地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街 59 星の瞬きのように

 僕たちはなんだか息苦しくなってモニターから目を離した。姉さんが窓のカーテンを引くと星が瞬いているのが見えた。僕は側に寄って窓のサッシを開けた。ひゅっと風が入ってきてレースのカーテンがアコーディオンのように宙に舞った。

「健太郎さ、さっきのお城のお姫様の話なんだけど…」
 夜空を見上げながら姉さんが明るい声で言った。

「うん」
 僕はその明るい声が痛々しく感じられた。

「お姫様が遠眼鏡でみた世界かな、これ」

「え?どういう意味?」

「遠眼鏡がなければなかった世界。一生気がつかなかった世界。死ぬまで見なくても良かった世界」
 最後は声が震えていた。



 もし母さんの願いがかなって時間を逆に戻して、父さんから自分の人生を取り戻したら、僕と姉さんも出会わなかったはずだ。当たり前だけど僕たちはそういう存在なんだと思った。この姉さんの部屋というのも存在しない。そして窓にこうやって並んで腰掛けている事もない。
 
「大切な想い出だよね、全部」
 姉さんの声はかすれて涙声になった。いつもさりげなく僕を元気付けてくれる姉さんではなく、ちょこんとつつくと壊れそうな感じがした。



「あれは夢じゃなかったんだな…」

「ん?何が…」
 何を話したいの?姉さん…。

「小さい頃ね、何かの拍子によく言われたんだあの人に『返して』って」

「あの人って母さんかい?」

 姉さんはうつろに頷いた。
「公園で遊んでいて夕方暗くなってお母さんと一緒に帰る道とか、お母さんが夕飯を作っている台所でそう呟いてた」

「姉さんにそう言ったのかい」

「あたししかいない時にしか言わなかった。健太郎が一緒の時には言わなかったな…聞いた事ないでしょ、あんたは」

 僕はとっさにどう答えていいか分からなかった。

「聞き返せなかったよ。子供ながらに怖くてさ。何かとっても恐ろしい意味なんだってその事は分かったから。今その意味がわかった…。お母さんはあたしの事が憎かったんだろうな」

 僕が言葉を探していると姉さんは続けた。
「あたしにはさ、お父さん健太郎に対してみたいに厳しくなかったでしょ。なぜかなってそれもずっと思ってたんだ。女の子だからそうしたい、そんなところだろうと思ってたんだけど、多分そういう事じゃない」

「どんな?」
 僕は悲しそうな目をした姉さんに先を促す言葉しか出てこなかった。

「よくお母さんがお父さんに言ってたよ『もっと由紀子にこうして下さい、ああして下さい』って。厳しく威厳をのあった自分の父親の振る舞いをあなたも由紀子にもっとして下さいっていうことだったんだろうね。そしてお父さんはそれを無視するようにあたしには普通に優しく接した。でもそれはもしかするとあたしへの愛情なんかじゃなくて、お母さんが自分の父親の残像をこの家に持ち込もうとすることへの反発のためだったのかもね。」




 僕はショックだった。そういえば父さんは僕に対する態度と姉さんに対する態度がまるで違っていた。姉さんは異様に僕に厳しかった父さんのことをかばって、いや、そうじゃない、僕が父さんのことをそれ以上嫌いにならないように父さんの優しい側面を事あるごとに僕に語ってくれていた。

 姉さんは今、その父さんの自分への愛情も、ただ父さんが母さんへの当て付けのために見せていたものだと思い始めているようだった。

「何かあると子供の頃から思ってたんだけどね…。そういうことだったのか…」



「姉さんは僕との想い出は大事かい?」
 何かを言わなくちゃいけないと思った。

 顔をあげた姉さんは目のふちを自分の手で押さえながら「うん」と言った。

「僕もだよ。懐かしい想い出っていう以上に大切なものだよ」

「うん」姉さんがもう一度頷いて笑った。



 この異空間がこの後どうなるのかわからない。でも、姉さんと過ごしたこの家の記憶は、すごく確かなものだと思えた。それが今の僕たちを成り立たせているんだと実感できる自分にホッとしている。それが父さんや母さんの目からみて虚構だとしても、僕たちの想い出の確かさは虚構であるはずがなかった。

 この異空間がいつまで続くのか分からない。できれば永遠に続いて欲しいとさえ思う。なぜならこの世界があることの確かさは、この奇跡の根拠は僕たちの想い出に、記憶の確かさにあるのだから。じゃあ、僕たちが逆に過去の想い出を信じられないあの人たちのために、その大切さを、確かさを保証してあげようよ。

 どうしゃべったのかは分からない。
 僕は多分そんなことを夢中に姉さんにしゃべった。
 姉さんは何度か頷いていたようだった。




 ふと気がつくとモニターには父親の姿だけがあった。また僕たちに背中を向けて、背中を丸めてソファに座っている。

 お父さん…

 もしかしてあなたも自分自身が生活してきたこの家を虚構のように感じて苦しんでいたんですか?
 ならば、僕たちがお父さんの想い出は虚構なんかじゃないって、僕たちが逆にそう言ってあげたいです。
 僕はそんな気持ちにとらわれた自分が不思議だったけれど、ふと姉さんと目が合うと姉さんもまた同じことを考えているんだと思えた。




