教育課の門番は教員以外にも任務がある。
それは毎晩、浮き世の街へと向かう守護官たちへの付き添いだった。
守護官とは教育課と同様に防衛課の捜索課所属の門番のことだ。
捜索課の職務内容は、普通の人々が生活している世界(浮き世)へ侵入した異形を刈り取る戦闘課の外回りの門番と行動を共にし、その事柄に選ばれし者が関わっていた際、速やかにその者を保護することが正しい職務といえた。
だが、事実上捜索課に所属する門番はいない。
というのも、戦闘課の人不足が防衛課へしわ寄せしているのだ。現実問題、戦闘課は戦場を守護するので手一杯であり、外回りへと駆り出させるほど門番の予備がない。そのため戦闘課が担っていた外回り隊の役目を捜索課の門番が担うことになったのだ。
ならば、選ばれし者の保護は誰が行うのか。もちろん問題視されたが、
『餅は餅屋でいいんじゃねーの?』
ありがたいことに、現戦闘課総監の鶴の一言により、選ばれし者の保護は教育課の任務となったのだ。
しかし、当時、教育課管理官であった門番も黙ってはいない。必ずしも選ばれし者が保護されるとは決まっていないことを理由に、詰め所での待機という形で教育課は職務を受理したのだ。
それからというもの、浮き世の街へと赴く教員の後を着けた生徒たちが行方不明になると言った事件が発生するようになった。
秘密の通路は名の通り秘密の空間だ。なにせ、科学課が作った未知の異空間。どこからどこへ繋がっているのか、作った科学課も把握しきれていないと噂されているほどだった。
浮き世へでて暴走するくらいならまだ運が良い。運が悪くければ回路に呑まれて二度と戻ってこない生徒まで出始めた。ゆえに、教員たちには特殊回路の出入りに必要以上の警戒を強いるようになったのだ。
そんな特殊回路の中に、人知れず元老員たちの住処がある。
葎は講堂のかくし扉から特殊回廊へと足を踏み入れた。空間移動を数箇所経て地下へ向かう。この方法はかなり遠回りになるのだが、館内からだと生徒に見つかる恐れがあるため仕方がなかった。
ちなみに、元老員たちは暇を持て余してはひょこひょこと地上である学び舎へ顔を出していた。だから、ごく普通に生徒と顔見知りだったりするから余計怖い。
過去に、元老員たちが生徒を地下へ連れ入れ大騒ぎになったことがあるのだ。それも一、二度ではない。しかも、注意を受けたり都合が悪くなると勝手年寄りになって不貞腐れたりするので始末も悪かった。
そんな悪行名高き教育課の元老員たちは現在五人いる。年齢は当然不詳であるが、もちろん外見からそれを確かめることは不可能であった。
「―――」
辿り着いた元老員たちの住処を眼前に、思慮深い面持で葎は立っていた。
彼らの趣向なのかどうか分からないが、木造の引き戸の横には『元老の間』と記された表札まで取り付けられている。
葎は引き戸に手を掛けるのを躊躇している。葎はつま先で戸を軽くコンコンと蹴った。
――何も起こらないが…
先日、鈴音が訪問したときは猛毒をたっぷり塗りこんだ矢が百本、一斉に飛んできたと言っていたし、こないだ准貴が初任の挨拶に来たときは、底なしの落とし穴に落ちたと言う。
元老員たちの悪戯は日々過熱しているのだ。
前回、葎が訪問したのは年明けの挨拶だったが、何気なく戸口に手を掛けたその瞬間、高圧電流が全身を貫き危うく命を落としそうになった。あの時は、咲矢がそばにいたおかげで助かったものの一人だと野垂れ死に確定だ。
葎がごちゃごちゃと思い悩んでいると、室内から待ち切れないのか甘い声が聞こえた。
「――――さっさと入って来んかい。今日は何にも仕掛けとらんよ」
葎が渋面になる。
信じてはだめだ。あれは悪魔のささやきなのだから。
「………その声は初さんですね。本当ですか? もしトラップが仕掛けられていたらどうします?」
「お前さんは疑り深いのう」
当たり前だ。
「わしらに聞きたいことがあるんじゃろ?」
底意地の悪い年寄りたちだ。葎をからかって面白がっているのだろう。
「ええ――――でも知る方法は他にもありますし無理に聞く気はないですよ」
「そんなこと言うて、ここに来たってことは他に聞けぬからじゃろうが」
「………… そうですね、もしちょっとでもトラップが仕掛けられていたら、巨大な尾鰭を付けて速攻で芳凛にチクリます。そして、芳凛がここへ出入りするのを今後一切禁 じます。もちろんあなた方もご存じのように、芳凛は職務に関しては私の言うことを昔から聞く子ですよ。いいですか、開けますよ?」
葎の指が引き戸に伸びた。
「ままっま待てっ!! しばし待てっっ」
切羽詰った声のあと、どたばた物を動かす音が聞こえた。
「――」
まったく念には念を入れて正解だ。今度からは遠慮せず芳凛の名前を引き合いに出そうと葎は思った。
「…い、いいぞ。入って来い」
「失礼します」
