――」
「――…」
「――…」
「えー…っと…とりあえず」
鈴音が舞の治癒を始めた。それを見て咲矢が舜に取り掛かる。もう一人、明士を見下ろす芳凛はなぜか迷っていた。
明士の『暴走』症状はいつも内側からだった。
本日二回目の吐血。さすがにまずい。ここは『移し身』を行うのが妥当だろう。
分かっているも葎の目が気になった。咲矢との会話のせいなのだろうか、芳凛は躊躇っていた。
そんな芳凛を見てか華艶が動く。明士の腹部に手を当て治癒を始めた。
「あ。そういえば、彩を双子たちの部屋に寝かしたままなんだけど」
思い出したように鈴音が葎に報告した。
「残影は抜いたのか?」
「芳凛が強引に。でも命に別状なかったわ。運がよかったのね」
葎が渋面になった。
「印は?」
「部位まで確認していないわ。でも恐らく付けられてるでしょうね」
印とは、異形が普通の傷跡に似せてつける傷のことだ。残影が去り際につけることが多い。印をつけられたものは一生異形に追い回されることになる。よほど旨そうな匂いでもするのだろう。だが一つだけ印を消す方法があった。
「ねぇ、芳凛。ザイドを貸してくれない?」
「……」
「ザイドって誰だよ?」
准貴だ。鈴音は説明することにうんざりという顔を向けた。
「…傷を消すたった一つの方法は『精霊』に消してもらうことよ」
話を引き継いだのは咲矢だ。
『精霊』とは、神の眷属と呼称される者だ。異形と同様に扱われることが多いが全く異なる種となる。
簡単に言えば異形は醜い姿形をしているが、精霊は神の眷属と言われるだけあって見目麗しい容姿をしていることが多い。
精霊と契りを交わすには、従えるに値する価値を持つ門番であることと、彼らの機嫌と好みが重視される。容易に『いいですよ~』とほざいたかと思うと、ある日突然あっさりと切り捨てられているから、十分注意が必要だった。
「芳凛。精霊もってんだ。すげーな!」
自分のことのように嬉しそうな准貴を横目に、
「ザイドは使えん」
芳凛がぼそっと言う。
「どうして?」
鈴音が首を傾げた。
「へそを曲げて出て来ない」
「ええっ!? 忠実なザイドが珍しいわね」
「……」
「ほほぅ。あのザイドがなぁ」
葎が思慮深い面持ちで華艶をちらりと見た。
「まぁ…ないものはしかたない。医療班で精霊を持つ者を寄越してもらうとしよう」
すると、咲矢と鈴音が複雑な顔をして葎に何か訴えていた。
「仕方ないだろうが。そんな目で見るな」
「なんだよ。春伊か? あいつかぁ…俺もちょっと気が進まねーなぁ」
「そう言うてくれるな。変わり者ではあるが、有能だ」
「…単なる変人でしょ。極力関わりたくないわ」
芳凛と華艶を除いた教員は、医療班の話で盛り上がっていた。芳凛が会話に加わることはなかった。
「華艶、明士はどうだ?」
「うん――………」
ヤバイと言うことなのだろう。華艶はぷつりと黙り込んだ。芳凛が明士の頭を優しく撫でた。
「…芳凛。僕がするよ」
躊躇う芳凛の様子から何か察したのだろう。華艶がさりげなく申し出たが芳凛は頷かなかった。
「なんなら、私がしようか?」
葎が二人の様子を見て申し入れたが、芳凛は一向に頷かない。
「おい…明士、ヤバくね?」
准貴が気づくのも当然だ。明士の顔は血の気が失せて呼吸も細くなっていた。
「……」
芳凛は腹を決めたようだ。無言で立ち上がると明士から少し距離をとる。深呼吸をして、口を開いた。
「汝、主を示せ」
透き通った声が室内に木霊した。ふわりと優しい風が芳凛の髪を揺らす。
「――誘え、我が息、我が声に」
唱えられた言霊に葎がぎょっとした。
「待てっ!! そいつはまずいっっ!」
「なんだなんだ?」
准貴を省いた教員たちは顔を歪ませる。
「――風の吹く都、舜風舞う花、振れる振り子が刻む白夜」
突風に見舞われ目を閉じた。気配を感じさせない声がそよ風のように彼らの耳元で囁く。
