地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街 56 『東方暁の雫』

「あっ」
 僕は思わず後ずさった。母さんがすっと立ち上がったかと思うと、モニター越しに僕たちを睨んで、ずんずんとこちらに寄って来たからだ。

「見つかっちゃった」
 心臓の鼓動が一瞬で上がった。僕は小さく叫ぶと思わず姉さんの手を強く握った。姉さん顔にもサッと緊張が走った。

『由紀子と健太郎…』
 こちらを向いて母さんが声を出した時、身構えるように姉さんが僕の手をきつく握り返した。

 すっと画面から母さんの顔が消えた。

『…あの二人がおかしな事になっているのよ、あなたがだらしないせいで…』
 脱力してソファにもたれかかっている父さんのところまで戻ると、母さんはビデオテープをテーブルの上に置いた。気づかれたのではなく、隠しカメラのすぐ脇に置いてあったのを取りにきたらしい。
 一つの緊張が去ったその瞬間、また別の緊張が僕たちを襲った。

「何だこれは」

「観たら分かるけどまあ、それは後でいいわ。ショックだろうし。簡単に言うと、あの二人が時間をかけて抱き合ってる映像よ」

 持って回った言い回しだったけど、父さんは理解したようだった。必死に何かを言おうと、微かに体を動かしたり手を額に持っていったりしばらく言葉を探しているようだった。

「何でこんなものがあるんだ」
 やっとの思いで振り絞った声は少し震えていた。怒りというよりは困惑、いやほとんど呆然として見えた。

「だからあなたが父親らしくこの家を回して行くのに失敗したからよ」
 悠然としてそういう母親が恐ろしかった。

「俺が聞いているのはなぜ…。いやいい、もっとはっきり聞こう。お前はなぜこんなものを撮影したんだ」

 姉さんと握った手は汗ばんでいた。なぜなんだ?

「穢れを清める事が必要だと言われたのよ。穢れを封じ込めてしまうことが必要だったの」

「誰に言われたって?」

「ミカミ様よ」

「何?ミカ…?三上?」

「『東方暁の雫』の教祖、御上様よ」



 僕は混乱して姉さんの手をぐっと引き寄せた。
「姉さん…」

「何?大丈夫?」
 姉さんは人差し指で僕の額の汗をそっと拭いてくれた。

「『東方暁の雫』……。西村のところの宗教団体だ」

 姉さんの瞳孔がさっと開いた。

地下鉄のない街 49 母の叫び声

 お父さんは弟さん、健太郎くんを救急車で運ばれるほど殴ったことがあったんだってね。お父さんはその事を随分後悔していたよ。

 きっかけは健太郎くんが漫画に出てくる登場人物を何気なく真似て、お父さんの前で吃りの真似をした事だったそうだね。もちろんお父さんをからかったわけじゃない。実のお姉さんにはわかり切った事で僕がそんな事をいうのもおかしいけど、健太郎くんは絶対にそんな事をする種類の人間ではない。むしろそこから一番遠くに生きているやつだと思うよ。
 それにお父さんは自分が吃音で若い頃に苦しみ抜いた事は、子供達にもひた隠しにしていた。他人の僕に対してそんな事をしゃべりながら変な話だけど、家族にもひた隠しにしてたことの反動なのかもね。
 僕はそんなことをふっと思ったんだけど、お父さんがすこし照れたような顔をしたよ。あるいは僕の考えたことが僕の表情に出たのかもしれない。いずれにせよ、お父さんの表情は僕の推測が当たっていたことを示していたと思う。

 僕も曖昧に笑った。その時、何だか僕とお父さんは少し何かを共有し始めたようだった。

 それはそうと、弟さんにしてみたら、いきなり平手打ちを食らってわけが分からなかったというところだろうか。

 お父さんは若い頃に吃音の級友を集団でからかうために、その子の前で吃りの真似をしてたそうだ。なんとなくそうすることが雰囲気的に普通だったそうだよ。特にその子に落ち度があったわけでもない。今のいじめと同じだね。
 罰が当たったという教訓ばなしとしては出来すぎなんだけど、お父さんはいつしか、演技じゃなくて自分自身が本当の吃音者になってしまった。
 でもそこからのお父さんの半生はありきたりの一言では多分片付けることはできなかっただろうと思う。好きな女の子に愛の告白して気持ち悪がられたり、就職試験の最終面接にことごとく失敗したりと、努めてたんたんと話をしていた様に見えたお父さんだけど、最後の最後に僕の前で多分何十年ぶりにはっきりと吃ってしまった。