どうやら仕掛けはすべて取り外したようだ。戸口が開かれると広々とした十二畳はあるだろうか、畳の居間が正面にあった。
葎は靴を脱ぐと颯爽と入室する。室内には年代物の建具が壁に沿って並んでいた。
部屋の構造は生徒たちの寮と似ているが二部屋余分に作られている。居間には掘りコタツがあり、五人の元老員は身を丸め座ってた。
「葎、さぁさ、早くコタツにお入り。そんなところじゃ寒いでしょ」
人の良さそうな見た目七十代のお婆さんが、座布団を用意し葎に席を勧めた。襟付きの茶色いワンピースに白いカーディガンを羽織っている。灰色の髪を後頭部で丸くまとめ、茶色の瞳が優しく葎を見た。
「トキさんは寒がりだからなぁ」
「そう言う朝揮さんもちゃっかりコタツに足を突っ込んでいるじゃないの」
まあな、と朝揮爺さんが笑った。面長な顔に、下がった眉に赤紫色の瞳。若者のように上下揃いのジャージを着ている。トキと朝揮はまるで仲の良い老夫婦に見えた。
「そろそろ来る頃合いだと思ってたんじゃが、意外に遅かったのう」
入り口で声をかけてきた、初婆さんが得意の皮肉を一発かましてきた。小柄なトキと同じくらいの背丈であるが外見は若く六十代に見える。勝気な性格を表して
いるのか、赤毛に赤眼、丸顔で皺が少ない。ニット帽を被って迷彩柄のTシャツにジーンズを履いているが、実年齢は二百を数年越していると噂だ。それでも五
人の中では一番若いらしい。
「忙しくてなかなか顔を出せずにすみません。はい、これ皆さんでどうぞ」
葎は愛想よく形だけの挨拶を済ませると、菓子折りを差し出すと、上品な顎鬚をたくわえた翁が無骨な手で受け取った。
「これはこれは、いつもご丁寧に」
鐘浪だ。彼は五人の中で一番の古株だと言われていた。
七三に整えられた灰色の髪と同色の瞳。小さな眼鏡を掛けていて、シャツの上に洒落たベストを重ね着ている。すらりと伸びた足を折り畳んで葎の隣に腰を下ろしていた。
「鐘浪さん。何か私に言うことはありますか?」
唐突な葎の言葉にも動揺を見せず、老人が笑顔を浮かべて答えた。
「お前さんはいつでも影を狙われとるよ。気をつけなされ。守るものはお前さんの体よりずっとずっと大きいものゆえに」
葎はこの老人が好きだった。けして多くを語らない。顔に刻まれた皺の数以上に長く、この世界を見続けてきた者だ。
「肝に命じます」
葎の返答は尊敬の念を含んだものだった。
「そういえば、大樹が来ていたらしいのう」
口を切ったのは季鬼だ。
彼は長年、戦闘課総監を勤め上げ、現戦闘課総監の大樹を誰よりも知る者だとも言われていた。歳を得たせいで多少衰えたが大柄で筋肉質な体型をしている。肌
に吸い付くようなTシャツに半端丈のズボンを履いていて、つるりとした頭に不釣り合いな凛々しい眉。その下にある黒い瞳は、年老いてもなお消えることのな
い鋭利な眼光をいまだ内に秘めている。
「時期外れに新人が入ったらしいの」
「現総監からお聞きになったのですか?」
葎はわざと訊ねた。
「聞くもなにも顔も見せんわ、あのガキんちょは。奴は最近わしらを避けとるからの。よっぽどやましいことでもしとるんじゃろうて」
大樹をガキ扱いできるのはこの元老員たちぐらいなものだ。葎がふと笑みを漏らした。
「それで、新しく入った教員の名は?」
季鬼が葎の向かいに坐した。
「すでにご存知でしょう?」
にやりとした季鬼に、葎は眉を寄せる。
「キヒヒ。お前さんも聞きたいことがあるんじゃろ?」
「………華艶と言う名の少年ですよ」
当たりくじを引いたと、葎がほくそ笑む。
(やはり。身の危険を犯しても来た甲斐があったか)
「いまだ十にもならん幼子がいきなり教員とはのう――。なぁ、トキさんや」
季鬼がトキに話を振った。トキは葎に温かいお茶を入れている。上物の茶葉の芳醇な香りがした。
「ふふ………そうですねぇ………あの大樹が連れて来たからには何か意味があるんでしょう。ねぇ鐘浪さん」
鐘浪は顎ひげを手で梳きながら「はてさて」と軽くかわした。
「しかし、お前も考えたもんじゃの」
本題へのきっかけを作ったのは、葎が持ってきた手土産の饅頭を皆に手渡しで配っている初だった。
朝揮が自分の饅頭を葎の手前にちょこんと置いた。
「てっきり、咲矢に監視させるんかと思ってたのに」
「ああそれは――」
さすがというべきか。そこまで耳に入っているとは恐るべき情報網。
「芳凛からの申し出ですよ」
五人が目を丸くして驚いた。どうやら知らなかったようだ。
「なんと……あの芳凛がか?」
かじった饅頭をぽろりと落とす朝揮に、その隣で地蔵のように固まっている季鬼。
「何事にも無頓着で無関心のあの芳凛が?」
そう、その芳凛だ。初の声も驚きを隠せていない。
「彼女も変わりましたよ。生徒と冗談なんか言ったりして、毎日笑顔の大売出しですよ、まったく…」
本当に買える物なら買い占めてやりたいところだ。
