地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街91 記憶の横顔

 皆川君が先生の横顔を見る視線で僕も先生を観た。きれいな顔立ちだなと僕は改めて思った。
 少し姉さんに似てる。といっても僕のその印象は顔の形が似ているというわけではないみたいだ。似ているのはもっと奥の方から、魂のようなものが自然と肉体に姿を結晶させたようなその感じだった。





 人の顔は不思議だ。

 一緒に育って来た僕は姉さんの小さい頃からの想い出をいつまでも目の前の姉さんに繰り返し発見した。幼かった姉さんの顔かたちも、中学、高校と成長するにつれて身内の僕が驚くほどきれいになっていった。ときどきふとしたはずみに他人の目で姉さんを眺めてみると、それは僕の身近に存在するのが素朴に驚きだと感じるほど、突き抜けたかわいさ、美しさを持っていた。そんなとき僕はただ何かの運命でたまたま弟に生まれてこれたから、このきれいな人と今自分は普通に隣にいるんだな、みたいなおかしな感覚を持った。そして、そのことをひとりきりのとき、実際に手をあわせて神様に感謝したものだった。

 それでも僕は姉さんの顔かたちがどんな風に女性らしく成熟していっても、幼い頃じゃれあったあの姉さんの僕と同じ匂い、育った家の空気をそこに感じてきた。だから僕は変な話だけど姉さんが交通事故か何かで顔かたちが変わってしまったとしても、そこに違和感なくきれいだった頃の姉さんをみることができるんだと思う。姉さんの胸に顔を押し当てれば、いつでもそこには懐かしい干し草のような、あの姉さんを感じることができると僕は思う。

 それはもちろん奇跡的なことだ。世界がどんなに変わっても、姉さんの瞳の中には幼子の頃僕を優しく守ってくれたあの、暖かい遠くまで届く淡い光があった。






 何度も繰り返し引っ越ししたとしても、親に今度こそ捨てておしまいなさいと言われても必ず次の家にももって行く、新しい家や新しい生活にはには場違いな、古い縫い目の少しほつれた、少し手垢でくすんだ、幼児期や、幼児期を突き抜けてまるで前世からの懐かしい匂いが命を吹き込まれたように封印された小さなぬいぐるみのように、新しい世界がどんなに阿鼻叫喚の地獄であったとしても、姉さんという存在は、姉さんの顔の表情は、一緒に過ごしたあの幼年期の想い出を実在のものとして保証してくれた。

 自分がどこにいるのか、今度こそ本当にすっかり分からなくなってしまいそうになった時、僕は姉さんの存在を手で触って確認した。僕のたった今の生を成り立たせている証として。たとえそれが人から笑われたり眉をひそめられたとしても、僕は自分の正気を保つというよりは、この世界の正気を信じる証として姉さんを求めたのだった。

 幼い頃の、まだ世界が正気であった頃のあの記憶が偽物でなかったこと、まだこの世界に生き、もしかするともう一度この世界を愛しさえすることができるかも知れないという希望の根拠として、その記憶にすがるように、いつかまた幼子のようにこの世界と向き合える自分を完全には失わないために。





 あり得ないことだったけれど、そんな姉さんにしか感じることのなかった奇跡的なリアリティが先生の横顔にもあった。






「春日井先生、きれいだね」

 姉さん、そこにいたんだね。

 姉さんは先生の横顔を見つめる僕の肩にあごを乗せて、上半身をもたれかからせるようにして、両手を僕の胸の前で結んでそう呟いた。

 姉さんの髪の懐かしいぬいぐるみのような匂いと、身体から発する甘酸っぱい女の匂いが混じり合って僕の鼻腔に吸い込まれた。



 姉さんの柔らかい胸と丸みを帯びた体の重みが僕に、まだ生きているんだという感触を思い出させてくれた。

地下鉄のない街88 そして誰もいなくなった

「K君はきっと、Mさんと一緒にいて自分の空気を読む力みたいなのとか、それを元にその場をうまくし切ってプロデュースしていくみたいな力が、実は自分のものじゃなくて、皆川君の力だったっていうことに気がついたんじゃないかな。K君としてみたら辛かったと思うわよ。自分の無力感と、今まで仲良くしてやってたみたいに思ってたかもしれない皆川君の力を認めたりすること。何と言っても自分が好きだと告白した女の子が、そういうこと全部わかってたとしたら尚更ね」

 春日井先生の言葉に皆川君はまたうなだれていた。



「力を持っている人がそれをあえて使わなすぎるっていうのは、人を不幸にすることもあると思うわ。」

「いえ、僕は…」

「分かってるわ。そうは思っていなかったんでしょ。でもそれだからこそ余計に君はきっと理由がはっきりわからない理不尽な思いをすることになるわ。とても難しいことだけど分かる?」

