地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街102 過去の競技会の顛末

 また新しい夢?いや、春日井正幸先生の言うように過去そのものなのか?







「退院おめでとう。と言っても病院に送り込んだ張本人がそういうのも変だけどな」

 西村は病室で退院の荷造りをしている皆川君の耳にそっと耳打ちしてニヤッと笑った。皆川君はうるさそうにそれを手で追い払った。

 皆川君のお母さんらしい人が先生や看護婦さんに頭を深く下げて廊下まで見送ったあと、病室のドアを閉めて部屋に入ってきた。西村にも頭を下げようとするのを皆川君が制した。お母さんはこの西村が息子を入院させた張本人だとは知らされていないらしかった。



「すみませんねえ。退院の日まで来ていただいて」

「いえ、とんでもありません。皆川君にはいつも陸上部でお世話になっていますから」

 お母さんの声に西村はかぶりを振って応えた。実情を知っている僕はこの光景に吐き気を催したがお母さんはそれに気がつく様子もない。



「母さん、ちょっと西村先輩と話があるから悪いけど先に一階のロビーで待っててくれないかな」

 お母さんは一瞬二人の顔の様子を見比べたようだったがすぐに頷いて、西村に軽く会釈すると病室を出て行った



 二人きりになると西村は話し始めた。

「言っとくけど、春日井先生は皆川のいる世界には戻ってこないよ」

 西村はこともなげにそう言った。

「何でお前にそんなことわかるんだ」

 気色ばむ皆川君は西村を睨みつけて言った。

「顧問の木島と同棲しちゃってる佐藤さんのことお前事情知らなかったよな」

「ええ」

 西村は勝ち誇ったように笑った。




「簡単にいうとこういうことさ。今回の競技会と同じように前回も神崎さんの記録を破らないようにすべく俺はいろんな根回しをしていた。皆川と同じように、その時も記録にこだわるアホがいたんだよ。それが当時佐藤さんと付き合っていた何某さんだ。何某さんは誰かさんのように真剣に悩んださ。そして付き合ってる佐藤さんにももちろん相談した。」

 皆川君は少し顔を歪めながら黙って聞いていた。



「部のマネージャーだった佐藤さんはうちの学校の陸上部の特殊性、つまり理事長の息子の神崎さんの記録は誰も破っちゃいけないという不文律で行く上部がうまく回っていることは熟知していたからね。最後の最後に八百長をやれっていう俺の指示に賛成に回ることになったんだ」

「結局佐藤先輩と一緒に退学したと聞いてるけど、その先輩は…」皆川くんの表情にはすこし苛立ちが見えた。

「うん。ややこしい美人の保健室の先生というのがいてね」

「…」

「その先生といろんな相談をしているうちに、何某先輩は佐藤さんよりもその保健室の先生と仲良くなってね」

「…」

「結局神崎さんを抜く記録をたてそうになったんだけど…」

 西村は皆川くんの表情を舐めるようにして観察しながら話を続けた。





「けど…?」

「保健室の美人先生と半同棲生活になっちゃってるところを学校にチクったやつがいてね。あえなく退学さ。佐藤さんは学校から勧告されたわけじゃないけど結局自主退学ってわけ」

 そこまでやるのか、西村さん…。僕は怒りを覚えた。その思いは皆川君も同じようだった。





「おっと、睨まないでくれよ。チクったのは俺じゃない」

「誰が?」

「今佐藤さんと同棲している顧問の木島さ」





 僕はタイムトラベルの中で姉さんと二人で見た、木島と暮らす佐藤先輩の様子を思い出した。ドア

地下鉄のない街98 物語の中の自分

「いろんな夢を見たよ、姉さん」

 僕は自分の顎に手をやりながらそう言った。無精髭などはなく、ほんのわずかに剃り残しの髭が手のひらにざらっとした感触を残した。多分姉さんが毎朝僕が寝ている間に剃ってくれているのだろう。ただ、僕はずいぶん痩せたようだ。この部屋には鏡がないのだけどそれも多分姉さんの配慮だ。正直言って鏡を見る勇気は今の僕にはなかった。

