地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街 58 憎む事さえできなくて

「錯覚って錯覚なわけがないだろう。家族の大切な想い出だ」
 父さんは思わぬ展開に冷静さを必死に装っているかのようだった。

「話をそこから始めるのね。詫びることではなく。でもかえっていいわ、その方が。御上様も家族の嘘は弁解するたびに嘘を重ねることにしかならないと仰ってる。」

「さっきの聖書の文句か」

「ええ、そうよ。『家族のものがその人の敵になります。』その人、真実の愛に目覚めるものすべて人にとって家族は敵なの。今更弁解など聞いてもしょうがないわ」

 父さんはこの理屈が少しでもわかるのだろうか。僕にはまったく分からなかった。




「ねえ、憎むことを禁じられたやり場のない憎悪の感情ってあなたには分かるかしら?」
 母さんは冷静だけど何かに憑かれたように喋った。その落ち着き方が不気味だった。

「どういう意味だ?」

「もし結婚した後に、家族を持った後にあなたが私や家族を裏切ったのだとしたら、その原因がなんであれ私は何かを憎むことで精神のバランスを保てたと思うの。あなたを憎んだり、私に落ち度があったなら私自身を憎んだりすることができる」

「…それで」

「あなたがどういうつもりであのオンナと別れることなく、いいえ、別れるどころか終世変わらぬ愛を誓った上でこの私と家族を持とうと思ったかは分かりません。あのオンナの言うには『天涯孤独で教育もお金も社会的な立場も何もない自分に家庭を持つなど難しかった』という言葉をひとまずそのまま信じるとしましょう。それならなぜあなたは私と一緒になろうとしたのですか?子供を持とうとしたのですか?そのオンナとの結婚では想像できなかった、理想的な家庭というものを築けると思ったのですか?」

 母さんは少し間を置いて父さんが口を開くのを待っていたかのようだった。でも父さんは無言だった。

「御上様はすべての家族は多かれ少なかれ幻想だと仰るわ。でもうちの場合には幻想がすべて。最初からそんなものはここにはなかった。あると錯覚していたものに怒りの感情を持つことができまして?そしてあなたにその底が抜けたような虚しさの果ての様子が想像できまして?最初から贋物だったすべてに愛しむ想い出など残るとあなたは思ってるんですか?何よりやり直すために怒る事もできないこの絶望的な無力感、これ以上ない完璧な裏切りがあるかしら。楽しかった思いでも何もかも一瞬で葬り去るようなこの無力感。それを取り戻そうとして怒りをぶつけようにも、最初からすべてが贋物だったらそれも不可能なのよ。ただこの間違った月日を元に戻して、最初から全部なかった事にして欲しいということそれだけよ。あなたのやった事は人の心から、何かのために怒るというその気力すら根こそぎ奪ってしまうような完璧な人でなしの業なの。分かるかしら?」




 重苦しい空気が、モニター越しに僕たちのいる二階の姉さんの部屋まで忍び寄ってきてすっと僕たちを包んだ。



 姉さんがつぶやいた。
「お父さんとお母さんとの想い出、全部贋物の錯覚だと思う?あたしたちの存在もあの人たちにとっては全部幻だったのかな」

 モニタを見つめるその瞳は、そんな事をいう母さんをとても憎んでいるように見えた。でもその憎しみの目はどこか自信がなさそうにも見えた。

 僕もまた、そういえば僕自身、人を憎む事ができないという病を抱えていたことを思い出した。

 僕も姉さんも、母さんのいう「憎むことのできない怒り」ということを理解できてしまいそうで、何だか母さんの話の続きを聞くのが怖くなり始めていた。

地下鉄のない街 59 星の瞬きのように

 僕たちはなんだか息苦しくなってモニターから目を離した。姉さんが窓のカーテンを引くと星が瞬いているのが見えた。僕は側に寄って窓のサッシを開けた。ひゅっと風が入ってきてレースのカーテンがアコーディオンのように宙に舞った。

