てつんどの独り言 その2

第四章( 2 / 31 )

レキシントン・アヴェニュー

 

 先日、テレビを見るともなく見ていると、ふっと懐かしい風景が映った。ニューヨーク・マンハッタンのグランド・セントラル駅だった。昔のパンナムビル、もうこの会社はつぶれて、今はもう持ち主が変わりビルの名前も変わっているが、パーク・アヴェニューをせき止めるようにして建つこのビルの風景は、全く昔と変わらない姿だった。

 

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<レキシントンアヴェニュー>

 

 この駅では、僕の知人がアッタシュ・ケースを持ち逃げされて、その構内を勇敢にも追いかけたという逸話が思い出される。その頃は、ニューヨークの治安は悪くて、ニューヨークへの出張が決まると、ニューヨーク在住の先輩たちから「怖いぞ」と脅されたことを思い出す。その治安の悪い地点の代表が、ハーレムと、グランド・セントラル、そしてウエストサイドのポート・オーソリティー・バスターミナルだった。もちろんメトロは何処も危険とされていた。

 

 僕がこのパーク・アヴェニューを歩くことになったのは、その時、僕たちが泊まったホテルが、決して立派なホテルとはいえない、レキシントン・アヴェニューにあるレキシントンホテルだったからだ。そこに何泊かした。ホテルの窓から消防署が目の下に見えて、昼夜を問わずファイヤー・エンジンがサイレンを鳴らして出動する。だから、なかなか安眠できないホテルではあった。

 

 その旅が印象的だったのは、そのホテルに僕ともう一人の友達を待ち受けていたのが、シャンパンだったこともある。花を添えたカードと共に、ボトルが僕たちを待っていた。旅先で、シャンパンの出迎えを受けることは、それまでもなかったし、何しろ送り主の名前に思い当たらなかったから戸惑った。

 

 送り主は、大手旅行会社のニューヨーク支店長と分かった。その会社を僕の勤めるIBMが、社員の出張をアレンジするようになった最初のケースが僕たちだった。そして、日本を出発する前日になって、旅程の一部にアレンジの手違いが見つかって、急な変更を余儀なくされた旅となった。そして僕たちがミネソタ州と、ノースカロライナ州のサイトを訪れたあと、最後に立ち寄ったのがマンハッタンだった。

 

 支店長さんは、東京の本社の指令を受けて最初の仕事で起こした社の失敗を、僕たちをニューヨークで歓待することで、悪いイメージを払拭しようとしたようだ。それが、男二人の旅にシャンパンの贈り物となった。

 

 レキシントン・アヴェニューから、フィフス・アヴェニューに出るには、このパンナムのビルの立つパーク・アヴェニューともう一本の通りを横切ることになる。否応なく、パンナムビルが目に入ってくる。そのときの記憶が、テレビの映像に刺激されて、バッと湧き出てきたわけだ。

 

 支店長さんは、2日目の夜に、僕たちを日本食に招待してくれた。その旅で2週間ぐらいは日本食から遠ざかっていた僕たちだったから、その招待をよろこんだ。久しぶりの日本食で楽しかった。

 

 だが、問題はその直後に起こった。

 

 僕の職場は、仕事上の付き合いのある飲食は、必ず割り勘と決まっていた。相手に全額を持ってもらうことを堅く禁じていた。宴が終わり勘定を払う時点で、その半分を僕たち二人が負担すると言った。僕たちには当然のことで、ダイナーズのカードで四分の一ずつ、僕たち二人がサインできるようにと店の人に頼んだ。店の人はびっくりした顔をして、もてなし主の支店長さんの顔を見た。彼は、最初、僕たちが何を言っているか分からなかったようだけれど、仕事関係の業者の人には奢ってもらわないのがIBMのポリシーだと説明して、やっと理解してもらった。だが、彼は、僕たちを接待したことが、僕たちの金銭的な負担になったと知って恐縮していた。

 

 確かに、僕たち二人の食事の値段として、その四分の一は高かった。一日の食事手当の上限をはるかに超える額で、身銭を切ることになった。でも僕たちは自分たちだけでは、とても見つけることが出来ない格式の高い店で食事が出来たことを感謝して、僕たちの分は僕たちが払うことが出来た。

 

