地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街97 春日井先生

 体中をある周期で激痛が襲う。

 僕は激痛に耐えかねて叫び声をあげる。

 血の気が失せ、すっかり他人のように冷たくなった僕の手をしっかり握りしめてくれるのは、あの姉さんの温かい手だ。

 姉さんはもう片方の手でベッド脇のナースコールのボタンを押す。

 看護婦が素早く慣れた手つきで僕の腕の袖をまくり、いつもの注射を打つ。かなり強い薬物効果を持った強力な鎮静剤だ。この麻酔は過去の海馬を掘り起こし、忘れかけていた、封じ込めようとしていた僕の記憶を少しずつ外側に掻き出す作用があった。

 




 激痛が襲う前触れはいつもあの電車の警笛とともにやってくる。

 深い眠りの底から

 深い夢の中から

 音は確かに大きくなってきた

 そして確かになってきた

 金属のこすれる音がする

 今度は金属のこすれる複数の音が反響する

 踏切に向かう電車の車輪の音だ。








 そうだ…今日は覚醒前の意識がさらに過去に遡っているようだ。





 僕はあの陸上競技会の後腑抜けのようになっていた。

 そこに西村から電話があったんだ。

『皆川くんが踏切自殺した』と…

 僕は自分の罪の重さに耐えられなかった。そして耐えてこの先何十年も生きていくことなどできそうもなかった。たとえ僕が競技会で皆川くんに仕組んだ企みが、西村にビデオテープを手に脅されて姉さんと僕との秘密を守ることだったにせよ。


 僕は「皆川君の踏切自殺」という西村の言葉を聞いて、以前トニーと一緒についたての奥で聞いた、木島先生と春日井先生の高校の同級生、踏切自殺した青田くんという生徒のことをぼんやり思い出していた。

 僕はあの青田君の話を聞いた後春日井先生に聞いて、まるで青田君に呼ばれるようにその踏切を見に行ったことがある。
 僕の住んでいる家から千鳥ヶ淵公園を抜けて、ニコライ聖堂を横切り、御茶ノ水駅の跨線橋越えてはるか湯島天神の方まで歩いていくと、その踏切はあった。

 僕は姉さんにも黙って、時々そこに行った。青田君という見知らぬ青年のことを想像しながら。自分が抱えている日々のどうしようもなさを重ね合わせるように。



 あの日僕は気がつくとその踏切を前に佇んでいた。

 気がつくと踏切の向こう側に学生服を着た高校生がいた。

 青田君の幽霊?

 人懐こい笑顔で僕に手招きをした。

 そうか…。

 やっぱりもうそれしかないか。



 姉さんのこと…。

 ここでまた姉さんに甘えるわけにはいかない。

 それじゃまた同じことの繰り返しだ。

 僕のつけていた日記を見れば、姉さんは全てを理解してくれれはずだ。




 僕は青田君の手招きに応じた。

 
 


