地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街92 遁走曲

私は別の選択をするもう一人の私のために、
もう一人の私を生み出すために、
もう一人の私の人生のために、
自分を受け入れることにしました。

それを選択することはこれまでの私の否定であり、
これまでの私の「死」を意味します。
この私が私に死をもたらそうとすることで、
もう一人の私が誕生することでしょう。
この私は私を犠牲とすることで、
もう一人の私に新たな生をもたらすのです。





 春日井先生はMさんの言葉をすらすらと淀みなく口にした。

「先生…。一度聞いただけでもう覚えちゃったんですか」

 皆川君も僕と同じでこれには驚いたようだった。



「気がついたと思うけど、一箇所だけ"転校"っていうところを"自分"に置き換えたけどね」

 先生は笑いながらそう言った。



「これね、私が昔自分に書いた、ううん、書き続けていた手紙とほとんど同じ言葉だったんだ」

「手紙…ですか?日記じゃなくて」皆川君は興味深そうに尋ねた。

「うん。手紙なの。日記は書いた人と読み返す人が一緒でしょ。あたしのは書いた人と読む人が違うから手紙なの」

 謎めいた先生の言葉だったけれど、先生は謎かけを楽しんでいる様子ではなかった。もっと切実な何かを言おうとしているように僕には思えた。




「確かに読む人が違えば手紙かも知れないですね。でもさっき先生は<自分に書いた>って言ってましたけど…」

「…」

 どういう意味だろう。確かに自分に対して、Mさんとほとんど同じ言葉を使って書いたと先生は言っていた。自分に書く手紙?




「そうよ。読む時には書いた時の自分のことを覚えてないから、そして書く時には、これを読む自分がそのことを覚えてないだろうなって、そういうことがあらかじめ分かっているの」

「書いた翌日には記憶喪失みたいに書いたことを忘れちゃうんですか」

 皆川君は必死に先生の言葉の意味を追跡しようとした。



「記憶喪失とちょっと似てるんだけど、それとは違う。専門用語でフーガっていう言葉があるんだけど知ってる?」

「フーガ?音楽の時間に習いましたよ。バッハの前奏曲とフーガとか、あ、そうだ小フーガト短調って小学校の時リコーダーで吹いたかな、あれですか?たしかどこかに逃げちゃうように流れていくメロディーを同じ旋律が追いかける、だから遁走曲っていう名前だったような・・・?」

 皆川君は音楽の話が始まったのかと戸惑ったようだった。



「うん。もとはクラシックの音楽用語らしいんだけど、精神医学では昔の記憶をすっかり忘れて、例えば新しい土地で別の名前を使って、今までとは全く違う生活をしてしまうみたいな、今までの記憶と一緒に過去の自分との一切の関係を失ってしまうことを、解離性フーガっていうの。ある日突然蒸発して行方が分からなくなってしまった人が、全然別の場所で、結婚もして子供もいて慎ましやかに暮らしているんだけど、そこに失踪したお父さんを探して子供が訪ねてくる、なんていう小説みたいな話が現実にあってね、そういうのは解離性フーガである可能性が高いと言われてる」

 穏やかだったけれど、どこか抜き差しならない真剣で沈痛な面持ちで先生は言った。



「過去の自分と今の自分が違う…。昔自分がしたことも一切覚えていない…」

 皆川君は先生の表情を伺いながら恐る恐る相槌をうった。



「記憶喪失みたいにあれ?この日記書いたっけ…じゃなくて、もっと広い範囲で、ううん、広い範囲でって学説では定義されるんだけど、あたしの実感では広さの問題じゃないのね、それは一切合切であるところが特徴なの。それと記憶喪失は、自分の名前や住所や生まれた日や通ってる学校、家族や友達の名前を思い出せなくて苦しむわけだけど、解離性フーガは全然違うのよ。人から指摘されるまで、例えば新しい家族のところにもとの家族が失踪した自分を探しに来るまで、そのことに気がつかないのね」

 先生がそうなのか…?





「僕が今お話しさせてもらっている先生は保健室の春日井先生とは別人ですか?」

 皆川君は緊張した顔で尋ねた。



「そうね。もしかしたらそうかも知れないわ」

 先生はポニーテールを解いた髪の癖をほぐすように、また右手を肩越しまでかかった髪に遣り、すっと髪をかきあげた。



 今日何回か見た先生のどきっとするようなしぐさだ。

 でも、さっきまではあったポニーテールの癖はもうすっかりなくなっていて、艶やかな黒髪が魅力的な別の女の人がそこいた。

地下鉄のない街94 醒めない夢

「つらいですか」かすかに消え入るように皆川君の口が動く。

「え?」先生もうつむき加減でそっと皆川君を見る。

「あ、すいません、僕。その、なんと言っていいか」

 春日井先生は自分の両手で皆川君の手を取って首を振った。



「つらくはないわ。ううん、つらいけど何て言うか、つらいっていう実感が持ちにくい。それがもっとつらいかな」

 先生がふぅっと長くため息をつく。

「実感ですか」

「うん、例えばね、皆川君が好きなこの本みたいに、どんな悲劇も始まりがあって終わりがあるでしょ。読み始めてから最後のページまでの間に」





 先生はまたクリスティの文庫本を手にとった。『そして誰もいなくなった』の表紙には島に閉じ込められた人間がそれぞれの表情で、絶望したり泣いたり悲嘆にくれたりしている。

