芳凛は、食堂の窓際の席で華艶と向き合ってテーブルに着いていた。時間遅れの昼食だが、周囲にはちらほらと職員や門番の姿があった。流真たちの姿は見当たらない。早々に食事を終え双子たちの手伝いに向かったようだ。
テーブルの上に配膳されているのはハンバーグセットと、親子丼セット。芳凛は、華艶が食べやすいようにとハンバーグを一口サイズに切った。
何てことはないいつも通りの日常なのに、芳凛の心はざわついて仕方なかった。
食事を終えた芳凛が注文口でコーヒーを待つ間、遠巻きから華艶の様子を窺っていた。
「――」
あの笑顔はもう見れないというのに、今でもまだ彼も匂いを覚えている。
あの日、あの時、この手が真っ赤に染まった恐怖も――。
(――託真……)
華艶の体からは彼の匂いがした。
「芳凛?」
呼び掛けられた声に芳凛は我に返った。視線を落した先では、金色の瞳が探るような眼差しを向けている。鈴音だ。芳凛の手元にはコーヒーカップが置かれていた。
「大丈夫? 顔色悪いわよ」
「……ああ。大丈夫だ」
「それならいいけど――」
鈴音はちらっと窓際へと視線を走らせる。
「――ねえ、あの子……」
鈴音が咄嗟に言葉を呑んだ。
「……」
唇に芳凛の手指が添えられていた。しかも、芳凛の瞳は心の奥を見透かす清らかなものではなかった。
『口にしてはいけない』
そう言われたような気がして、鈴音はわざとあどけなく笑った。
「そうね。ごめんなさい」
芳凛は何も返さなかったが、唇で感じた彼女の温もりが鈴音に不安を抱かせた。
コーヒーカップを片手に席へと戻る芳凛の背中を見つめる鈴音。
(……そばに置けば置くほど辛いだけなのに)
そう思いながらも、鈴音には芳凛の気持ちが分かる気がした。
悪を正と成し、正を負と成す。
宙ぶらりんの心は、指先で触れるだけでも壊れてしまうほど脆いかもしれない。
(まったく、人の心配をするだけの余裕があるなんて……自分でも呆れるわ)
鈴音が、自嘲の笑みを浮かべた。
(まずは、『あれ』を先に片付けなきゃね……)
迷いで埋め尽くされた心なんかじゃ、彼女の力になりたくてもなれない。
食堂を出た鈴音は、重圧の掛かった足音を奏で教室へと向かっていた。
「――」
通路は静観としている。行き先を拒むものは何もない。教室の扉を開けると、舜が一人窓辺に佇んでいた。
「どうしました、鈴音先生?」
鈴音は舜を睨み据えた。
開かれた扉は自然に閉ざされ、室内にカタカタと小刻な揺れが生じた。それは『解放』の前兆だ。
教室全体が大きく横揺れするにも関わらず、舜にはわずかな動揺も見られなかった。それどころか、鈴音に微笑んでいるではないか。
「…………猿芝居は止めなさい」
鈴音が威厳のある声音で忠言した。
舜はくつくつと喉の奥で笑いをおさえている。その様は鈴音の知る舜ではなかったが、彼女の知る者ではあった。
「…さすが………と言うべきですか? 舞を封じた結界はなかなかのものでしたよ……」
迸る鈴音の気は、黄金色の蒸気だった。教室の震えは止まらない。いや、止めないのだ。
「心にもないことを言っていると舌を噛むわよ。私もずいぶんと見くびられたものね」
「また僕を封じる気ですか?」
「『僕』ですって?! 笑わせないでよね。上手く考えたものだわ。私たちに気取られず館内に侵入する方法を」
舜は瞠目した。
「褒めてあげるわよ。のこのこさいさい凝りもせずこの世界に来るなんていい度胸してんじゃないの…」
室内の震えが止まった。舜が頭を下げ肩を震わせ笑っていた。
「虫唾が走る……!」
鈴音が見据える先で舜がゆっくりと頭をあげる。軽薄な笑いを浮かべて鈴音を見た。
「クククッ……失敗だな。芳凛じゃなくお前に気付かれるなんてとんだ誤算だよ」
声質が変わっている。鈴音は気を引き締めた。
「おっと……そのへんでやめておけ。俺は今ほんの少しこいつの体を借りてるだけだ。だから普段は大人しくしてるだろ?」
「……どうやって舜を丸め込んだのかは知らないけど悪いことは言わない。さっさと自分の居るべき場所に戻りなさい。ここはあんたが居るべき世界じゃない。私たちはあんたと遊んでられるほど暇じゃないのよ」
舜はトンッと床を蹴ると、身を翻し軽々と窓枠に腰を掛けた。皮肉な笑みを絶えず浮かべ、からかう様に言葉を続ける。
「ひどい言われようだが、俺を招き入れたのは舜の方だよ。しかもこいつはお前をすごく嫌ってるようだ。なんでだろうね?」
鈴音は悔しげにギリッと歯を噛みしめる。
言い訳じゃないが、気を抜いていたわけではない。だが、舜から『ヤツ』の気配を感じたのは二時間ほど前だったのだ。
「そんなこと……あんたには知る必要のないことよッ!!」