元老員の驚愕に満ちた顔から目をそらし、葎はずずーっとお茶をすすった。喉元が温かくなると、ほっと息をつく。
「――あの子は優しい子だからね」
トキが昔を懐かしむように目を細めた。
この老人たちは、いったいどこからどこまで知り得る者なのだろうか。
葎は疑念を抱いていた。自分の知らない芳凛を知っている。そんな口振りの元老員たち。彼らが知っているという事は、組織も知ることではないだろうか。
「…………華艶と言うたか」
鐘浪が葎を見た。
「お前さんはどこまで知っておるのかね?」
「何も。だからここに来たんですよ」
「見当くらいついておるんじゃろ?」
「私が考えていることは単なる憶測ですよ」
彼らは迷っていた。葎に話すべきか否かを。
鐘浪は皆と顔を見合わせたが、口を開いたのは朝揮だった。
「あの子は『検体』だよ」
やはり。
葎の推測は当たっていた。あの不可思議な気を纏っている訳がようやく理解できた。
朝揮は、いつもの朗らかな表情からは想像のつかない憂鬱な顔を見せた。
しんと静まり返った室内で皆、朝揮の話に耳を傾けた。
「この年になってもまだわからんよ。命を創るなど…なんと恐れ多い事を……」
「芳凛は気づいているのでしょう。だからそばに置くのね」
「……」
なんだろう。葎は違和感を感じた。
「何かしら?」
葎の視線にトキが可愛く首を傾げた。鐘浪が嘆息した。葎は険しい面持ちでトキに訊いた。
「なぜ『だからそばに置く』になるんです?」
トキは思わず、しまった! という顔をしたが、
「ほほ、いやね……私、そんなこと言ったかしら……ほほほ…いやぁね。年をとると物忘れがひどくって」
出た。得意の勝手年寄り。
えへへと可愛く取り繕うとするが、葎はトキを見据えたままだ。他四人の元老員も葎と目を合わさないよう視線を逸らしていた。トキは、建具に持たれて胡坐をかいている初に救いを訴えるような目を向けた。
「やれやれ…おトキさんにはしてやられるわい」
初が渋い顔でトキを指摘した。
「ご、ごめん、なさい…」
しゅんとするトキの肩を朝揮がポンポンと叩き慰める。鐘浪と季鬼は熱い茶をすすった。
「まぁいい。遅かれ早かれ知り得る事じゃしの。ちょこっとだけ教えてやるえ」
「――ちょこっとだけって……またけち臭いことを言いますね、お初さん」
「けっけちとはなんじゃっ!」
カッと目を剥いて初が怒った。
「そんなんだからお前はダメダメなんじゃ!!」
「ダメダメとはなんですか。聞き捨てなりませんね。いったい、私の何がダメなんですか? 誰に対して何がダメなんです?」
「お、おお…」
初は問い詰められ唇を硬く閉じた。たじろぐ初に鐘浪が助っ人として手を上げる。
「これこれ…。お初さんまでなに墓穴を掘ってるんじゃ」
トキに並んで初が悄然として肩を落とした。
「葎も口が悪い。もう少し可愛いところも見せんと上から押しつぶされてしまうぞ」
大きなお世話とばかりに葎はそっぽを向いた。
「押しつぶされるほど弱くないですよ」
「ほら、またそういう言い方をする」
鐘浪が眉をひそめ憂慮の面持ちになった。葎はぐっと押し黙った。この老人にそういう顔をされるのが嫌いだった。
彼らが心配しているのはわかっていた。だが、虚勢を張らなくては大切なものを守れないのが現実だ。
「少しだけ、話をしようかの。じゃが、この先は踏み込むことを禁じられた領域――――…」
葎は深く頷いた。
「忘れてはならんよ。お前さんは影に魅入られておるかの」
彼らは知っていた。
巨大な影が葎を呑み込もうと大口開けて待っていることを。
◇◇◇
自室に戻った芳凛は、華艶をリビングで待たせて自分は浴室でシャワーを浴びていた。
浴槽は手足を伸ばせるほど大きくもなく、洗い場も大人が二人立つのがやっとの広さだった。
芳凛は体に付いた血を洗い流し、まだ癒えきれていない脇腹の傷をさする。血は止まっているが傷痕が薄らと残っていた。
浴室を出る。ぽたぽたと水滴を落としながら寝室へ向かおうと居間を横切ると、
「芳凛」
不意に呼ばれ声の主へと振り返った。
「とりあえず何か羽織った方がいいよ」
葎がソファに腰を下ろしている。その隣では華艶が仏頂面で座っていた。
「――――何をしているんだ?」
「話がしたくてきたんだけどね。まさか華艶がいるとは思わなかったよ」
葎が眼鏡越しに芳凛を見る。芳凛がリビングの椅子に腰をかけ煙草に火を点けた。
「……で、何の用だ?」
「芳凛。先に着替えを済ませろ。日中は暖かいとはいえ、夏にはまだ早い」
芳凛は寝室へと向かい、白いシャツを無造作に羽織っただけの姿で居間へと戻った。
紫煙が天井へとゆっくりと昇る。髪から滴る水がシャツを濡らしていた。
「相変わらずだな」
葎は浴室からバスタオルを持ち出すと芳凛へ近付く。華艶が芳凛と葎の前に立ちはだかった。
「なんだい?」
華艶は葎からバスタオルを奪うと芳凛に手渡す。葎が目を瞬かせた。
「…芳凛」
返事がない。葎はもう一度呼んでみた。
