地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街88 そして誰もいなくなった

「K君はきっと、Mさんと一緒にいて自分の空気を読む力みたいなのとか、それを元にその場をうまくし切ってプロデュースしていくみたいな力が、実は自分のものじゃなくて、皆川君の力だったっていうことに気がついたんじゃないかな。K君としてみたら辛かったと思うわよ。自分の無力感と、今まで仲良くしてやってたみたいに思ってたかもしれない皆川君の力を認めたりすること。何と言っても自分が好きだと告白した女の子が、そういうこと全部わかってたとしたら尚更ね」

 春日井先生の言葉に皆川君はまたうなだれていた。



「力を持っている人がそれをあえて使わなすぎるっていうのは、人を不幸にすることもあると思うわ。」

「いえ、僕は…」

「分かってるわ。そうは思っていなかったんでしょ。でもそれだからこそ余計に君はきっと理由がはっきりわからない理不尽な思いをすることになるわ。とても難しいことだけど分かる?」

 皆川君は頷いた。



「だからKは僕をいじめるようになった…。ただMさんが好きだと言ったのが僕だということだけじゃなくて…」

「そうね、身も蓋もない言い方をすればK君は自分への嫌悪感を直視せずに、皆川君に八つ当たりしたっていうことになるかもしれないのだけど…」

「そっか…」

 うなだれる皆川君の横に座り、先生はしばらく黙って皆川君の肩をだいていた。




「悪くはなかったんだよ。皆川君は…優しすぎたのかもね。でもその優しさを同世代の男の子が理解するのは難しいかもね。ううん。頭で理解はできても心で受け止められないと思う。プライドとかいろんなものが邪魔をして…」

 皆川君はうなだれていた。肩が少し震えていたのでもしかしたら涙を流していたのかも知れない。




「ずいぶんいじめられた?」

「はい。自殺を考えない日はありませんでした」

「そしてどうしたの?」

「どうしたらいいか分からなくて、賢い人を真似てみました」




賢い人は葉をどこに隠す?森の中に隠す。

森がない場合には、自分で森を作る。
そこで、一枚の枯葉を隠したいと思う者は、
枯れ木の林をこしらえあげるだろう。

死体を隠したいと思うものは、
死体の山を築いてそれを隠すだろうよ。




 さっき言っていたチェスタトンの言葉ドアを皆川君は途切れ途切れにつぶやいた。



「いっそ死人のように学校で生きて行こうと思ったのね」

「・・・はい」

「そこまで思わなくても良かったのに」

「いえ、僕は…最低です。僕はKの好きだった、付き合っていたMさんと時々Kに隠れて会うようになりました。最初はMさんがボロボロの僕を見かねてっていう感じだったんですけど…」


 話が核心部分に近づいてきたようだった。



「なるほど、マッカーサー将軍に隠れて逢い引きしていたリッチモンドなのか…」

 そういうことだったのか、あのクリスティの話は…。僕は話の展開に耳を凝らした。




「はい。手を握ってキスもしました」

「クリスティの小説と同じようにバレちゃったの?」

「はい…」

「K君は?」

「僕たちにははっきり言いませんでした。Mさんが別れることもなかったです。僕が、僕とのことは黙っていて欲しいと彼女に言ったので…」

「そっか…」

「Kは僕へのいじめを続行しながらTと衝突することが多くなって、ある日…」

「何か起きたのね」

「些細なことから喧嘩になって、完全にキレてしまったKはTをナイフで刺してしまいました」

「…」

「Kは最終的に転校して行きました。一命をとりとめたTも別の学校に」

「Mさんとは?」

「普通のクラスメートとして接しました。一人になった僕は自分で自分を罰しました。マッカーサー将軍の役目を自分自身に果たしたんです。マッカーサー将軍の僕はリッチモンドを殺しました。学校という森の中で、自分自身を枯葉一枚の重みにして深く隠しました」