 皆川君は頷いた。



「だからKは僕をいじめるようになった…。ただMさんが好きだと言ったのが僕だということだけじゃなくて…」

「そうね、身も蓋もない言い方をすればK君は自分への嫌悪感を直視せずに、皆川君に八つ当たりしたっていうことになるかもしれないのだけど…」

「そっか…」

 うなだれる皆川君の横に座り、先生はしばらく黙って皆川君の肩をだいていた。




「悪くはなかったんだよ。皆川君は…優しすぎたのかもね。でもその優しさを同世代の男の子が理解するのは難しいかもね。ううん。頭で理解はできても心で受け止められないと思う。プライドとかいろんなものが邪魔をして…」

 皆川君はうなだれていた。肩が少し震えていたのでもしかしたら涙を流していたのかも知れない。




「ずいぶんいじめられた?」

「はい。自殺を考えない日はありませんでした」

「そしてどうしたの?」

「どうしたらいいか分からなくて、賢い人を真似てみました」




賢い人は葉をどこに隠す?森の中に隠す。

森がない場合には、自分で森を作る。
そこで、一枚の枯葉を隠したいと思う者は、
枯れ木の林をこしらえあげるだろう。

死体を隠したいと思うものは、
死体の山を築いてそれを隠すだろうよ。




 さっき言っていたチェスタトンの言葉ドアを皆川君は途切れ途切れにつぶやいた。



「いっそ死人のように学校で生きて行こうと思ったのね」

「・・・はい」

「そこまで思わなくても良かったのに」

「いえ、僕は…最低です。僕はKの好きだった、付き合っていたMさんと時々Kに隠れて会うようになりました。最初はMさんがボロボロの僕を見かねてっていう感じだったんですけど…」


 話が核心部分に近づいてきたようだった。



「なるほど、マッカーサー将軍に隠れて逢い引きしていたリッチモンドなのか…」

 そういうことだったのか、あのクリスティの話は…。僕は話の展開に耳を凝らした。




「はい。手を握ってキスもしました」

「クリスティの小説と同じようにバレちゃったの?」

「はい…」

「K君は?」

「僕たちにははっきり言いませんでした。Mさんが別れることもなかったです。僕が、僕とのことは黙っていて欲しいと彼女に言ったので…」

「そっか…」

「Kは僕へのいじめを続行しながらTと衝突することが多くなって、ある日…」

「何か起きたのね」

「些細なことから喧嘩になって、完全にキレてしまったKはTをナイフで刺してしまいました」

「…」

「Kは最終的に転校して行きました。一命をとりとめたTも別の学校に」

「Mさんとは?」

「普通のクラスメートとして接しました。一人になった僕は自分で自分を罰しました。マッカーサー将軍の役目を自分自身に果たしたんです。マッカーサー将軍の僕はリッチモンドを殺しました。学校という森の中で、自分自身を枯葉一枚の重みにして深く隠しました」

「卒業するまでそうするつもりだったの?」

「はい、でも…」

「そうはせずに、うちの学校に転校してきたのはどうして?」

「…」

「Mさん?」

「はい。徐々に少しづつ話をしました」

「聞かせてもらってもいい?」

「はい」

地下鉄のない街92 遁走曲

私は別の選択をするもう一人の私のために、
もう一人の私を生み出すために、
もう一人の私の人生のために、
自分を受け入れることにしました。

それを選択することはこれまでの私の否定であり、
これまでの私の「死」を意味します。
この私が私に死をもたらそうとすることで、
もう一人の私が誕生することでしょう。
この私は私を犠牲とすることで、
もう一人の私に新たな生をもたらすのです。





 春日井先生はMさんの言葉をすらすらと淀みなく口にした。

「先生…。一度聞いただけでもう覚えちゃったんですか」

 皆川君も僕と同じでこれには驚いたようだった。



「気がついたと思うけど、一箇所だけ"転校"っていうところを"自分"に置き換えたけどね」

 先生は笑いながらそう言った。



「これね、私が昔自分に書いた、ううん、書き続けていた手紙とほとんど同じ言葉だったんだ」

「手紙…ですか?日記じゃなくて」皆川君は興味深そうに尋ねた。

「うん。手紙なの。日記は書いた人と読み返す人が一緒でしょ。あたしのは書いた人と読む人が違うから手紙なの」

 謎めいた先生の言葉だったけれど、先生は謎かけを楽しんでいる様子ではなかった。もっと切実な何かを言おうとしているように僕には思えた。




「確かに読む人が違えば手紙かも知れないですね。でもさっき先生は<自分に書いた>って言ってましたけど…」

「…」

 どういう意味だろう。確かに自分に対して、Mさんとほとんど同じ言葉を使って書いたと先生は言っていた。自分に書く手紙?




