てつんどの独り言 その2

第四章( 3 / 31 )

パリのコンシェルジュ

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 パリへの最初の旅は、まだヨーロッパへの旅なんて珍しい頃で、みんなの見送りを受けて羽田から出発したものだ、まるで永の別れかのように。外貨の持ち出しも、いくらだったか忘れたが一日当たりの制限があって自由ではなかった。

 

 飛行機は、その頃はソヴィエトの上空も、中国の上空も飛べなかったから、全てアラスカのアンカレッジ経由だった。そこで、1~2時間の給油となるのだが、全くやることがなくて、高くてまずい、うどんのようなものを啜っていたものだ。そこから再び、パリとかフランクフルトとか、ロンドンだとかに飛ぶわけだから、全部で17~8時間くらいはかかったわけだ、待ち時間を入れると。

 

 最初のパリの滞在期間は短かったので、休日、時間を見つけてはいわゆる名所を見て回った。高校の頃から、モンマルトルは絶対に自分の足で歩いてみたかった場所だったから、これは外せなかった。ムーランルージュからサクレクールまでの坂道を、時間をかけて楽しみながら登った。

 

 一番記憶に鮮明なのは、パリの夜。パリには、「今夜のパリ」といったか「パリ、今日」といった、ちゃんとは思い出せないが、小冊子がホテルのコンシェルジュのデスクに置いてあった。その週の出し物とか特別メニューのレストランとかが載っていた。その冊子のことを教えてくれたのは、パリ経験のある先輩。

 

 もう時効だから、書いておこうと思う。パリを知らない、フランス語もしゃべれない若い僕が、パリのおいしいところだけを、短時間で歩き回るなんてことはできない。そんな僕に、先輩が教えてくれたのが個人ガイドの広告の載っているその冊子だった。英語が通じて、希望にそってパリの夜を案内してくれるというサービスだ。そんなにチャンスがあるはずも無いので、ある広告をあたって見た。すると、きれいな英語が返ってきた。

 

 僕たちが待ち合わせたのは、エトワールのアメリカン・ファーマシー。目印を伝えてあったから、ムッシュー、トクヤマ?と声をかけてきた20代後半の美人がそこにいた。名前は忘れてしまったが、でも、ウンこれなら今夜のパリは楽しいかも…と思わせる雰囲気の女性だった。

 

 とにかく、何が食べたい、何が飲みたいでは、まずは、白のブルゴーニュでエスカルゴを食わせてくれる店を知りたかった。二人は恋人のように腕を組んで、タクシーで、その店に出かけた。

 

 まだ日本ではその頃、エスカルゴなんかを食べさせてくれる店は無かった。オーブンから出た熱々がおいしかった。ガーリックがよく効いていて、塩味も抜群。ボディーのあるワインも良かった。彼女は商売っ気が無いとといえば嘘なのだが、そんな感じは微塵も見せず、恋人同士かのように僕に思わせてくれた。

 

 次は、と聞かれて、左岸の牡蠣の店に連れて行ってもらった。日本の牡蠣はどこか臭いにおいが立ち上がると思っていたのだが、その牡蠣の匂いがしない。磯のにおいだけ。

ヴェロンとかいう日本では見たことの無い、貝殻がハマグリのような格好をした牡蠣は本当に僕を驚かした。少しレモンを垂らしてシェルごと口に運ぶ。噛んだ瞬間に、牡蠣から磯の香りが立ち上がる、クリームのような中身と一緒に。白ワインと良くあって、二人でいっぱい食べた。そして、よく飲んだ。

 

 僕の食べものへの興味はそれで満足だった。まだ色々食べたいものがあったけれど、その夜はそれで充分だった。帰りにシャンゼリゼを少し二人で歩いて、光に満ちたウインドをちょっとだけ見て、帰って眠ることにした。旅の疲れもあった。

 

 ホテルに帰るとき、彼女は、このまま帰るのって僕に訊く。ウンって思った。もしかしたら可能性があるのかもと、ホテルに寄って行くって訊いたら、答えはイエスだった。僕たちは車を捕まえて、マドレーヌの4星ホテルに深夜のご帰還となった。笑みを浮かべながらコンシェルジェが近寄ってきて、ウインクをしながら鍵を僕に差し出した。僕はあわてて、ちょっとした額の紙幣を彼の手に握らせて、エレベーターに向かった。彼はボン・ニュイと声をかけてきた。