「健太郎さ、さっきのお城のお姫様の話なんだけど…」
 夜空を見上げながら姉さんが明るい声で言った。

「うん」
 僕はその明るい声が痛々しく感じられた。

「お姫様が遠眼鏡でみた世界かな、これ」

「え?どういう意味?」

「遠眼鏡がなければなかった世界。一生気がつかなかった世界。死ぬまで見なくても良かった世界」
 最後は声が震えていた。



 もし母さんの願いがかなって時間を逆に戻して、父さんから自分の人生を取り戻したら、僕と姉さんも出会わなかったはずだ。当たり前だけど僕たちはそういう存在なんだと思った。この姉さんの部屋というのも存在しない。そして窓にこうやって並んで腰掛けている事もない。
 
「大切な想い出だよね、全部」
 姉さんの声はかすれて涙声になった。いつもさりげなく僕を元気付けてくれる姉さんではなく、ちょこんとつつくと壊れそうな感じがした。



「あれは夢じゃなかったんだな…」

「ん?何が…」
 何を話したいの?姉さん…。

「小さい頃ね、何かの拍子によく言われたんだあの人に『返して』って」

「あの人って母さんかい?」

 姉さんはうつろに頷いた。
「公園で遊んでいて夕方暗くなってお母さんと一緒に帰る道とか、お母さんが夕飯を作っている台所でそう呟いてた」

「姉さんにそう言ったのかい」

「あたししかいない時にしか言わなかった。健太郎が一緒の時には言わなかったな…聞いた事ないでしょ、あんたは」

 僕はとっさにどう答えていいか分からなかった。

「聞き返せなかったよ。子供ながらに怖くてさ。何かとっても恐ろしい意味なんだってその事は分かったから。今その意味がわかった…。お母さんはあたしの事が憎かったんだろうな」

 僕が言葉を探していると姉さんは続けた。
「あたしにはさ、お父さん健太郎に対してみたいに厳しくなかったでしょ。なぜかなってそれもずっと思ってたんだ。女の子だからそうしたい、そんなところだろうと思ってたんだけど、多分そういう事じゃない」

「どんな?」
 僕は悲しそうな目をした姉さんに先を促す言葉しか出てこなかった。

「よくお母さんがお父さんに言ってたよ『もっと由紀子にこうして下さい、ああして下さい』って。厳しく威厳をのあった自分の父親の振る舞いをあなたも由紀子にもっとして下さいっていうことだったんだろうね。そしてお父さんはそれを無視するようにあたしには普通に優しく接した。でもそれはもしかするとあたしへの愛情なんかじゃなくて、お母さんが自分の父親の残像をこの家に持ち込もうとすることへの反発のためだったのかもね。」




 僕はショックだった。そういえば父さんは僕に対する態度と姉さんに対する態度がまるで違っていた。姉さんは異様に僕に厳しかった父さんのことをかばって、いや、そうじゃない、僕が父さんのことをそれ以上嫌いにならないように父さんの優しい側面を事あるごとに僕に語ってくれていた。

 姉さんは今、その父さんの自分への愛情も、ただ父さんが母さんへの当て付けのために見せていたものだと思い始めているようだった。

「何かあると子供の頃から思ってたんだけどね…。そういうことだったのか…」



「姉さんは僕との想い出は大事かい?」
 何かを言わなくちゃいけないと思った。

 顔をあげた姉さんは目のふちを自分の手で押さえながら「うん」と言った。

「僕もだよ。懐かしい想い出っていう以上に大切なものだよ」

「うん」姉さんがもう一度頷いて笑った。



 この異空間がこの後どうなるのかわからない。でも、姉さんと過ごしたこの家の記憶は、すごく確かなものだと思えた。それが今の僕たちを成り立たせているんだと実感できる自分にホッとしている。それが父さんや母さんの目からみて虚構だとしても、僕たちの想い出の確かさは虚構であるはずがなかった。