「卒業するまでそうするつもりだったの?」

「はい、でも…」

「そうはせずに、うちの学校に転校してきたのはどうして?」

「…」

「Mさん?」

「はい。徐々に少しづつ話をしました」

「聞かせてもらってもいい?」

「はい」

地下鉄のない街92 遁走曲

私は別の選択をするもう一人の私のために、
もう一人の私を生み出すために、
もう一人の私の人生のために、
自分を受け入れることにしました。

それを選択することはこれまでの私の否定であり、
これまでの私の「死」を意味します。
この私が私に死をもたらそうとすることで、
もう一人の私が誕生することでしょう。
この私は私を犠牲とすることで、
もう一人の私に新たな生をもたらすのです。





 春日井先生はMさんの言葉をすらすらと淀みなく口にした。

「先生…。一度聞いただけでもう覚えちゃったんですか」

 皆川君も僕と同じでこれには驚いたようだった。



「気がついたと思うけど、一箇所だけ"転校"っていうところを"自分"に置き換えたけどね」

 先生は笑いながらそう言った。



「これね、私が昔自分に書いた、ううん、書き続けていた手紙とほとんど同じ言葉だったんだ」

「手紙…ですか?日記じゃなくて」皆川君は興味深そうに尋ねた。

「うん。手紙なの。日記は書いた人と読み返す人が一緒でしょ。あたしのは書いた人と読む人が違うから手紙なの」

 謎めいた先生の言葉だったけれど、先生は謎かけを楽しんでいる様子ではなかった。もっと切実な何かを言おうとしているように僕には思えた。




「確かに読む人が違えば手紙かも知れないですね。でもさっき先生は<自分に書いた>って言ってましたけど…」

「…」

 どういう意味だろう。確かに自分に対して、Mさんとほとんど同じ言葉を使って書いたと先生は言っていた。自分に書く手紙?




「そうよ。読む時には書いた時の自分のことを覚えてないから、そして書く時には、これを読む自分がそのことを覚えてないだろうなって、そういうことがあらかじめ分かっているの」

「書いた翌日には記憶喪失みたいに書いたことを忘れちゃうんですか」

 皆川君は必死に先生の言葉の意味を追跡しようとした。



「記憶喪失とちょっと似てるんだけど、それとは違う。専門用語でフーガっていう言葉があるんだけど知ってる?」

「フーガ?音楽の時間に習いましたよ。バッハの前奏曲とフーガとか、あ、そうだ小フーガト短調って小学校の時リコーダーで吹いたかな、あれですか?たしかどこかに逃げちゃうように流れていくメロディーを同じ旋律が追いかける、だから遁走曲っていう名前だったような・・・?」

 皆川君は音楽の話が始まったのかと戸惑ったようだった。



「うん。もとはクラシックの音楽用語らしいんだけど、精神医学では昔の記憶をすっかり忘れて、例えば新しい土地で別の名前を使って、今までとは全く違う生活をしてしまうみたいな、今までの記憶と一緒に過去の自分との一切の関係を失ってしまうことを、解離性フーガっていうの。ある日突然蒸発して行方が分からなくなってしまった人が、全然別の場所で、結婚もして子供もいて慎ましやかに暮らしているんだけど、そこに失踪したお父さんを探して子供が訪ねてくる、なんていう小説みたいな話が現実にあってね、そういうのは解離性フーガである可能性が高いと言われてる」

 穏やかだったけれど、どこか抜き差しならない真剣で沈痛な面持ちで先生は言った。



「過去の自分と今の自分が違う…。昔自分がしたことも一切覚えていない…」

 皆川君は先生の表情を伺いながら恐る恐る相槌をうった。



「記憶喪失みたいにあれ?この日記書いたっけ…じゃなくて、もっと広い範囲で、ううん、広い範囲でって学説では定義されるんだけど、あたしの実感では広さの問題じゃないのね、それは一切合切であるところが特徴なの。それと記憶喪失は、自分の名前や住所や生まれた日や通ってる学校、家族や友達の名前を思い出せなくて苦しむわけだけど、解離性フーガは全然違うのよ。人から指摘されるまで、例えば新しい家族のところにもとの家族が失踪した自分を探しに来るまで、そのことに気がつかないのね」

 先生がそうなのか…?