 

 後は、女と男がやることっきりなく、ブルネットの谷間とのせめぎあいは3回で終わった。

 

 シャワーを浴び、ルーム・サービスで頼んであったシャンパンで、やっと一息をついた。こうした彼女たちは、唇は許さないとか、胸は許さないとか、そんな噂があったが、そんなことは全くの嘘で、やはり恋人然としていた。そして、彼女はビデを使っていた。

 

 ちょっとまどろんで、朝の5時ごろ隣を見たが、もうそこには彼女はいなかった。

 

 コンシェルジェは何もかも、お見通しだったのだ、小冊子をくれるときから。でも僕は、それでしあわせだった。

 

<この写真は、flickrからHugoさんの“Ciel de Paris”をお借りしました>

 ライセンス:Creative Commons ライセンスのBY

第四章( 4 / 31 )

ペルージアの丘からの眺め

 

 人がある場所を好きになるには、どんなことが影響するのだろうか。

 

 僕がペルージアを好きになったのは、いくつかの要素がからまって、そうなったんだと思う。

 

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<ペルージア:エトルリア門近く>

 

 僕がペルージア、もっと広く言えば、ウンブリアに心惹かれたのは、日本で有名な隣の州、トスカーナのオルチャの美しい丘、糸杉の風景といった人工的な景色に飽き始めていたからかもしれない。

 

 トスカーナのシエナから南のキャンティ、モンテプルチャーノ、モンタルチーノなどの草原や葡萄畑の続く大地は、基本的には自然な丘ではない。全て粘土質の、重い、しかし、農耕には適さない石灰質の土地を、人間が苦労して削り耕して牧草地や畑にしたのだ。

 

 だから、春になるといたるところで、その独特の灰色がかった土、クレタを穿り返して、土壌改良をやっているのに出くわす。大きな丘まるごと、大きなグレーダーのような機械を使って掘り返すのだ。それが数年で美しいなだらかな緑の丘に変身していく。

 

 あまりにも整ったトスカーナを離れて、車がウンブリアに入ると、とたんに自然が目覚めてくる。しかも、みずみずしい自然だ。それは、どこか懐かしい日本の田舎の風景に似ている。親父の父のルーツ、古い、古い田舎の伸びやかな姿に出会った気がしたのだ。

 

 豊かな自然と、穏やかな顔をした森、林、それに溶け込んだ小さな集落、緑がその丘を囲んでいた。ああ、ここには自然があると感じた。イタリアで緑の心臓と呼ばれるわけだ。

 

 僕が4~5泊したホテルは、ペルージアの旧市街から下った丘の裾野に立つアメリカ的なホテル、プラザだった。

 

 そして、そこでペルージア好きにしてくれたレセプショニストに出迎えられた。若い女性のイタリア人の美しい人だったが、礼儀正しく、しかし温かく接してくれた。

 

 イタリアのホテルでは、けっこう立派なホテルでも、観光客ズレしていて、シャキンとしないフロントマンがけっこういる。人懐っこい、憎めない、でもキチンとした所を欠いたフロントマンには何度も出遭った。

 

 このプラザのレセプションは、それらのバランスが良く取れた、よく訓練された人だった。だから、このホテルに泊まるのが楽しいものになると確信させてくれたのだ。

 

 丘の上のペルージアの旧市街へ行くには、かなりの距離がある。といって、自分の車で行っても駐車場があるかどうかわからない。またそんなことに煩わされたくないので、とにかくイタリアの古い町は歩くのが一番だと思っていたから、バスで丘の上の旧市街に毎日、通った。

 

 ペルージアは、一時、中田がセリエAのはじめての日本人選手として話題となったから、知名度は上がったと思う。ペルージアを、僕が訪れた頃は、ジャポネーゼ、即中田だった。だから、子供たちにNAKATAと声をかけられた。

 

 紀元前6~7世紀頃に、その地に住んでいたエトルリア人の文明が、この町の基礎を築いた。今から25~26世紀も前に、この町は存在したのだから驚きだ。エジプト文明の歴史にも負けないくらい昔なのだ。

 

 丘の上だから、坂また坂の町だ。しかも、都市国家として防御も大切だったから、高い石で組み上げた城壁と門がやたら多い。頂上の旧市街地の平らな中心地は長さ800m、巾200mくらいの狭い場所だ。だから歩けるのだ。

