ミケランジェロと言っても、「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ」というイタリアの画家だ。カラヴァッジョ村のミケランジェロというのが正しいだろう。上野の国立西洋美術館に来ている「カラヴァッジョ展」を見てきわけだ。展覧会を見た後味は複雑だった。
カラヴァッジョは16世紀から17世紀にかけて活躍したイタリアの画家だ。38歳でくたばっているから、短命な生涯だったと言えるだろう。生きている時間が短かったからだろうか、生涯で60点くらいしか彼の作だと確認されていない。
あまり日本ではなじみがない画家だと思うが、僕が初めて彼の作品を見たのは、ウン十年年も前のこと。ミラノのアンブロジアーナ絵画館で、初めてみた静物絵の画家だ。この静物は只者ではないと、僕は興奮したのを覚えている。セザンヌの静物の大先輩だと思ったのだ。
<果物篭>
西洋絵画史的に言えば、ルネサンスの後のバロックの世界へ至る間の画家だといえる。彼が評価されているのは、光と影の画家として知られるレンブラントや、ルーベンスに影響を与えた、光と影の手法にあるようだ。イタリア語では、キアーラ(明るい、明確な)とスクーロ(闇、黒い)を合わせて、キアラスクーロという。これを発明したのが、カラヴァッジョだった。レンブラントのアムステルダムの「夜警」はその最たるものだ。さらには近代絵画のドラクロアとか、クールベ、マネにまで影響を与えているという説もある。
<エマオの晩餐>
一般的には、超写実派と言われている。確かに絵に近づいて、そのタッチを見てみると、よく細かいところまで書き込んでいる。写真の技術がない頃には、こうした細密手法は、人々を虜にしただろうと推測できる。肖像画として、大きな魅力だっただろう。
今回のカラヴァッジョ展は、企画した人がユニークな展示法を編み出していた。それは、カラヴァッジョの作品と、彼の影響を直接受けた、同時代のカラヴァジェスキと呼ばれる画家たちの作品とを、対比させて見せるのだ。モチーフによって、次のジャンルにグループ化して、展示されていた。
<展示のジャンル>
グループ化されたジャンル:風俗画x2、静物、肖像、斬首、聖母と聖人に関する絵、ほか、の7ジャンルに分けられて展示されていた。
しかし、この展示方法は、明確にカラヴァッジョの作と分る人にはいいだろうが、僕のような初めてのカラヴァッジョ鑑賞者にとっては、紛らわしくてやりきれない。いちいち、絵のプレートを確かめて、彼の作か、それとも同じ題名のカラヴァジエスキの作かを確かめなくてはならない。対比に重きを置いたのだろうが、必ずしも成功ではなかった。
<メドウーサ:自画像>
カラヴァッジョの絵を見た感じたことは、一言でいうと、「おどろおどろしい世界」と言えるだろう。彼自身の素行の悪いことや、テーマに断首があり、彼の顔が悪顔だというようなことも影響しているのかもしれないが、そんな感じが残った。
キアロスクーロでドラマティックな絵に仕上げ、さらにそこに超写実技術を重ねて、リアリズムの絵に見える。しかし、本当にこれは写実なのかと再度見てみると、これは、いびつな構図に見える。また、見る人を惑わす仕掛けがされている。見る人が、仰角と錯覚するように、下半身を大きく描き、上半身を小さく描くということを意識的にやっているのがわかる。このあたりに、バロックの言うイタリア語の意味が現れているようだ。Barocco : 異様な、不格好な、華美な という意味だ。
初めての海外公開となった「法悦のマグダラのマリア」でも、「バッカス」でも、そういう手法が見てとれる。どこかグロテスクだ。
<バッカス>
見終わって感じたこと、つまり、後味は複雑なもので、僕の気持ちの中には悪魔的な魅惑(蠱惑:こわくともいえる)に対面したという、おぞましい記憶が残った。
すっきりさせようと、浅草に出てみた。なじみの焼き鳥屋は、質を落としていた。残念。グループが昼間の酒に酔って、女性がキャーキャーと騒いでいた。関西弁だから、よけい耳についた。早々に、立ち上るしかない。なじみの女将にバイと言って、逃げ出した。ここもこんなになったかと愚痴りながら…。
<和泉屋>
カラヴァッジョの呪術の呪縛から解かれて、心が落ち着いたのは浅草寺にお参りして、やげん堀で「大辛」を買って、雷門に向かって歩いていて見つけた、昔からのお煎餅屋さんの佇まい。いつもは店が開いているから気が付かなかったが、落ち着いた空気を漂わせている。こうでなくっちゃ、と帰路についた。
カラヴァッジョ展は、もしかすると、するどい感受性の心を持った人には、さらに後味が悪いかもしれない。ご注意あれ。
P.S.
