地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街93 告白と真相

「先生はそのフーガ…」

「遁走性解離障害じゃないわ。でも…」

 一瞬皆川君がほっとしかかった瞬間先生はその言葉を続けた。



「解離性同一障害」

「…どう…違うんですか」皆川君の表情は緊張でこわばっていた。



 先生は精神科の先生のように落ち着いた口調で話し始めた。

「遁走性解離障害の場合には記憶が完全に途切れて、新しい生活が新しい場所で始まっちゃったりするんだけど、解離性同一障害の場合には分離した感情や、記憶、人間関係が分離された人格がそのまま生きて、あっち側とこっち側をいったりきたりしながら別個に育っていくのよ。意思、価値観、感情、好み、癖、話し方、筆跡なんかがそれぞれ違ってくるケースもあるわ。」

「多重人格…」

 遠慮がちに、恐る恐る皆川君が声に出した。



「うん。今はその言い方はしないんだけどね。多重人格って言うとお酒飲んで人が変わっちゃうのと区別しにくいでしょ」

 先生は明るく笑いながらそう言った。さっき学生の頃から通院していると言っていたし、ことさらに自分の病気を深刻に考えるという段階はとっくに通り越したのかも知れない。



「それとは違うんですか」

「あ、そうね。一般的には同じように考えられてるかもね。お酒を飲んでっていう場合には、普段抑圧して隠してる自分の感情が表面に出てくるっていう特徴があるかな。普段おとなしい人が目上の人に説教を始めたり、シャイな青年がセクハラしたりとか、全部自分がもともと持っている別の部分が拡大して表に出るイメージかな」



 皆川君は必死に想像で補いながら話についていこうとしている様子だった。

「言い換えればね、お酒を飲んだ時だけ人格が変わるっていうのは、自分の行動がコントロール下にあるってことなのよ。お酒飲むと失敗するって分かってて飲んじゃうというのは、病気というより意思の弱さみたいな問題で、飲む飲まないは完全に自由に選択できるわけでしょ」

 真剣な顔で皆川君は二度頷いた。



「じゃあ、先生の場合は選択できない…」

 今度は先生が二度頷いた。でもそれは皆川君の頷き方とは違って、諦めのこもった感じだった。

「それぞれの世界で、それぞれの別のあたしがいる。中にはそれぞれに男女関係もあったりするの。今日ここに来てした最初の話に戻るけど」

 先生は、最大の核心部分をあえてスパっとさりげない口調で言ったようだった。




 そういうことだったのか。僕は姉さんと顔を見合わせて頷いた。

 先生が保健室に来る生徒といろんな噂になっている、その一つ一つは、先生のコントロールを離れて、それぞれの世界で別々に独立しているのか…。





「最初の話って、先生の男性関係の話ですよね」

 皆川君は先生の目を見てはっきりと尋ねた。

「そうよ」

 先生もすぐ隣りの皆川くんの目を真っ直ぐ見つめて答えた。





「僕は…、何て言うか…、その、先生はお酒にだらしないっていうわけじゃないってことが分かって、僕は嬉しいです」

 見ている僕と姉さんは皆川君の気持ちが痛い程よくわかった。よく分かったけれど…






「でも、また大きな問題に君は直面しちゃったわけね」

 春日井先生は申し訳なさそうに、僕と姉さんが思っていたことを口にした。

「はい。でも、嬉しいです」

 皆川君は少し涙ぐんでいるようだった。

地下鉄のない街96 踏切の真実

「姉さん、姉さんはこの『地下鉄のない街』っていうファイルについて僕の知らない大事なことを知っているね」

 姉さんは無言でファイルを見つめる。



「姉さんと話をした「お姫様の話」とかの章なんだけど、いつの間にか春日井恭子という署名と同じように<君島由紀子>って署名がしてある」

 姉さんは手にとって確かめようともしなかった。気がついたのね…そんな目をしている。



「父さんと母さんの分もだ。僕が父さんたちの苦しみを分かってあげられた場面の最後に『ありがとう、健太郎。君島隆之 節子』ってあるよ。」

 僕はページをさらにめくった。



「そしてトニーとの思い出話にも『僕のことを分かっていてくれたんだね、ありがとう。トニー•オブライエン』」

 すべてが僕への感謝の言葉で締めくくられていた。




「いったいどういうことだい?」

 姉さんは無言だった。

 無言で、さびしそうに笑った。



====================




 汽笛の音がする。

 またあの踏切の幻覚か。

 あの幻覚がやってくる頻度が増してきたようだ。

 何か意味があるんだろうか?