 

 ここで、僕をさらにペルージア好きにする事が起きた。

 

 その一つは、ウンブリアの雄大な平野を望むペルージアの旧市街地の町並み、屋根の連なりの美しさだった。エトルリア門を出て、直ぐ右へ登っていく細い急な石段を登りきったところに、その景色はあった。遠く、アッシジの丘も見える。ここでは長い間、ボーっとしていた。日本では観られない景色だった。

 

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<ペルージアの井戸>

 

 もう一つは人。

 

 丘の上の生活で一番心配なものは、水。他の山岳都市でも同じだが、高い所で水を確保しなければならないわけで、深い井戸を掘って水を汲み上げなくてはならない。その薄暗い井戸を見学して、まぶしい9月の空を見上げたとき、細いかなり急な石段を見つけた。登りたくなった。けれど、上に何があるか分からずに、疲れた足を震わせて登る勇気が出なかった。

 

 その石段を見上げていると、町の清掃をしているおじいさんが、声をかけてくれた。そして、信じられないことを僕に言ったのだ。カラバッジョの絵を見たくないかって言う。エッと思った。あのカラバッジョの絵がこの近くにあるのか半信半疑だった。

 

 彼は、この階段を上って、右手に細道を行くと小さな教会があるから、そこにいくつかのカラバッジョの絵がある。見に行くと良いと勧めてくれた。どんなガイドブックにもこの絵のことは書いてなかった。

 

 もうこうなったら、言葉を信じてカラバッジョを見にいくしかない。フウフウいいながら、疲れた足を一歩一歩運んで、やっと頂上。右手にまわっていくと、崖の上に小さな教会があった。恐る恐る扉を押して入ったら、あった、カラバッジョの絵が3点ほどあった。教えてくれたおじいさんの気遣いに感激した。

 

 そんなふうに、バッチ(キッス)・チョコレートで知られる町で、何日かの、まるで中世のような世界に身を置いた。ペルージアが好きになった。

 

 その後、何年もたって、ペルージア外国人大学で日本語を学ぶイタリア人の女学生が、日本で短期留学をやっているのに出くわした。僕は、彼女のホームステイを受け入れ、学生達の為に小さなパーティを開いたりした。これもペルージアの取り持つ縁だった。

 

 なんだか、人間のつながりって、本当に不思議なものだと思う。今でもペルージアという名を聞くたびに、あのゆったりとしたウンブリアの自然を思い出す。

第四章( 5 / 31 )

チムサーチョイ

 

 僕は、香港で6週間過ごしたことがある。

 

二度に分けてだが、このくらい長くいると、慣れてきて、なんだか自分の町のような気になる。

 

 僕たちの滞在していたホテルは香港島のセントラルにあって、まだ中国に返還される前だったから、街にはヨーロッパの匂いが強く残っていた。今の香港の雰囲気は、もう中国、中国って感じで、ノスタルジックな植民地時代の雰囲気はもうないようだ。

 

 東はコーズウエイ・ベイから、西はフェリーの出る上環まで、香港島はよく歩いたものだ。コーズウエイの汚い安い店の並ぶ屋台では、日本のうどんのような淡白な味付けの麺があって、脂っこい広東料理に飽きたら、歩いて行っていた。

 

 日本食は、ちょうどセントラルにパシフィック・プレイスがオープンしたばかりのころだったから、そこで食べられた。日本の食品なんかも手に入って、食事に困ったことはない。

 

 でも買い物は、九竜サイドに行っていた。ロンドンの地下鉄と同じ設計の地下鉄で、アドミラリティがすぐ側だったから、気楽に足を延ばせた。香港島はイギリスの匂いがするけれど、九竜は、まさに中国のにおいが立ち込めていた。

 

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<サムサーチョイ>

 

ネイサン・ロードの空を埋め尽くす、けばけばしい看板たちや、怪しげに観光客に○○があるよと声をかける呼び込み人とか…。そういえば、何人かの呼び込みの人に、お前は日本人には見えない、台湾人だろうと言われた。なぜだかわからない。

 

東京でいえば香港島が山の手で、九竜は下町って感じだ。もちろん、香港を代表するペニンスラ・ホテルなどもあるから、一概に下町とはいえなのだが…。

 