「この左端の立派な体躯の紳士がマッカーサー将軍だったわね」

「はい。多分」

「将軍だけ殺されるかもしれないっていう恐怖の表情をしてないね」

 先生はさっきの二人の会話をもう一度なぞった。



「みんなが孤島で次々と殺されていく中、将軍は島からでて行きたくないって、ふとそう思うんです」

 皆川君もさっきと同じ台詞を言った。

「将軍の気持ちがなんとなく分かるわ」

 皆川君が先生の目を覗き込む。



「島を出て家に帰れたとしても、将軍には奥さんとリッチモンドを破滅させた自分の逃れられない日常が待っているわけでしょ」

「そう…なります」

「醒めない夢だわ」

「醒めない夢…ですか」

「そう。最後のページまでめくっても終わらない小説。一つの悪夢が醒めたら、もう一人の私がそこに待っている。もう一人の私が、その世界で私を待っている男の人と一緒にまた悪夢の続きを夢見るの。それが私なのよ。つらさも罪もきちんと認識する間もなく、次々と流れ作業のように別の人生が続くのよ。それがつらいわ、死ぬほど…」



 そう語っている先生の口調は淡々としていたけれど、とてつもなく深い苦悩が秘められているようだった。

地下鉄のない街95 密室の出口で会いましょう

「先生は密室の中にいるんですね、やっぱり」

「え?」

「内側から鍵をかける部屋の密室じゃなくて、『そして誰もいなくなった』の孤島みたいに、外側から鍵をかけられた密室です」

「ああ」

 先生はクリスティ話の始まりに自分で言ったことを思い出したようだった。ドア




「自分の隣にいる人は本当はどんな人間なんだろうって疑心暗鬼になったり、いつその人から傷つけられるかって怯えたり、もしかしたら自分も加害者になっちゃったり…。なんか無人島の異様なシチュエーションといいながら、あたしたちの現実世界に似てる…」

「先生はそう言ってましたね。あの時はなるほど面白い見方だなって思っただけでしたけど、先生の病気の話を聞いて思いました。先生は苦しんでいる自分自身のこと言ってたんですね」

 隣同士に座っているので、二人とも親しみのあるささやき声のように話をしている。話している内容は重たい話だけど、二人の様子はおても穏やかな恋人同士の睦言のようだった。




「皆川君が言ってたように、誰かがその苦しみを優しい目でそっと見つめていてくれてるのかしら」

「はい。僕はそう思います」

「そうね。私も今ここで二人が話していることを優しく聞いて、観ていてくれてる人たちの気配をなんとなく感じるわ」

「人達の?」

「ええ。あたしたちみたいにそっと肩を寄せて、恋人のように、今のあたしの苦しみも皆川君の苦しみも、ちゃんと意味があるんだよって優しい目でずっと見てくれてる気がする」

 皆川君が病室の中をぐるっと見渡した。窓の方から僕と姉さんがいる方とは逆方向にゆっくりと部屋中を眺めて、もうじき僕たちの見ている場所に首を向ける。





 目が合った。

 と思ったら、皆川君はそのまま僕と姉さんのいる場所を通過してもう一回春日井先生のところまで一回転した。

「そうですね。姿は見えませんけどそんな気がしました」

「そうね。あたしはもしそういう目で観ていてくれるなら、このあたしだけじゃなくて、別のあたしも全部含めて、春日井恭子すべてをひっくるめて、それでも全部認めてくれるような目で観ていてくれるなら、そう信じられるなら、この病気と一緒に生きていけるわね、たぶん…。自分で自分のことが認識できなくても、そういう目で誰かが全部の私を見ていてくれているって思えたら、少しは救いになるわね・・・。でも外から鍵のかけられた密室からは出られない…。私は複数の自分を外側から見ることはできないんだわ」







 皆川君が唇をぎゅっとかみしめた。

「先生、僕も先生が閉じ込めらている密室の鍵を外側から開けてあげますよ」

「え?どういうこと」

 春日井先生の顔が少しだけ輝いた。




「先生が苦しんでいる場所は分かりました。だから僕が鍵を開けに行きます」

 春日井先生は笑った。



「う~ん。それで?」

「先生を背負って孤島から脱出します」

「あはは、うまく行くのかしら?」

「大丈夫です。僕は脚が速いです」

「そうだったわね」

 