 遠くからの電車の音がかすかにリズムを刻みはじめた

 リズムは心臓の鼓動のようだった

 どこか眠気を誘うようなの馬蹄のリズミカルな躍動感のある音

 金属音に警笛の音が混じった

 低い音は最初どこかのどかにも聞こえた

 絵本で見た蒸気機関車が鳴らすような悠々とした音だった

 何度も警笛がなるうちに、それは焦燥の色を帯びてきた

 そして狂ったように連続して警笛は鳴った

 発狂しそうになっている運転士の引きつった顔が見える

 音はいつしか耳をつんざくような高音になっていた

 調弦の狂った弦楽器に音程を外した管楽器の音が混じり合い、ティンパニーは力の限りデタラメに殴打された。

……





 救急車で病院に搬入された僕は一命を取り留めた。

 しかし全身麻酔が醒めず長い間、16歳の時から夢の中にいたらしい。ベッドの上で12年間が経ち今僕は38歳ということになる。



 植物人間の状態でも、人間の体は病魔に侵されるものだと僕は初めて知った。

 僕の体は深い眠りに落ちたまま、静かに癌細胞に侵されていったのだ。

 運命のいたずらで、その激痛が僕の肉体を覚醒させた。もがき苦しむ中で身体がこの世界にまた戻ってきた。

 そして痛み止めの劇薬が今度は過去の精神を覚醒させた。




 僕の激痛はおさまり、看護婦が僕に笑いかける。

 同時に踏切のあの戦場のような喧騒もすぅっと消える。

 しばらくこの状態が持続する。

 薬の効き目がきれる頃に、僕はまた深い眠りに落ちるのだ。




 看護婦と入れ替わりに、長身の医師が部屋に入ってくる。

 僕の主治医だ。まだ若いが柔和で滋味のある顔つきと落ち着いた物腰を身につけている。それなりの人生経験にさらされ、逃げずにそこから何かを掴み取るということを辛抱強く誠実に繰り返してきた人間だけがもつ確かな雰囲気が病室の空気に溶け込む。

 まだ高校生の頃家出をして、そのまま両親と一人の姉とは別々に暮らし、医師の国家試験に受かった後も、ごく最近までずっと家族の元には帰らなかったらしい。



 姉さんが会釈をする。ねえさんも僕と同じようにこの医師を信頼しきっている。




「目を醒まされましたか」

 医師は僕に微笑みかける。医師の手には分厚い僕専用のカルテがある。

「記録の方、またずいぶん進みましたよ。このまま記憶が完全に戻れば、あるいはあの覚醒作用を持つ薬品を使わなくても、こうして夢から醒めた状態が持続できるかもしれませんね」

 医師はベッドの横のパイプ椅子に腰をおろし、分厚いカルテを眺めながら満足そうにそう言った。

「ありがとうございます。でもこうして覚醒することが本当にいいことなのかどうかは、僕には何とも…」

 医師はそんなネガティブな僕の言葉を否定したりたしなめたりといったおざなりな反応は示さず、ただ医師のモラルを逸脱しない範囲で慎ましく肯定的にうなずくのが常だった。

「医師の私がいうのも良くないのかもしれませんが、お気持ちはわからなくもありません。しかしここに書き記されてあるように、眠りの中うわ言のあなたと会話した人たちは、みんなはっきりと最後に『ありがとう、健太郎、ありがとう君島君』と書いていますよ」


「はい。ありがとうございます」僕はカルテの表紙を見ながらそう言った。

 姉さんが横で何度も頷いている。


 僕は短い覚醒時間の間に読んでおかねばならないそのカルテを医師から受け取った。







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患者口述記録『地下鉄のない街』
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患者氏名 君島健太郎
患者番号 19710528
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 僕のカルテには表紙にそう書かれている。いつものように医師はドイツ語で記入する自分用のカルテの部分をクリアフォルダに残し、僕の閲覧部分のファイルを姉さんに渡した。






「春日井先生、そろそろ次の患者さんの巡回のお時間です」

 僕にいつも麻酔を打ってくれる看護婦が廊下からドアを少し開けて医師の名を呼んだ。

「は~い。分かりました。今行きます」

 春日井先生はバツの悪そうな顔で僕と姉さんに目を向けてはにかんだように微笑んだ。

 僕はこの医師のこの笑顔が好きだ。僕のよく知っているあの笑い方だ。




「姉弟はやっぱり似てるね」

 姉さんは僕の心を読み取ってそうつぶやいた。

「ああ。ポニーテールは似合わなそうだけど」

 僕のつまらない冗談に姉さんがくくっと口元をおさえた。

地下鉄のない街99 過去の変容

「昏睡に入りました」

「ああ、そのようですね」

 話し声が聞こえる。僕は眠っているのか。




「春日井先生、健太郎は<夢>を見ているのではないということでしたよね」

「そうだね。そうでないと説明がつかないことが多すぎる」

「健太郎は私がこの遠眼鏡を持っていることを知りませんでした」

「そう。健太郎君の記憶にないことだ。それが荒唐無稽なデタラメでないならば、記憶にないことは夢に見ることもできないだろう。それが一般的な考え方だ。」

「それに、病室に来てくれた父と母に確かめましたけど、健太郎がうわ言で語っていたビデオテープに関する二人の会話は本当に正確そのもので、二人とも自分たちが忘れていた細部まで健太郎のうわ言で思い出したと言っていました」