 車輪が回転するようにガシャンガシャンとリズミカルに音を刻んでいる

 金属音に警笛の音が混じる

 警笛が連続して鳴る

 発狂しそうになっている運転士の引きつった顔が見える

 音はいつしか耳をつんざくような高音になって…

 調弦の狂った弦楽器に音程を外した管楽器の音が混じり合い、ティンパニーは力の限りデタラメに殴打された。





 同じだ。

 あれ?でもおかしい。何かが違う。

 僕は自分の胴体を触ってみた。

 ねえ、姉さん

 変だよ、何か…

 なんで僕は血まみれなんだい?







 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。







「健太郎、健太郎!大丈夫?しっかりして!」

 姉さん?僕を助けに踏切をくぐって来たのか?

「誰か救急車を呼んで!」



 あれ?何言ってるんだい姉さん?踏切で事故にあったのは姉さんの方だろ?なんで姉さんが僕の助けを呼んでくれてるんだい?




 だめだよ、姉さん。

 姉さんの制服が僕の血で血まみれになるじゃないか。







 薄れていく意識の中、冷たくなっていく自分の手に姉さんの暖かい掌が触れた。




====================




 その掌のぬくもりの中にすっと吸い込まれるように踏み切りが消えて、僕は幻覚からさめた。

 目の前には僕の手を握ったもう片方の手に『地下鉄のない街』を持った姉さんがいる。






「姉さん、ひとつ思い出したことがある」


 僕は姉さんの掌のぬくもりをもう一度確かめることで自分の正気を確かめた。



 このことを口にすることで、姉さんと一緒にいられる時間はまた縮まってしまう。


 僕はそう確信した。





 この沈黙が永遠に続けばいい・・・と僕は思った。



























「もしかして踏切で死んだのは僕の方だったんだっけ?」


 ジッ

 季節外れのあの蝉の鳴き声が僕の耳をつんざいた。


$小説 『音の風景』
ドア

地下鉄のない街97 春日井先生

 体中をある周期で激痛が襲う。

 僕は激痛に耐えかねて叫び声をあげる。

 血の気が失せ、すっかり他人のように冷たくなった僕の手をしっかり握りしめてくれるのは、あの姉さんの温かい手だ。

 姉さんはもう片方の手でベッド脇のナースコールのボタンを押す。

 看護婦が素早く慣れた手つきで僕の腕の袖をまくり、いつもの注射を打つ。かなり強い薬物効果を持った強力な鎮静剤だ。この麻酔は過去の海馬を掘り起こし、忘れかけていた、封じ込めようとしていた僕の記憶を少しずつ外側に掻き出す作用があった。

 




 激痛が襲う前触れはいつもあの電車の警笛とともにやってくる。

 深い眠りの底から

 深い夢の中から

 音は確かに大きくなってきた

 そして確かになってきた

 金属のこすれる音がする

 今度は金属のこすれる複数の音が反響する

 踏切に向かう電車の車輪の音だ。








 そうだ…今日は覚醒前の意識がさらに過去に遡っているようだ。





 僕はあの陸上競技会の後腑抜けのようになっていた。

 そこに西村から電話があったんだ。

『皆川くんが踏切自殺した』と…

 僕は自分の罪の重さに耐えられなかった。そして耐えてこの先何十年も生きていくことなどできそうもなかった。たとえ僕が競技会で皆川くんに仕組んだ企みが、西村にビデオテープを手に脅されて姉さんと僕との秘密を守ることだったにせよ。


 僕は「皆川君の踏切自殺」という西村の言葉を聞いて、以前トニーと一緒についたての奥で聞いた、木島先生と春日井先生の高校の同級生、踏切自殺した青田くんという生徒のことをぼんやり思い出していた。

 僕はあの青田君の話を聞いた後春日井先生に聞いて、まるで青田君に呼ばれるようにその踏切を見に行ったことがある。
 僕の住んでいる家から千鳥ヶ淵公園を抜けて、ニコライ聖堂を横切り、御茶ノ水駅の跨線橋越えてはるか湯島天神の方まで歩いていくと、その踏切はあった。

 僕は姉さんにも黙って、時々そこに行った。青田君という見知らぬ青年のことを想像しながら。自分が抱えている日々のどうしようもなさを重ね合わせるように。



 あの日僕は気がつくとその踏切を前に佇んでいた。

 気がつくと踏切の向こう側に学生服を着た高校生がいた。

 青田君の幽霊?