「どんな夢を見たの?」

「長い長い夢さ。覚えている夢の始まりは、会社員になった僕が会社から会計事務所を訪ねるところだった。そこで僕は若い頃の父さんに会ったんだ」

 病院の窓の外に蝉の鳴き声が聞こえた気がした。二十年近くも長い間地中に眠っていて夢から覚めるようにこの世界に来て夏の終わりまで鳴き声をあげる。僕に似ているような気がした。

 僕は父さんと会ったことや、まだ姉さんとは知らないで姉さんとチャットをやっていたこと、夢の中でもう一度タイムスリップして高校時代の僕やトニー皆川君、春日井先生や木島先生、西村さんたち陸上部の連中たちとの出来事を姉さんに物語った。

「とにかく長い夢だった」

 話し終わった僕は、あの夢の意味が分からぬままに困惑の顔で姉さんを見た。姉さんはもちろん歳を重ねていたけれど、あの高校生の時の面影そのままの笑顔で頷いた。

「健太郎、今の話はね、夢じゃないのよ」

 僕は一瞬聞き違えたかと思ったけれど、姉さんは確かにそう言ったようだった。





「え?確かに夢とは思えないほどリアルだったけど、僕の脳の中の出来事には変わりないでしょ」

 姉さんは優しく、でも断固とした様子で首を振った。

「あれは夢じゃなくて現実そのものよ。あたしもあなたと一緒に神田の街を歩いて千鳥ヶ淵公園をお散歩したわ」姉さんは訴えかけるようにそう言った。

「でもそれは…」

「これ、見て」

 姉さんは立ち上がると、窓際の棚においてある自分のハンドバッグの中から何かを持ってきた。






「これは…」

 僕は息を飲んだ。それは夢の中で僕と姉さんがホテルの窓から覗いた遠眼鏡だった。

「一体どういうことなんだい」

「そう。あれが夢だったらこんなものはここにないわ」

「じゃあ、いったい…」

「私たちはみんな現実をもう一回生き直してるのよ。あなたの不思議な力で」

「どういう意味なの?」

「まだ結末はわからないわ」

 姉さんはそう言って『地下鉄のない街』のファイルをめくった。ファイルはこの間の夢、いや姉さんによれば現実の生き直しの、皆川君と春日井先生の病室のやり取りのところまで書かれている。

「このファイルが完成する時にその意味がわかるんだわ、きっと」

「意味?どんな意味だい?」

「みんなが知りたかった意味、こうして生きてることの意味よ」








 僕は『地下鉄のない街』をめくってみた。

 一つの物語の本を読むように僕はそれを読んだ。

 通して外側から観てみると本当に不思議な物語だった。

 何より僕自身が物語の中に生きていることが不思議だった。

 そしてみんな必死で「生きることの意味」を探しているようだった。







「僕に追いつけるかな」

「みんな今生まれたばかりだから」

「だから大丈夫さ」

「見えすぎる目は閉じていい」

「聞こえすぎる耳はふさげばいい」

「過去は忘れればいい」

「たまには本当のことを言ってもいいのさ」

「隠さなくてもいいよ」

「きっとゆるしてくれるさ」

「敵の神も泣いている」

「失うことできっと見つかるさ」




「僕が見えるかい」

「見えるならまだ大丈夫」

「観ることは赦すことだ」

「そして、君がやることが分かるはずだ」

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

「その瞬間はくる。観ることは赦すことだから」

「世界の速さが消える時、君は君の依存していたものから自由になる」




「君がそれに気づく時、過去は未来に接続され、未来はここでないあそこに移動する」

「その時君はすべてを知る」

「すべてはもともとそこにあったんだ」






 なにがあったんだ…いったい…?