「僕が今お話しさせてもらっている先生は保健室の春日井先生とは別人ですか?」

 皆川君は緊張した顔で尋ねた。



「そうね。もしかしたらそうかも知れないわ」

 先生はポニーテールを解いた髪の癖をほぐすように、また右手を肩越しまでかかった髪に遣り、すっと髪をかきあげた。



 今日何回か見た先生のどきっとするようなしぐさだ。

 でも、さっきまではあったポニーテールの癖はもうすっかりなくなっていて、艶やかな黒髪が魅力的な別の女の人がそこいた。

地下鉄のない街94 醒めない夢

「つらいですか」かすかに消え入るように皆川君の口が動く。

「え?」先生もうつむき加減でそっと皆川君を見る。

「あ、すいません、僕。その、なんと言っていいか」

 春日井先生は自分の両手で皆川君の手を取って首を振った。



「つらくはないわ。ううん、つらいけど何て言うか、つらいっていう実感が持ちにくい。それがもっとつらいかな」

 先生がふぅっと長くため息をつく。

「実感ですか」

「うん、例えばね、皆川君が好きなこの本みたいに、どんな悲劇も始まりがあって終わりがあるでしょ。読み始めてから最後のページまでの間に」





 先生はまたクリスティの文庫本を手にとった。『そして誰もいなくなった』の表紙には島に閉じ込められた人間がそれぞれの表情で、絶望したり泣いたり悲嘆にくれたりしている。

「この左端の立派な体躯の紳士がマッカーサー将軍だったわね」

「はい。多分」

「将軍だけ殺されるかもしれないっていう恐怖の表情をしてないね」

 先生はさっきの二人の会話をもう一度なぞった。



「みんなが孤島で次々と殺されていく中、将軍は島からでて行きたくないって、ふとそう思うんです」

 皆川君もさっきと同じ台詞を言った。

「将軍の気持ちがなんとなく分かるわ」

 皆川君が先生の目を覗き込む。



「島を出て家に帰れたとしても、将軍には奥さんとリッチモンドを破滅させた自分の逃れられない日常が待っているわけでしょ」

「そう…なります」

「醒めない夢だわ」

「醒めない夢…ですか」

「そう。最後のページまでめくっても終わらない小説。一つの悪夢が醒めたら、もう一人の私がそこに待っている。もう一人の私が、その世界で私を待っている男の人と一緒にまた悪夢の続きを夢見るの。それが私なのよ。つらさも罪もきちんと認識する間もなく、次々と流れ作業のように別の人生が続くのよ。それがつらいわ、死ぬほど…」



 そう語っている先生の口調は淡々としていたけれど、とてつもなく深い苦悩が秘められているようだった。

地下鉄のない街95 密室の出口で会いましょう

「先生は密室の中にいるんですね、やっぱり」

「え?」

「内側から鍵をかける部屋の密室じゃなくて、『そして誰もいなくなった』の孤島みたいに、外側から鍵をかけられた密室です」

「ああ」

 先生はクリスティ話の始まりに自分で言ったことを思い出したようだった。ドア




「自分の隣にいる人は本当はどんな人間なんだろうって疑心暗鬼になったり、いつその人から傷つけられるかって怯えたり、もしかしたら自分も加害者になっちゃったり…。なんか無人島の異様なシチュエーションといいながら、あたしたちの現実世界に似てる…」

「先生はそう言ってましたね。あの時はなるほど面白い見方だなって思っただけでしたけど、先生の病気の話を聞いて思いました。先生は苦しんでいる自分自身のこと言ってたんですね」

