地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街104 タイムパトロール

「へえ。妙なことを言うね。今俺が言ったことなど先刻承知だというわけか」

 西村の薄ら笑いが皆川君の全身を値踏みするように舐めまわした。

「負け惜しみだと言いたい顔ですね」

「いや、必ずしもそうじゃないんだけどな…」

 西村は下品な笑い顔を引っ込め、真面目な顔をして皆川君を見据えた。

 皆川君は挑発を跳ね返すかのように下唇を軽く噛んで同じように西村を見た。





「ところで西村さんはどうして春日井先生を目の敵にするんです?」

「おや、話をそらすついでに矛先を俺に向けたか」

 楽しんでいるかのように笑いながら西村は窓際に歩いた。そしてこの間春日井先生が腰掛けていた桟(さん)に西村も腰を下ろした。





「なあ皆川、お前SFに出てくるタイムパトロールって知ってるか?」

「いきなりなんの話です?」

「いや、話をそらしてるわけじゃないさ。春日井先生を目に仇にって言われて、何をバカなことをっていうのも簡単だったんだけどな。もちろん目に仇にしてるわけじゃないし、お前も言葉通りそう思ってるわけでもないだろ。俺のそういうある種の傾向性が、たまたま春日井先生という対象にも向けられる場合があるってことだ。多分お前が聞きたいのは、陸上部での俺の振る舞い方含めたその背後にどんな企みを持ってるんだ、とこう聞きたいんじゃないのかい」

 皆川君は口の端に少し笑みを浮かべて頷いた。

「そっか」腕組みをしながら西村は同じように笑い返した。

「説明がしずらいんだけどな、というかこんなこと人に説明したことも説明したいお思ったこともなかったからな…。それでとっさに思いついたのが昔読んだ翻訳物のSFに出てきたタイムパトロールだったんだ」




 皆川君は無言だったけれど、表情は徐々に関心を示し始めたように見えた。

「うん。やっぱりそれがしっくりくる。俺が『東方暁の雫』うちの教団やっていること、それから将来的に俺が指導的立場に立った場合、重点的にやることもそういう仕事だと決めている。もっともタイムパトロールなんておかしなこと言い始めたらほそぼそとはいえ全国に二万人ほどいる信者さんが半分以下になりそうだけどな」


西村はおかしそうに笑ったが、皆川君は無言だった。

「聞きたけりゃ話をしてもいいんだが、退院の時間は大丈夫なのか」

 皆川君は腕時計を確認して顔をしかめた。

「時間はないけど、話してくれるなら聞いてみたい」

 西村は無言でじっと皆川くんを厳しい目で見据えた。




「そっか。じゃあ、その話題の教団『東方暁の雫』に今からご招待しようじゃないか」

 西村は快活に含むところなく笑った。

 西村も誰かに自分のことを話したがっていた?

 いや、西村さんの性格から言ってそれはないだろう。皆川君に話をすることで恐らく競技会の自分の書いたシナリオに皆川君をはめ込むに違いなかった。

地下鉄のない街106 信者たちの合唱

「ちょっと見学していくかい」

 足を止めて信者たちの様子をガラス越しに見ている皆川くんに、西村が振り返って声をかけた。

「ああ、あれは経験積んだ信者がリーダーになって皆さんの魂を熟させるワークだよ」

 さっき西村に最敬礼をしたリーダーと思しき男は、15、6人ほど膝を抱えるようにしてマットの上に座っている信じたちに向かって、熱心に何かを説いているようだった。

「あの人ね、どっかで見たことないかな。まだ若いけどついこの間まで年商百億の企業の社長さんだった人だよ。百億稼ぐ会社と言っても規模は確か5~60人くらいのね。純金の売買をする会社でかなり羽振りが良くて新聞やテレビにもバンバン出てた。去年の暮れ詐欺容疑で検挙されちゃってね、まだ裁判中で刑は確定してないんだけどちょっとやばいらしい。純金の取引してたお客さんが蜘蛛の子散らすように供託金引き上げていなくなっちゃったからね。それで弁護士費用も払えなくてうちの教団の弁護士つけてるんだ。そういうわけでちょっと俺も事情を知ってるというわけ」

 先に歩きかけていた西村は皆川くんの隣に来てまだ40歳前くらいに見える、精悍そうな顔立ちのリーダーを見て言った。しかし西村の話を聞いた後に改めてよく見ると、顔立ちこそ若々しく見えるが、腹の周りにはベルトで締め付けた上から贅肉が不摂生にはみ出し、スラックスは中途半端な折り目がかえって全体をだらしなく見せていた。





正しい過去、正しい未来、正しい現在

夢の世界に真求むることで
現実の世界で狂に振る舞うことなかれ







 男が信者たちに向かって教祖の写真の下の戒律のようなキーワードを大声を上げて説いているのが、ガラス越しにも聞こえてくる。唱和をするのがワークのやり方らしく、信者も全員で大声で戒律を叫んでいる。