 その支店長さんの恐縮ぶりには、何だか僕たちが何か悪いことをしているかのような気持ちにさせられるほどだった。僕たちが意地悪しているかのようかのように思えるほどの恐縮振りだった。今後、うちの関係ではそういうことですから、ご承知おきくださいとは言っておいた。

 

 彼は、二次会もセットしていた。僕たち二人は、車に乗せられてマンハッタンを走った。どうしようと、今度は僕たちが悩む番になった。もう、今度はきっと払えないぞって、二人で覚悟した。支援長さんの申し出を、頑として断って帰ってくるほど、角を立てたくはなかった。そして、今度はお世話になりますよと支店長さんに、率直にお願いした。

 

 そんな思い出が、ワッと押し寄せてきたテレビのショットだった。

 

<この写真は、flikrからhibinoさんの“Grand Central”をお借りしました>

ライセンス:Creative CommonsのライセンスBYです 

 

第四章( 3 / 31 )

パリのコンシェルジュ

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 パリへの最初の旅は、まだヨーロッパへの旅なんて珍しい頃で、みんなの見送りを受けて羽田から出発したものだ、まるで永の別れかのように。外貨の持ち出しも、いくらだったか忘れたが一日当たりの制限があって自由ではなかった。

 

 飛行機は、その頃はソヴィエトの上空も、中国の上空も飛べなかったから、全てアラスカのアンカレッジ経由だった。そこで、1~2時間の給油となるのだが、全くやることがなくて、高くてまずい、うどんのようなものを啜っていたものだ。そこから再び、パリとかフランクフルトとか、ロンドンだとかに飛ぶわけだから、全部で17~8時間くらいはかかったわけだ、待ち時間を入れると。

 

 最初のパリの滞在期間は短かったので、休日、時間を見つけてはいわゆる名所を見て回った。高校の頃から、モンマルトルは絶対に自分の足で歩いてみたかった場所だったから、これは外せなかった。ムーランルージュからサクレクールまでの坂道を、時間をかけて楽しみながら登った。

 

 一番記憶に鮮明なのは、パリの夜。パリには、「今夜のパリ」といったか「パリ、今日」といった、ちゃんとは思い出せないが、小冊子がホテルのコンシェルジュのデスクに置いてあった。その週の出し物とか特別メニューのレストランとかが載っていた。その冊子のことを教えてくれたのは、パリ経験のある先輩。

 

 もう時効だから、書いておこうと思う。パリを知らない、フランス語もしゃべれない若い僕が、パリのおいしいところだけを、短時間で歩き回るなんてことはできない。そんな僕に、先輩が教えてくれたのが個人ガイドの広告の載っているその冊子だった。英語が通じて、希望にそってパリの夜を案内してくれるというサービスだ。そんなにチャンスがあるはずも無いので、ある広告をあたって見た。すると、きれいな英語が返ってきた。

 

 僕たちが待ち合わせたのは、エトワールのアメリカン・ファーマシー。目印を伝えてあったから、ムッシュー、トクヤマ?と声をかけてきた20代後半の美人がそこにいた。名前は忘れてしまったが、でも、ウンこれなら今夜のパリは楽しいかも…と思わせる雰囲気の女性だった。

 

 とにかく、何が食べたい、何が飲みたいでは、まずは、白のブルゴーニュでエスカルゴを食わせてくれる店を知りたかった。二人は恋人のように腕を組んで、タクシーで、その店に出かけた。

 

 まだ日本ではその頃、エスカルゴなんかを食べさせてくれる店は無かった。オーブンから出た熱々がおいしかった。ガーリックがよく効いていて、塩味も抜群。ボディーのあるワインも良かった。彼女は商売っ気が無いとといえば嘘なのだが、そんな感じは微塵も見せず、恋人同士かのように僕に思わせてくれた。

 

 次は、と聞かれて、左岸の牡蠣の店に連れて行ってもらった。日本の牡蠣はどこか臭いにおいが立ち上がると思っていたのだが、その牡蠣の匂いがしない。磯のにおいだけ。

ヴェロンとかいう日本では見たことの無い、貝殻がハマグリのような格好をした牡蠣は本当に僕を驚かした。少しレモンを垂らしてシェルごと口に運ぶ。噛んだ瞬間に、牡蠣から磯の香りが立ち上がる、クリームのような中身と一緒に。白ワインと良くあって、二人でいっぱい食べた。そして、よく飲んだ。