「そうだね。それは僕の姉、春日井恭子もそう言っていた」

「そして私自身もそうです。私を含めてみんな健太郎のうわ言に、自分の当時の言葉を思い出して言葉をつないでいきました。私の言葉に反応してまた健太郎が次の言葉をしゃべる。その時はまるで私自身が健太郎と一緒に過去に引きずり決まれているような、過去そのものを体験しているような感覚でした」

「それは僕自身もそうですね。僕が彼のうわ言の中に登場して、自分自身の過去を思い出しながら、そう、姉を突き飛ばしてそのまま失踪した健太郎くんが姉から聞いたエピソードを語ってくれている時は、その場面を思い出したというよりもその場所にいたような感覚だったことを今でも覚えています」

「それに私と健太郎が出会ったきっかけになっていたインターネットチャット。健太郎が昏睡状態に入ったあの当時にはインターネットなんてありませんでした」

「その通りです。記憶を夢の中で再現しているというのならば、彼はいわば未来の世界すら記憶しているということになる」

「未来の記憶…」




 僕は今ベッドに横たわっている。そして不思議なことに僕は二人に話をはっきりと聞くことができた。二人は話を続けた。




「SFみたいなお話ですけど、やっぱりこれは…」

「<夢>とは別の外部との行き来。自分が医者であることをそっくり棚上げして言うならば、タイムトラベルのようなことが起きている、としか思えないです」

「そんなことってあるのでしょうか」

「うん。確かに健太郎くん一人が過去の世界に、という場合にはもしかしたらどこかで見聞きして自分でも忘れていたことが夢の中で想起されたと考えられるかもしれない。強引に常識的な感覚に当てはめれば、あなたの遠眼鏡もお父さんとお母さんの話も、健太郎くんが実はどこかで見聞きしていて、本人もそのことを忘れていた。ところがあるきっかけでそれが記憶の表に浮上してきたということになりますね」

「でも、それでもおかしなことがあります。だって…」




 二人の会話が途切れた。二人とも同じことを考えて言葉が出てこないということのようだった。




「だって、私たち全員の記憶の中に、いえ、事実としてこの世にいないはずの…」

「そう、いなかったはずの…皆川達也くんは生きている」







「健太郎の昏睡中にこの病室に…」

「何度も健太郎君のお見舞いに来てくれているね」





 僕は皆川くんの声を確かに何度も聞いた。

 そうか、あれは今二人の話を聞いているような感じで実際の皆川くんの声を聞いていたのか。

 生きていたのか、皆川君…。

地下鉄のない街100 すべてを赦す者?

「先生はこのことをどうお考えですか」

 眠りに落ちながら意識は覚醒している。姉さんと春日井先生の弟さん、僕の主治医としての春日井久仁彦先生の声がする。このこと…このパラレルワールドのようなタイムトラベルのような時空の体験のことか。

「ええ。私はそのことについては健太郎さんの口述筆記のこの部分に関心があります」

 ファイルをめくる音がする。

「『地下鉄のない街』のこの部分です」

「拝見します」姉さんがファイルを受け取って読み始めたようだ。部屋に中は再び沈黙に包まれた。







昭和XX年 XX月 XX日 ファイル64 君島健太郎口述部分

 あれは本当に僕だったんだろうか。もし僕だったとするならば、21年前の僕が38歳の僕を見たという記憶があるはずだ。しかし16歳の時の僕にそんな記憶はない。
 皆川君が西村にいろんな嫌がらせを受けた中に、確かに保健室前でキレた西村に殴られて血まみれになったということはあった。校内放送で呼ばれた僕は確かに保健室に急いだ。その記憶は確かだった。