黄金色の蒸気が雷へと変貌し鈴音の体から複数の稲妻が放たれた。爆音と共に生じる爆風が舜へと噴きつけられる。舜は避けることもせず、しれっとした面持ちで居座っていた。
鈴音が放電の余韻を身に纏っている。前振りなしに発動したせいで肩で息をしている鈴音を見やると、舜がにやりと口許を歪ませた。
「短気は損だぜ。鈴音」
残影に憑かれた舞を隔離するために、鈴音は舜と口論の末、彼と舞を別々の結界に閉じ込めた。そうしなければ舜は舞から離れなかったからだ。舜は鈴音を口 汚く罵倒した。それでも鈴音は二人の生徒を守りたかった。
結界に圧を掛けて二人を失神させたまでは問題なかったのだが、運がいいのか悪いのか。結界を解く瞬間、雑鬼に紛れる気配を感じ驚愕した。
真っ先に思い浮かんだのは、五年前にぷつりと消えた白い麗人だった。
「…ほんっと……自分に腹が立つわ……あんたほどのヤツを見逃すなんてッ 平和ボケしてたのを覚ましてくれて礼を言うわよ」
「それはそれでよかったじゃないか」
鈴音の拳が強く握り締められる。憎たらしい。舜の体を使ってなかったら叩きのめしてやるのに。
「なんでそんなに怒ってんだ? 俺はお前に怨まれる覚えはないぞ」
失態もいいところだ。葎になんて弁明すればいいのやら。鈴音は呼吸を整えた。
「あんた五年もの間何してたの?」
「五年も? たった五年だろ」
「私ですら長いと感じた五年だったわ。芳凛と葎ならもっと長く感じたかもね」
「………お前には関係ねーだろ」
「上等じゃないの。縛り上げて葎の前に放り出してやるから覚悟しなさい」
「ははは。確かに俺を追い出すことはできるだろうけど、捉えるのは無理だろ。咲矢じゃあるまいしお前じゃリスク高いよ? 無謀な策は講じない方が身のためだと思うけどな。ま。舜が死んでもいいってなら話は別だけど…」
鈴音が高飛車に目を細めた。
「いいわよ。やってごらんなさいな」
「たいした自信だが、あいにくお前は勘違いしてるみたいだぞ?」
ふんっと鈴音は鼻で笑った。
「なによ、舞に憑いた残影を見張るために仕方なく、とでも言いたいわけ? そんな綺麗ごと誰が信じるもんですか」
「なんだ知ってたのか。でも俺は俺のするべきことしに来ただけだ」
「わざわざ自分の影を潜ませて一体何をするって言うのよ。悪趣味もいいところだわ。抑えるならいっそのこと、始末してくれたらいいじゃないの」
「おいおい…それこそ勘違いだろ。俺はお前たちのためにやってるわけじゃないんだから」
黄金色の眼光が鋭さを増した。
「じゃあ一体誰のためだって言うのよ……まさかあんた、この期に及んで芳凛のためなんて厚かましい事言うんじゃないでしょうね。そんな薄ら寒いこと言われたら、私笑いすぎで死んじゃうわ」
「まったく、相変わらず面白い奴だな、鈴音。だからお前のことは嫌いじゃない。本当は臆病なくせに強がって憎まれ口を叩くところは芳凛に似てるしな。まぁ見た目はかなり劣るが」
最後の一言は大きくよけいだ。
「いいぜ。舜から出て行ってやるよ。そろそろ『あっち』の方も動きそうだしな。あ、そうそう…このこと芳凛たちに黙っておいてくれよ」
くわっと目を瞠り、鈴音が怒鳴った。
「ばっかじゃないのっ!? 一目散で葎にチクってやるわよ!」
厚かましいにもほどがある。鈴音の怒りは頂点を極めそうだった。
「え~。そこを何とか頼むよ。な、鈴音。代わりに良い事教えてやるからさ」
舜からへつらう甘え声を聞く日がくるなんて思いもしなかった。気持ち悪いなんてもんじゃない。
「悪いけど私、安いお駄賃は受け取らない主義なの」
ぷいっとそっぽを向く鈴音だが、
「まぁ聞けって。舜がお前を毛嫌いしてる本当の訳を知りたくないか?」
「……あんた何言ってんの?」
そんなことわかりきったことじゃないか。
鈴音は黙った。それは肯定を意味するものと、舜の中の者は受け取った。
「年下や女だからって事が少しと、あと残りは別の理由だ。よく思い出してみな。お前は絶対忘れてねーよ」
「え? どう言うこ――」
台詞の途中で舜の体が前のめりに大きく揺れた。それもそのはず。今まで彼を動かしていたのは姿なき者だからだ。
慌てて駆け寄る鈴音。舜が頭から転落するのを防いだ鈴音は、自分よりも大きな体を床に下ろすと壁に寄り掛からせて座らせた。
二十歳の青年は、子供のように寝息を立てている。鈴音はふ…と息を吐いた。
「どうして奴なんかに…」
鈴音は胸が締め付けらる思いがして深呼吸を繰り返しした。そして、念のためにと舜の溝内あたりに手の平を当て、体内に余計なものはいないかを探った。
(………よかった。本当に出てったみたい。でもなんで?)