 西村が皆川くんの肩を押して今歩いて来た玄関口の方に少し戻り、ガラス越しの向こう側の世界との間のドアをグッと押して開いた。






正しい過去、正しい未来、正しい現在

夢の世界に真求むることで
現実の世界で狂に振る舞うことなかれ







 広い講堂には少人数ではあったが信じたちの声が響き渡り、まるで合唱のように聞こえてきた。



「あれはいったいどういう意味なんですか」

 西村の数々の非常識な態度に辟易し、いつしかタメ口になっていた皆川君は、自分でも気がつかないうちに陸上部の先輩と後輩の関係のしゃべり方に戻っていた。というより、車の中からずっと、西村のペースに巻き込まれ始めているようにも見えた。




正しい過去、正しい未来、正しい現在






「いい言葉だろ。せっかくだからちょっと近くに行ってみようか」

 西村に背中を押された皆川君は、ふらふらと吸い寄せられるように信者たちの集団の方に歩いて行った。

地下鉄のない街103 分裂する春日井先生

「結局春日井先生のやっていることっていうのは、自分を頼ってきた人間、その多くはあの先生の女性としての魅力から男ってことになるわけだけど、その頼ってきた男に最適な物語をあてがうってことなのさ。場当たり的にね」

 僕は混乱した頭で西村の言わんとすることを必死に追いかけた。物語をあてがう?



「その何某っていう元陸上部の生徒には、その生徒向けの、別の悩みを抱えた別の生徒には別のその生徒が求めてる自分を納得させられる物語を与える。皆川君とかいうという仔羊には、皆川君が『ああ、自分の満たされなかった思い、辛かった過去ってこういうことだったんだ』って納得できる過去ね、そういうのを春日井先生は天才的に相談者と共有することができる。優秀極まりない学校カウンセラーさ。だから保健室はいつも満杯。相談した方はまるで自分の忘れ去りたいような辛い過去が、今日春日井先生に理解してもらえるためにあったんだと錯覚できるわけ」

 皆川くんは一瞬何か反論したいような仕草を見せたが、深呼吸をため息に変えて西村の顔を正面から見た。



「僕もその自分の都合のいい物語を聞きに保健室に吸い寄せられた一人って言いたいわけですか」

「ま、そういうわけだな」芝居がかったようすで西村は頷いた。

「佐藤さんと付き合ってた何某も、結局過去に遡って自分自身の満たされない気持ちを完璧に埋めてもらったと思ってる。埋められることなんて一生ないとどっかで諦めていた自分の心の隙間みたいなものを春日井先生に埋めてもらってイチコロさ。春日井先生その人自身にも、あの人に相談しに行こうとする人間なら誰でも強烈に感じることができるような過去の傷みたいなものの匂いがするだろ。」



 過去の傷の匂い…。



「『香りとは思い出に他ならない』ってキザなこと言ったやつがいるそうだけど、みんなその匂いのフェロモンに惹かれて保健室に吸い寄せられて行くわけさ。あの保健室の独特の匂い。春日井先生自身の過去や若い綺麗な女医さんの体臭、鼻をつまんで息を止めて、ずっと自分の過去を封印してきた人間がそんなところで深呼吸してみろよ。自分の肺腑から毛細血管を通じて身体中の細胞にその罪や後悔を癒してくれるような匂いが染み渡る。」

 皆川くんは黙って聞いていた。あるいは僕も姉さんと一緒に見た春日井先生と二人っきりで何時間もしゃべっていた昨日のこの部屋のことを思い出しているのかもしれなかった。



「まるで自分は春日井先生に会うためにいろんな試練を味わったんだ。そしてもしかしたら春日井先生も自分とこんなにも心の深い深い場所で魂が触れ合うことを求めていたのかもしれない…。でもそれは自分だけじゃなくて…」

「やめろ」

 鋭く皆川くんが遮った。



「おや?図星かい?」

「確かに保健室に相談に行った生徒たちには自分も含めてそういうとこりがあると思う。でも相談する方だって分かってるさ。カウンセラーとして春日井先生は僕たちに精一杯その時間だけ接していてくれる。保健室に入って先生と話をして部屋を出て行く時には…」

「そんなことないだろ!」

 今度は西村が皆川くんの言葉を最後まで言わせなかった。





「春日井先生は普通のカウンセラーとは違う特別に優秀なカウンセラーさ。そう、病的に特別に優秀なね。だから一度保健室で深呼吸をした人間は、保健室を出たあともその魔性の匂いからは逃れられない。自分が吸い込む空気の中にそれが混じっている濃度が薄くなるとまた保健室に行くのさ。薬物の中毒と同じでね」

 お前自身がそうだろ。西村はそんな目で薄ら笑いを浮かべながら皆川君を見下ろした。




「普通は保健室を出ると、生徒は現実に戻る。いや、戻らざるをない。たいていは教室に帰るまでの廊下で正気に戻るのさ。ところがあの保健室から出ても大部分の生徒はそうはならない。学校が終わって家に帰って自分の部屋の机に向かったあとも、まるでとなりに春日井先生がいるみたいに感じてしまう」