「先生、競技会までにはこの包帯とれます。観に来てくださいね。一位になりますから」

「西村君の妨害があるわよ」

「何とかしますよ」

「そう?」

「はい。僕も学校という森の中の枯葉でい続けることはやめにします」

 春日井先生は優しく笑った。




「いいかもね」

「一等になったら密室に迎えに行きますから。生まれ変わった僕で先生のいる密室に鍵を開けに行きますから。その時は僕と付き合ってください。僕は他の男たちとは違うはずです。先生のこと全部わかった上で先生と一緒にいたいです」



「・・・分かったわ。確かに、みんなそれぞれの別人格のあたししか知らない。皆川君みたいにこうやってすべて知っている人はいない。もし知ったら腰を抜かしてどっか行っちゃうわね。でももし皆川君が一位になれなかったら?」

「先生を諦めます。だって枯葉のままでいることになっちゃいますからね。新しい僕が迎えに行かないと意味がありません」

「分かったわ。頑張って」

「大丈夫。本当は僕は足が速い」

「そうね。本当の皆川くんになって、これからやっていくのね」

「はい」




 二人はもうしばらく話していた。

 そして春日井先生は病室をあとにした。

 皆川くんは満足そうに横になって寝息をたてている。





 
ふと気がつくと僕はあのカルテのようなファイルを手に握っていた。
 さっきまで白紙だったページにたった今のこの病室での様子が書き加えられてる。

 小さな物語の末尾に署名があった。

 『地下鉄のない街』春日井恭子 執筆分 了
 ありがとう、君島健太郎君。



 どういう事なんだろう・・・これは。

 姉さんを見ると、寂しそうに黙って首を振っただけだった。

地下鉄のない街93 告白と真相

「先生はそのフーガ…」

「遁走性解離障害じゃないわ。でも…」

 一瞬皆川君がほっとしかかった瞬間先生はその言葉を続けた。



「解離性同一障害」

「…どう…違うんですか」皆川君の表情は緊張でこわばっていた。



 先生は精神科の先生のように落ち着いた口調で話し始めた。

「遁走性解離障害の場合には記憶が完全に途切れて、新しい生活が新しい場所で始まっちゃったりするんだけど、解離性同一障害の場合には分離した感情や、記憶、人間関係が分離された人格がそのまま生きて、あっち側とこっち側をいったりきたりしながら別個に育っていくのよ。意思、価値観、感情、好み、癖、話し方、筆跡なんかがそれぞれ違ってくるケースもあるわ。」

「多重人格…」

 遠慮がちに、恐る恐る皆川君が声に出した。



「うん。今はその言い方はしないんだけどね。多重人格って言うとお酒飲んで人が変わっちゃうのと区別しにくいでしょ」

 先生は明るく笑いながらそう言った。さっき学生の頃から通院していると言っていたし、ことさらに自分の病気を深刻に考えるという段階はとっくに通り越したのかも知れない。



「それとは違うんですか」

「あ、そうね。一般的には同じように考えられてるかもね。お酒を飲んでっていう場合には、普段抑圧して隠してる自分の感情が表面に出てくるっていう特徴があるかな。普段おとなしい人が目上の人に説教を始めたり、シャイな青年がセクハラしたりとか、全部自分がもともと持っている別の部分が拡大して表に出るイメージかな」



 皆川君は必死に想像で補いながら話についていこうとしている様子だった。

「言い換えればね、お酒を飲んだ時だけ人格が変わるっていうのは、自分の行動がコントロール下にあるってことなのよ。お酒飲むと失敗するって分かってて飲んじゃうというのは、病気というより意思の弱さみたいな問題で、飲む飲まないは完全に自由に選択できるわけでしょ」

 真剣な顔で皆川君は二度頷いた。



「じゃあ、先生の場合は選択できない…」

 今度は先生が二度頷いた。でもそれは皆川君の頷き方とは違って、諦めのこもった感じだった。

「それぞれの世界で、それぞれの別のあたしがいる。中にはそれぞれに男女関係もあったりするの。今日ここに来てした最初の話に戻るけど」

 先生は、最大の核心部分をあえてスパっとさりげない口調で言ったようだった。




 そういうことだったのか。僕は姉さんと顔を見合わせて頷いた。

 先生が保健室に来る生徒といろんな噂になっている、その一つ一つは、先生のコントロールを離れて、それぞれの世界で別々に独立しているのか…。





「最初の話って、先生の男性関係の話ですよね」

 皆川君は先生の目を見てはっきりと尋ねた。

「そうよ」

 先生もすぐ隣りの皆川くんの目を真っ直ぐ見つめて答えた。





「僕は…、何て言うか…、その、先生はお酒にだらしないっていうわけじゃないってことが分かって、僕は嬉しいです」

 見ている僕と姉さんは皆川君の気持ちが痛い程よくわかった。よく分かったけれど…






「でも、また大きな問題に君は直面しちゃったわけね」

 春日井先生は申し訳なさそうに、僕と姉さんが思っていたことを口にした。

「はい。でも、嬉しいです」

 皆川君は少し涙ぐんでいるようだった。
ゆっきー
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