 

 僕の食べものへの興味はそれで満足だった。まだ色々食べたいものがあったけれど、その夜はそれで充分だった。帰りにシャンゼリゼを少し二人で歩いて、光に満ちたウインドをちょっとだけ見て、帰って眠ることにした。旅の疲れもあった。

 

 ホテルに帰るとき、彼女は、このまま帰るのって僕に訊く。ウンって思った。もしかしたら可能性があるのかもと、ホテルに寄って行くって訊いたら、答えはイエスだった。僕たちは車を捕まえて、マドレーヌの4星ホテルに深夜のご帰還となった。笑みを浮かべながらコンシェルジェが近寄ってきて、ウインクをしながら鍵を僕に差し出した。僕はあわてて、ちょっとした額の紙幣を彼の手に握らせて、エレベーターに向かった。彼はボン・ニュイと声をかけてきた。

 

 後は、女と男がやることっきりなく、ブルネットの谷間とのせめぎあいは3回で終わった。

 

 シャワーを浴び、ルーム・サービスで頼んであったシャンパンで、やっと一息をついた。こうした彼女たちは、唇は許さないとか、胸は許さないとか、そんな噂があったが、そんなことは全くの嘘で、やはり恋人然としていた。そして、彼女はビデを使っていた。

 

 ちょっとまどろんで、朝の5時ごろ隣を見たが、もうそこには彼女はいなかった。

 

 コンシェルジェは何もかも、お見通しだったのだ、小冊子をくれるときから。でも僕は、それでしあわせだった。

 

<この写真は、flickrからHugoさんの“Ciel de Paris”をお借りしました>

 ライセンス:Creative Commons ライセンスのBY

第四章( 4 / 31 )

ペルージアの丘からの眺め

 

 人がある場所を好きになるには、どんなことが影響するのだろうか。

 

 僕がペルージアを好きになったのは、いくつかの要素がからまって、そうなったんだと思う。

 

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<ペルージア:エトルリア門近く>

 

 僕がペルージア、もっと広く言えば、ウンブリアに心惹かれたのは、日本で有名な隣の州、トスカーナのオルチャの美しい丘、糸杉の風景といった人工的な景色に飽き始めていたからかもしれない。

 

 トスカーナのシエナから南のキャンティ、モンテプルチャーノ、モンタルチーノなどの草原や葡萄畑の続く大地は、基本的には自然な丘ではない。全て粘土質の、重い、しかし、農耕には適さない石灰質の土地を、人間が苦労して削り耕して牧草地や畑にしたのだ。

 

 だから、春になるといたるところで、その独特の灰色がかった土、クレタを穿り返して、土壌改良をやっているのに出くわす。大きな丘まるごと、大きなグレーダーのような機械を使って掘り返すのだ。それが数年で美しいなだらかな緑の丘に変身していく。

 

 あまりにも整ったトスカーナを離れて、車がウンブリアに入ると、とたんに自然が目覚めてくる。しかも、みずみずしい自然だ。それは、どこか懐かしい日本の田舎の風景に似ている。親父の父のルーツ、古い、古い田舎の伸びやかな姿に出会った気がしたのだ。

 

 豊かな自然と、穏やかな顔をした森、林、それに溶け込んだ小さな集落、緑がその丘を囲んでいた。ああ、ここには自然があると感じた。イタリアで緑の心臓と呼ばれるわけだ。

 

 僕が4~5泊したホテルは、ペルージアの旧市街から下った丘の裾野に立つアメリカ的なホテル、プラザだった。

 

 そして、そこでペルージア好きにしてくれたレセプショニストに出迎えられた。若い女性のイタリア人の美しい人だったが、礼儀正しく、しかし温かく接してくれた。

 

 イタリアのホテルでは、けっこう立派なホテルでも、観光客ズレしていて、シャキンとしないフロントマンがけっこういる。人懐っこい、憎めない、でもキチンとした所を欠いたフロントマンには何度も出遭った。

 

 このプラザのレセプションは、それらのバランスが良く取れた、よく訓練された人だった。だから、このホテルに泊まるのが楽しいものになると確信させてくれたのだ。

 