腑に落ちない。鈴音は姿なき者の残した言葉を思い返して考えた。
(そう言えば、あいつ何か変なこと言ってたわね。『あっち』の方がどうとか……やっぱり何か企んでるんだわ)
それに。
「絶対に忘れていないことって何よ?」
鈴音は昏睡する舜の顔を見つめた。
(………礼を言うべきだったのかも)
本来なら心身ともに異常をきたしている状況だった。
舜が今無事にいるのは、姿なき者が力を無にして身を潜めていてくれたからにすぎない。舜は身の危険を冒してまで何をしたかったのだろうか。鈴音は乱れた舜の前髪を指で払った。
「どうしてそんなに私が憎いの?」
返事はない。鈴音は舜の顔をまじまじと眺めた。
頭の中の記憶の引き出しを一つ、また一つと慎重に開けていくが、見付からない。
(前に会ってるとか…?)
舜が自分に向ける嫌悪は憎悪に近い。そんな感情を抱かせるくらいなら、自分も覚えているはずだと鈴音は思ったが、
「………」
舜の襟元に目が止まる。
鈴音は瞬きほどの短時間で体中の筋肉が強張るのを感じた。
心の奥、ずっとずっと奥に閉じ込めたもの。
徐々に姿を現す過去の遺物。忘れたんじゃない。それは忘れたいことだ。
「…う………そ……うそでしょ………」
鈴音の顔が死人のように青ざめる。
「そんなはず、ないわ」
唇を手で覆うと涙が溢れ出る。
洩れる嗚咽を堪え、鈴音は教室を飛び出した。
駆ける足が重く鈍く感じた。あの日のように。
どこへ行こうというのだろうか。逃げる場所なんてどこにもないのに。
鈴音は夢中で走った。
もっと早く、もっともっと早く走らなければ追いつかれてしまう。
逃げなければ。
――何から?
『それは、恐怖だ』
名残惜しそうに降り続ける雪が止み掛けていた。積もり積もった雪の上には一人の足跡。
これでは、かくれんぼにならない。
逃げる者も、追う者も、足跡を消すことが出来ない。
だから、降り止まないで……歩んだ道を残したくないから。
◇◇◇
教室を飛び出した鈴音は、学び舎から寮館への渡り廊下の曲がり角で横倒れになって気を失っていた。
「――ってぇ……いきなりなんだあ?」
爆走していた鈴音と衝突したのは准貴だ。彼もまた少し離れたところで尻餅をついている。
頭に手を当てているが負傷したわけではないようだ。視界が定まらず何が起こったのか把握できていない様子であった。
「…………マジかよ!」
視線の先で倒れている人を見て、准貴は驚いて駆け寄った。
「おい、大丈夫かッ おい――…………」
顔を見てさらに驚く。
「鈴音!? なにやってんだよお前ッ!」
鈴音の体を抱き起こすと、頬をペシペシと叩いた。
「しっかりしろ、鈴音、鈴音ッ」
「…うう…」
鈴音が小さいうめき声を上げ、薄っすらと目を開ける。目に映ったのは燃えるような赤い髪の男だった。
「ヒッ!! 何よあんたっ!?」
拒絶に似た悲鳴をあげた鈴音に、准貴は思わずムッとした。
「なによはこっちの台詞だッ いきなりぶつかってきて何なんだ。つうか、頭大丈夫か?」
「あ、頭?」
「そうだよ。お前ぶっ飛んでさ。少しの間だったけど気絶してたんだよ」
そう言えば後頭部がズキズキする。鈴音は状況の把握ができず、しばらく呆けていた。
「何かあったのか?」
鈴音が准貴を見た。背中には准貴の手が添えられている。
「ん? なんだ?」
赤い瞳に鈴音の顔が映る。視界がぼやけて准貴の顔が歪んで見えた。
項垂れると締りの悪い蛇口のように、涙が次から次へと零れ落ちる。
「なんだよ、何で泣くんだ?」
准貴があたふたとして訊くも、鈴音は声を押し殺して泣くばかりだった。
「――――舜のことでまたなんかあったのか?」
鈴音がはっと顔を上げた。赤い目は、真剣な眼差しで鈴音を見ていた。
「お前の口でも勝てねーなら、俺が一発かましてやろうか?」
にかっと子供みたいな笑顔で准貴が続けた。
「やっぱ示しは必要だと思うんだよ。舜みたいに孤立すると周囲を何とも思わなくなるし、誰だって最初から仲間じゃねーんだからさ。やっぱ言わなきゃわかんねーだろ?」
それは鈴音に向けての言葉にも聞こえた。鈴音の涙は止まっていた。
「ほれ。立てるか?」
准貴が鈴音を立たせると、肘から血が出ていることに気付いた。
「……悪ぃな、俺スノウ使えないからさ」
「いい…自分で治すから…」