 人懐こい笑顔で僕に手招きをした。

 そうか…。

 やっぱりもうそれしかないか。



 姉さんのこと…。

 ここでまた姉さんに甘えるわけにはいかない。

 それじゃまた同じことの繰り返しだ。

 僕のつけていた日記を見れば、姉さんは全てを理解してくれれはずだ。




 僕は青田君の手招きに応じた。

 
 


 遠くからの電車の音がかすかにリズムを刻みはじめた

 リズムは心臓の鼓動のようだった

 どこか眠気を誘うようなの馬蹄のリズミカルな躍動感のある音

 金属音に警笛の音が混じった

 低い音は最初どこかのどかにも聞こえた

 絵本で見た蒸気機関車が鳴らすような悠々とした音だった

 何度も警笛がなるうちに、それは焦燥の色を帯びてきた

 そして狂ったように連続して警笛は鳴った

 発狂しそうになっている運転士の引きつった顔が見える

 音はいつしか耳をつんざくような高音になっていた

 調弦の狂った弦楽器に音程を外した管楽器の音が混じり合い、ティンパニーは力の限りデタラメに殴打された。

……





 救急車で病院に搬入された僕は一命を取り留めた。

 しかし全身麻酔が醒めず長い間、16歳の時から夢の中にいたらしい。ベッドの上で12年間が経ち今僕は38歳ということになる。



 植物人間の状態でも、人間の体は病魔に侵されるものだと僕は初めて知った。

 僕の体は深い眠りに落ちたまま、静かに癌細胞に侵されていったのだ。

 運命のいたずらで、その激痛が僕の肉体を覚醒させた。もがき苦しむ中で身体がこの世界にまた戻ってきた。

 そして痛み止めの劇薬が今度は過去の精神を覚醒させた。




 僕の激痛はおさまり、看護婦が僕に笑いかける。

 同時に踏切のあの戦場のような喧騒もすぅっと消える。

 しばらくこの状態が持続する。

 薬の効き目がきれる頃に、僕はまた深い眠りに落ちるのだ。




 看護婦と入れ替わりに、長身の医師が部屋に入ってくる。

 僕の主治医だ。まだ若いが柔和で滋味のある顔つきと落ち着いた物腰を身につけている。それなりの人生経験にさらされ、逃げずにそこから何かを掴み取るということを辛抱強く誠実に繰り返してきた人間だけがもつ確かな雰囲気が病室の空気に溶け込む。

 まだ高校生の頃家出をして、そのまま両親と一人の姉とは別々に暮らし、医師の国家試験に受かった後も、ごく最近までずっと家族の元には帰らなかったらしい。



 姉さんが会釈をする。ねえさんも僕と同じようにこの医師を信頼しきっている。




「目を醒まされましたか」

 医師は僕に微笑みかける。医師の手には分厚い僕専用のカルテがある。

「記録の方、またずいぶん進みましたよ。このまま記憶が完全に戻れば、あるいはあの覚醒作用を持つ薬品を使わなくても、こうして夢から醒めた状態が持続できるかもしれませんね」

 医師はベッドの横のパイプ椅子に腰をおろし、分厚いカルテを眺めながら満足そうにそう言った。

「ありがとうございます。でもこうして覚醒することが本当にいいことなのかどうかは、僕には何とも…」

 医師はそんなネガティブな僕の言葉を否定したりたしなめたりといったおざなりな反応は示さず、ただ医師のモラルを逸脱しない範囲で慎ましく肯定的にうなずくのが常だった。

「医師の私がいうのも良くないのかもしれませんが、お気持ちはわからなくもありません。しかしここに書き記されてあるように、眠りの中うわ言のあなたと会話した人たちは、みんなはっきりと最後に『ありがとう、健太郎、ありがとう君島君』と書いていますよ」


「はい。ありがとうございます」僕はカルテの表紙を見ながらそう言った。

 姉さんが横で何度も頷いている。


 僕は短い覚醒時間の間に読んでおかねばならないそのカルテを医師から受け取った。







■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
患者口述記録『地下鉄のない街』
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