「もったいない、目を瞑るなよ」
居場所が変わる瞬間だ。躯体が引き裂かれる錯覚に陥り、別空間へ移動したと教員たちは悟る。
恐る恐る目を開くと、視界を覆う白い花びらが群れをなし舞っていた。
「……すっげーな、おい…」
准貴が呆気にとられ周囲を見渡した。
美しいの一言である。見た事もない、澄んだ純白の花々の化身とも言える花びらが舞い散る様は幻想の世界だ。
「だろ? …おや、君は新顔さんだね」
姿なき者が軽い口調で告げた。
「うっわぁ……」
准貴が感動に浸っている。と、葎と鈴音はなぜか不機嫌だった。姿なき者が語りかける。
「やっと、呼びやがったな。我が主よ」
「どうでもいいから、明士の体を治せ」
芳凛がぶっきら棒に言い捨てた。
「明士? 誰だそりゃあ」
「とぼけるな。さっさとしろ。万が一死んだらお前のせいだ」
「おいおい…身に覚えのない罪は被る気ねーぞ」
姿なき者はぶつくさ言いながら、花弁の大群を明士へと向ける。花弁が明士の体を埋め尽くした。
さわさわと、優しい音が聞こえる。花弁がこすれる音なのだろうか。
「舞に憑いた残影も消し去れ」
「ったく、久しぶりだって言うのに人使いが荒いな。感動の再開を味わう間もないじゃないか」
不満げに花弁たちが舞へと飛び移った。明士は穏やかな寝息をたてている。
「――気づいてたのか、芳凛」
葎がぼそっと耳打ちした。
「朝から鼻に付く臭いを感じてはいたがな。しかし、呼び出しに即効おでましとは…よほど近い所にいたようだ」
鈴音が煙たい顔を露わに、舞に群がる花弁に向けて奥歯を噛みしめた。
「あんた…これが狙いだったわね…」
「くくくっ。お前はやっぱり可愛いやつだな。ちゃんと約束を守って芳凛たちには言わずにいてくれたようだし」
花弁が優雅に人型を象った。鈴音に顔を突きつけるように現れた白髪の青年は、魅惑な笑みを鮮やかな赤眼に浮かべた。象牙色の肌に宝石のような赤い瞳が怪し
く光る。真綿のような肌触りのよい布を無造作に羽織る姿は、まさしく神の子と呼ばれるに等しい存在感を醸し出していた。
すかさず、葎が芳凛の隣から毒づいた。
「ついでに印も消していけよ。花劉」
「ははは。お前は相変わらずムカつく野郎だな、おい」
「お互い様だ。そう何度も呼び出してやるもんか。用が済んだら、さっさと消えろ」
葎との痴話げんかを終えると、花劉が肩をすくめる仕草をした。
「なんて顔してんだ、咲矢。美人が台無しだぜ?」
異界に来てから一言も発しない咲矢に、からかうような視線を送る。
「…ご忠告ありがとう」
口許を引き攣らせながら、咲矢が無理に笑った。
「おお! もう一人初顔がいるじゃないか」
華艶が思わず芳凛のそばへと駆けた。
「なんだ、恥ずかしいのか? へぇ…珍しい毛色をしているな。顔もいい」
「近寄るな。ばかが移る」
しっし、と手を振って花劉を追い払う葎だった。芳凛はさりげなく華艶を後ろに隠した。
「花劉っていうのか、あんた。えらい別嬪だな。男にしとくの勿体無いじゃん」
のん気に准貴が声を掛けた。
「おや。君の名前はなんていうのかな」
「俺は准貴だ。よろしくな、花劉」
初対面の挨拶をにこやかに交わす准貴に、鈴音は怒りの回し蹴りを入れてやりたくなった。だが、花劉が舞を助けてくれたことには変わりなく、怒りを静かに抑えた。
芳凛が明士の傍らに立つと、腕を振り払い、白い空間に亀裂が刻んだ。それは出口のようなものだ。
「さあさあ、帰りましょ」
咲矢が先頭で亀裂に飛び込んだ。
准貴が舜を担ぎ上げると、舞を脇に抱えた。鈴音がその後ろを歩いて、亀裂の中へと消えていく。葎と華艶が芳凛を待っていた。
「芳凛」
花劉が呼び止めた。芳凛は振り返らなかった。花の香りが体に纏わり付く。
「彩の痕跡はまだだ。すぐ俺を呼ぶことになるよ」