 例えば薬物に慣れ親しんだ自分の過去の汚点は、少しでも他人が吸引している煙の中に含有されたそれを見逃さない。何十年経っていてもその瞬間に体は禁断症状を誘発する。お父さんもまさかという雰囲気だった。それで何十年ぶりの事なんだろうって僕はそう思った。
 僕は吃音患者の宿痾を見てしまった。もっともお父さんの表情そのものは恐くて顔をあげることができずに見れなかったよ。
 
 お父さんにしてみたら、たとえ漫画の中に出てきた登場人物の真似であるにせよ、自分の息子が自分と同じ苦しみを背負って生きて行くいくことを見逃すわけにはいかなかったということのようだった。
「冗談にもそんなことをするんじゃない」そんな気持ちで叩いた。そうおっしゃってたよ。そして気がついてみたら健太郎くんは口や鼻、耳からも出血して自分の足元に倒れていた。

 一日入院して翌日家に帰ってきた健太郎くんはしばらくとても無口な少年になったそうだね。ほとんど言葉を忘れてしまったかのように。無理もないと思う。
 お父さんが悪かったと言って、自分が吃音に苦しんでいたことを告白し、家族全員の前で自分の過剰反応謝ったけど、健太郎くんは一言も口を利かなかった。今にして思えば、沈黙の真相は健太郎くんの怒りではなくて、口を開こうにも言葉が出てこなかったというところだろうって、お父さんは言っていたよ。
 でもその時はその沈黙が、自分が招いたこととはいえ、お父さんは死ぬ程しんどかったと言っていた。言葉が喉の奥深くで死滅した沈黙は、自分の過去からの過ちを突きつけるフラッシュバックの窒息しそうな拷問の時間だった。

 全員が沈黙した状態は永遠に続くかと思われた。

 沈黙を破ったのは、お母さんの部屋の空気をつんざくようなヒステリックな大声だった。



 「お父さんがこれだけ謝っているのに無視するとはどういうことなの!」

 最悪だね。

 でもお母さんはいつだってお父さんをたてる賢妻だったからね。


 その一言は、沈黙をより一層決定的に深く、決して取り返しのつかない程どす黒い染みのようなものにしてしまった。

 君がよく知っているように…。

地下鉄のない街 57 錯覚の想い出

私が来たのは、地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。

私は平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

私は人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。

家族のものがその人の敵になります。


私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしいものではありません。

また、私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしいものではありません。

また私よりも息子や娘を愛するものは、私にふさわしいものではありません。

………………………………………………………………………………………………

「何だいったいその怪しげな呪文は」

 父さんは動揺を抑えるように強い口調で母親の言葉を遮った。

「怪しげな呪文とは失礼なことを言うわね。もっともあなたは教養に欠けてるから仕方ないかもしれないわね。れっきとした聖書の言葉よ。マタイ伝の第十章にあるわ」

 母親は自分の信じるものをバカにされたと感じたのか不快そうに顔をしかめた。

「キリスト教系の新興宗教か?そのミカミ?とかいう教組がやっているのは」

「御上様ね。世俗の苗字は別にお持ちだけど、教団では御上とこんな風に書くの。私たち信者の中には御神様と、上という字を神という字にもなぞらえて心のなかでお呼びする物もいるわ」

 母親の口から「私たち信者」という言葉が出て来たことに僕は改めて驚いた。しかも西村のところの教団?僕は姉さんに心当たりがあったかどうか目で尋ねた。姉さんは呆れたような絶望したような目で首を横に振った。

「いつからなんだ…」

 父さんは取り敢えず非難がましいことを言わずに事実を確認しようとした。怒りを堪え、冷静に話をしたがっているように見えた。


 しばらく間があったあと母さんが口を開いた。

「あなたの浮気がどうやら浮気じゃないってわかった頃よ。この家にあなたのオンナが電話をかけて来た頃かしら」

 父さんは何か言いかけたけどそのまま沈黙してしまった。再び長い沈黙の後、代わりに母さんが話し始めた。

「気がつかないふりをして、ずっとこのままあなたを立てて、私が理想とした私が生まれ育った家のような家庭が実現する日を待とうと思ったわ。たかが浮気くらい。そう思えば思えたわ。電話であのオンナの声を初めて聞いた時にはね。でもね、そのオンナにあなたとの付き合いが結婚以前からだったっていうことを、この家で、そう今あなたが座っている場所にあのオンナが座って実際に聞いた時に、嘘か本当か確かめる前に力が抜けてしまったのよ」

