地下鉄のない街98 物語の中の自分
「いろんな夢を見たよ、姉さん」
僕は自分の顎に手をやりながらそう言った。無精髭などはなく、ほんのわずかに剃り残しの髭が手のひらにざらっとした感触を残した。多分姉さんが毎朝僕が寝ている間に剃ってくれているのだろう。ただ、僕はずいぶん痩せたようだ。この部屋には鏡がないのだけどそれも多分姉さんの配慮だ。正直言って鏡を見る勇気は今の僕にはなかった。
「どんな夢を見たの?」
「長い長い夢さ。覚えている夢の始まりは、会社員になった僕が会社から会計事務所を訪ねるところだった。そこで僕は若い頃の父さんに会ったんだ」
病院の窓の外に蝉の鳴き声が聞こえた気がした。二十年近くも長い間地中に眠っていて夢から覚めるようにこの世界に来て夏の終わりまで鳴き声をあげる。僕に似ているような気がした。
僕は父さんと会ったことや、まだ姉さんとは知らないで姉さんとチャットをやっていたこと、夢の中でもう一度タイムスリップして高校時代の僕やトニー皆川君、春日井先生や木島先生、西村さんたち陸上部の連中たちとの出来事を姉さんに物語った。
「とにかく長い夢だった」
話し終わった僕は、あの夢の意味が分からぬままに困惑の顔で姉さんを見た。姉さんはもちろん歳を重ねていたけれど、あの高校生の時の面影そのままの笑顔で頷いた。
「健太郎、今の話はね、夢じゃないのよ」
僕は一瞬聞き違えたかと思ったけれど、姉さんは確かにそう言ったようだった。
「え?確かに夢とは思えないほどリアルだったけど、僕の脳の中の出来事には変わりないでしょ」
姉さんは優しく、でも断固とした様子で首を振った。
「あれは夢じゃなくて現実そのものよ。あたしもあなたと一緒に神田の街を歩いて千鳥ヶ淵公園をお散歩したわ」姉さんは訴えかけるようにそう言った。
「でもそれは…」
「これ、見て」
姉さんは立ち上がると、窓際の棚においてある自分のハンドバッグの中から何かを持ってきた。
「これは…」
僕は息を飲んだ。それは夢の中で僕と姉さんがホテルの窓から覗いた遠眼鏡だった。
「一体どういうことなんだい」
「そう。あれが夢だったらこんなものはここにないわ」
「じゃあ、いったい…」
「私たちはみんな現実をもう一回生き直してるのよ。あなたの不思議な力で」
「どういう意味なの?」
「まだ結末はわからないわ」
姉さんはそう言って『地下鉄のない街』のファイルをめくった。ファイルはこの間の夢、いや姉さんによれば現実の生き直しの、皆川君と春日井先生の病室のやり取りのところまで書かれている。
「このファイルが完成する時にその意味がわかるんだわ、きっと」
「意味?どんな意味だい?」
「みんなが知りたかった意味、こうして生きてることの意味よ」
僕は『地下鉄のない街』をめくってみた。
一つの物語の本を読むように僕はそれを読んだ。
通して外側から観てみると本当に不思議な物語だった。
何より僕自身が物語の中に生きていることが不思議だった。
そしてみんな必死で「生きることの意味」を探しているようだった。
「僕に追いつけるかな」
「みんな今生まれたばかりだから」
「だから大丈夫さ」
「見えすぎる目は閉じていい」
「聞こえすぎる耳はふさげばいい」
「過去は忘れればいい」
「たまには本当のことを言ってもいいのさ」
「隠さなくてもいいよ」
「きっとゆるしてくれるさ」
「敵の神も泣いている」
「失うことできっと見つかるさ」
「僕が見えるかい」
「見えるならまだ大丈夫」
「観ることは赦すことだ」
「そして、君がやることが分かるはずだ」
「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」
「その瞬間はくる。観ることは赦すことだから」
「世界の速さが消える時、君は君の依存していたものから自由になる」
「君がそれに気づく時、過去は未来に接続され、未来はここでないあそこに移動する」
「その時君はすべてを知る」
「すべてはもともとそこにあったんだ」
なにがあったんだ…いったい…?
