フッと顔を上げると、正面に掲げられていた「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額が目に飛び込んできた。
揮毫は奥州白河藩主にして「寛政の改革」を断行した江戸幕府老中、松平定信の筆によるもの。
文化9(1797)年、房総の沿岸警備を巡視した際に参詣、奉納したという。
拝殿脇から奥へ回りこむと、そこには本殿が鎮座している。
三間社流造で屋根は銅板葺き、千木は外削ぎ、鰹木は5本。
昭和42(1967)年2月21日、館山市指定有形文化財に指定されている。
社伝によると延宝年間(1673~81)に造営された由。
だが、支輪や紅梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多いことから、造営後に大規模な修理が加えられた可能性が高いという。
本殿の右脇には航海安全の神として信仰を集める金比羅神社が、こじんまりと鎮座している。
境内から鳥居の方角を望むと、眼下には一面の大海原。
洲崎神社が海上安全や豊漁の守護神として深く信仰されたのも頷ける。
今から800以上年も昔、この海を超えて源頼朝は安房国にやって来た。
治承4(1180)年8月、伊豆で挙兵した頼朝は相州石橋山の合戦で平家に敗北。
同28日に真名鶴岬(現在の真鶴岬)から小船で脱出した。
翌29日、頼朝は僅かな供回りだけを伴い、下総國初代守護である千葉常胤を頼って安房国へ逃れ、平北郡猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸。
頼朝は雌伏の時を過ごす中、源氏再興と平家打倒を祈願し洲崎神社へ参籠したという。
また、2年後の寿永元(1182)年には北条政子の安産を祈願したこともあり、現在も安産の神様として御神徳を集めているそうだ。