 姉さんが消えてしまったことはどう解釈すればいいのだろう。僕が疲れきった38歳のサラリーマンを生きる世界から今のこの世界にきた時も、遠眼鏡で姉さんの部屋を一緒に覗いて自分たちが育った家に空間移動した時も姉さんは消滅したりしなかった。

 今回は16歳の僕自身が現れ、その僕がおそらく僕自身を見て驚愕したという事実が今までとは違っている。今までは言ってみれば僕たちは観客席から侵犯のできない舞台を眺めていたのだった。
 だから高校生の僕が今の僕、今の僕と言っても姿形は姉さんの一つしたの高校生になっているわけだけど、その僕を見て驚いたというのは自分と全く同じ存在を舞台から見て、役者が舞台上で驚いてしまったという劇の進行に致命的な影響を与えてしまったということになる。

 もし実際の舞台で、役者が実人生で子供の頃に生き別れた自分の母親を見つけたと仮定しよう。その役者は自分が舞台の中で一人の役を演じていることを思わず忘れてしまって、「お母さん!」と叫んでしまったとしよう。舞台はめちゃくちゃになり、取りあえず劇は中断して、騒ぎ出した観客席は舞台の上からおりてきた緞帳で舞台から遮断される。

 そうだ、舞台の上と観客席は「お母さん!」という叫び声によって接続されてはいけないのだ。さっきそれが起きたのだ。僕は向こう側の世界の僕に発見されてしまった。16歳の僕は「あ、もう一人の君島健太郎だ!」と叫びそうになった。そこで舞台の緞帳のようなものが、時空の混乱を防ぐための緊急の安全装置のように作動し、僕は観客席の側に隔離された。もともとこちら側の住人だった姉さんは、そうすると緞帳の向こう側にいるということになる。

 自分を落ち着かせようとここまで考えてきて、僕は確かに少し落ち着いてきた。しかし今度は混乱に替わって深い恐怖心がざわざわと僕に取り憑いた。

 姉さんにもう一度会えるんだろうか。

 この暗闇の中で僕は生きて行くんだろうか。

 16歳の僕は向こう側の世界で生きており、かといって38歳のもともとの僕の世界にも戻らなかった僕はいったい何なのだろう。おそらく38歳の僕は今のこの僕が戻ることなく、その生活を続けているのだろう。

 じゃあ、この僕はいったいなんなんだ。この真っ暗な世界では、僕という存在はただ、「僕」という意識、記憶だけだった。


『地下鉄のない街』 http://amba.to/VbFUNx






「健太郎が、自分の見た世界を舞台と言っていますね」

 ファイルがめくられるめくる音の中に姉さんの声が混じる。

「ええ。私は健太郎さんのこの証言の部分に一見非現実的なタイムトラベル体験の真相が隠されていると思うんです」

「真相…?ですか…」

「ええ。私は精神科医としていわゆるタイムマシンの話とタイムトラベルの話はまったく別物だと考えているんです。」

「とおっしゃいますと…」

 春日井久仁彦先生が僕の枕元から離れる気配がして、パイプ椅子を組むカチャカチャという音がした後、そこにギシッと腰掛ける音がした。



「タイムマシンというと重力や量子の世界を突き抜けて、我々がまったく別の世界にこの体ごと移動するという暗黙の理解がありますよね」

「そうですね。私はそうしたSF小説というのはまったく知らないのですけど、卑近な話で申し訳ありませんが、ドラえもんに出てくるタイムマシンみたいなのは、その中に人が乗って未来に移動するというシーンがあったように思います。確かのび太くんの部屋の勉強机の引き出しがタイムマシンの入り口でしたっけ」