消えそうな声で鈴音が答えた。准貴が鈴音の頭を撫でる。
「お。やっぱりタンコブできてるな。ちゃんと冷やしとけよって、医療班だったんだからわかるか。ははは……は、はは」
その場から動きそうにない鈴音。准貴はかなり困った状況に陥った。
「…………り、葎を呼ぶか?」
一番無難な名前を挙げたのは、その方がきっと相談しやすいと思ったのだ。だが、鈴音は首を横に振る。准貴はどう接したらいいのか全くわからず途方に暮れた。
普段勝気な鈴音の性格からして下手に口を開くと怒りを買うかもしれないし、かと言ってこのまま放っておくのは正直気が引ける。葎なら上手く話を聞けるのかもしれないが、准貴は完璧な肉体労働派だ。気の利いた台詞も言えないし、慰める自信もなかった。
准貴があれこれ考えていると、鈴音が漸う口を開く。
「あんた授業は?」
「あ? ああ…麻美弥を医務室に連れて行くのにちょっと手間取ってな。今から休憩なんだよ」
「残りの生徒には――…」
なんて説明したの? とは最後まで言えなかった。教員として日の浅い准貴の方が、生徒との関係を上手く作れているように感じたからかもしれない。そんな鈴音の心中を察することなく、准貴はあっけらかんとしていた。
「もちろん話したよ。そしたら恭慶と櫂が麻美弥にしがみついて離れなくってさ。いつ戻ってこれるかわからないなら、一緒に隔離してくれって言い出すし、ほんとまいったよ」
「へぇ…あの二人がね」
「そうなんだよ。まったく人ってわかんねーよな」
意外な話だった。櫂と恭啓はどちらかというと仲間どうこうとつるむのを嫌がるタイプに思っていたからだ。
鈴音が、上目視線で准貴を見た。
「その後どうしたの?」
「ん? まあ………その、ガツンと当て身を少々だな」
「……」
二人の生徒が気絶しているうちに、麻美弥を連れ出したと言うのだ。なんて強引なやり方だろうか。
「鈴音の方は上手くいったのか?」
「……私もあんたと同じよ。結界に閉じ込めて引き離した……」
それが正しいのかは誰にも分からないが。
「でも、口で言ってもわかんねーもんはしかたねーからな。だからって別に暴力ってことじゃねーぞ、俺は」
「分かってるわよ」
准貴の発言は堂々としたものだった。立ち直りが早いのか、今朝落ち込んでいたとは思えないほど、准貴が凛々しく見えた。
昼食時間を大幅にずれているためか、人の行き来がなく館内は静まり返っていた。渡り廊下の窓から見える中庭には、均等に植えられた草花が風に吹かれ香っている。准貴がぎこちなく鈴音の様子を窺っていた。
今朝自分に叱咤を入れた鈴音とは別人のようだと、准貴は思った。
(しかし、まいったな……)
担当教員である鈴音の訴えなしに自分がしゃしゃり出ることはできない。だが、今朝の葎の忠告も効かないとなるとやはり力で抑える方法をとるしか策はないのではないだろうか。
(……いや。でもなぁ――鈴音にもプライドがある、よなぁ…でもやっぱり)
准貴は慣れない頭を使って懸命に考えを巡らせていた。
「あのさ。泣くほど辛いならやっぱ誰かに言った方がいいぞ。俺でも話くらいは聞けるし………そうだ。今から一緒に飯食いに行こう。な? 話聞いてやっからさ」
「昼食は済ませたわ」
「――」
あっけなく話は終了し、中途半端に重い空気が漂った。
「…………………………っだぁあ~~~~っ! それでもいいじゃんかッ」
いきなり発狂した准貴に、鈴音がぎょっとした顔で見る。
「いいから行こうぜ! どうせ舜と顔合わせずらいんだろ? いいじゃん別に今日ぐらいサボっても。葎に何か言われたら俺が庇ってやっから。なっ!」
がっしりと掴まれた両肩に、准貴の優しさを感じる鈴音。だが、鈴音は疑うような眼差しを向けながら呟く。
「……イチゴパフェおごってくれる?」
准貴が目を瞬くと、破顔一笑。鈴音の頭を撫でて、「いいぜ」と言った。
意識の裏側で映し出された光景は、白い雪に落ちた赤い染み。
雪の冷たさと息の白さ。背中に立つ黒い影に金色の糸。
射し照らすのは温かい灯ではなく寒々とした月の雫だった。
『……ちゃん…………ごめんね……ごめんね』
少女の声が震えていた。
「――」
意識を取り戻した舜は、体内から異形のものが消えていることに愕然とした。しかも記憶がぽっかり抜けている。
(――どういう……ことだ?)