 この異空間がいつまで続くのか分からない。できれば永遠に続いて欲しいとさえ思う。なぜならこの世界があることの確かさは、この奇跡の根拠は僕たちの想い出に、記憶の確かさにあるのだから。じゃあ、僕たちが逆に過去の想い出を信じられないあの人たちのために、その大切さを、確かさを保証してあげようよ。

 どうしゃべったのかは分からない。
 僕は多分そんなことを夢中に姉さんにしゃべった。
 姉さんは何度か頷いていたようだった。




 ふと気がつくとモニターには父親の姿だけがあった。また僕たちに背中を向けて、背中を丸めてソファに座っている。

 お父さん…

 もしかしてあなたも自分自身が生活してきたこの家を虚構のように感じて苦しんでいたんですか?
 ならば、僕たちがお父さんの想い出は虚構なんかじゃないって、僕たちが逆にそう言ってあげたいです。
 僕はそんな気持ちにとらわれた自分が不思議だったけれど、ふと姉さんと目が合うと姉さんもまた同じことを考えているんだと思えた。




「そういえばお母さんの姿が見えないね、ずっと」

 姉さんがそう言った瞬間、廊下から声がした。

「由紀子!そこで何をしてるの。誰かいるの!」
 母さんの不機嫌な声がしてドアのノブが回った。
 



 僕は姉さんの手を乱暴に引き寄せて窓から飛び降りた。

 すぐに着地するはずの地面はなかった。

 星が綺麗だな。あの星は姉さんと一緒に小さい頃見た覚えがある・・・

 一瞬そんなことを思った時、握った姉さんの手の感触の確かさを残して意識がすっと遠のいていった。

地下鉄のない街60 アキレスと亀

 姉さん…

 何か聞こえるよ、健太郎

 声がするね

 うん、誰の声?

 あれは確か…

 聞こえるわ…

 うん…







「僕を見ててよ」

「僕に追いつけるかな」




「みんな今生まれたばかりだから」

「だから大丈夫さ」

「見えすぎる目は閉じていい」

「聞こえすぎる耳はふさげばいい」

「過去は忘れればいい」

「たまには本当のことを言ってもいいのさ」

「隠さなくてもいいよ」

「きっとゆるしてくれるさ」

「敵の神も泣いている」

「失うことできっと見つかるさ」




「僕が見えるかい」

「見えるならまだ大丈夫」

「観ることは赦すことだ」

「そして、君がやることが分かるはずだ」

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

「その瞬間はくる。見ることは赦すことだから」

「世界の速さが消える時、君は君の依存していたものから自由になる」




「君がそれに気づく時、過去は未来に接続され、未来はここでないあそこに移動する」

「その時君はすべてを知る」

「すべてはもともとそこにあったんだ」




 あれは皆川くんの声だ。




 「君も僕も、ただそれがたまたま君であり、僕であったという以外になんの意味もない。そしてつらい過去も現在も、それが過ぎ去った日々であり、今であるという以外になんの意味もない。
 忘れたくないことを忘れないでおくことが尊いことなのではないんだよ。むしろずっそれを憶えておこうとすることこそが、その人を決定的に遠ざけてしまうことなんだ。眠ろうとすることが、深い眠りから人を遠ざけていくようにね。」




 僕は姉さんの手を握り直した




「それはだから別れとは違うんだ」

「僕を見ててよ」

「その時君には分かるはずだ」

「ホントはね…」

「追いつく必要なんてなかったんだ」





 皆川くん?

「・・・・・・」





 光だ!

 出口が見える…

地下鉄のない街67 木島のカルマ

「おかえりなさい」

「ただいま」

「今日は遅かったのね」

「西村がね、問題を起こした」

「問題って?」

「陸上部の下級生を殴って病院送りにしてしまった」

「え?」

「幸い後に残るような大きな傷はなさそうだけど、殴られた皆川は、ああ、皆川っていう途中入部の二年生なんだけど、そいつはしばらく自宅療養だ」

「どれくらいの怪我なの?」

「二週間ってところかな」

「まあ、そんなに…」

「ああ、西村もその期間は停学自宅謹慎という決定がさっき緊急職員会議で決まった。加害者だけが学校にきているというのもまずいからね…」

「…お疲れさま…。ビールでも飲む?」

「ああ、缶の方でいいから」

「…ふぅ。やっと人心地ついたよ」

「それでどうして西村くんが。そこまで感情をあらわにする西村くんというのも目面しいと思うけど」

「いや、そうでないだろ。俺も同じように殴られたじゃないか」

「あれは…ごめんなさい」

「君が謝ることないさ」

「だってあの時は…」

「うん。たしかに君に関係がなくもない。西村は君のこととなると冷静さがなくなってしまうからな」

「…そんなこと」

「いや、まあそんな顔をしなくてもいいさ。今日もよくよく事情を聞いてみれば神崎の名前が出た瞬間にキレてしまったらしい」

「神崎くんの?」

「俺と神崎、西村が陸上部を食い物にしてるっていう皆川のセリフでキレたらしい」

「そんな…」

「西村にとっては木島と一緒にするなという思いもあっただろうな」

「確かにあなたと神崎くんと西村くんは、それぞれまったく別の思惑で陸上部をああいう形で運営してるわ」

「ああ。そうだな」

「特に西村は自分の思っていた女子部員への思いを尊敬する神崎のために断念したということもある」

「…」

「そして神崎と付き合っていたはずのその女性は…」

「やめて、今はそんな話…」

「『教え子の女奪るのが真実の愛ですか?』って何度も口走りながら俺のことを殴ったな。今日の皆川への暴行と同じように…」

「あの時は穏便に済ませてくれてありがとう」

「いや、君に礼を言われることもないと思うよ。僕は僕で自己保身の意味もあったからね。何せ退学したとはいえ元教え子とこうして同棲しているわけだから」

「…うん」

「まあ、いろんなことが絡み合っている。いつかすべてが解決するのかもしれない。ただし最悪の形でな…」

「最悪の?」

「ああ、なんだかそんな気がする…」

「やめてよ、そんなこと言うの…」

「いや、おどかしているわけじゃない。なんというか、天罰みたいなもの…」

「天罰があなたに?」

「そう…。むかし調子に乗って高校時代に青田くんを踏切での投身自殺に追い込んだ時からずっと続いている俺の間違った所業に対して…」

「そのことまだ…」

「ああ、俺にとってはすべてはそこから派生してる」

「あたしとのことも?」

「あるいはね…」

「保健室の春日井先生も?」

「彼女もまたある意味そこからかもな。少なくとも大学でカウンセラーの資格と教職をとって今の職業ついているのはそのせいだよ」

「…。あたしは先生の苦しみを楽にしてあげることはできないの?」

「そんなことはない。感謝してる。感謝してるけど…」

「けど何?」

「神崎から君を奪うようなことになってしまったのはやはりまずかったかもしれないな」

「やめて、いまさらそんなこと言うの」

「…」

「あたしは先生の本当の姿がみたいんだよ。先生が悩んでいることを一緒に考えたいだけ」

「みてどうする?」

「いろんなことが分かるかもしれない」

「それで?」

「何もかも赦せるかもしれない」

「そうか…」

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『健太郎、あの人って確か…』

『ああ、僕もびっくりしたよ。神崎さんの元彼女、陸上部マネージャーだった佐藤淳子先輩だ…。木島先生と一緒に暮らしていたのか…』


 僕と姉さんは城島の住むアパートの窓越しに二人の話を聞いた。

 窓は半開きだったけど、僕たちにはその声が明瞭に聞こえたし二人のつらそうな息づかいも感じられた。あるいはこれも時空を移動した中で僕たちが獲得した能力なのかもしれない。




 皆川くんはいったい僕たちに何を観せようというのだろうか…。
ゆっきー
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