・西洋美術史年表 http://art.pro.tok2.com/C/Caravaggio/Caravaggio.htm は、お勧めです。
・wikipedeia ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオには、たくさんの絵が。
今年も恒例のモダンアート展の時期が来た。都美術館には、2010年から毎年行っているから、SIさんの絵の変化は明確に見て取れる。
彼女は、本当の僕の初恋の人。彼女が女子美時代、中野・三味線橋のボロアパートで、僕と武蔵野美大の女学生の、合計三人で同棲していた仲だ。僕の一方的な行動で、結果としては別れてしまったが、ずっと心には残っている。だから、毎年、心臓君が許せば、彼女の絵を見に行っている。
本人にも会いたいのだが、「昔のことですから…」と断られて、向こうのご家庭のことでもあるので、あきらめている。本人に会って話をしなくても、絵を見ていると、心模様が分かってくる。この5年ほどの作品では、どんどん物の形が具象化してきているようだ。今年の「つかの間のダンス」では、さらに、色彩が多様化してきた。緑と黄色が、えんじと青と黒の世界に加わってきた。僕の感じでは、いい方向に進化しているように見える。
<SIさんの作品2016>
第五室という、モダンアート展としては中心的な作品が展示される、良い部屋の真ん中にかけてある。70歳を過ぎてもこうした創作を続けている、彼女の充実した生活が滲み出てくる。うれしいことだ。これからも描きつづけてもらいたいと、絵ハガキを一枚買ってモダンアート展を出てきた。申し訳ないけれど、モダンとは言えないお年寄りの絵描きさんたちと、同じよう年齢のお知り合いと、お弟子さんたちを見ていると、モダンという言葉の古さを感じてしまった。
<上野の芸大>
上野公園の若葉の芽吹きの中を歩いて、芸大前から、上の桜木町過ぎて、生まれ故郷の谷中に向かう。生まれ故郷といっても、当時を知る人はもう、つくだ煮屋の中野屋のおばあちゃんぐらいだから、顔を見せる程度の関わり合いの谷中だ。
<観音寺の築地塀>
谷中銀座は、最近、様変わりといっていいだろう。昔は、土地の人が、日々の買い物に姿を見せていた元気な下町の商店の連なりだったが、今は、国際的な観光地に組み入れられてしまったようだ。僕が住んでいた頃からの古い店は、ざっと見て野中ストアくらいだろう。あとは、食べ歩きの物を作って、観光客に売っている店がやたらと多い。
<谷中銀座アトム:明富夢>
あるパン屋さんの前で、中を見ていたら、突然イタリア語が聞こえてきた。えっと、振り返って見ると、中年のイタリア人、二人がそこにいた。僕は、少しだけ、イタリア語が出来るから、懐かしくなって話しかけてみた。イタリアから2週間の旅程で、日本にツアーに来ているという。そういわれてみれば、周りにはイタリア人がうじゃうじゃ。
東京、日光、大阪、京都とツアーをするのだという。一人はトリノから、もう一人の女性はマントヴァからだという。久しぶりに、生のイタリア語をきけて、僕もうれしくなった。ブオナ・ジョルナータと言って別れ、僕は流れに乗って谷中銀座を歩いて、昼から一杯飲めるところを探した。縁台のような店でサワーを飲み、もつ焼きを食って、店の中の席が空くのを待っていた。入口から覗くと、外国人の3組が見えた。時間がかかりそうだなと、覚悟した。
店の中に入ってみると、二組が外国人だ。僕は、そこでランチを食べた。食べ終わって、同じタイミングで店を出たご夫妻に、イタリア語で、何処から来たのですかと声を掛けたら、分かって貰えなかった。僕が話しかけたのは、イギリス人のご夫妻だったのだ。イタリア人のツアーが来ているのを知っていたから、てっきりイタリア人だと思い込んでいたのだ。英語で、イタリア語が話せるのと聞かれたから、僕は、英語に切り替えて、少しだけと話した。
谷中銀座から、昔、住んでいた谷中の路地の方に入ろうかと考えたが、もう充分疲れたから、千駄木で地下鉄に乗ろうと、よみせ通りを歩いていた。すると、よみせ通り診療所が現れた。谷中に住んでいた親父が肺がんの病を抱えていた頃、この診療所のお医者さんにお世話になっていたのを思い出した。これも健在なのは、いいことだ。
時おり、TVで閑散とした昔からの商店街の姿を見させられていると、谷中銀座は、観光地化したといっても、町自体が健在なのは喜ぶべきことなのかもしれないと、思いなおした。
<団子坂下>
団子坂下に向かって、三崎坂を下って行くと、昔の通りの菊見煎餅の店も健在だった。まあ、下町としては、残ってくれているだけでもいいかと独り言。
これが、3年ぶりの生まれ故郷、谷中の旅だった。
レキシントン・アヴェニュー(NY)
パリのコンシェルジュ
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シドニーとその他の町
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八ヶ岳、小諸、追分、軽井沢への旅を終わって