「……首を洗って待っていろ」
「はいはい」
にこやかに手を振り見送る花劉に、葎は違和感を感じた。
清らかな純潔を髣髴させる花園は、穢すためだけに白い世界を作り上げているように思えた。
無垢な世界はすべてを消滅させるもののようだ。なぜなら、時として人は人を守り、人を傷付ける。
傷跡は癒えることなく、消えず忘れる事もできない。
もし、魂が存在するならば。
もし、生まれかわりが存在するならば、その者に何を求めるのだろうか。
何かを代償に何かを得たならば、
『友』を得たとき、彼は何を失ったのだろう。
『友』を失ったとき、彼女は何を得たのか。
今の葎に答えは出せなかった。
儚く、厳しく、脆く、強い。その友であり、愛しい人を救うためには、何を代償に差し出せば望みは叶うのだろうかと、思いを馳せるだけしかできないのだ。
緊急避難の解除の報せが全館に行き渡ったころ、地下に身を潜めていた生徒たちがそぞろと自室へと戻って行く。
鈴音の生徒二人は療養が必要で医務室で一晩過ごす事となった。
自室に一人で入った流真は、激しい自省の念に苛まれていた。
三人では少し窮屈さを感じさせた室内が、寂寥感に包まれている。
居た堪れない感情が湧き上がってくるも、感傷に浸る時間を与えず、ドアが叩かれた。
開かれた先に、明士を担いだ准貴がいた。
「気を失っているだけだから、心配すんな」
大股でずかずかと足を踏み入れると、寝室のベッドに明士を寝かした。
血で汚れた寝衣に目が留まり、流真の表情が硬く強張った。
どくどくと心臓が脈打つ。
なぜ、芳凛が来ないんだろう。自分たちの軽はずみな行動に怒っているのだろうか。
流真は泣きそうになった。
准貴が小さく嘆息すると、流真に告げる。
「いいか、流真。よく聞け。仲間を守る立場になりたかったら、強くなることだ。芳凛を困らせることがお前たちのするべきことじゃない。そうだろ?」
「……………はい」
准貴の言おうとしていることは何となく理解できた。力もないのに先々を考えず飛び出したのは死に急ぐ行為だ。
「わかったら、もう寝ろ」
閉じられた扉が境界線のように感じた。
――近づけない。
追いかけても届かない思いはあるのだと、実感する。
地面に転がる石よりも役に立たない自分に、流真は打ちひしがれていた。
時刻が0時を回ったころ、嵐は弱まり守りの森は静けさを取り戻していた。木立ちが屹立し館を見守っている。
自室に戻った芳凛は浴槽に身体を沈めている。熱いお湯が身体の芯まで行き渡り、疲労を溶かし出していくようだ。心地よい脱力感に想い存分身を任せたあと浴室から出ると、ソファに腰を下ろす葎がいた。
もちろん全裸だったが、葎が用意したのだろう寝間着代わりのワンピースがカウンターに置かれていた。
「……鍵を掛けたはずだが」
用意された衣服を着用すると、怪訝そうな面持ちで葎の隣に座る芳凛。間近になって葎が着替えを済ませていることに気付いた。よく見れば髪も湿っている。葎は早業でシャワーを浴び、芳凛の部屋を訪れたようだ。
身体を温めすぎたのか、芳凛が額の汗をタオルで拭った。
「用はなんだ?」
「ちゃんと髪を拭かないと風邪ひくよ」
葎ががしがしと芳凛の髪を拭いた。
「…わざわざ、私の髪を拭きにきたわけじゃないだろ。早く用件を言え」
拭き終わると、芳凛の頭にタオルを被せ顎の下で結んだ。そしてぷっと噴出す。
「これが赤いタオルなら、赤ずきんちゃんなんだけどな」
葎は微笑むが芳凛はむっと眉間を寄せる。
「…用がないなら部屋に戻れ。私は疲れてるんだ」
昨夜もあまり眠れていなかった。
「久しぶりに一緒に寝ようか?」
「……頭までおかしくなってきたのか」
「ははっ。そんな真顔で言われるとちょっと傷付くなぁ」
そう言うと葎は芳凛の背中に腕を回し胸に抱き寄せた。芳凛は拒まなかった。
「なんだ?」
