一巡せしもの―東海道・東国編

安房國「洲崎神社」( 9 / 18 )

安房國一之宮「洲崎神社」09


急峻な石段を下りつつ、遥かな海原を見やる。

海からの冷たい潮風が人気のない境内を吹き抜け、木々の梢がザワザワと音を立てる。

年の瀬も押し迫り、あと半月ほどで年が開ける。

世の大半の神社は新年を迎える準備で大わらわ。

だが、そうした慌ただしさが洲崎神社には微塵もない。

何か願い事があり、それを叶えてもらうために足を運ぶのであれば、これほど無愛想な神社はあるまい。

だが、他に参拝客が誰もいない状況下で、神の囁きに耳を傾け、心を通わせようと願うのなら、これほど適した神社もない。

石段を下りて再び海抜レベルに降り立つ。

大鳥居からフラワーラインの方向に目を向けると、海へ向かって細い道が伸びていることに気付いた。

その小道を海へ向かうと、突き当りにもうひとつ鳥居が見えた。

海から舟で参詣する氏子を迎え入れるための浜鳥居のようにも見える。

こちらが一の鳥居で、石段の下に立っていたのが二の鳥居ということになるか。

空気が澄んでいれば鳥居の中から富士山が望めるというが、生憎この日は大気が霞み霊峰の勇姿を拝むことは叶わなかった。

一の鳥居近くの説明板によると、この先に「御神石(ごしんせき)」なる“聖跡”が鎮座している…とある。

長さは2.5メートルで石質は付近の岩石と異なるそうだ。

御神石は竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石のひとつ。

もう1つは対岸の三浦半島に飛んで行き、現在は浦賀の西にある安房口神社に安置されている。

安房國「洲崎神社」( 10 / 18 )

安房國一之宮「洲崎神社」10


安房口神社の石は先端に丸い窪みがあることから「阿形」。

洲崎神社の石は口を閉じたような裂け目があることから「吽形」。

両者で東京湾の入り口を守る狛犬のように祀られているそうだ。

小径を海へ向かって歩いていくと、瑞垣に囲まれた御神石が鎮座していた。

夕陽を浴びて金色に染まった御神石の形状は、どこか男根を想起させる。

ということは、対岸の横須賀安房口神社に鎮座している御神石は女陰の形状をしているということか。

安房口の御神石を目視したわけではないが、洲崎が「吽形」、安房口が「阿形」というのなら、その可能性は十分ある。

一度、確認しに行かねばなるまい。

すっかり西洋キリスト教文明に毒された昨今の日本は、「男根」「女陰」と目にすれば即座に「ポルノグラフィ」を連想させるような、そんな下衆な社会になってしまった。

しかし、陰陽道に支配された往古の日本社会に於いて「陰陽和合」は万物生成の源であり、「男根」「女陰」の形状をした石が御神体として崇められるのはごく自然なことだった。

御神石から海岸線へと向かう。

海は遠浅、海岸線は岩礁で砂浜ではない。

ところどころ海面から岩が頭をのぞかせ、まるで船舶の接岸を拒んでいるかのようだ。

ここ房総半島の先端から、夕日を浴びて金色に輝く東京湾を眺める。

今から800年以上も昔、平家との戦いに敗れた源頼朝もまた、この海を渡って伊豆から逃れてきたのかと思うと、なかなかに歴史ロマンを感じさせてくれる。

安房國「洲崎神社」( 11 / 18 )

安房國一之宮「洲崎神社」11


海岸線から神社へ引き返そうとした時、左側へ緩やかに下っていく小路を見つけた。

興味をそそられ先に向かって歩いていくと、漁船や釣り船が数多く係留されている小さな漁港に出た。

ここ「洲崎漁港」から更に先へと延びる細い道を進めば、そこには小さな旅館が数軒立ち並んでいる。

釣り客相手に営業しているのだろうか。

そこに「明神荘」という名の旅館を見つけた。

名は無論、洲崎神社に因んだものかと思われる。

玄関から寅さんがひょっこり現れそう…そんな佇まいだ。

両脇を竹藪で覆われた「笹のトンネル」のような小路を抜け、フラワーラインを歩く。

やがて、洲崎神社に隣接している「洲崎観音養老寺」前のバス停にたどり着いた。

洲崎観音養老寺、正式には妙法山観音寺という。

次のバスまで時間があったので境内を散策することにした。

創建は養老元(717)年で、開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)。

神仏分離までは洲崎大明神の社僧を勤めていたという。

また、ここは曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台にもなった。

こちらはこちらで、なかなかに興味深い歴史を刻んでいる。

安房國「洲崎神社」( 12 / 18 )

安房國一之宮「洲崎神社」12


細い参道を入ると正面に朱塗りの仁王門が聳立している。

境内にある保育園の出入口も兼ねており、ちょうど夕刻とあってか、ひっきりなしに母親たちが我が子を迎えに来ていた。

名称は「子育保育園」。

保育園の名称としてはありきたりのような印象を受けるが、その由来は境内に鎮座する「子育て地蔵」に因んだもの。

地蔵の建立は寛政9(1797)年というから、200年余に亘って地域の子どもたちを見守り続けてきたことになるのか。

夕闇が迫る中、母子が連れ立って家路を急ぐ寺の境内に、得体の知れぬ怪しき男が一人。

我が身を客観的に鑑みれば、こんなところで観音様を拝んでいていいのかとも思うが。

園舎と参道を挟んだ向かい側にはススキが群生しており、それが状況を一層おどろおどろしく演出している。

といっても、これらは「一本ススキ」と呼ばれる由緒正しき代物。

源頼朝が洲崎神社へ参詣した際、昼食で箸の代わりに使ったススキを「我が武運強ければここに根付けよ」と言いつつ地に挿したところ、本当に根付いたという伝承が残っているそうだ。

園舎の前を通り過ぎ、石段を昇ると正面には朱塗りの観音堂。

堂内には本尊で洲崎神社の本地仏でもある十一面観世音菩薩が鎮座している。
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作家:経堂 薫
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