 皆川君の頬が羞恥ですこし赤くなる。

「もっともそれは、生徒がのぼせ上がったからというばかりではないんだな」

 西村は自分の頬をピタピタと何回か叩いて、皆川くんの上気した顔をからかうような目で見た。



「春日井先生がいつでもすぐ隣にいるように感じられる。そりゃそうさ。理由はあの人のカウンセラーとしての天才の理由があの人自身の病気、多重人格障害にあるからなのさ。保健室の出口まで見送ってくれる春日井先生の分裂した無数の人格が、教室までの廊下、家に帰るまでの道、家に帰ってからの自分の部屋にもついてくるんだ。亡霊のようにね。」


 春日井先生が分裂してついてくる…。僕は混乱してわけが分からなくなりそうだった。僕は皆川くんの言葉を待った。




「その通りだね。ずいぶん春日井先生のことをよく分かってるじゃないか。完璧だ」

 皆川君には西村の言葉の意味が分かるのか?

地下鉄のない街109 窪みの重さ

 西村は大きな窓を背にして配置されたセパレート型のソファに、体をゆったりと沈めていた。コーヒーを飲みながら南堂がしゃべり始めるのを待っているようだった。



「皆川さんはお若いから、金の塊というものを生では見る機会はまだないでしょう」

 南堂は西村の隣のソファにちょこんと腰を沈めていた。

 向かいに座った皆川君が「はい」と小さく答える。

 西村はまたコーヒーを啜った。

 南堂が満足げに微笑む。



「いいもんですよぉ。金。あの重みがね。私ね、こう見えて赤ん坊が大好きなんですよ。ええ、そりゃもう、本当大好きで。何が好きってあの重みが好きなんです。不安定なのに触れた瞬間ずしっとくるあの感覚。薄っぺらいニセモノの、張り子でできたこの世のペコペコの大道具の舞台に、そこだけすぅっと窪みができる。深淵なる窪み。ね、こんな感じに。金は赤ん坊なんです」



 南堂は掌を上に右手を差し出し、そこに純金がのっているかのように手首を折り曲げた後、今度はそれに左手を添えて、胸元で袈裟懸けに抱いた赤ん坊をあやすような仕草をした。

「深淵なる不安定な窪みの中には不思議な永遠につながるような安心感があるんです。その窪みの形や重さは人それぞれ違う。そしてその重みはその人が生きている証です。それを抱いた者だけがその生命力を感じることができる。その小さな命は、やがて大きくなり子を生み、子が孫を生み、自分の家が子々孫々永遠に続いていくという家族の真実がそこにあります。家族という幻想はこの掌の中の重みの中に実感としてあるんですよ。

 こんな幸せなことがありますか?

 皆川さんはまだ高校生ですからご自分のお子さんという実感はないでしょう。しかし、あなたも生きている孤独感というものを味わったことはあるはずだ。いや、多感な高校生の今だからこそ、自分自身の不安定さに耐えられない時もあおりになると思うんですよ。お若い方がよく意地を張るようには、それはかっこ悪いことなんかじゃないんです。

 自我はね、人間の自我というものは自分自身の中には、決していかなる根拠をも持っていないんです。自分自身を手のひらに載せて、自分の重みを、世界のくぼみを実感することができますか?みんな何となくできると思ってる。でもできやしない。

 自分を支える存在はまず最初は自分の外側にあるんですよ。だからいくら精神論で内面を見つめても不安が増すばかりなんです。そういう方は多いんです。金をお求めになろうという方に特にね。だから私は、まず私の会社にご訪問いただいたお客様には、この世の窪みを実感していただくんですよ。」


 南堂はゆっくりとここまで言い終わると、おもむろに自分の脇においてあった安物のポーチのジッパーを開けた。

 ベージュ色の巾着のように口が絞ってある包みを取り出すと、南堂は皆川君の顔の前にそれを差し出した。



「貴方はまだ高校生だから、自分の赤ちゃんという想像はしにくいでしょう。ですから今は、貴方の心の中にいる、あなたがまだ触れることができない大切なあの人のことを思い浮かべてみてください。私にはそれが誰だかはわかりません。でもあなたにはどうやらそういう大切な方がいらっしゃるようです。それは私にはわかります。なぜって、私の会社にご訪問いただくお客様はみんなあなたのような目をされているからです。そしてその人に触れる瞬間のことを、その人の手を、肩をそっとを愛撫する感触を思ってください。そういうやさしい手で今からお渡しするものをお手にとってみてください。

 私は今からこの袋の中身を取り出します。あなたは軽く目を閉じてぜひ、その方のことをまぶたの内側に思い起こしてください」



 皆川君は話の展開に戸惑った目で西村を見た。
ゆっきー
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