僅かに鈴音の気が室内に残っている。
もしかして、異形のものと相対したのだろうか。そんな不安を感じ蹌踉と教室から出る。
(まさか『ヤツ』にやられたんじゃ…)
体に掛かる倦怠感から思うように動けず、舜は教室の入り口で扉にしがみついた。
座り込むように膝が屈折した時、誰かに腕を掴まれ驚いたが、悲鳴を上げ前に腰が落ちた。
だんまりする舜に葎は心配そうに訊ねた。
「どうしたんだ?」
不審に思った葎が室内をざっと見渡す。僅かだが、鈴音の発動残響を感じ胸騒ぎを覚えた。
時として体罰も必要だとは言ったが、鈴音がここまでするとは到底考えられない。歩く力も残っていない舜の様子からして明らかに奇怪しかった。
「担当教員はどこへ行った?」
舜は答えなかった。何て言えばいいのか頭に浮かばないし、ここは黙っているのが得策だと思ったのだ。
「舜。喋ることはできるだろ。私の質問に答えなさい」
「………」
舜は頑固として口を開かなかった。葎は舜を通路の壁に寄りかからせると教室へと足を踏み入れる。葎は鈴音の残響へと意識を集中させた。
(――鈴音にしては珍しいな。雷を使ったのか…)
生徒相手に使う代物じゃない。通路でへたり込んだ舜を見やる。
(何か入り込んだか………?)
舜の体力の消耗は異常なものだった。このままでは立つことも困難だろう。
「舜」
見上げる舜の額に葎が手を当てた。思わず肩をすくめた舜に葎は温情の言葉をかける。
「動けるだけの気を送るだけだ。そのままじゃ部屋にも戻れないだろ」
舜は素直に応じた。
「―――」
額から流れ込む葎の気は温かく心地よいものだった。舜は瞼を閉じて身を任せる。葎がふいに眉をひそめる。舜から微小だが何か感じ取ったのだ。嫌悪感が葎の胸中で渦巻いた。
「………これでいいだろ。立ってみなさい」
葎が促すがまま舜は立ち上がった。体が嘘みたいに軽い。
「ずいぶんと無茶なことをしたな…」
舜は咄嗟の返答に窮した。
「え?」
体の震いが止まらない。葎はそのまま続けた。
「雑魚ならとうに食われてお陀仏だ。どちらから誘ったかは聞かんが次の命はないぞ」
「――」
「いいか、舜。これは命令じゃない。決めるのはお前自身だ」
葎は耳から舜を蔑んだ。
「お前が何をしたいのかくらい予想はつく。だけど言っとくぞ。お前がここへ来ることになったのは鈴音のせいじゃないんだ。偶然なんだよ」
舜は驚きを隠せずすぐ顔を上げた。恐れを含んだ目を葎に向ける。葎の視線は厳酷なほど冷淡なものだ。舜はただならぬ恐怖に震撼した。
「…………お前を襲った暴走者より、私の方が恐ろしいか?」
舜は再び床に座り込んでしまった。
葎は舜と同視線に体を落としすと、厳かに告げる。
「復讐なんて馬鹿な真似をするなら、鈴音と対等の力をつけてからにするんだな。間違っても異形の力を借りてするもんじゃない」
「――」
「『ヤツ』から何か得られたか? 特別な力を与えてくれたか? よく考えてみることだ。つらいのはお前だけじゃない。苦しいのはお前だけじゃないんだ。自分だけなんて甘ったれた考え方はお前を縛り身動きを取れなくするだけだぞ」
葎が去った後も、舜の体の震えはしばらく続いた。
朝の集会の時とは比べ物にならない。あの威圧感。格の違いは歴然だった。
葎は『ヤツ』のことを知っているのだ。
舜の中で、葎に対して嫉妬に似た感情が生まれていた。
今日という一日の終わりを告げる鐘が学び舎に鳴り響いた。
場所は第六教室。芳凛と華艶の担当教室だ。 鐘の音が聞こえないのだろうか、扉が開く気配はなく、教室内では華艶が結界を解除したところだった。
「どけ」
床に横たわる明士へと駆け寄ろうとした流真と彩を押し退けて、芳凛が行く。
生徒たちの表情は岩のように硬い。本日三回目の結界破壊に疲れ果てた麻雛は、壁に寄り掛かり虚ろな眼差しを明士に向けていた。
明士の元に近寄る華艶と雛叉。芳凛が明士の胸に片耳を当てると、流真と彩はどちらからともなく手を強く握り締めた。
「か、華艶先生…」
雛叉の呼びかけに華艶は無反応だった。雛叉は明士の体を見渡す。明士の体には数えるほどしか外傷は見当たらない。最悪の事態を想定して、雛叉がまごついた。
「き…気絶してる、だけ…ですよね…?」
息を凝らす生徒たちを前に、華艶が頚動脈に指を滑らせ首を小さく横に振った。
「やだよ、明士…!」
近づこうとする彩を流真は胸に抱き止めた。流真も唇を一文字に結び堪えている。
「蘇生を開始する」
間髪入れず、芳凛は明士の唇に自分のそれを重ねた。