「咲矢が言ったことは綺麗さっぱり忘れてくれ」
「……」
「お前が答えたとおり俺が望んだことだ。お前を巻き込むつもりはないがお前を手放す気もないよ。例え神がお前を奪おうとしてもだ」
葎の鼓動は穏やかだった。
「俺は託真のようにお前を残して一人では死なない。逝く時はお前を道連れにするからな」
芳凛が葎の胸を押した。
「…………神などいない。だから私は託真を殺した。この先お前を殺すことになったとしても、私はきっと躊躇はしない」
「でも、俺はまだ生きてるよ」
「葎……『特別』なんていらないんだ。私はお前の特別にはなれない」
芳凛は葎を突き放すように立ち上がった。葎の手が素早く芳凛の腕を掴みとった。
「お前は特別だよ。俺にとっても託真にとってもな」
「……」
「その託真の精霊がなぜお前を『主』と呼ぶんだ?」
「――」
「黙るなよ。不思議に思うのは当然じゃないか? 花劉はもともと託真のものだ。もしかして、お前のそばにザイドがいないことと関係あるのか?」
「全くの無関係だ。ザイドがいないのは、私が華艶を傍に置くからだ」
「なんだ、やっぱり拗ねてるのか。大人気ないな」
「……わかっていたなら訊く必要はないだろ」
芳凛が少し苛立ち始めた。それに気づいている葎ではあったが気にする風はない。
「もう一つ答えてもらってないよ。花劉はどうしてだ?」
「バカが勝手にそう呼んでるだけだろ。いい加減なのは奴の特権だ」
「本当か?」
「嘘をつく理由がない」
葎は黒い瞳の奥を強く見詰めた。
「……いいだろう。だが、花劉とは彩の印を消したら繋がりを断ち切れ。いいか、絶対だぞ」
「何を剥きになってるんだ」
「ダメなものはダメなんだ。俺は昔から奴は好かん」
「お前の好き嫌いで私は動かない。どうしてもと言うなら、お前も『ゲドウ』と契りを断ち切ることだ。私を殺す前に先に命が消えるぞ。そうなれば私が一人生き残ることになる。私を道連れにするのではないのか?」
「……それとこれとは別問題だろ。ごちゃ混ぜにするなよ」
「本気で言っているのか?」
以前から無意識に感じていたかもしれない疑惑は、数年前より色濃く鮮明に浮き彫りになっていた。
道筋をたどれば根は同じではないだろうか。何者かに仕組まれているのではないか。そんな疑念が芳凛の中で生まれていた。
芳凛は葎がどこまで踏み込んでいるのか確かめなければならなかった。
誰も巻き込みたくなかった。仮に葎自身が望んだとしても、芳凛は彼を遠ざけたかった。
「……他に俺から何か聞きたいことは?」
「何もない。話は終わりだ。帰れ」
素っ気無い返答で締めくくろうとした芳凛に、葎は苦笑した。
「お前も嘘をつくのが下手だ」
芳凛の黒髪を手で掬うと、渇ききらない湿った髪にそっと唇を付けた。
「随分と伸びたな…」
腰まで垂れる黒髪に目を流した。
「前線にいた頃とは違い、対価にする必要がないからな」
髪や血肉は、力を増幅させるために肉体の一部を代償に力を引き出す道具として使われる。その代償を対価という。
「お前はいつも適当に切り落とすから、あとで切り揃えるのが大変だった」
懐かしい過去が思い出される。
あの頃は本当に生きることに精一杯で無知だった。
「芳凛。本当に一緒に寝ないのか?」
「随分大きな寝言だな」
「ザイドがいないんだろ? 一人で眠れるのか?」
芳凛は昔から寝付けない体質だった。学徒の頃は葎と託真が両挟みでくっついて寝ていたが、一人部屋になってからは毎晩ザイドが寝付くまで傍にいたのだ。
葎が部屋に来た理由の主要を悟って芳凛は何も答えなかった。
芳凛は葎の匂いと温もりに顔を埋め眠りに落ちた。
身体に添えられる腕が心地よく、子供の頃を夢見ていた。
時を止めて巻き戻せたら……そしたら、もっと上手く言える。
今よりもっと君を強く感じられるのにと、夢の中で誰かが囁いた気がした。