患者氏名 君島健太郎
患者番号 19710528
■□■□■□■□■□■□■□■□■


 僕のカルテには表紙にそう書かれている。いつものように医師はドイツ語で記入する自分用のカルテの部分をクリアフォルダに残し、僕の閲覧部分のファイルを姉さんに渡した。






「春日井先生、そろそろ次の患者さんの巡回のお時間です」

 僕にいつも麻酔を打ってくれる看護婦が廊下からドアを少し開けて医師の名を呼んだ。

「は~い。分かりました。今行きます」

 春日井先生はバツの悪そうな顔で僕と姉さんに目を向けてはにかんだように微笑んだ。

 僕はこの医師のこの笑顔が好きだ。僕のよく知っているあの笑い方だ。




「姉弟はやっぱり似てるね」

 姉さんは僕の心を読み取ってそうつぶやいた。

「ああ。ポニーテールは似合わなそうだけど」

 僕のつまらない冗談に姉さんがくくっと口元をおさえた。

地下鉄のない街99 過去の変容

「昏睡に入りました」

「ああ、そのようですね」

 話し声が聞こえる。僕は眠っているのか。




「春日井先生、健太郎は<夢>を見ているのではないということでしたよね」

「そうだね。そうでないと説明がつかないことが多すぎる」

「健太郎は私がこの遠眼鏡を持っていることを知りませんでした」

「そう。健太郎君の記憶にないことだ。それが荒唐無稽なデタラメでないならば、記憶にないことは夢に見ることもできないだろう。それが一般的な考え方だ。」

「それに、病室に来てくれた父と母に確かめましたけど、健太郎がうわ言で語っていたビデオテープに関する二人の会話は本当に正確そのもので、二人とも自分たちが忘れていた細部まで健太郎のうわ言で思い出したと言っていました」

「そうだね。それは僕の姉、春日井恭子もそう言っていた」

「そして私自身もそうです。私を含めてみんな健太郎のうわ言に、自分の当時の言葉を思い出して言葉をつないでいきました。私の言葉に反応してまた健太郎が次の言葉をしゃべる。その時はまるで私自身が健太郎と一緒に過去に引きずり決まれているような、過去そのものを体験しているような感覚でした」

「それは僕自身もそうですね。僕が彼のうわ言の中に登場して、自分自身の過去を思い出しながら、そう、姉を突き飛ばしてそのまま失踪した健太郎くんが姉から聞いたエピソードを語ってくれている時は、その場面を思い出したというよりもその場所にいたような感覚だったことを今でも覚えています」

「それに私と健太郎が出会ったきっかけになっていたインターネットチャット。健太郎が昏睡状態に入ったあの当時にはインターネットなんてありませんでした」

「その通りです。記憶を夢の中で再現しているというのならば、彼はいわば未来の世界すら記憶しているということになる」

「未来の記憶…」




 僕は今ベッドに横たわっている。そして不思議なことに僕は二人に話をはっきりと聞くことができた。二人は話を続けた。




「SFみたいなお話ですけど、やっぱりこれは…」

「<夢>とは別の外部との行き来。自分が医者であることをそっくり棚上げして言うならば、タイムトラベルのようなことが起きている、としか思えないです」

「そんなことってあるのでしょうか」

「うん。確かに健太郎くん一人が過去の世界に、という場合にはもしかしたらどこかで見聞きして自分でも忘れていたことが夢の中で想起されたと考えられるかもしれない。強引に常識的な感覚に当てはめれば、あなたの遠眼鏡もお父さんとお母さんの話も、健太郎くんが実はどこかで見聞きしていて、本人もそのことを忘れていた。ところがあるきっかけでそれが記憶の表に浮上してきたということになりますね」

「でも、それでもおかしなことがあります。だって…」




 二人の会話が途切れた。二人とも同じことを考えて言葉が出てこないということのようだった。




「だって、私たち全員の記憶の中に、いえ、事実としてこの世にいないはずの…」

「そう、いなかったはずの…皆川達也くんは生きている」







「健太郎の昏睡中にこの病室に…」

「何度も健太郎君のお見舞いに来てくれているね」





 僕は皆川くんの声を確かに何度も聞いた。

 そうか、あれは今二人の話を聞いているような感じで実際の皆川くんの声を聞いていたのか。

 生きていたのか、皆川君…。
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
0
  • 0円
  • ダウンロード

95 / 133

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント