地下鉄のない街 49 母の叫び声
お父さんは弟さん、健太郎くんを救急車で運ばれるほど殴ったことがあったんだってね。お父さんはその事を随分後悔していたよ。
きっかけは健太郎くんが漫画に出てくる登場人物を何気なく真似て、お父さんの前で吃りの真似をした事だったそうだね。もちろんお父さんをからかったわけじゃない。実のお姉さんにはわかり切った事で僕がそんな事をいうのもおかしいけど、健太郎くんは絶対にそんな事をする種類の人間ではない。むしろそこから一番遠くに生きているやつだと思うよ。
それにお父さんは自分が吃音で若い頃に苦しみ抜いた事は、子供達にもひた隠しにしていた。他人の僕に対してそんな事をしゃべりながら変な話だけど、家族にもひた隠しにしてたことの反動なのかもね。
僕はそんなことをふっと思ったんだけど、お父さんがすこし照れたような顔をしたよ。あるいは僕の考えたことが僕の表情に出たのかもしれない。いずれにせよ、お父さんの表情は僕の推測が当たっていたことを示していたと思う。
僕も曖昧に笑った。その時、何だか僕とお父さんは少し何かを共有し始めたようだった。
それはそうと、弟さんにしてみたら、いきなり平手打ちを食らってわけが分からなかったというところだろうか。
お父さんは若い頃に吃音の級友を集団でからかうために、その子の前で吃りの真似をしてたそうだ。なんとなくそうすることが雰囲気的に普通だったそうだよ。特にその子に落ち度があったわけでもない。今のいじめと同じだね。
罰が当たったという教訓ばなしとしては出来すぎなんだけど、お父さんはいつしか、演技じゃなくて自分自身が本当の吃音者になってしまった。
でもそこからのお父さんの半生はありきたりの一言では多分片付けることはできなかっただろうと思う。好きな女の子に愛の告白して気持ち悪がられたり、就職試験の最終面接にことごとく失敗したりと、努めてたんたんと話をしていた様に見えたお父さんだけど、最後の最後に僕の前で多分何十年ぶりにはっきりと吃ってしまった。
例えば薬物に慣れ親しんだ自分の過去の汚点は、少しでも他人が吸引している煙の中に含有されたそれを見逃さない。何十年経っていてもその瞬間に体は禁断症状を誘発する。お父さんもまさかという雰囲気だった。それで何十年ぶりの事なんだろうって僕はそう思った。
僕は吃音患者の宿痾を見てしまった。もっともお父さんの表情そのものは恐くて顔をあげることができずに見れなかったよ。
お父さんにしてみたら、たとえ漫画の中に出てきた登場人物の真似であるにせよ、自分の息子が自分と同じ苦しみを背負って生きて行くいくことを見逃すわけにはいかなかったということのようだった。
「冗談にもそんなことをするんじゃない」そんな気持ちで叩いた。そうおっしゃってたよ。そして気がついてみたら健太郎くんは口や鼻、耳からも出血して自分の足元に倒れていた。
一日入院して翌日家に帰ってきた健太郎くんはしばらくとても無口な少年になったそうだね。ほとんど言葉を忘れてしまったかのように。無理もないと思う。
お父さんが悪かったと言って、自分が吃音に苦しんでいたことを告白し、家族全員の前で自分の過剰反応謝ったけど、健太郎くんは一言も口を利かなかった。今にして思えば、沈黙の真相は健太郎くんの怒りではなくて、口を開こうにも言葉が出てこなかったというところだろうって、お父さんは言っていたよ。
でもその時はその沈黙が、自分が招いたこととはいえ、お父さんは死ぬ程しんどかったと言っていた。言葉が喉の奥深くで死滅した沈黙は、自分の過去からの過ちを突きつけるフラッシュバックの窒息しそうな拷問の時間だった。
全員が沈黙した状態は永遠に続くかと思われた。
沈黙を破ったのは、お母さんの部屋の空気をつんざくようなヒステリックな大声だった。
「お父さんがこれだけ謝っているのに無視するとはどういうことなの!」
最悪だね。
でもお母さんはいつだってお父さんをたてる賢妻だったからね。
その一言は、沈黙をより一層決定的に深く、決して取り返しのつかない程どす黒い染みのようなものにしてしまった。
君がよく知っているように…。
地下鉄のない街 57 錯覚の想い出
私が来たのは、地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
私は平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
私は人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
家族のものがその人の敵になります。
私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしいものではありません。
また、私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしいものではありません。
また私よりも息子や娘を愛するものは、私にふさわしいものではありません。
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「何だいったいその怪しげな呪文は」
父さんは動揺を抑えるように強い口調で母親の言葉を遮った。
「怪しげな呪文とは失礼なことを言うわね。もっともあなたは教養に欠けてるから仕方ないかもしれないわね。れっきとした聖書の言葉よ。マタイ伝の第十章にあるわ」
母親は自分の信じるものをバカにされたと感じたのか不快そうに顔をしかめた。
「キリスト教系の新興宗教か?そのミカミ?とかいう教組がやっているのは」
「御上様ね。世俗の苗字は別にお持ちだけど、教団では御上とこんな風に書くの。私たち信者の中には御神様と、上という字を神という字にもなぞらえて心のなかでお呼びする物もいるわ」
母親の口から「私たち信者」という言葉が出て来たことに僕は改めて驚いた。しかも西村のところの教団?僕は姉さんに心当たりがあったかどうか目で尋ねた。姉さんは呆れたような絶望したような目で首を横に振った。
「いつからなんだ…」
父さんは取り敢えず非難がましいことを言わずに事実を確認しようとした。怒りを堪え、冷静に話をしたがっているように見えた。
しばらく間があったあと母さんが口を開いた。
「あなたの浮気がどうやら浮気じゃないってわかった頃よ。この家にあなたのオンナが電話をかけて来た頃かしら」
父さんは何か言いかけたけどそのまま沈黙してしまった。再び長い沈黙の後、代わりに母さんが話し始めた。
「気がつかないふりをして、ずっとこのままあなたを立てて、私が理想とした私が生まれ育った家のような家庭が実現する日を待とうと思ったわ。たかが浮気くらい。そう思えば思えたわ。電話であのオンナの声を初めて聞いた時にはね。でもね、そのオンナにあなたとの付き合いが結婚以前からだったっていうことを、この家で、そう今あなたが座っている場所にあのオンナが座って実際に聞いた時に、嘘か本当か確かめる前に力が抜けてしまったのよ」
母さんはさっきまでとはうってかわって穏やかな表情でゆっくりと話し始めた。
「あの子たち、由紀子や健太郎とのいろんな想い出も含めて、私の大切にして来たものは全部贋物の錯覚なんだってそう思えてしまったから…」
地下鉄のない街 58 憎む事さえできなくて
「錯覚って錯覚なわけがないだろう。家族の大切な想い出だ」
父さんは思わぬ展開に冷静さを必死に装っているかのようだった。
「話をそこから始めるのね。詫びることではなく。でもかえっていいわ、その方が。御上様も家族の嘘は弁解するたびに嘘を重ねることにしかならないと仰ってる。」
「さっきの聖書の文句か」
「ええ、そうよ。『家族のものがその人の敵になります。』その人、真実の愛に目覚めるものすべて人にとって家族は敵なの。今更弁解など聞いてもしょうがないわ」
父さんはこの理屈が少しでもわかるのだろうか。僕にはまったく分からなかった。
「ねえ、憎むことを禁じられたやり場のない憎悪の感情ってあなたには分かるかしら?」
母さんは冷静だけど何かに憑かれたように喋った。その落ち着き方が不気味だった。
「どういう意味だ?」
「もし結婚した後に、家族を持った後にあなたが私や家族を裏切ったのだとしたら、その原因がなんであれ私は何かを憎むことで精神のバランスを保てたと思うの。あなたを憎んだり、私に落ち度があったなら私自身を憎んだりすることができる」
「…それで」
「あなたがどういうつもりであのオンナと別れることなく、いいえ、別れるどころか終世変わらぬ愛を誓った上でこの私と家族を持とうと思ったかは分かりません。あのオンナの言うには『天涯孤独で教育もお金も社会的な立場も何もない自分に家庭を持つなど難しかった』という言葉をひとまずそのまま信じるとしましょう。それならなぜあなたは私と一緒になろうとしたのですか?子供を持とうとしたのですか?そのオンナとの結婚では想像できなかった、理想的な家庭というものを築けると思ったのですか?」
母さんは少し間を置いて父さんが口を開くのを待っていたかのようだった。でも父さんは無言だった。
「御上様はすべての家族は多かれ少なかれ幻想だと仰るわ。でもうちの場合には幻想がすべて。最初からそんなものはここにはなかった。あると錯覚していたものに怒りの感情を持つことができまして?そしてあなたにその底が抜けたような虚しさの果ての様子が想像できまして?最初から贋物だったすべてに愛しむ想い出など残るとあなたは思ってるんですか?何よりやり直すために怒る事もできないこの絶望的な無力感、これ以上ない完璧な裏切りがあるかしら。楽しかった思いでも何もかも一瞬で葬り去るようなこの無力感。それを取り戻そうとして怒りをぶつけようにも、最初からすべてが贋物だったらそれも不可能なのよ。ただこの間違った月日を元に戻して、最初から全部なかった事にして欲しいということそれだけよ。あなたのやった事は人の心から、何かのために怒るというその気力すら根こそぎ奪ってしまうような完璧な人でなしの業なの。分かるかしら?」
重苦しい空気が、モニター越しに僕たちのいる二階の姉さんの部屋まで忍び寄ってきてすっと僕たちを包んだ。
姉さんがつぶやいた。
「お父さんとお母さんとの想い出、全部贋物の錯覚だと思う?あたしたちの存在もあの人たちにとっては全部幻だったのかな」
モニタを見つめるその瞳は、そんな事をいう母さんをとても憎んでいるように見えた。でもその憎しみの目はどこか自信がなさそうにも見えた。
僕もまた、そういえば僕自身、人を憎む事ができないという病を抱えていたことを思い出した。
僕も姉さんも、母さんのいう「憎むことのできない怒り」ということを理解できてしまいそうで、何だか母さんの話の続きを聞くのが怖くなり始めていた。
地下鉄のない街 59 星の瞬きのように
僕たちはなんだか息苦しくなってモニターから目を離した。姉さんが窓のカーテンを引くと星が瞬いているのが見えた。僕は側に寄って窓のサッシを開けた。ひゅっと風が入ってきてレースのカーテンがアコーディオンのように宙に舞った。
「健太郎さ、さっきのお城のお姫様の話なんだけど…」
夜空を見上げながら姉さんが明るい声で言った。
「うん」
僕はその明るい声が痛々しく感じられた。
「お姫様が遠眼鏡でみた世界かな、これ」
「え?どういう意味?」
「遠眼鏡がなければなかった世界。一生気がつかなかった世界。死ぬまで見なくても良かった世界」
最後は声が震えていた。
もし母さんの願いがかなって時間を逆に戻して、父さんから自分の人生を取り戻したら、僕と姉さんも出会わなかったはずだ。当たり前だけど僕たちはそういう存在なんだと思った。この姉さんの部屋というのも存在しない。そして窓にこうやって並んで腰掛けている事もない。
「大切な想い出だよね、全部」
姉さんの声はかすれて涙声になった。いつもさりげなく僕を元気付けてくれる姉さんではなく、ちょこんとつつくと壊れそうな感じがした。
「あれは夢じゃなかったんだな…」
「ん?何が…」
何を話したいの?姉さん…。
「小さい頃ね、何かの拍子によく言われたんだあの人に『返して』って」
「あの人って母さんかい?」
姉さんはうつろに頷いた。
「公園で遊んでいて夕方暗くなってお母さんと一緒に帰る道とか、お母さんが夕飯を作っている台所でそう呟いてた」
「姉さんにそう言ったのかい」
「あたししかいない時にしか言わなかった。健太郎が一緒の時には言わなかったな…聞いた事ないでしょ、あんたは」
僕はとっさにどう答えていいか分からなかった。
「聞き返せなかったよ。子供ながらに怖くてさ。何かとっても恐ろしい意味なんだってその事は分かったから。今その意味がわかった…。お母さんはあたしの事が憎かったんだろうな」
僕が言葉を探していると姉さんは続けた。
「あたしにはさ、お父さん健太郎に対してみたいに厳しくなかったでしょ。なぜかなってそれもずっと思ってたんだ。女の子だからそうしたい、そんなところだろうと思ってたんだけど、多分そういう事じゃない」
「どんな?」
僕は悲しそうな目をした姉さんに先を促す言葉しか出てこなかった。
「よくお母さんがお父さんに言ってたよ『もっと由紀子にこうして下さい、ああして下さい』って。厳しく威厳をのあった自分の父親の振る舞いをあなたも由紀子にもっとして下さいっていうことだったんだろうね。そしてお父さんはそれを無視するようにあたしには普通に優しく接した。でもそれはもしかするとあたしへの愛情なんかじゃなくて、お母さんが自分の父親の残像をこの家に持ち込もうとすることへの反発のためだったのかもね。」
僕はショックだった。そういえば父さんは僕に対する態度と姉さんに対する態度がまるで違っていた。姉さんは異様に僕に厳しかった父さんのことをかばって、いや、そうじゃない、僕が父さんのことをそれ以上嫌いにならないように父さんの優しい側面を事あるごとに僕に語ってくれていた。
姉さんは今、その父さんの自分への愛情も、ただ父さんが母さんへの当て付けのために見せていたものだと思い始めているようだった。
「何かあると子供の頃から思ってたんだけどね…。そういうことだったのか…」
「姉さんは僕との想い出は大事かい?」
何かを言わなくちゃいけないと思った。
顔をあげた姉さんは目のふちを自分の手で押さえながら「うん」と言った。
「僕もだよ。懐かしい想い出っていう以上に大切なものだよ」
「うん」姉さんがもう一度頷いて笑った。
この異空間がこの後どうなるのかわからない。でも、姉さんと過ごしたこの家の記憶は、すごく確かなものだと思えた。それが今の僕たちを成り立たせているんだと実感できる自分にホッとしている。それが父さんや母さんの目からみて虚構だとしても、僕たちの想い出の確かさは虚構であるはずがなかった。
この異空間がいつまで続くのか分からない。できれば永遠に続いて欲しいとさえ思う。なぜならこの世界があることの確かさは、この奇跡の根拠は僕たちの想い出に、記憶の確かさにあるのだから。じゃあ、僕たちが逆に過去の想い出を信じられないあの人たちのために、その大切さを、確かさを保証してあげようよ。
どうしゃべったのかは分からない。
僕は多分そんなことを夢中に姉さんにしゃべった。
姉さんは何度か頷いていたようだった。
ふと気がつくとモニターには父親の姿だけがあった。また僕たちに背中を向けて、背中を丸めてソファに座っている。
お父さん…
もしかしてあなたも自分自身が生活してきたこの家を虚構のように感じて苦しんでいたんですか?
ならば、僕たちがお父さんの想い出は虚構なんかじゃないって、僕たちが逆にそう言ってあげたいです。
僕はそんな気持ちにとらわれた自分が不思議だったけれど、ふと姉さんと目が合うと姉さんもまた同じことを考えているんだと思えた。
「そういえばお母さんの姿が見えないね、ずっと」
姉さんがそう言った瞬間、廊下から声がした。
「由紀子!そこで何をしてるの。誰かいるの!」
母さんの不機嫌な声がしてドアのノブが回った。
僕は姉さんの手を乱暴に引き寄せて窓から飛び降りた。
すぐに着地するはずの地面はなかった。
星が綺麗だな。あの星は姉さんと一緒に小さい頃見た覚えがある・・・
一瞬そんなことを思った時、握った姉さんの手の感触の確かさを残して意識がすっと遠のいていった。