「芳凛」
「なんだ?」
「なんだとはなんだ。二回目でやっと返事をしたくせに」
ぶつくさ言いかけて葎が身を屈ませ、華艶の瞳を覗きこんだ。
「何の用で来たんだ? まさか、わざわざ珈琲を飲みに来たんじゃないんだろ? ……お前、何をしてるんだ?」
「いや。綺麗な目をしてるなぁと思ってね」
華艶が葎の顔に手を伸ばした。
「――――あっ!」
華艶が葎の掛けていた眼鏡を外して芳凛の後ろへと逃げた。
「こら。それは玩具じゃないんだ。返しなさい」
芳凛が葎と向き合う。葎の目には芳凛の姿は朧げだった。
「なんだ、芳凛」
芳凛は華艶から眼鏡を受け取ると、葎の目の前に眼鏡をぶら下げた。
「――ああ、すまな…」
そう言うと葎は手を伸ばした、が手は眼鏡の縁をかすっただけだった。
「――」
「遊んでないで眼鏡を返してくれ」
「………………質問に答えたら返してやってもいい」
「質問? お前が俺にか?」
「そうだ。いやか?」
「別にいいよ。なんなりと…」
葎はいとも容易く承諾した。
「元老員には会ってきたのか?」
「ああ、ここに来る前に寄って来たよ。相変わらずだな、あの五人のご老人たちは」
「元気そうだったか?」
「ああ。俺たちより壮健だよ。そうだ、お前に逢いたがっていたよ」
「――」
「聞きたいことはそれか?」
「二人の生徒はどうなった?」
「え…? ああ、医務室で眠らせているよ」
「鈴音の様子は――」
「どうしたんだ。今日はよく喋るじゃないか」
「――」
「もう、いいだろ。眼鏡を返してくれ」
葎が手を出したが眼鏡はすっとかわされた。
「芳凛、いい加減にしないと…」
葎の手が芳凛の肩へと伸ばされるが、芳凛は一歩後ろへと下がった。
「おい――」
華艶が芳凛を見上げる。芳凛は訝るように葎を睨んでいたが、眼鏡を葎の手のひらに乗せた。
「まったく…」
葎が眼鏡を掛けようとしたとき、芳凛の手が葎の瞼を覆った。
「なんだよっ!?」
驚いた葎が後ずさりするとそのまま壁に追い詰められる。
「…ッ!」
葎は壁に後頭部をぶつけて立ち止まった。
芳凛の手指間から見える彼女の顔は、明らかに怒りを露にしていた。
「……このまま『奴』を引き摺り出してやろうか?」
凄みのある声音で葎を糾弾した。
「まい、ったな…」
葎が芳凛の手を掴む。ひどく疲れたようなため息が自然に出た。
「なんでわかるんだ?」
「お前は嘘をつくのが下手なんだ」
困憊しきった様子で葎がうすく笑った。芳凛は掴まれた手を強く振り払う。
「芳凛――」
「出て行け」
冷たく吐き捨てられたが、葎は嬉しかった。なぜなら、今一番近くにいる咲矢ですら、恐らく気付いていないことだからだ。
芳凛は寝室へと向かうと、着替えを始めた。葎は壁に寄り掛かったまま問う。
「怒ってるのか?」
「出て行けと言ってるんだ」
ぶっきら棒な言い方は芳凛のいつもの口調だが、今日は少し違った。
「俺も聞きたいことがあるんだよ」
「お前の思っているとおりだ」
間髪入れずに返される言葉に、葎は愛しさを感じる。
「まだ何も言ってないぞ?」
寝室から出てきた芳凛が、葎を睥睨すると華艶の手を引いて入口へと向かった。
「お前が『ヤツ』と繋がりを断てば教えてやる」
背中から発する言葉には憤りが含まれていた。
「それは聞けない相談だよ」
華艶が無表情ながらも不安げに葎を顧みたが、苦笑する葎を部屋に残し、芳凛と華艶は部屋を出た。
二人の気配が完全に感じられなくなると、葎は独り言を呟いた。
「まったく、煩わしい事ばかりだ………」
声を潜めて、息を殺して。
交わること許されぬ者、我らに痣を成す者たち。
月は闇を照らし影を成す。
打ち砕く力を我が胸に。
芳凛は、食堂の窓際の席で華艶と向き合ってテーブルに着いていた。時間遅れの昼食だが、周囲にはちらほらと職員や門番の姿があった。流真たちの姿は見当たらない。早々に食事を終え双子たちの手伝いに向かったようだ。
テーブルの上に配膳されているのはハンバーグセットと、親子丼セット。芳凛は、華艶が食べやすいようにとハンバーグを一口サイズに切った。
何てことはないいつも通りの日常なのに、芳凛の心はざわついて仕方なかった。
食事を終えた芳凛が注文口でコーヒーを待つ間、遠巻きから華艶の様子を窺っていた。
「――」
あの笑顔はもう見れないというのに、今でもまだ彼も匂いを覚えている。
あの日、あの時、この手が真っ赤に染まった恐怖も――。
(――託真……)
華艶の体からは彼の匂いがした。
「芳凛?」
呼び掛けられた声に芳凛は我に返った。視線を落した先では、金色の瞳が探るような眼差しを向けている。鈴音だ。芳凛の手元にはコーヒーカップが置かれていた。
「大丈夫? 顔色悪いわよ」
「……ああ。大丈夫だ」
「それならいいけど――」
鈴音はちらっと窓際へと視線を走らせる。
「――ねえ、あの子……」
鈴音が咄嗟に言葉を呑んだ。