「そうですね。あれはまさに今言ったタイムマシンなんです」



 姉さんの話に春日井久仁彦先生が笑い声を交えながら応える。いい大人が病室でドラえもん話とは確かに照れ臭い光景かもしれなかった。

「しかし、あの話とはまったく別の仕方で時間旅行を論じることが可能なんですよ」

「…。宇宙船に乗ってとか?すいません、そんなお話じゃないですよね」

 姉さんの笑い声がする。久仁彦先生もかすかに笑い返す。

「いえ、それもまあ言ってみればのび太の孫のセワシ君が未来から乗ってきたタイムマシンと同じですね。いわばスイッチを入れるとタイムマシンが私たちを未来や過去に連れて行ってくれる。でもそうじゃなくて、スイッチを入れると過去の世界が目の前に復元されるという体験も考えられるでしょう」

「復元…ですか?」

「ええ。この健太郎さんの最後の部分なんですがこうあります。『 じゃあ、この僕はいったいなんなんだ。この真っ暗な世界では、僕という存在はただ、「僕」という意識、記憶だけだった。』」

「どう解釈すればいいのでしょう」

「例えばこういうことです。私たちがある一枚の思いで深い色あせた写真から、時の経つのを忘れるほどありありと、ある過去の出来事を想起することができますよね」

「そのお話ならわかります。私がこの病室に来て健太郎の話を書き取っている時には、健太郎の口から出てくる言葉の片言隻句から私は過去そのものを体験したような感じになっていましたから」

「そうですね。それがまさに、過去に身体を移動するタイムマシンと、過去を再体験するタイムトラベルとの違いです」

「あ、なるほど…。でもそれはどれだけリアルでも想像の世界のお話に過ぎないのじゃありませんか?」

 姉さんはもっともな疑問を久仁彦先生に投げかけた。




「ところがそうとも言い切れないんです。過去の再現装置、ある日本の高名なSF作家がそれを「パストビジョン(Past Vision)」と名付けているんですが、これは今日科学的議論の対象として認識されています。過去そのものを現在に再現できるのならば、その過去に手を加えることも可能でしょう」

「その過去の改変ってこの回想にあるような…」

「そう、健太郎さんはこんなことを言っている。『 もし実際の舞台で、役者が実人生で子供の頃に生き別れた自分の母親を見つけたと仮定しよう。その役者は自分が舞台の中で一人の役を演じていることを思わず忘れてしまって、「お母さん!」と叫んでしまったとしよう。舞台はめちゃくちゃになり、取りあえず劇は中断して、騒ぎ出した観客席は舞台の上からおりてきた緞帳で舞台から遮断される。』」

「それが…」

「おそらくパストビジョン的なタイムトラベルをした健太郎さんが本能的に感じた過去改変への恐怖心でしょう。」

「そういうことなんですか…」

 僕は意外な展開に身体は眠った状態であったけれど必死に意識を集中し二人の会話に耳を凝らした。

「じゃあ、健太郎は寸前のところでこの舞台の役者に声をかけそうになったんですね」

「違います。すでにたくさんかけまくっているというのが私の見解です。亡くなったはずの皆川くんが生きているという事実がそれを物語っています」

「それじゃ…」




「はい。この『地下鉄のない街』というファイルを作ること、つまり私もお姉さんも含めてこのファイルを作っている人、そしてこの『地下鉄のない街』という小説のような不思議な回顧録をこうして今読んでいる<我•々•は•全•員>過去の改変を行っているのです」




「この『地下鉄のない街』という小説のようなものを読んでいる全員が過去の改変を…?」

「そうですね。いつかこれが学会に発表されたり、単行本として一般向けに書籍化されたり、あるいはインターネット上のブログで公開されるなどしてして我々以外の読者がこれを読んだ場合…」

「そのブログを読んでいる読者は…」




 病室が異空間に包まれたような感覚がした。

「この『地下鉄のない街』という物語を通じて私たちこの中に書かれている登場人物の過去を改変することに参加する…?」

「そういうことになります」






 僕は千鳥ヶ淵公園の異空間に紛れ込んだあたりから感じていた、この不可思議な時空間がいつも誰かに優しい目で観られているような感覚を思い出していた。それを観る人もそれぞれにそれぞれの人生を精一杯生きる中で、僕たちの阿鼻叫喚の中の人生を優しく見つめる眼。






『観ることは赦すことだ』

 皆川くんが何度も口にしたあの言葉。

 僕はこの時はっきりと、そして多分姉さんも春日井久仁彦先生もこの『地下鉄のない街』という物語を読んでいる、それぞれにそうしか生きられなかった、でも精一杯その生と格闘した『地下鉄のない街』登場人物の全員を赦すような、限りなく優しい読者の視線をありありと感じたのだった。

地下鉄のない街102 過去の競技会の顛末

 また新しい夢?いや、春日井正幸先生の言うように過去そのものなのか?