 隣同士に座っているので、二人とも親しみのあるささやき声のように話をしている。話している内容は重たい話だけど、二人の様子はおても穏やかな恋人同士の睦言のようだった。




「皆川君が言ってたように、誰かがその苦しみを優しい目でそっと見つめていてくれてるのかしら」

「はい。僕はそう思います」

「そうね。私も今ここで二人が話していることを優しく聞いて、観ていてくれてる人たちの気配をなんとなく感じるわ」

「人達の?」

「ええ。あたしたちみたいにそっと肩を寄せて、恋人のように、今のあたしの苦しみも皆川君の苦しみも、ちゃんと意味があるんだよって優しい目でずっと見てくれてる気がする」

 皆川君が病室の中をぐるっと見渡した。窓の方から僕と姉さんがいる方とは逆方向にゆっくりと部屋中を眺めて、もうじき僕たちの見ている場所に首を向ける。





 目が合った。

 と思ったら、皆川君はそのまま僕と姉さんのいる場所を通過してもう一回春日井先生のところまで一回転した。

「そうですね。姿は見えませんけどそんな気がしました」

「そうね。あたしはもしそういう目で観ていてくれるなら、このあたしだけじゃなくて、別のあたしも全部含めて、春日井恭子すべてをひっくるめて、それでも全部認めてくれるような目で観ていてくれるなら、そう信じられるなら、この病気と一緒に生きていけるわね、たぶん…。自分で自分のことが認識できなくても、そういう目で誰かが全部の私を見ていてくれているって思えたら、少しは救いになるわね・・・。でも外から鍵のかけられた密室からは出られない…。私は複数の自分を外側から見ることはできないんだわ」







 皆川君が唇をぎゅっとかみしめた。

「先生、僕も先生が閉じ込めらている密室の鍵を外側から開けてあげますよ」

「え?どういうこと」

 春日井先生の顔が少しだけ輝いた。




「先生が苦しんでいる場所は分かりました。だから僕が鍵を開けに行きます」

 春日井先生は笑った。



「う~ん。それで?」

「先生を背負って孤島から脱出します」

「あはは、うまく行くのかしら?」

「大丈夫です。僕は脚が速いです」

「そうだったわね」

 

「先生、競技会までにはこの包帯とれます。観に来てくださいね。一位になりますから」

「西村君の妨害があるわよ」

「何とかしますよ」

「そう?」

「はい。僕も学校という森の中の枯葉でい続けることはやめにします」

 春日井先生は優しく笑った。




「いいかもね」

「一等になったら密室に迎えに行きますから。生まれ変わった僕で先生のいる密室に鍵を開けに行きますから。その時は僕と付き合ってください。僕は他の男たちとは違うはずです。先生のこと全部わかった上で先生と一緒にいたいです」



「・・・分かったわ。確かに、みんなそれぞれの別人格のあたししか知らない。皆川君みたいにこうやってすべて知っている人はいない。もし知ったら腰を抜かしてどっか行っちゃうわね。でももし皆川君が一位になれなかったら?」

「先生を諦めます。だって枯葉のままでいることになっちゃいますからね。新しい僕が迎えに行かないと意味がありません」

「分かったわ。頑張って」

「大丈夫。本当は僕は足が速い」

「そうね。本当の皆川くんになって、これからやっていくのね」

「はい」




 二人はもうしばらく話していた。

 そして春日井先生は病室をあとにした。

 皆川くんは満足そうに横になって寝息をたてている。





 
ふと気がつくと僕はあのカルテのようなファイルを手に握っていた。
 さっきまで白紙だったページにたった今のこの病室での様子が書き加えられてる。

 小さな物語の末尾に署名があった。

 『地下鉄のない街』春日井恭子 執筆分 了
 ありがとう、君島健太郎君。



 どういう事なんだろう・・・これは。

 姉さんを見ると、寂しそうに黙って首を振っただけだった。
ゆっきー
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