「……」
唇に芳凛の手指が添えられていた。しかも、芳凛の瞳は心の奥を見透かす清らかなものではなかった。
『口にしてはいけない』
そう言われたような気がして、鈴音はわざとあどけなく笑った。
「そうね。ごめんなさい」
芳凛は何も返さなかったが、唇で感じた彼女の温もりが鈴音に不安を抱かせた。
コーヒーカップを片手に席へと戻る芳凛の背中を見つめる鈴音。
(……そばに置けば置くほど辛いだけなのに)
そう思いながらも、鈴音には芳凛の気持ちが分かる気がした。
悪を正と成し、正を負と成す。
宙ぶらりんの心は、指先で触れるだけでも壊れてしまうほど脆いかもしれない。
(まったく、人の心配をするだけの余裕があるなんて……自分でも呆れるわ)
鈴音が、自嘲の笑みを浮かべた。
(まずは、『あれ』を先に片付けなきゃね……)
迷いで埋め尽くされた心なんかじゃ、彼女の力になりたくてもなれない。
食堂を出た鈴音は、重圧の掛かった足音を奏で教室へと向かっていた。
「――」
通路は静観としている。行き先を拒むものは何もない。教室の扉を開けると、舜が一人窓辺に佇んでいた。
「どうしました、鈴音先生?」
鈴音は舜を睨み据えた。
開かれた扉は自然に閉ざされ、室内にカタカタと小刻な揺れが生じた。それは『解放』の前兆だ。
教室全体が大きく横揺れするにも関わらず、舜にはわずかな動揺も見られなかった。それどころか、鈴音に微笑んでいるではないか。
「…………猿芝居は止めなさい」
鈴音が威厳のある声音で忠言した。
舜はくつくつと喉の奥で笑いをおさえている。その様は鈴音の知る舜ではなかったが、彼女の知る者ではあった。
「…さすが………と言うべきですか? 舞を封じた結界はなかなかのものでしたよ……」
迸る鈴音の気は、黄金色の蒸気だった。教室の震えは止まらない。いや、止めないのだ。
「心にもないことを言っていると舌を噛むわよ。私もずいぶんと見くびられたものね」
「また僕を封じる気ですか?」
「『僕』ですって?! 笑わせないでよね。上手く考えたものだわ。私たちに気取られず館内に侵入する方法を」
舜は瞠目した。
「褒めてあげるわよ。のこのこさいさい凝りもせずこの世界に来るなんていい度胸してんじゃないの…」
室内の震えが止まった。舜が頭を下げ肩を震わせ笑っていた。
「虫唾が走る……!」
鈴音が見据える先で舜がゆっくりと頭をあげる。軽薄な笑いを浮かべて鈴音を見た。
「クククッ……失敗だな。芳凛じゃなくお前に気付かれるなんてとんだ誤算だよ」
声質が変わっている。鈴音は気を引き締めた。
「おっと……そのへんでやめておけ。俺は今ほんの少しこいつの体を借りてるだけだ。だから普段は大人しくしてるだろ?」
「……どうやって舜を丸め込んだのかは知らないけど悪いことは言わない。さっさと自分の居るべき場所に戻りなさい。ここはあんたが居るべき世界じゃない。私たちはあんたと遊んでられるほど暇じゃないのよ」
舜はトンッと床を蹴ると、身を翻し軽々と窓枠に腰を掛けた。皮肉な笑みを絶えず浮かべ、からかう様に言葉を続ける。
「ひどい言われようだが、俺を招き入れたのは舜の方だよ。しかもこいつはお前をすごく嫌ってるようだ。なんでだろうね?」
鈴音は悔しげにギリッと歯を噛みしめる。
言い訳じゃないが、気を抜いていたわけではない。だが、舜から『ヤツ』の気配を感じたのは二時間ほど前だったのだ。
「そんなこと……あんたには知る必要のないことよッ!!」
黄金色の蒸気が雷へと変貌し鈴音の体から複数の稲妻が放たれた。爆音と共に生じる爆風が舜へと噴きつけられる。舜は避けることもせず、しれっとした面持ちで居座っていた。
鈴音が放電の余韻を身に纏っている。前振りなしに発動したせいで肩で息をしている鈴音を見やると、舜がにやりと口許を歪ませた。
「短気は損だぜ。鈴音」
残影に憑かれた舞を隔離するために、鈴音は舜と口論の末、彼と舞を別々の結界に閉じ込めた。そうしなければ舜は舞から離れなかったからだ。舜は鈴音を口 汚く罵倒した。それでも鈴音は二人の生徒を守りたかった。
結界に圧を掛けて二人を失神させたまでは問題なかったのだが、運がいいのか悪いのか。結界を解く瞬間、雑鬼に紛れる気配を感じ驚愕した。
真っ先に思い浮かんだのは、五年前にぷつりと消えた白い麗人だった。
「…ほんっと……自分に腹が立つわ……あんたほどのヤツを見逃すなんてッ 平和ボケしてたのを覚ましてくれて礼を言うわよ」
「それはそれでよかったじゃないか」
鈴音の拳が強く握り締められる。憎たらしい。舜の体を使ってなかったら叩きのめしてやるのに。
「なんでそんなに怒ってんだ? 俺はお前に怨まれる覚えはないぞ」
失態もいいところだ。葎になんて弁明すればいいのやら。鈴音は呼吸を整えた。
「あんた五年もの間何してたの?」
「五年も? たった五年だろ」