 僕は皆川君のページの文章を読みながら、また眠りに落ちていった。

地下鉄のない街101 君が僕を追い越す時に見えるもの



昭和XX年 XX月 XX日 ファイル60 皆川行人 口述部分

「僕が見えるかい」

「見えるならまだ大丈夫」

「観ることは赦すことだ」

「そして、君がやることが分かるはずだ」

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

「その瞬間はくる。観ることは赦すことだから」




『音の風景』 http://amba.to/QA8awx











 聞こえる…。

「僕が見えるかい」

 ああ。よく見えるよ、皆川君。それに君の声もよく聞こえる。君が何を言っていたかもわかってきた。終わりが近づいてきたんだね。

「見えるならまだ大丈夫」

 うん。まだ僕はここにいる。

「観ることは赦すことだ」

 そういうことなんだね。僕は赦したさ。両親のことを。

「そして、君がやることが分かるはずだ」

 まだ赦してないことがあるのかな?

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

 一番大切な人。姉さんさ、僕にとっては…。

「その瞬間はくる。見ることは赦すことだから」

 姉さんの何を…赦せばいい?

「……」

「まあ、いいさ。自分で考えよう。ところで皆川君は何を赦すんだい?」

「西村さんさ」

「そうか…」

「そして…」

「うん。わかってる」

「ああ。春日井先生を赦すんだ」

「……」

地下鉄のない街104 タイムパトロール

「へえ。妙なことを言うね。今俺が言ったことなど先刻承知だというわけか」

 西村の薄ら笑いが皆川君の全身を値踏みするように舐めまわした。

「負け惜しみだと言いたい顔ですね」

「いや、必ずしもそうじゃないんだけどな…」

 西村は下品な笑い顔を引っ込め、真面目な顔をして皆川君を見据えた。

 皆川君は挑発を跳ね返すかのように下唇を軽く噛んで同じように西村を見た。





「ところで西村さんはどうして春日井先生を目の敵にするんです?」

「おや、話をそらすついでに矛先を俺に向けたか」

 楽しんでいるかのように笑いながら西村は窓際に歩いた。そしてこの間春日井先生が腰掛けていた桟(さん)に西村も腰を下ろした。





「なあ皆川、お前SFに出てくるタイムパトロールって知ってるか?」

「いきなりなんの話です?」

「いや、話をそらしてるわけじゃないさ。春日井先生を目に仇にって言われて、何をバカなことをっていうのも簡単だったんだけどな。もちろん目に仇にしてるわけじゃないし、お前も言葉通りそう思ってるわけでもないだろ。俺のそういうある種の傾向性が、たまたま春日井先生という対象にも向けられる場合があるってことだ。多分お前が聞きたいのは、陸上部での俺の振る舞い方含めたその背後にどんな企みを持ってるんだ、とこう聞きたいんじゃないのかい」

 皆川君は口の端に少し笑みを浮かべて頷いた。

「そっか」腕組みをしながら西村は同じように笑い返した。

「説明がしずらいんだけどな、というかこんなこと人に説明したことも説明したいお思ったこともなかったからな…。それでとっさに思いついたのが昔読んだ翻訳物のSFに出てきたタイムパトロールだったんだ」




 皆川君は無言だったけれど、表情は徐々に関心を示し始めたように見えた。

「うん。やっぱりそれがしっくりくる。俺が『東方暁の雫』うちの教団やっていること、それから将来的に俺が指導的立場に立った場合、重点的にやることもそういう仕事だと決めている。もっともタイムパトロールなんておかしなこと言い始めたらほそぼそとはいえ全国に二万人ほどいる信者さんが半分以下になりそうだけどな」


西村はおかしそうに笑ったが、皆川君は無言だった。

「聞きたけりゃ話をしてもいいんだが、退院の時間は大丈夫なのか」

 皆川君は腕時計を確認して顔をしかめた。

「時間はないけど、話してくれるなら聞いてみたい」

 西村は無言でじっと皆川くんを厳しい目で見据えた。




「そっか。じゃあ、その話題の教団『東方暁の雫』に今からご招待しようじゃないか」

 西村は快活に含むところなく笑った。

 西村も誰かに自分のことを話したがっていた?

 いや、西村さんの性格から言ってそれはないだろう。皆川君に話をすることで恐らく競技会の自分の書いたシナリオに皆川君をはめ込むに違いなかった。
ゆっきー
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