「そういえばお母さんの姿が見えないね、ずっと」

 姉さんがそう言った瞬間、廊下から声がした。

「由紀子!そこで何をしてるの。誰かいるの!」
 母さんの不機嫌な声がしてドアのノブが回った。
 



 僕は姉さんの手を乱暴に引き寄せて窓から飛び降りた。

 すぐに着地するはずの地面はなかった。

 星が綺麗だな。あの星は姉さんと一緒に小さい頃見た覚えがある・・・

 一瞬そんなことを思った時、握った姉さんの手の感触の確かさを残して意識がすっと遠のいていった。

地下鉄のない街60 アキレスと亀

 姉さん…

 何か聞こえるよ、健太郎

 声がするね

 うん、誰の声?

 あれは確か…

 聞こえるわ…

 うん…







「僕を見ててよ」

「僕に追いつけるかな」




「みんな今生まれたばかりだから」

「だから大丈夫さ」

「見えすぎる目は閉じていい」

「聞こえすぎる耳はふさげばいい」

「過去は忘れればいい」

「たまには本当のことを言ってもいいのさ」

「隠さなくてもいいよ」

「きっとゆるしてくれるさ」

「敵の神も泣いている」

「失うことできっと見つかるさ」




「僕が見えるかい」

「見えるならまだ大丈夫」

「観ることは赦すことだ」

「そして、君がやることが分かるはずだ」

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

「その瞬間はくる。見ることは赦すことだから」

「世界の速さが消える時、君は君の依存していたものから自由になる」




「君がそれに気づく時、過去は未来に接続され、未来はここでないあそこに移動する」

「その時君はすべてを知る」

「すべてはもともとそこにあったんだ」




 あれは皆川くんの声だ。




 「君も僕も、ただそれがたまたま君であり、僕であったという以外になんの意味もない。そしてつらい過去も現在も、それが過ぎ去った日々であり、今であるという以外になんの意味もない。
 忘れたくないことを忘れないでおくことが尊いことなのではないんだよ。むしろずっそれを憶えておこうとすることこそが、その人を決定的に遠ざけてしまうことなんだ。眠ろうとすることが、深い眠りから人を遠ざけていくようにね。」




 僕は姉さんの手を握り直した




「それはだから別れとは違うんだ」

「僕を見ててよ」

「その時君には分かるはずだ」

「ホントはね…」

「追いつく必要なんてなかったんだ」





 皆川くん?

「・・・・・・」





 光だ!