「私ですら長いと感じた五年だったわ。芳凛と葎ならもっと長く感じたかもね」
「………お前には関係ねーだろ」
「上等じゃないの。縛り上げて葎の前に放り出してやるから覚悟しなさい」
「ははは。確かに俺を追い出すことはできるだろうけど、捉えるのは無理だろ。咲矢じゃあるまいしお前じゃリスク高いよ? 無謀な策は講じない方が身のためだと思うけどな。ま。舜が死んでもいいってなら話は別だけど…」
鈴音が高飛車に目を細めた。
「いいわよ。やってごらんなさいな」
「たいした自信だが、あいにくお前は勘違いしてるみたいだぞ?」
ふんっと鈴音は鼻で笑った。
「なによ、舞に憑いた残影を見張るために仕方なく、とでも言いたいわけ? そんな綺麗ごと誰が信じるもんですか」
「なんだ知ってたのか。でも俺は俺のするべきことしに来ただけだ」
「わざわざ自分の影を潜ませて一体何をするって言うのよ。悪趣味もいいところだわ。抑えるならいっそのこと、始末してくれたらいいじゃないの」
「おいおい…それこそ勘違いだろ。俺はお前たちのためにやってるわけじゃないんだから」
黄金色の眼光が鋭さを増した。
「じゃあ一体誰のためだって言うのよ……まさかあんた、この期に及んで芳凛のためなんて厚かましい事言うんじゃないでしょうね。そんな薄ら寒いこと言われたら、私笑いすぎで死んじゃうわ」
「まったく、相変わらず面白い奴だな、鈴音。だからお前のことは嫌いじゃない。本当は臆病なくせに強がって憎まれ口を叩くところは芳凛に似てるしな。まぁ見た目はかなり劣るが」
最後の一言は大きくよけいだ。
「いいぜ。舜から出て行ってやるよ。そろそろ『あっち』の方も動きそうだしな。あ、そうそう…このこと芳凛たちに黙っておいてくれよ」
くわっと目を瞠り、鈴音が怒鳴った。
「ばっかじゃないのっ!? 一目散で葎にチクってやるわよ!」
厚かましいにもほどがある。鈴音の怒りは頂点を極めそうだった。
「え~。そこを何とか頼むよ。な、鈴音。代わりに良い事教えてやるからさ」
舜からへつらう甘え声を聞く日がくるなんて思いもしなかった。気持ち悪いなんてもんじゃない。
「悪いけど私、安いお駄賃は受け取らない主義なの」
ぷいっとそっぽを向く鈴音だが、
「まぁ聞けって。舜がお前を毛嫌いしてる本当の訳を知りたくないか?」
「……あんた何言ってんの?」
そんなことわかりきったことじゃないか。
鈴音は黙った。それは肯定を意味するものと、舜の中の者は受け取った。
「年下や女だからって事が少しと、あと残りは別の理由だ。よく思い出してみな。お前は絶対忘れてねーよ」
「え? どう言うこ――」
台詞の途中で舜の体が前のめりに大きく揺れた。それもそのはず。今まで彼を動かしていたのは姿なき者だからだ。
慌てて駆け寄る鈴音。舜が頭から転落するのを防いだ鈴音は、自分よりも大きな体を床に下ろすと壁に寄り掛からせて座らせた。
二十歳の青年は、子供のように寝息を立てている。鈴音はふ…と息を吐いた。
「どうして奴なんかに…」
鈴音は胸が締め付けらる思いがして深呼吸を繰り返しした。そして、念のためにと舜の溝内あたりに手の平を当て、体内に余計なものはいないかを探った。
(………よかった。本当に出てったみたい。でもなんで?)
腑に落ちない。鈴音は姿なき者の残した言葉を思い返して考えた。
(そう言えば、あいつ何か変なこと言ってたわね。『あっち』の方がどうとか……やっぱり何か企んでるんだわ)
それに。
「絶対に忘れていないことって何よ?」
鈴音は昏睡する舜の顔を見つめた。
(………礼を言うべきだったのかも)
本来なら心身ともに異常をきたしている状況だった。
舜が今無事にいるのは、姿なき者が力を無にして身を潜めていてくれたからにすぎない。舜は身の危険を冒してまで何をしたかったのだろうか。鈴音は乱れた舜の前髪を指で払った。
「どうしてそんなに私が憎いの?」
返事はない。鈴音は舜の顔をまじまじと眺めた。
頭の中の記憶の引き出しを一つ、また一つと慎重に開けていくが、見付からない。
(前に会ってるとか…?)
舜が自分に向ける嫌悪は憎悪に近い。そんな感情を抱かせるくらいなら、自分も覚えているはずだと鈴音は思ったが、
「………」
舜の襟元に目が止まる。
鈴音は瞬きほどの短時間で体中の筋肉が強張るのを感じた。
心の奥、ずっとずっと奥に閉じ込めたもの。
徐々に姿を現す過去の遺物。忘れたんじゃない。それは忘れたいことだ。
「…う………そ……うそでしょ………」
鈴音の顔が死人のように青ざめる。
「そんなはず、ないわ」
唇を手で覆うと涙が溢れ出る。
洩れる嗚咽を堪え、鈴音は教室を飛び出した。
駆ける足が重く鈍く感じた。あの日のように。
どこへ行こうというのだろうか。逃げる場所なんてどこにもないのに。
鈴音は夢中で走った。
もっと早く、もっともっと早く走らなければ追いつかれてしまう。
逃げなければ。
――何から?
