「先生は密室の中にいるんですね、やっぱり」
「え?」
「内側から鍵をかける部屋の密室じゃなくて、『そして誰もいなくなった』の孤島みたいに、外側から鍵をかけられた密室です」
「ああ」
先生はクリスティ話の始まりに自分で言ったことを思い出したようだった。
「自分の隣にいる人は本当はどんな人間なんだろうって疑心暗鬼になったり、いつその人から傷つけられるかって怯えたり、もしかしたら自分も加害者になっちゃったり…。なんか無人島の異様なシチュエーションといいながら、あたしたちの現実世界に似てる…」「先生はそう言ってましたね。あの時はなるほど面白い見方だなって思っただけでしたけど、先生の病気の話を聞いて思いました。先生は苦しんでいる自分自身のこと言ってたんですね」
隣同士に座っているので、二人とも親しみのあるささやき声のように話をしている。話している内容は重たい話だけど、二人の様子はおても穏やかな恋人同士の睦言のようだった。
「皆川君が言ってたように、誰かがその苦しみを優しい目でそっと見つめていてくれてるのかしら」
「はい。僕はそう思います」
「そうね。私も今ここで二人が話していることを優しく聞いて、観ていてくれてる人たちの気配をなんとなく感じるわ」
「人達の?」
「ええ。あたしたちみたいにそっと肩を寄せて、恋人のように、今のあたしの苦しみも皆川君の苦しみも、ちゃんと意味があるんだよって優しい目でずっと見てくれてる気がする」
皆川君が病室の中をぐるっと見渡した。窓の方から僕と姉さんがいる方とは逆方向にゆっくりと部屋中を眺めて、もうじき僕たちの見ている場所に首を向ける。
目が合った。
と思ったら、皆川君はそのまま僕と姉さんのいる場所を通過してもう一回春日井先生のところまで一回転した。
「そうですね。姿は見えませんけどそんな気がしました」
「そうね。あたしはもしそういう目で観ていてくれるなら、このあたしだけじゃなくて、別のあたしも全部含めて、春日井恭子すべてをひっくるめて、それでも全部認めてくれるような目で観ていてくれるなら、そう信じられるなら、この病気と一緒に生きていけるわね、たぶん…。自分で自分のことが認識できなくても、そういう目で誰かが全部の私を見ていてくれているって思えたら、少しは救いになるわね・・・。でも外から鍵のかけられた密室からは出られない…。私は複数の自分を外側から見ることはできないんだわ」
皆川君が唇をぎゅっとかみしめた。
「先生、僕も先生が閉じ込めらている密室の鍵を外側から開けてあげますよ」
「え?どういうこと」
春日井先生の顔が少しだけ輝いた。
「先生が苦しんでいる場所は分かりました。だから僕が鍵を開けに行きます」
春日井先生は笑った。
「う~ん。それで?」
「先生を背負って孤島から脱出します」
「あはは、うまく行くのかしら?」
「大丈夫です。僕は脚が速いです」
「そうだったわね」
「先生、競技会までにはこの包帯とれます。観に来てくださいね。一位になりますから」
「西村君の妨害があるわよ」
「何とかしますよ」
「そう?」
「はい。僕も学校という森の中の枯葉でい続けることはやめにします」
春日井先生は優しく笑った。
「いいかもね」
「一等になったら密室に迎えに行きますから。生まれ変わった僕で先生のいる密室に鍵を開けに行きますから。その時は僕と付き合ってください。僕は他の男たちとは違うはずです。先生のこと全部わかった上で先生と一緒にいたいです」
「・・・分かったわ。確かに、みんなそれぞれの別人格のあたししか知らない。皆川君みたいにこうやってすべて知っている人はいない。もし知ったら腰を抜かしてどっか行っちゃうわね。でももし皆川君が一位になれなかったら?」
「先生を諦めます。だって枯葉のままでいることになっちゃいますからね。新しい僕が迎えに行かないと意味がありません」
「分かったわ。頑張って」
「大丈夫。本当は僕は足が速い」
「そうね。本当の皆川くんになって、これからやっていくのね」
「はい」
二人はもうしばらく話していた。
そして春日井先生は病室をあとにした。
皆川くんは満足そうに横になって寝息をたてている。
ふと気がつくと僕はあのカルテのようなファイルを手に握っていた。
さっきまで白紙だったページにたった今のこの病室での様子が書き加えられてる。
小さな物語の末尾に署名があった。
『地下鉄のない街』春日井恭子 執筆分 了
ありがとう、君島健太郎君。 どういう事なんだろう・・・これは。
姉さんを見ると、寂しそうに黙って首を振っただけだった。