華艶が心臓マッサージを施す。ここで息を吹き返さなければ、明士の物語は終わりだ。修業期間といえ、選ばれし者である彼らに命の保障などない。
雛叉は胸の前で手を組み、祈った。
(…お願い…! 目を開けてっ)
芳凛の唇が離れると、明士が苦しげに血泡を咳き上げた。
「……ゲホゲホッ――…せ……せんせい?」
開眼一番に飛び込んできた黒い瞳はいつも微笑んで明士を迎えてくれる。また死に損なってしまったと思ったことは明士だけの秘密だ。
乱れる呼吸に合わせて華艶が、明士の腹部に手を押し当てる。苦痛に顔を歪める明士であったが、芳凛が頭部を胸に抱えた。柔らかい胸に顔を埋め、明士が大きく咳をする。大量の血が芳凛の衣服を赤く染めた。
息を止めて見守るチームメイトたち。華艶の治癒を終えると、芳凛が明士を抱く手を緩める。
明士は汚れた口元を手で拭うと、掠れた声で言った。
「……も……う……平気…です」
「ほ、本当に…?」
雛叉がおそるおそる明士の顔を覗き込む。充血した雛叉の目を見て、明士が微笑んだ。
「やぁ…雛叉………君は大丈夫…?」
「…大丈夫ってあなた…」
こんな状態でよく他人を気遣う言葉が出せるものだ。雛叉は驚きを通り越して感心した。
(流真は『移し身』を行うほどの傷を負い、明士は内臓破裂。二人とも死の一歩手前だというのにあの子は――)
雛叉が、流真にしがみ付いている彩を一瞥する。雛叉の脳裏に暴走した彩の姿が思い出されたが、華艶の声に我に返った。
「ここに手を当てて、雛叉」
華艶が自分が当てている手の位置を示していた。雛叉が恐々明士の溝内に手を当てる。
「血が溜まっていないか探って。溜まっていたら吐き出させて」
「はい」
雛叉は服の上から手を当てる。華艶が治癒したとはいえ、明士に痛みを感じさせたくないのだろう。押し当てるのではなく撫でるように気を送る。意識を集中させ体内の澱みを探った。
「……ないようです」
華艶が確認のために明士の腹部に手をかざした。雛叉とは違い、触れずに悟る手法だ。雛叉はごくりと喉を鳴らした。
(こんなに小さいのに、本当に門番なんだ…)
「…うん。大丈夫だね」
雛叉がほっと息をつく。
「ありがとうございます!」
芳凛が動けるだけの気を送り込むと、青白かった明士の頬に赤みがさしてきた。
「ぽっくり逝ったかと思ったぜ。ひやひやさせるなよ」
流真が彩の手を引き明士の元へ歩む。
「はは…簡単には死なないようにできてるみたいだ」
明士はゆっくりと体を起こすと、流真の隣でぷるぷると唇を震わせ泣くのを堪えている彩に声を掛けた。
「ごめんね、彩。もう平気だから」
「………ほ、本当に死んじゃったかと思ったよ~良かったよ~明士ぃ~い」
おいおいと泣きだした彩の頭を、明士が優しく撫でる。
そんな三人の様子を雛叉は不思議そうな顔で眺めていた。
(人って不思議……他人事なのにあんなに泣くんだ)
雛叉は自分の中で、好奇心が湧き上がってくるのを感じていた。
「あいつは大丈夫なのか?」
流真が雛叉に訊ねた。雛叉は麻雛の方へと目を移す。麻雛は華艶から治療を受けていた。
「うん、大丈夫。力を使い果たしただけだから」
「そっか。じゃあ先生、これで終了だよな?」
「あ? ああ、貧血で倒れないようにしっかり食って早く寝ろ。明日もいつもどおりだ」
結い上げた髪を解きながら、芳凛が返した。流真は、血で染まった芳凛の体につい目がいく。
「いちいち気にしてたらきりがないぞ、流真」
芳凛が流すように言った。
「でも…その傷」
「侮るなよ。私の自己治癒能力は基本資質がスノウである門番よりも高いんだ。傷痕なんて残らん」
自信満々に言い切る芳凛を、流真は射抜くように見ていた。
「……」
緑眼が黒い瞳から視線を逸らす。
「わかった……じゃあ明日、いつもどおりだな」
「そうだ」
生徒たちが退室した後、芳凛はふっと息を抜いた。正直なところ、子供の相手は疲れる。疲労の色がうっすらと移る芳凛の横顔を、華艶が見つめる。
「――僕よりも芳凛は自己治癒能力が高いの?」
華艶の基本資質はスノウだ。芳凛は首をコキコキと鳴らすと右肩を軽く揉んだ。
「さぁな」
「でも今…」
「流真に言ったことか?」
こくりと華艶が頷いた。
「あいつはうるさいから」
「うるさい?」
「気にするってことだ」
「流真が気にしたら芳凛は困るの?」
「こま……りはしないが、授業が進まなくなるかな」
一瞬言葉に詰まった芳凛だったが、華艶は質問を続けた。
「でも、流真が気にして傷を負わなくなるかもしれないよ?」
芳凛がふふふと笑った。