おそらく最後の仙台
自由が丘から多摩川へ
山手から根岸競馬場跡へ
散文詩 「しなの」 (信濃にて)
先日、テレビを見るともなく見ていると、ふっと懐かしい風景が映った。ニューヨーク・マンハッタンのグランド・セントラル駅だった。昔のパンナムビル、もうこの会社はつぶれて、今はもう持ち主が変わりビルの名前も変わっているが、パーク・アヴェニューをせき止めるようにして建つこのビルの風景は、全く昔と変わらない姿だった。
<レキシントンアヴェニュー>
この駅では、僕の知人がアッタシュ・ケースを持ち逃げされて、その構内を勇敢にも追いかけたという逸話が思い出される。その頃は、ニューヨークの治安は悪くて、ニューヨークへの出張が決まると、ニューヨーク在住の先輩たちから「怖いぞ」と脅されたことを思い出す。その治安の悪い地点の代表が、ハーレムと、グランド・セントラル、そしてウエストサイドのポート・オーソリティー・バスターミナルだった。もちろんメトロは何処も危険とされていた。
僕がこのパーク・アヴェニューを歩くことになったのは、その時、僕たちが泊まったホテルが、決して立派なホテルとはいえない、レキシントン・アヴェニューにあるレキシントンホテルだったからだ。そこに何泊かした。ホテルの窓から消防署が目の下に見えて、昼夜を問わずファイヤー・エンジンがサイレンを鳴らして出動する。だから、なかなか安眠できないホテルではあった。
その旅が印象的だったのは、そのホテルに僕ともう一人の友達を待ち受けていたのが、シャンパンだったこともある。花を添えたカードと共に、ボトルが僕たちを待っていた。旅先で、シャンパンの出迎えを受けることは、それまでもなかったし、何しろ送り主の名前に思い当たらなかったから戸惑った。
送り主は、大手旅行会社のニューヨーク支店長と分かった。その会社を僕の勤めるIBMが、社員の出張をアレンジするようになった最初のケースが僕たちだった。そして、日本を出発する前日になって、旅程の一部にアレンジの手違いが見つかって、急な変更を余儀なくされた旅となった。そして僕たちがミネソタ州と、ノースカロライナ州のサイトを訪れたあと、最後に立ち寄ったのがマンハッタンだった。
支店長さんは、東京の本社の指令を受けて最初の仕事で起こした社の失敗を、僕たちをニューヨークで歓待することで、悪いイメージを払拭しようとしたようだ。それが、男二人の旅にシャンパンの贈り物となった。
レキシントン・アヴェニューから、フィフス・アヴェニューに出るには、このパンナムのビルの立つパーク・アヴェニューともう一本の通りを横切ることになる。否応なく、パンナムビルが目に入ってくる。そのときの記憶が、テレビの映像に刺激されて、バッと湧き出てきたわけだ。
支店長さんは、2日目の夜に、僕たちを日本食に招待してくれた。その旅で2週間ぐらいは日本食から遠ざかっていた僕たちだったから、その招待をよろこんだ。久しぶりの日本食で楽しかった。
だが、問題はその直後に起こった。
僕の職場は、仕事上の付き合いのある飲食は、必ず割り勘と決まっていた。相手に全額を持ってもらうことを堅く禁じていた。宴が終わり勘定を払う時点で、その半分を僕たち二人が負担すると言った。僕たちには当然のことで、ダイナーズのカードで四分の一ずつ、僕たち二人がサインできるようにと店の人に頼んだ。店の人はびっくりした顔をして、もてなし主の支店長さんの顔を見た。彼は、最初、僕たちが何を言っているか分からなかったようだけれど、仕事関係の業者の人には奢ってもらわないのがIBMのポリシーだと説明して、やっと理解してもらった。だが、彼は、僕たちを接待したことが、僕たちの金銭的な負担になったと知って恐縮していた。
確かに、僕たち二人の食事の値段として、その四分の一は高かった。一日の食事手当の上限をはるかに超える額で、身銭を切ることになった。でも僕たちは自分たちだけでは、とても見つけることが出来ない格式の高い店で食事が出来たことを感謝して、僕たちの分は僕たちが払うことが出来た。
その支店長さんの恐縮ぶりには、何だか僕たちが何か悪いことをしているかのような気持ちにさせられるほどだった。僕たちが意地悪しているかのようかのように思えるほどの恐縮振りだった。今後、うちの関係ではそういうことですから、ご承知おきくださいとは言っておいた。
彼は、二次会もセットしていた。僕たち二人は、車に乗せられてマンハッタンを走った。どうしようと、今度は僕たちが悩む番になった。もう、今度はきっと払えないぞって、二人で覚悟した。支援長さんの申し出を、頑として断って帰ってくるほど、角を立てたくはなかった。そして、今度はお世話になりますよと支店長さんに、率直にお願いした。
そんな思い出が、ワッと押し寄せてきたテレビのショットだった。
<この写真は、flikrからhibinoさんの“Grand Central”をお借りしました>
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