 母さんはさっきまでとはうってかわって穏やかな表情でゆっくりと話し始めた。

「あの子たち、由紀子や健太郎とのいろんな想い出も含めて、私の大切にして来たものは全部贋物の錯覚なんだってそう思えてしまったから…」

地下鉄のない街 58 憎む事さえできなくて

「錯覚って錯覚なわけがないだろう。家族の大切な想い出だ」
 父さんは思わぬ展開に冷静さを必死に装っているかのようだった。

「話をそこから始めるのね。詫びることではなく。でもかえっていいわ、その方が。御上様も家族の嘘は弁解するたびに嘘を重ねることにしかならないと仰ってる。」

「さっきの聖書の文句か」

「ええ、そうよ。『家族のものがその人の敵になります。』その人、真実の愛に目覚めるものすべて人にとって家族は敵なの。今更弁解など聞いてもしょうがないわ」

 父さんはこの理屈が少しでもわかるのだろうか。僕にはまったく分からなかった。




「ねえ、憎むことを禁じられたやり場のない憎悪の感情ってあなたには分かるかしら?」
 母さんは冷静だけど何かに憑かれたように喋った。その落ち着き方が不気味だった。

「どういう意味だ?」

「もし結婚した後に、家族を持った後にあなたが私や家族を裏切ったのだとしたら、その原因がなんであれ私は何かを憎むことで精神のバランスを保てたと思うの。あなたを憎んだり、私に落ち度があったなら私自身を憎んだりすることができる」

「…それで」

「あなたがどういうつもりであのオンナと別れることなく、いいえ、別れるどころか終世変わらぬ愛を誓った上でこの私と家族を持とうと思ったかは分かりません。あのオンナの言うには『天涯孤独で教育もお金も社会的な立場も何もない自分に家庭を持つなど難しかった』という言葉をひとまずそのまま信じるとしましょう。それならなぜあなたは私と一緒になろうとしたのですか?子供を持とうとしたのですか?そのオンナとの結婚では想像できなかった、理想的な家庭というものを築けると思ったのですか?」

 母さんは少し間を置いて父さんが口を開くのを待っていたかのようだった。でも父さんは無言だった。

「御上様はすべての家族は多かれ少なかれ幻想だと仰るわ。でもうちの場合には幻想がすべて。最初からそんなものはここにはなかった。あると錯覚していたものに怒りの感情を持つことができまして?そしてあなたにその底が抜けたような虚しさの果ての様子が想像できまして?最初から贋物だったすべてに愛しむ想い出など残るとあなたは思ってるんですか?何よりやり直すために怒る事もできないこの絶望的な無力感、これ以上ない完璧な裏切りがあるかしら。楽しかった思いでも何もかも一瞬で葬り去るようなこの無力感。それを取り戻そうとして怒りをぶつけようにも、最初からすべてが贋物だったらそれも不可能なのよ。ただこの間違った月日を元に戻して、最初から全部なかった事にして欲しいということそれだけよ。あなたのやった事は人の心から、何かのために怒るというその気力すら根こそぎ奪ってしまうような完璧な人でなしの業なの。分かるかしら?」




 重苦しい空気が、モニター越しに僕たちのいる二階の姉さんの部屋まで忍び寄ってきてすっと僕たちを包んだ。



 姉さんがつぶやいた。
「お父さんとお母さんとの想い出、全部贋物の錯覚だと思う?あたしたちの存在もあの人たちにとっては全部幻だったのかな」

 モニタを見つめるその瞳は、そんな事をいう母さんをとても憎んでいるように見えた。でもその憎しみの目はどこか自信がなさそうにも見えた。

 僕もまた、そういえば僕自身、人を憎む事ができないという病を抱えていたことを思い出した。

 僕も姉さんも、母さんのいう「憎むことのできない怒り」ということを理解できてしまいそうで、何だか母さんの話の続きを聞くのが怖くなり始めていた。
ゆっきー
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