「私も最初はそう思って何も言わなかった。でもそうすると、あいつはもっと自分を傷付けた」
「今日よりもヒドイの?」
「そうだな。はは…指がぶっ飛んだ時はさすがの私も焦ったよ」
芳凛が目尻に皺を刻みながら笑った。華艶は不思議そうに眺めているが、鼓動は高鳴っていた。
沈みゆく太陽の朱色が怪しく通路に射し込み落ちる。
それはまるで数多の生血を欲し、死を誘き寄せる毒蛇の道のように芳凛の目には映った。
追いかけ追い求め、いつの間にか逃げる自分がいた。そして今、空いてしまった心の隙間を埋める何かを探している……そんな曖昧な錯覚にも似た感情が、確かに芳凛の中で動き始めていた。
「――」
小さな手が芳凛の手を握り締める。穢れを知らない明澄な瞳が芳凛を仰ぎ見ていた。
沈黙が平静を装うように流れる。
(……この少年は全てを知る者かもしれない)
本当は残忍で酷薄なもう一人の自分。
芳凛が鮮麗な顔に微笑を浮かべた。
「華艶。お前は……何のために生まれたのだろうな」
感情の起伏が見られない華艶から発せられた声音は、驚くほど精悍なものだった。
「僕は――……」
『罪は罪で洗うしかない』
屈託ない幼子のような笑顔で謳うように酷悪な台詞をわざと口にした戦友を、葎は思い出していた。
繰り返し思い出しては忘れようとしてきた。
五年前の自分と、芳凛、そして――特別すぎた戦友。
教育課の管理官室で葎は咲矢と肩を並べて窓辺に立っている。風が威力を増していた。
ざわざわと守りの森が何かを告げているようで、耳を澄ませた。
雨雲が月を遮り、天は落涙する。夜嵐は世界を暗闇に落とす前兆だとも言われていた。
「…どうも落ち着かんな」
葎がぼそりと呟く。
「そうね。嵐にならなきゃいいけれど…」
哀愁ただよう葎の横顔を見つめる咲矢。その視線に気付いているのに葎は振り向かなかった。
二人の間に流れる空気は、居心地の良いものだ。
だが、それとは裏腹に咲矢の心は不安定だった。
◇◇◇
明士は居間の赤いソファで流真と肩を並べて座っていた。彩の姿はない。どうやら双子たちの部屋へ遊びに行ったようだ。
流真の手には漫画本、明士は小説を読んでいる。
テレビを付けてはいるが、読書の邪魔にならないように音量は下げられているのに、明士は読書に集中できずにいた。なぜなら、流真が奇妙な視線を送っているからだ。
明士は、文面に目を落したまま口を開いた。
「……ねえ、僕の顔に何かついてるの?」
バンッと音を鳴らして漫画本を閉じる流真。逃げるように席を立った。
「べ別に何もついてねーよ。……何か飲むか?」
明士が笑いを漏らす。
「ふふ。流真らしくないね。僕に何か言いたいことでもあるのかな?」
ぎくりと流真の背中が強張る。
「そんなこと――ないよ」
流真はそっけなく交わしながら、冷蔵庫から紙パックのジュースを取り出してガラスのコップを二つ用意した。一つはもちろん明士の分だ。流真は食卓テーブルにさり気なくコップを置くと、定位置に腰を下ろし向かいの席に明士が着くのを待つ。
明士がわざと音を立てて本を閉じた。
「別にって感じじゃないけどね」
「…そんなことねーよ」
流真は、もじもじと落ち着かない様子でジュースを一気に飲み干した。
「気持ち悪いなぁ。もしかして彩が居ないから落ち着かないの?」
会話を楽しむには雰囲気を盛り上げる彩が必要なのだろうか。
「彩がいないだけでこうも静かになるんだね」
「そんなんじゃねーってば」
「……じゃあ一体何なわけ?」
流真が、不機嫌そうに口を尖らせ目を細める。
「……もしかして妬いてるの?」
「はぁあ?!」
「先生が僕にキスしたから」
人工呼吸のことだ。
「ち、ちがっ違う! 別にっそんなんじゃっ………そんなんじゃ………ないよ。馬鹿なこと…言うな…よ……そんな、こと」
どんどん声が小さくなって最後にはごにょごにょと口籠もって消えた。
「顔赤いよ、流真」
「赤くねぇよ!」
耳まで真っ赤だ。明士はたまらず声を上げた。
「あははっ 剥きになるってことは正解なんだね」
冗談で言ったつもりだったのに大当たりだった。そんな流真が可愛く思えて、明士はにちょっとだけ意地悪をしたい気持ちになった。
「じゃあ…どっちに妬いてるの? 芳凛先生に? それとも僕にかな?」
「~~~ッ」
紅潮した顔で明士を睨む緑瞳は、憂いを帯びている。
「もう寝るっ!」
「はいはい、おやすみ」
流真は勢いだって立ち上がると寝室へ逃げ込んだが、ベッドに潜り込む時に生じる擦れる音は聞こえなかった。ベッドの下で膝を抱え蹲っているのだろうと思うと、なおさら可笑しくて明士は失笑した。