九竜には、恥ずかしい思い出がある。その頃、コルムという、ヨットのアメリカンカップをモチーフとした、舵輪型の文字盤の高級腕時計に憧れていた。それを探しにある休日、九竜公園のあたりから、右に細い道を歩いていた。宝飾屋さんが小さい店から、大きなものまで並んでいる通りだった。

 

僕には、コルムのほかに、もう一つ、ポルシェ・デザインの時計にも興味があった。ロレックスとかには全く興味はなかった。ひたすらコルムとポルシェを探しながらの時間だった。

 

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<ポルシェデザイン>

 

とある店で、ポルシェの美しい形のものがウインドウに見えた。しっかり、トラベラー・チェックも持っていたから、どうどうと店に入った。ウインドウのポルシェを出してもらって、いくつかを試してみたりした。

 

ちょっと高いかなとは思ったけれど、それまで見てきたコルムの高さに比べたら、安いかなと思った。急に買ってもいいかと思った。それは、ポルシェらしい機能美に、ちょっとした遊び気のあるデザインだった。

 

香港では、値札で買うのは馬鹿だと、香港の友人に言われていたから値切った。彼らも自分のマージンを考えながら、値付けを下げて行った。

 

まあこの辺でいいかなあと思って、じゃこれをもらいますといった。計算機に出た数字を見て、トラベラー・チェックから金額をちぎって並べた。サインしようとしたら、店の人が変な顔をしている。なぜって聞いたらば、もう一度、計算機の画面を僕に見せた。

 

なんとそこには、僕の頭が考えていた数字にゼロが一桁多い数字が並んでいた。アッと思った。そんな値段は払えない、というか、買わないと心が叫んだ。

 

僕はごめんと言って、一桁間違っていたと率直に言って謝った。店の人は、ぷいと態度を変え、あわてて、それらのポルシェを後ろの棚に戻した。やはり、少し怒っていたようだ。僕は赤くなって、汗をかきながらトラベラー・チェックをしまって、店を出た。

 

そんな値段を出してまで、欲しいとは思わなかった。諦めようと自分に言った。その通りを、チャタム・ロードまで歩いて、次の道をネイサン・ロードの方に戻っていった。

 

お腹がすいていたので、何か食べようと、レストランを探しながらゆっくり歩く。目についたのは、小さなイタリア料理屋。香港でイタリアンもいいかと、ドアを押した。まさに、ミラノのトラットリアのような雰囲気で、気に入ってしまった。一人だというと、一番奥の角っこのテーブルに案内してくれた。

 

この店が気に入ってしまった。

 

それから、九竜に出かけるときは、チムサアーチョイ公園のちょっと先から曲がって、この店に何度か足を運んだ。アンティパストもワインも気に入った。値段も手ごろ。観光客は来ない店だった。店の主は中国人だった。思わぬ、恥ずかしいことがあった後で、良いイタリアン・レストランを見つけて、気持ちのバランスを回復した店だった。

 

何しろ、香港の九竜にある中国人のイタリアン・レストランに、日本人が香港島から通っていたのだから、考えてみれば少し滑稽だったかもしれない。

 

いまでも、迷わずに行ける自信がある。

 

 

<街の写真は、flickrからAdrienisfrencceさんの“Tsim Sha Tsui”をお借りしました>

   Creative Commonsの“表示”です 

 

 

 

第四章( 6 / 31 )

一週間を一人で過ごしてみると(その1)

 

 一人で、一週間を東京で過ごしてみると、いつもは見えないいろんなものが目についてくる。それは僕自身にとっての発見でもある。

 

 僕は心臓の基本な構造的な問題をかかえているから、あまり無茶は出来ないのだ。しかし、医者の言うままに「飼い殺し」にされるのを待つのもつまらないから、危険を知りながら少々のチャレンジをしてみている。本当は、医者には普通の67割で…といわれているのだが…。

 

 突然か、じわりかは分からないが、遠からず訪れる死の前に、僕にはやっておくことがある。それはくたばるまでに、なんとか会っておきたい人と会うことだ。

 

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<古い友達>

 

「会うべき人リスト」には、ざっと50人ぐらいの人がリストされている。すでに会うことの出来た人も、これから会う人も、もう一度あっておきたい人とかも、リストにはある。

 

鬼籍に入ってしまった人もいる。

 