『それは、恐怖だ』
名残惜しそうに降り続ける雪が止み掛けていた。積もり積もった雪の上には一人の足跡。
これでは、かくれんぼにならない。
逃げる者も、追う者も、足跡を消すことが出来ない。
だから、降り止まないで……歩んだ道を残したくないから。
◇◇◇
教室を飛び出した鈴音は、学び舎から寮館への渡り廊下の曲がり角で横倒れになって気を失っていた。
「――ってぇ……いきなりなんだあ?」
爆走していた鈴音と衝突したのは准貴だ。彼もまた少し離れたところで尻餅をついている。
頭に手を当てているが負傷したわけではないようだ。視界が定まらず何が起こったのか把握できていない様子であった。
「…………マジかよ!」
視線の先で倒れている人を見て、准貴は驚いて駆け寄った。
「おい、大丈夫かッ おい――…………」
顔を見てさらに驚く。
「鈴音!? なにやってんだよお前ッ!」
鈴音の体を抱き起こすと、頬をペシペシと叩いた。
「しっかりしろ、鈴音、鈴音ッ」
「…うう…」
鈴音が小さいうめき声を上げ、薄っすらと目を開ける。目に映ったのは燃えるような赤い髪の男だった。
「ヒッ!! 何よあんたっ!?」
拒絶に似た悲鳴をあげた鈴音に、准貴は思わずムッとした。
「なによはこっちの台詞だッ いきなりぶつかってきて何なんだ。つうか、頭大丈夫か?」
「あ、頭?」
「そうだよ。お前ぶっ飛んでさ。少しの間だったけど気絶してたんだよ」
そう言えば後頭部がズキズキする。鈴音は状況の把握ができず、しばらく呆けていた。
「何かあったのか?」
鈴音が准貴を見た。背中には准貴の手が添えられている。
「ん? なんだ?」
赤い瞳に鈴音の顔が映る。視界がぼやけて准貴の顔が歪んで見えた。
項垂れると締りの悪い蛇口のように、涙が次から次へと零れ落ちる。
「なんだよ、何で泣くんだ?」
准貴があたふたとして訊くも、鈴音は声を押し殺して泣くばかりだった。
「――――舜のことでまたなんかあったのか?」
鈴音がはっと顔を上げた。赤い目は、真剣な眼差しで鈴音を見ていた。
「お前の口でも勝てねーなら、俺が一発かましてやろうか?」
にかっと子供みたいな笑顔で准貴が続けた。
「やっぱ示しは必要だと思うんだよ。舜みたいに孤立すると周囲を何とも思わなくなるし、誰だって最初から仲間じゃねーんだからさ。やっぱ言わなきゃわかんねーだろ?」
それは鈴音に向けての言葉にも聞こえた。鈴音の涙は止まっていた。
「ほれ。立てるか?」
准貴が鈴音を立たせると、肘から血が出ていることに気付いた。
「……悪ぃな、俺スノウ使えないからさ」
「いい…自分で治すから…」
消えそうな声で鈴音が答えた。准貴が鈴音の頭を撫でる。
「お。やっぱりタンコブできてるな。ちゃんと冷やしとけよって、医療班だったんだからわかるか。ははは……は、はは」
その場から動きそうにない鈴音。准貴はかなり困った状況に陥った。
「…………り、葎を呼ぶか?」
一番無難な名前を挙げたのは、その方がきっと相談しやすいと思ったのだ。だが、鈴音は首を横に振る。准貴はどう接したらいいのか全くわからず途方に暮れた。
普段勝気な鈴音の性格からして下手に口を開くと怒りを買うかもしれないし、かと言ってこのまま放っておくのは正直気が引ける。葎なら上手く話を聞けるのかもしれないが、准貴は完璧な肉体労働派だ。気の利いた台詞も言えないし、慰める自信もなかった。
准貴があれこれ考えていると、鈴音が漸う口を開く。
「あんた授業は?」
「あ? ああ…麻美弥を医務室に連れて行くのにちょっと手間取ってな。今から休憩なんだよ」
「残りの生徒には――…」
なんて説明したの? とは最後まで言えなかった。教員として日の浅い准貴の方が、生徒との関係を上手く作れているように感じたからかもしれない。そんな鈴音の心中を察することなく、准貴はあっけらかんとしていた。
「もちろん話したよ。そしたら恭慶と櫂が麻美弥にしがみついて離れなくってさ。いつ戻ってこれるかわからないなら、一緒に隔離してくれって言い出すし、ほんとまいったよ」
「へぇ…あの二人がね」
「そうなんだよ。まったく人ってわかんねーよな」
意外な話だった。櫂と恭啓はどちらかというと仲間どうこうとつるむのを嫌がるタイプに思っていたからだ。
鈴音が、上目視線で准貴を見た。
「その後どうしたの?」
「ん? まあ………その、ガツンと当て身を少々だな」
「……」
二人の生徒が気絶しているうちに、麻美弥を連れ出したと言うのだ。なんて強引なやり方だろうか。
「鈴音の方は上手くいったのか?」
「……私もあんたと同じよ。結界に閉じ込めて引き離した……」
それが正しいのかは誰にも分からないが。
「でも、口で言ってもわかんねーもんはしかたねーからな。だからって別に暴力ってことじゃねーぞ、俺は」
「分かってるわよ」
准貴の発言は堂々としたものだった。立ち直りが早いのか、今朝落ち込んでいたとは思えないほど、准貴が凛々しく見えた。
昼食時間を大幅にずれているためか、人の行き来がなく館内は静まり返っていた。渡り廊下の窓から見える中庭には、均等に植えられた草花が風に吹かれ香っている。准貴がぎこちなく鈴音の様子を窺っていた。