(バカ正直だからなぁ、流真は…)
異性への特別な感情は掟に反することなのに、率直な性格の流真はすぐ顔に出る。感情豊かと言えば長所に聞こえるが、禁忌を犯すには不向きだと言えた。
(だめだよ…流真)
選ばれし者に自由なんてない。
(芳凛先生とずっといられたらなんて、そんな夢を見ちゃいけない)
不必要だと理性で理解できていても、心が認めない。
明士は流真の気持ちを考えると少し胸が痛んだ。
追い求める想いは何の役にも立たない。恋などと呼ぶものは、自分たちの世界にはないんだと、明士は思っていた。生きるか死ぬかの状況下では余計な感情は足枷の重石になるだけだ。
明士は冷静に物事を捉えることができていた。
館内に鳴り響く、緊急避難の警報の音を耳にするまでは。
◇◇◇
夜、二十三時を回ったころだ。
突然鳴り響いた警告音に、第二棟館内は一瞬で不穏な気に包まれた。
騒然と生徒たちが自室から飛び出す。
「早く!! 全員部屋から出なさいっ。急いでッ!!」
慌てふためく生徒たちを誘導するべく現れたのは、当直当番の咲矢だった。
最上階である五階から順番に生徒を引き連れて非常口の扉を開け、急ぎ足で階段を駆け下りる。避難場所は地下だ。昇降機は閉じ込められる危険があるためあえて使わないことになっていた。
咲矢と芳凛の生徒が三階。鈴音と准貴、そして華艶の生徒が二階の部屋だった。
自室を出た明士と流真は非常口の扉の前で待機していた。少し遅れて、化粧っ気のない顔の祥子が少年を背負って現れる。
「遅いぞ、祥子」
流真が口を切った。
祥子の背におぶさり、十歳の少年が眠そうに欠伸をしていた。
「悪い。亜樹が寝てて……彩は?」
「双子たちの部屋に行ってるんだ。きっと一緒だよ」
明士はそう答えつつも嫌な予感がしてならなかった。
非常口が開かれ咲矢が険しい面持ちで生徒たちと相対した。
「準備万端ね。可年組に続きなさい」
咲矢の後ろについていた上級生たちが階段を下って行く。
「先生。彩が双子たちの部屋にいるらしいんだ」
祥子が伝えると、咲矢の表情が一瞬曇った。
「そう……でも、とりあえず地下へ行くのよ。いいわね?」
流真と明士ちも促され、祥子に着いて階段を下る。しかし、二階の非常口の扉が開かれたとき、そこには彩と双子の姿はなく、舜が准貴の生徒である櫂と恭啓を引き連れて待っていた。
櫂と恭啓は何とかレンジャーのイラストが入ったパジャマを揃いで着ていたが、流真たちにからかう余裕はない。
「オイッ! 彩と双子はッ!?」
流真が舜に突っかかり襟首を掴む。意味がわからない舜は怪訝そうに流真の手を払い除けた。
「何言ってんだお前…」
「双子の部屋に行ったきりなんだよっ!」
「やめなさい、流真ッ!! 口喧嘩なんかあとでいくらでもできるわ。今はとにかく階段を下りるのよ。地下へ着いたら可年組の教員が誘導してくれるから。さぁ! 行きなさいっ」
咲矢が強引に生徒たちを非常階段へと押しやるが、隙をついて流真が二階の通路へと踏み込んだ。
「流真!? ちょっ待ちなさいっ!! ダメよッッ! 流真ッ」
明士も後を追おうとするが咲矢に通路を阻まれた。
「どいて下さいッ!!」
風もないのに、咲矢の白髪が揺れている。
「……よく聞きなさい、明士。流真は私が連れ戻すから――」
真剣な眼差しの咲矢の顔が、明士には強張ったものに見えた。
「なぜ、流真だけなんです? 彩も双子たちもいないのに…ッ!」
明士は勘の良い生徒だと咲矢は痛感したが、一度吐いた言葉は呑めない。
「今あなたと口論している時間はないのよ。賢いあなたなら分かるはず。舜! 明士を連れて可年組と合流しなさい」
「ええ?!」
躊躇う舜に咲矢が一喝した。
「早くッ!! これ以上時間を無駄にしないでッ」
「はっははいッ 行こうぜ、明士」
舜が明士の腕を掴んだが、その手を明士は大きく振り払った。舜の前にいるのは、いつも笑顔を絶やさない温厚な明士ではなかった。
刺々しい態度。咲矢を睨みつける藍色の双眸が、何かあったら許さないと強く訴えている。
「……」
明士は黙って舜に続いて階段を下りた。
足音が遠ざかるのを確認し、咲矢が二階の通路に入る。
閉じた扉に結界を施した方がよいか迷ったが、やめた。
流真を一人で地下へ行かせることになるかもしれないと思ったのだ。
向かう先が例え暗闇でも一滴の光があれば希望が生まれる。
儚き者の瞳は絶望を示し、影を生み落とすさまを見出したとしても。
光を拒む手はその中に暗雲を掴み、嘆きの神は癒しの雨を血に染めるのだ。