 丘の上のペルージアの旧市街へ行くには、かなりの距離がある。といって、自分の車で行っても駐車場があるかどうかわからない。またそんなことに煩わされたくないので、とにかくイタリアの古い町は歩くのが一番だと思っていたから、バスで丘の上の旧市街に毎日、通った。

 

 ペルージアは、一時、中田がセリエAのはじめての日本人選手として話題となったから、知名度は上がったと思う。ペルージアを、僕が訪れた頃は、ジャポネーゼ、即中田だった。だから、子供たちにNAKATAと声をかけられた。

 

 紀元前6~7世紀頃に、その地に住んでいたエトルリア人の文明が、この町の基礎を築いた。今から25~26世紀も前に、この町は存在したのだから驚きだ。エジプト文明の歴史にも負けないくらい昔なのだ。

 

 丘の上だから、坂また坂の町だ。しかも、都市国家として防御も大切だったから、高い石で組み上げた城壁と門がやたら多い。頂上の旧市街地の平らな中心地は長さ800m、巾200mくらいの狭い場所だ。だから歩けるのだ。

 

 ここで、僕をさらにペルージア好きにする事が起きた。

 

 その一つは、ウンブリアの雄大な平野を望むペルージアの旧市街地の町並み、屋根の連なりの美しさだった。エトルリア門を出て、直ぐ右へ登っていく細い急な石段を登りきったところに、その景色はあった。遠く、アッシジの丘も見える。ここでは長い間、ボーっとしていた。日本では観られない景色だった。

 

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<ペルージアの井戸>

 

 もう一つは人。

 

 丘の上の生活で一番心配なものは、水。他の山岳都市でも同じだが、高い所で水を確保しなければならないわけで、深い井戸を掘って水を汲み上げなくてはならない。その薄暗い井戸を見学して、まぶしい9月の空を見上げたとき、細いかなり急な石段を見つけた。登りたくなった。けれど、上に何があるか分からずに、疲れた足を震わせて登る勇気が出なかった。

 

 その石段を見上げていると、町の清掃をしているおじいさんが、声をかけてくれた。そして、信じられないことを僕に言ったのだ。カラバッジョの絵を見たくないかって言う。エッと思った。あのカラバッジョの絵がこの近くにあるのか半信半疑だった。

 

 彼は、この階段を上って、右手に細道を行くと小さな教会があるから、そこにいくつかのカラバッジョの絵がある。見に行くと良いと勧めてくれた。どんなガイドブックにもこの絵のことは書いてなかった。

 

 もうこうなったら、言葉を信じてカラバッジョを見にいくしかない。フウフウいいながら、疲れた足を一歩一歩運んで、やっと頂上。右手にまわっていくと、崖の上に小さな教会があった。恐る恐る扉を押して入ったら、あった、カラバッジョの絵が3点ほどあった。教えてくれたおじいさんの気遣いに感激した。

 

 そんなふうに、バッチ(キッス)・チョコレートで知られる町で、何日かの、まるで中世のような世界に身を置いた。ペルージアが好きになった。

 

 その後、何年もたって、ペルージア外国人大学で日本語を学ぶイタリア人の女学生が、日本で短期留学をやっているのに出くわした。僕は、彼女のホームステイを受け入れ、学生達の為に小さなパーティを開いたりした。これもペルージアの取り持つ縁だった。

 

 なんだか、人間のつながりって、本当に不思議なものだと思う。今でもペルージアという名を聞くたびに、あのゆったりとしたウンブリアの自然を思い出す。

第四章( 5 / 31 )

チムサーチョイ

 

 僕は、香港で6週間過ごしたことがある。

 

二度に分けてだが、このくらい長くいると、慣れてきて、なんだか自分の町のような気になる。

 

 僕たちの滞在していたホテルは香港島のセントラルにあって、まだ中国に返還される前だったから、街にはヨーロッパの匂いが強く残っていた。今の香港の雰囲気は、もう中国、中国って感じで、ノスタルジックな植民地時代の雰囲気はもうないようだ。

 

 東はコーズウエイ・ベイから、西はフェリーの出る上環まで、香港島はよく歩いたものだ。コーズウエイの汚い安い店の並ぶ屋台では、日本のうどんのような淡白な味付けの麺があって、脂っこい広東料理に飽きたら、歩いて行っていた。

 