僕は皆川君のページの文章を読みながら、また眠りに落ちていった。
地下鉄のない街104 タイムパトロール
「へえ。妙なことを言うね。今俺が言ったことなど先刻承知だというわけか」
西村の薄ら笑いが皆川君の全身を値踏みするように舐めまわした。
「負け惜しみだと言いたい顔ですね」
「いや、必ずしもそうじゃないんだけどな…」
西村は下品な笑い顔を引っ込め、真面目な顔をして皆川君を見据えた。
皆川君は挑発を跳ね返すかのように下唇を軽く噛んで同じように西村を見た。
「ところで西村さんはどうして春日井先生を目の敵にするんです?」
「おや、話をそらすついでに矛先を俺に向けたか」
楽しんでいるかのように笑いながら西村は窓際に歩いた。そしてこの間春日井先生が腰掛けていた桟(さん)に西村も腰を下ろした。
「なあ皆川、お前SFに出てくるタイムパトロールって知ってるか?」
「いきなりなんの話です?」
「いや、話をそらしてるわけじゃないさ。春日井先生を目に仇にって言われて、何をバカなことをっていうのも簡単だったんだけどな。もちろん目に仇にしてるわけじゃないし、お前も言葉通りそう思ってるわけでもないだろ。俺のそういうある種の傾向性が、たまたま春日井先生という対象にも向けられる場合があるってことだ。多分お前が聞きたいのは、陸上部での俺の振る舞い方含めたその背後にどんな企みを持ってるんだ、とこう聞きたいんじゃないのかい」
皆川君は口の端に少し笑みを浮かべて頷いた。
「そっか」腕組みをしながら西村は同じように笑い返した。
「説明がしずらいんだけどな、というかこんなこと人に説明したことも説明したいお思ったこともなかったからな…。それでとっさに思いついたのが昔読んだ翻訳物のSFに出てきたタイムパトロールだったんだ」
皆川君は無言だったけれど、表情は徐々に関心を示し始めたように見えた。
「うん。やっぱりそれがしっくりくる。俺が『東方暁の雫』うちの教団やっていること、それから将来的に俺が指導的立場に立った場合、重点的にやることもそういう仕事だと決めている。もっともタイムパトロールなんておかしなこと言い始めたらほそぼそとはいえ全国に二万人ほどいる信者さんが半分以下になりそうだけどな」
西村はおかしそうに笑ったが、皆川君は無言だった。
「聞きたけりゃ話をしてもいいんだが、退院の時間は大丈夫なのか」
皆川君は腕時計を確認して顔をしかめた。
「時間はないけど、話してくれるなら聞いてみたい」
西村は無言でじっと皆川くんを厳しい目で見据えた。
「そっか。じゃあ、その話題の教団『東方暁の雫』に今からご招待しようじゃないか」
西村は快活に含むところなく笑った。
西村も誰かに自分のことを話したがっていた?
いや、西村さんの性格から言ってそれはないだろう。皆川君に話をすることで恐らく競技会の自分の書いたシナリオに皆川君をはめ込むに違いなかった。
地下鉄のない街106 信者たちの合唱
「ちょっと見学していくかい」
足を止めて信者たちの様子をガラス越しに見ている皆川くんに、西村が振り返って声をかけた。
「ああ、あれは経験積んだ信者がリーダーになって皆さんの魂を熟させるワークだよ」
さっき西村に最敬礼をしたリーダーと思しき男は、15、6人ほど膝を抱えるようにしてマットの上に座っている信じたちに向かって、熱心に何かを説いているようだった。
「あの人ね、どっかで見たことないかな。まだ若いけどついこの間まで年商百億の企業の社長さんだった人だよ。百億稼ぐ会社と言っても規模は確か5~60人くらいのね。純金の売買をする会社でかなり羽振りが良くて新聞やテレビにもバンバン出てた。去年の暮れ詐欺容疑で検挙されちゃってね、まだ裁判中で刑は確定してないんだけどちょっとやばいらしい。純金の取引してたお客さんが蜘蛛の子散らすように供託金引き上げていなくなっちゃったからね。それで弁護士費用も払えなくてうちの教団の弁護士つけてるんだ。そういうわけでちょっと俺も事情を知ってるというわけ」
先に歩きかけていた西村は皆川くんの隣に来てまだ40歳前くらいに見える、精悍そうな顔立ちのリーダーを見て言った。しかし西村の話を聞いた後に改めてよく見ると、顔立ちこそ若々しく見えるが、腹の周りにはベルトで締め付けた上から贅肉が不摂生にはみ出し、スラックスは中途半端な折り目がかえって全体をだらしなく見せていた。
正しい過去、正しい未来、正しい現在
夢の世界に真求むることで
現実の世界で狂に振る舞うことなかれ
男が信者たちに向かって教祖の写真の下の戒律のようなキーワードを大声を上げて説いているのが、ガラス越しにも聞こえてくる。唱和をするのがワークのやり方らしく、信者も全員で大声で戒律を叫んでいる。
西村が皆川くんの肩を押して今歩いて来た玄関口の方に少し戻り、ガラス越しの向こう側の世界との間のドアをグッと押して開いた。
正しい過去、正しい未来、正しい現在
夢の世界に真求むることで
現実の世界で狂に振る舞うことなかれ
広い講堂には少人数ではあったが信じたちの声が響き渡り、まるで合唱のように聞こえてきた。
「あれはいったいどういう意味なんですか」
西村の数々の非常識な態度に辟易し、いつしかタメ口になっていた皆川君は、自分でも気がつかないうちに陸上部の先輩と後輩の関係のしゃべり方に戻っていた。というより、車の中からずっと、西村のペースに巻き込まれ始めているようにも見えた。
正しい過去、正しい未来、正しい現在
「いい言葉だろ。せっかくだからちょっと近くに行ってみようか」
西村に背中を押された皆川君は、ふらふらと吸い寄せられるように信者たちの集団の方に歩いて行った。