今朝自分に叱咤を入れた鈴音とは別人のようだと、准貴は思った。
(しかし、まいったな……)
担当教員である鈴音の訴えなしに自分がしゃしゃり出ることはできない。だが、今朝の葎の忠告も効かないとなるとやはり力で抑える方法をとるしか策はないのではないだろうか。
(……いや。でもなぁ――鈴音にもプライドがある、よなぁ…でもやっぱり)
准貴は慣れない頭を使って懸命に考えを巡らせていた。
「あのさ。泣くほど辛いならやっぱ誰かに言った方がいいぞ。俺でも話くらいは聞けるし………そうだ。今から一緒に飯食いに行こう。な? 話聞いてやっからさ」
「昼食は済ませたわ」
「――」
あっけなく話は終了し、中途半端に重い空気が漂った。
「…………………………っだぁあ~~~~っ! それでもいいじゃんかッ」
いきなり発狂した准貴に、鈴音がぎょっとした顔で見る。
「いいから行こうぜ! どうせ舜と顔合わせずらいんだろ? いいじゃん別に今日ぐらいサボっても。葎に何か言われたら俺が庇ってやっから。なっ!」
がっしりと掴まれた両肩に、准貴の優しさを感じる鈴音。だが、鈴音は疑うような眼差しを向けながら呟く。
「……イチゴパフェおごってくれる?」
准貴が目を瞬くと、破顔一笑。鈴音の頭を撫でて、「いいぜ」と言った。
意識の裏側で映し出された光景は、白い雪に落ちた赤い染み。
雪の冷たさと息の白さ。背中に立つ黒い影に金色の糸。
射し照らすのは温かい灯ではなく寒々とした月の雫だった。
『……ちゃん…………ごめんね……ごめんね』
少女の声が震えていた。
「――」
意識を取り戻した舜は、体内から異形のものが消えていることに愕然とした。しかも記憶がぽっかり抜けている。
(――どういう……ことだ?)
僅かに鈴音の気が室内に残っている。
もしかして、異形のものと相対したのだろうか。そんな不安を感じ蹌踉と教室から出る。
(まさか『ヤツ』にやられたんじゃ…)
体に掛かる倦怠感から思うように動けず、舜は教室の入り口で扉にしがみついた。
座り込むように膝が屈折した時、誰かに腕を掴まれ驚いたが、悲鳴を上げ前に腰が落ちた。
だんまりする舜に葎は心配そうに訊ねた。
「どうしたんだ?」
不審に思った葎が室内をざっと見渡す。僅かだが、鈴音の発動残響を感じ胸騒ぎを覚えた。
時として体罰も必要だとは言ったが、鈴音がここまでするとは到底考えられない。歩く力も残っていない舜の様子からして明らかに奇怪しかった。
「担当教員はどこへ行った?」
舜は答えなかった。何て言えばいいのか頭に浮かばないし、ここは黙っているのが得策だと思ったのだ。
「舜。喋ることはできるだろ。私の質問に答えなさい」
「………」
舜は頑固として口を開かなかった。葎は舜を通路の壁に寄りかからせると教室へと足を踏み入れる。葎は鈴音の残響へと意識を集中させた。
(――鈴音にしては珍しいな。雷を使ったのか…)
生徒相手に使う代物じゃない。通路でへたり込んだ舜を見やる。
(何か入り込んだか………?)
舜の体力の消耗は異常なものだった。このままでは立つことも困難だろう。
「舜」
見上げる舜の額に葎が手を当てた。思わず肩をすくめた舜に葎は温情の言葉をかける。
「動けるだけの気を送るだけだ。そのままじゃ部屋にも戻れないだろ」
舜は素直に応じた。
「―――」
額から流れ込む葎の気は温かく心地よいものだった。舜は瞼を閉じて身を任せる。葎がふいに眉をひそめる。舜から微小だが何か感じ取ったのだ。嫌悪感が葎の胸中で渦巻いた。
「………これでいいだろ。立ってみなさい」
葎が促すがまま舜は立ち上がった。体が嘘みたいに軽い。
「ずいぶんと無茶なことをしたな…」
舜は咄嗟の返答に窮した。
「え?」
体の震いが止まらない。葎はそのまま続けた。
「雑魚ならとうに食われてお陀仏だ。どちらから誘ったかは聞かんが次の命はないぞ」
「――」
「いいか、舜。これは命令じゃない。決めるのはお前自身だ」
葎は耳から舜を蔑んだ。
「お前が何をしたいのかくらい予想はつく。だけど言っとくぞ。お前がここへ来ることになったのは鈴音のせいじゃないんだ。偶然なんだよ」
舜は驚きを隠せずすぐ顔を上げた。恐れを含んだ目を葎に向ける。葎の視線は厳酷なほど冷淡なものだ。舜はただならぬ恐怖に震撼した。
「…………お前を襲った暴走者より、私の方が恐ろしいか?」
舜は再び床に座り込んでしまった。
葎は舜と同視線に体を落としすと、厳かに告げる。
「復讐なんて馬鹿な真似をするなら、鈴音と対等の力をつけてからにするんだな。間違っても異形の力を借りてするもんじゃない」
「――」
「『ヤツ』から何か得られたか? 特別な力を与えてくれたか? よく考えてみることだ。つらいのはお前だけじゃない。苦しいのはお前だけじゃないんだ。自分だけなんて甘ったれた考え方はお前を縛り身動きを取れなくするだけだぞ」
葎が去った後も、舜の体の震えはしばらく続いた。
朝の集会の時とは比べ物にならない。あの威圧感。格の違いは歴然だった。
葎は『ヤツ』のことを知っているのだ。
舜の中で、葎に対して嫉妬に似た感情が生まれていた。