 日本食は、ちょうどセントラルにパシフィック・プレイスがオープンしたばかりのころだったから、そこで食べられた。日本の食品なんかも手に入って、食事に困ったことはない。

 

 でも買い物は、九竜サイドに行っていた。ロンドンの地下鉄と同じ設計の地下鉄で、アドミラリティがすぐ側だったから、気楽に足を延ばせた。香港島はイギリスの匂いがするけれど、九竜は、まさに中国のにおいが立ち込めていた。

 

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<サムサーチョイ>

 

ネイサン・ロードの空を埋め尽くす、けばけばしい看板たちや、怪しげに観光客に○○があるよと声をかける呼び込み人とか…。そういえば、何人かの呼び込みの人に、お前は日本人には見えない、台湾人だろうと言われた。なぜだかわからない。

 

東京でいえば香港島が山の手で、九竜は下町って感じだ。もちろん、香港を代表するペニンスラ・ホテルなどもあるから、一概に下町とはいえなのだが…。

 

九竜には、恥ずかしい思い出がある。その頃、コルムという、ヨットのアメリカンカップをモチーフとした、舵輪型の文字盤の高級腕時計に憧れていた。それを探しにある休日、九竜公園のあたりから、右に細い道を歩いていた。宝飾屋さんが小さい店から、大きなものまで並んでいる通りだった。

 

僕には、コルムのほかに、もう一つ、ポルシェ・デザインの時計にも興味があった。ロレックスとかには全く興味はなかった。ひたすらコルムとポルシェを探しながらの時間だった。

 

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<ポルシェデザイン>

 

とある店で、ポルシェの美しい形のものがウインドウに見えた。しっかり、トラベラー・チェックも持っていたから、どうどうと店に入った。ウインドウのポルシェを出してもらって、いくつかを試してみたりした。

 

ちょっと高いかなとは思ったけれど、それまで見てきたコルムの高さに比べたら、安いかなと思った。急に買ってもいいかと思った。それは、ポルシェらしい機能美に、ちょっとした遊び気のあるデザインだった。

 

香港では、値札で買うのは馬鹿だと、香港の友人に言われていたから値切った。彼らも自分のマージンを考えながら、値付けを下げて行った。

 

まあこの辺でいいかなあと思って、じゃこれをもらいますといった。計算機に出た数字を見て、トラベラー・チェックから金額をちぎって並べた。サインしようとしたら、店の人が変な顔をしている。なぜって聞いたらば、もう一度、計算機の画面を僕に見せた。

 

なんとそこには、僕の頭が考えていた数字にゼロが一桁多い数字が並んでいた。アッと思った。そんな値段は払えない、というか、買わないと心が叫んだ。

 

僕はごめんと言って、一桁間違っていたと率直に言って謝った。店の人は、ぷいと態度を変え、あわてて、それらのポルシェを後ろの棚に戻した。やはり、少し怒っていたようだ。僕は赤くなって、汗をかきながらトラベラー・チェックをしまって、店を出た。

 

そんな値段を出してまで、欲しいとは思わなかった。諦めようと自分に言った。その通りを、チャタム・ロードまで歩いて、次の道をネイサン・ロードの方に戻っていった。

 

お腹がすいていたので、何か食べようと、レストランを探しながらゆっくり歩く。目についたのは、小さなイタリア料理屋。香港でイタリアンもいいかと、ドアを押した。まさに、ミラノのトラットリアのような雰囲気で、気に入ってしまった。一人だというと、一番奥の角っこのテーブルに案内してくれた。

 

この店が気に入ってしまった。

 

それから、九竜に出かけるときは、チムサアーチョイ公園のちょっと先から曲がって、この店に何度か足を運んだ。アンティパストもワインも気に入った。値段も手ごろ。観光客は来ない店だった。店の主は中国人だった。思わぬ、恥ずかしいことがあった後で、良いイタリアン・レストランを見つけて、気持ちのバランスを回復した店だった。

 

何しろ、香港の九竜にある中国人のイタリアン・レストランに、日本人が香港島から通っていたのだから、考えてみれば少し滑稽だったかもしれない。

 

いまでも、迷わずに行ける自信がある。

 

 

<街の写真は、flickrからAdrienisfrencceさんの“Tsim Sha Tsui”をお借りしました>

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徳山てつんど
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