「そうよ。読む時には書いた時の自分のことを覚えてないから、そして書く時には、これを読む自分がそのことを覚えてないだろうなって、そういうことがあらかじめ分かっているの」

「書いた翌日には記憶喪失みたいに書いたことを忘れちゃうんですか」

 皆川君は必死に先生の言葉の意味を追跡しようとした。



「記憶喪失とちょっと似てるんだけど、それとは違う。専門用語でフーガっていう言葉があるんだけど知ってる?」

「フーガ?音楽の時間に習いましたよ。バッハの前奏曲とフーガとか、あ、そうだ小フーガト短調って小学校の時リコーダーで吹いたかな、あれですか?たしかどこかに逃げちゃうように流れていくメロディーを同じ旋律が追いかける、だから遁走曲っていう名前だったような・・・?」

 皆川君は音楽の話が始まったのかと戸惑ったようだった。



「うん。もとはクラシックの音楽用語らしいんだけど、精神医学では昔の記憶をすっかり忘れて、例えば新しい土地で別の名前を使って、今までとは全く違う生活をしてしまうみたいな、今までの記憶と一緒に過去の自分との一切の関係を失ってしまうことを、解離性フーガっていうの。ある日突然蒸発して行方が分からなくなってしまった人が、全然別の場所で、結婚もして子供もいて慎ましやかに暮らしているんだけど、そこに失踪したお父さんを探して子供が訪ねてくる、なんていう小説みたいな話が現実にあってね、そういうのは解離性フーガである可能性が高いと言われてる」

 穏やかだったけれど、どこか抜き差しならない真剣で沈痛な面持ちで先生は言った。



「過去の自分と今の自分が違う…。昔自分がしたことも一切覚えていない…」

 皆川君は先生の表情を伺いながら恐る恐る相槌をうった。



「記憶喪失みたいにあれ?この日記書いたっけ…じゃなくて、もっと広い範囲で、ううん、広い範囲でって学説では定義されるんだけど、あたしの実感では広さの問題じゃないのね、それは一切合切であるところが特徴なの。それと記憶喪失は、自分の名前や住所や生まれた日や通ってる学校、家族や友達の名前を思い出せなくて苦しむわけだけど、解離性フーガは全然違うのよ。人から指摘されるまで、例えば新しい家族のところにもとの家族が失踪した自分を探しに来るまで、そのことに気がつかないのね」

 先生がそうなのか…?





「僕が今お話しさせてもらっている先生は保健室の春日井先生とは別人ですか?」

 皆川君は緊張した顔で尋ねた。



「そうね。もしかしたらそうかも知れないわ」

 先生はポニーテールを解いた髪の癖をほぐすように、また右手を肩越しまでかかった髪に遣り、すっと髪をかきあげた。



 今日何回か見た先生のどきっとするようなしぐさだ。

 でも、さっきまではあったポニーテールの癖はもうすっかりなくなっていて、艶やかな黒髪が魅力的な別の女の人がそこいた。

地下鉄のない街94 醒めない夢

「つらいですか」かすかに消え入るように皆川君の口が動く。

「え?」先生もうつむき加減でそっと皆川君を見る。

「あ、すいません、僕。その、なんと言っていいか」

 春日井先生は自分の両手で皆川君の手を取って首を振った。



「つらくはないわ。ううん、つらいけど何て言うか、つらいっていう実感が持ちにくい。それがもっとつらいかな」

 先生がふぅっと長くため息をつく。

「実感ですか」

「うん、例えばね、皆川君が好きなこの本みたいに、どんな悲劇も始まりがあって終わりがあるでしょ。読み始めてから最後のページまでの間に」





 先生はまたクリスティの文庫本を手にとった。『そして誰もいなくなった』の表紙には島に閉じ込められた人間がそれぞれの表情で、絶望したり泣いたり悲嘆にくれたりしている。

「この左端の立派な体躯の紳士がマッカーサー将軍だったわね」

「はい。多分」

「将軍だけ殺されるかもしれないっていう恐怖の表情をしてないね」

 先生はさっきの二人の会話をもう一度なぞった。



「みんなが孤島で次々と殺されていく中、将軍は島からでて行きたくないって、ふとそう思うんです」

 皆川君もさっきと同じ台詞を言った。

「将軍の気持ちがなんとなく分かるわ」

 皆川君が先生の目を覗き込む。



「島を出て家に帰れたとしても、将軍には奥さんとリッチモンドを破滅させた自分の逃れられない日常が待っているわけでしょ」

「そう…なります」

「醒めない夢だわ」

「醒めない夢…ですか」

「そう。最後のページまでめくっても終わらない小説。一つの悪夢が醒めたら、もう一人の私がそこに待っている。もう一人の私が、その世界で私を待っている男の人と一緒にまた悪夢の続きを夢見るの。それが私なのよ。つらさも罪もきちんと認識する間もなく、次々と流れ作業のように別の人生が続くのよ。それがつらいわ、死ぬほど…」



 そう語っている先生の口調は淡々としていたけれど、とてつもなく深い苦悩が秘められているようだった。
ゆっきー
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