遠いヨーロッパや、アメリカに住んでいる人たちもいる。しかし、今や13時間ものフライトは僕には無理で、物理的には会えないと諦めて、代わりに電話とかメールでやりとりしている人もいる。中には、いまだ決定的な治療方法が見つからない筋無力症のイタリア人もいる。99歳のサンフランシスコに住む、僕の心の「お袋」もいる。

 

 東京は生まれたところだし、住み慣れたところだから、かなり自由に動くことが出来る。かなりというのは、町とか駅が変わったから、まごまごすることもあるという意味だ。

 

 もう二度と、パリの「ポンピドーセンター」まで出かけられないから、東京芸大の美術館で開催される「シャガール展」を見ることを家人へのアリバイにして、今回一人で東京へ出かけるわけだ。仙台から東京へは片道、Door to Doorで3時間。これは、ちょっとした旅行になる。

 

 今回は、一人鬼籍に入っている美しい女友達の墓を、青山墓地に拝み、あと4人ほどの古い友達たちと会うことにした。

 

 眠りについた美女は、僕の憧れの女子美の卒。彼女を青山の梅窓院に訪ねる。彼女のお別れ会のときは、僕の体調がひどく悪くて表参道までは出かけられず、弔文を送ることで謝った。だから、今回は絶対に青山で手を合わせて置きたかったのだ。

 

 東京で生きている奴らとは、いつでも会えるつもりでいるのだが、なかなかそうもいかない。会えるときに会っておかなくては、僕が先に行こうが、あちらが先に行こうが、そうなると、もうチャンスはない。

 

 関西にもリストに乗っている親しい友達がいるのだけれど、新幹線を4時間も乗り継いでいく勇気はない。だから、どうするかまだ決めていない。

 

 まず会ったのは、大学の同級生。同じ「部活」でとにかく一緒にいろんなことをやった奴ら二人。

 

 浅草は、年に二度くらい東京に行くたびに歩いているから、どちらかというと僕のほうが、東京の西の端っこと、北の端っこに住んでいる彼らより詳しい。

 

 変わったことと言えば、吾妻橋からのスカイツリーが、風景を変えているくらいだ。店の人に聞くと、スカイツリーの効果で人出がかなり増えたという。淋しい浅草は嫌いだ。

 

待ち合わせ場所も、彼らに妥協して雷門。

 

とにかく「十和田」で鴨せいろとウーロンハイで乾杯。すぐ、先週、大学で会ったような話になって、人はあまりウン十年経っても変わらない。ついでに荷風の「アリゾナ」を見せて、裏仲見世を通って浅草寺へ。まだ江戸職人の業が残っているべっ甲細工を見て安心。美しいと見とれてしまう。

 

「十和田」では乾杯だけだったから、もう少し飲もうということになって、煮込み通りへ向かう。浅草寺から、ぶらりと歩き出して、「花やしき」に出くわす。ここも懐かしい。でも彼らは知らない。東京で初めての「デズニーランドだ」と紹介すると納得。「木馬館」もつぶれてしまったけれど、建物はそのまま。これも彼らは初めて知る話。なんだか、ガイドさんになってしまった。

 

煮込み通りでは「鈴芳」。もう40年以上通っている。カウンターの中のおばあちゃん、お母さん、娘さんもみんな、年とともに主役は代わっているが健在。

 

 生レモンハイで再度、乾杯。大学時代のことでも、知らないことばかり。僕も部活の副部長だった女性と、なんにもなかったとの証人付きで、一緒に奈良・室生寺に行ったことを告白した。その女性が、数年前になくなったことをきいて、告白する気になったのかもしれない。

 

今は柔らかくなった「おっかないおやじ風」が、高校までは番長を張ってたとか聞くと、おう変わったんだと思ったりもする。もう一軒、どうしても連れて行きたい店があって、レモンハイは2杯でお勘定。煮込み、筋の煮込み、ハツとカシラにお新香。きちんと割り勘。

 

しかし「松風」はもう存在していなかった。ビア・バーとかになってしまった。燗台を守っていた声のいい親父はどうしたんだろうか。ちょっとつらくなる。

 

浅草からみんなで銀座線に乗って、一人は上野で、一人は赤坂見付で降りて行く。またな…っていって別れて来た。本当は何時また会えるかは判らない。誰かが鬼籍にいつ入るかも分からない。

 

徳山てつんど
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