「退院おめでとう。と言っても病院に送り込んだ張本人がそういうのも変だけどな」

 西村は病室で退院の荷造りをしている皆川君の耳にそっと耳打ちしてニヤッと笑った。皆川君はうるさそうにそれを手で追い払った。

 皆川君のお母さんらしい人が先生や看護婦さんに頭を深く下げて廊下まで見送ったあと、病室のドアを閉めて部屋に入ってきた。西村にも頭を下げようとするのを皆川君が制した。お母さんはこの西村が息子を入院させた張本人だとは知らされていないらしかった。



「すみませんねえ。退院の日まで来ていただいて」

「いえ、とんでもありません。皆川君にはいつも陸上部でお世話になっていますから」

 お母さんの声に西村はかぶりを振って応えた。実情を知っている僕はこの光景に吐き気を催したがお母さんはそれに気がつく様子もない。



「母さん、ちょっと西村先輩と話があるから悪いけど先に一階のロビーで待っててくれないかな」

 お母さんは一瞬二人の顔の様子を見比べたようだったがすぐに頷いて、西村に軽く会釈すると病室を出て行った



 二人きりになると西村は話し始めた。

「言っとくけど、春日井先生は皆川のいる世界には戻ってこないよ」

 西村はこともなげにそう言った。

「何でお前にそんなことわかるんだ」

 気色ばむ皆川君は西村を睨みつけて言った。

「顧問の木島と同棲しちゃってる佐藤さんのことお前事情知らなかったよな」

「ええ」

 西村は勝ち誇ったように笑った。




「簡単にいうとこういうことさ。今回の競技会と同じように前回も神崎さんの記録を破らないようにすべく俺はいろんな根回しをしていた。皆川と同じように、その時も記録にこだわるアホがいたんだよ。それが当時佐藤さんと付き合っていた何某さんだ。何某さんは誰かさんのように真剣に悩んださ。そして付き合ってる佐藤さんにももちろん相談した。」

 皆川君は少し顔を歪めながら黙って聞いていた。



「部のマネージャーだった佐藤さんはうちの学校の陸上部の特殊性、つまり理事長の息子の神崎さんの記録は誰も破っちゃいけないという不文律で行く上部がうまく回っていることは熟知していたからね。最後の最後に八百長をやれっていう俺の指示に賛成に回ることになったんだ」

「結局佐藤先輩と一緒に退学したと聞いてるけど、その先輩は…」皆川くんの表情にはすこし苛立ちが見えた。

「うん。ややこしい美人の保健室の先生というのがいてね」

「…」

「その先生といろんな相談をしているうちに、何某先輩は佐藤さんよりもその保健室の先生と仲良くなってね」

「…」

「結局神崎さんを抜く記録をたてそうになったんだけど…」

 西村は皆川くんの表情を舐めるようにして観察しながら話を続けた。





「けど…?」

「保健室の美人先生と半同棲生活になっちゃってるところを学校にチクったやつがいてね。あえなく退学さ。佐藤さんは学校から勧告されたわけじゃないけど結局自主退学ってわけ」

 そこまでやるのか、西村さん…。僕は怒りを覚えた。その思いは皆川君も同じようだった。





「おっと、睨まないでくれよ。チクったのは俺じゃない」

「誰が?」

「今佐藤さんと同棲している顧問の木島さ」





 僕はタイムトラベルの中で姉さんと二人で見た、木島と暮らす佐藤先輩の様子を思い出した。ドア
ゆっきー
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