 出口が見える…

地下鉄のない街67 木島のカルマ

「おかえりなさい」

「ただいま」

「今日は遅かったのね」

「西村がね、問題を起こした」

「問題って?」

「陸上部の下級生を殴って病院送りにしてしまった」

「え?」

「幸い後に残るような大きな傷はなさそうだけど、殴られた皆川は、ああ、皆川っていう途中入部の二年生なんだけど、そいつはしばらく自宅療養だ」

「どれくらいの怪我なの?」

「二週間ってところかな」

「まあ、そんなに…」

「ああ、西村もその期間は停学自宅謹慎という決定がさっき緊急職員会議で決まった。加害者だけが学校にきているというのもまずいからね…」

「…お疲れさま…。ビールでも飲む?」

「ああ、缶の方でいいから」

「…ふぅ。やっと人心地ついたよ」

「それでどうして西村くんが。そこまで感情をあらわにする西村くんというのも目面しいと思うけど」

「いや、そうでないだろ。俺も同じように殴られたじゃないか」

「あれは…ごめんなさい」

「君が謝ることないさ」

「だってあの時は…」

「うん。たしかに君に関係がなくもない。西村は君のこととなると冷静さがなくなってしまうからな」

「…そんなこと」

「いや、まあそんな顔をしなくてもいいさ。今日もよくよく事情を聞いてみれば神崎の名前が出た瞬間にキレてしまったらしい」

「神崎くんの?」

「俺と神崎、西村が陸上部を食い物にしてるっていう皆川のセリフでキレたらしい」

「そんな…」

「西村にとっては木島と一緒にするなという思いもあっただろうな」

「確かにあなたと神崎くんと西村くんは、それぞれまったく別の思惑で陸上部をああいう形で運営してるわ」

「ああ。そうだな」

「特に西村は自分の思っていた女子部員への思いを尊敬する神崎のために断念したということもある」

「…」

「そして神崎と付き合っていたはずのその女性は…」

「やめて、今はそんな話…」

「『教え子の女奪るのが真実の愛ですか?』って何度も口走りながら俺のことを殴ったな。今日の皆川への暴行と同じように…」

「あの時は穏便に済ませてくれてありがとう」

「いや、君に礼を言われることもないと思うよ。僕は僕で自己保身の意味もあったからね。何せ退学したとはいえ元教え子とこうして同棲しているわけだから」

「…うん」

「まあ、いろんなことが絡み合っている。いつかすべてが解決するのかもしれない。ただし最悪の形でな…」

「最悪の?」

「ああ、なんだかそんな気がする…」

「やめてよ、そんなこと言うの…」

「いや、おどかしているわけじゃない。なんというか、天罰みたいなもの…」

「天罰があなたに?」

「そう…。むかし調子に乗って高校時代に青田くんを踏切での投身自殺に追い込んだ時からずっと続いている俺の間違った所業に対して…」

「そのことまだ…」

「ああ、俺にとってはすべてはそこから派生してる」

「あたしとのことも?」

「あるいはね…」

「保健室の春日井先生も?」

「彼女もまたある意味そこからかもな。少なくとも大学でカウンセラーの資格と教職をとって今の職業ついているのはそのせいだよ」

「…。あたしは先生の苦しみを楽にしてあげることはできないの?」

「そんなことはない。感謝してる。感謝してるけど…」

「けど何?」

「神崎から君を奪うようなことになってしまったのはやはりまずかったかもしれないな」

「やめて、いまさらそんなこと言うの」

「…」

「あたしは先生の本当の姿がみたいんだよ。先生が悩んでいることを一緒に考えたいだけ」

「みてどうする?」

「いろんなことが分かるかもしれない」

「それで?」

「何もかも赦せるかもしれない」

「そうか…」

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『健太郎、あの人って確か…』

『ああ、僕もびっくりしたよ。神崎さんの元彼女、陸上部マネージャーだった佐藤淳子先輩だ…。木島先生と一緒に暮らしていたのか…』


 僕と姉さんは城島の住むアパートの窓越しに二人の話を聞いた。

 窓は半開きだったけど、僕たちにはその声が明瞭に聞こえたし二人のつらそうな息づかいも感じられた。あるいはこれも時空を移動した中で僕たちが獲得した能力なのかもしれない。




 皆川くんはいったい僕たちに何を観せようというのだろうか…。

地下鉄のない街61 闇の出口

「皆川君、ちょっといいかな」

「何ですか」

「また保健室の春日井先生の邪魔をしにきてたってわけか」

「それが西村先輩に何か関係があるんですか?」



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 僕は姉さんの手を握り直すことで、目の前の情景を理解しようとした。

 制服姿の皆川君。声をかけたのは僕たちの学校名が背中に入った陸上部のジャージを着た西村だった。

 今度のタイムスリップの出口は皆川君が陸上部に途中入部した後の一コマのようだった。保健室の扉を閉めて中から出てきた皆川君を、廊下で待ち構えていた西村が捕まえたということのようだった。



 奇妙な陸上部だった。

 学園の理事長の息子神崎透を錦の旗印にした陸上部は、顧問の木島浩輔の下徹底した「護送船団方式」をとっていた。

 護送船団方式とはもともと海軍の戦術用語で、敵陣まで自軍の船が航行する時最も速力の遅い船に合わせて、その時々の戦局に応じた最適な陣形を取る事を言う。

 それが僕達の陸上部の姿そのものだった。



 当時新聞やテレビなどで、過度の競争を避けて落伍するものがないようそれぞれの企業を監督官庁が保護し、業界全体の存続と利益を実質的に保証する日本型の社会システムがアメリカから批判を浴びていた。僕たちは日本社会の綺麗な縮小相似形を僕たちの陸上部に見たのだった。

 足の遅い者もそれなりに馴れ合いのローテーションで競技会に出る事ができた。そして顧問の木島は理事長の息子神崎先輩の顔を最大限立てることで学園から莫大な予算を獲得し、部員たちは理事長の政治力でその殆どが高校卒業後、系列の大学ではなくスポーツ推薦枠で有名私立大学に推薦入学して行くという強固なシステムが確立されていた。




 皆川君はそのシステム全てを無視した途中入部の闖入者だった。

 もともと、目立たない生徒だった。というより真相は目立つことで余計な摩擦を回避して生きて行く事を皆川君は信条としていたようだった。それはもともとの皆川君の優しすぎる性格もあるのだろうけど、やはり小学生の時に受けた言われのないいじめが原因だったのだろうと思う。

 中途半端に目立つくらいなら自分の能力を隠して静かに学校生活を送りたい。多分それが皆川君の偽らざる思いだったに違いない。実際いったん学校でスターの側に分類されてしまうといろんな気苦労が多いのも確かだ。
 早い話、スターは常にスターでいる事を要求される。スターでないものを突き落とし、スターのスター性を自ら常に際だたせるということもしないといけない。僕の知る皆川くんにそれは最も似合わなかった。


 陸上部でいえば、他ならぬ学園理事長の息子神崎先輩がその役割だった。と言っても神崎先輩は足がずば抜けて速いわけではない。そのことは陸上部員は誰でも知っている。しかしお約束で誰もそのことは口にしない。そして誰も神崎先輩の種目、800メートルと400メートルの中距離で彼より速く走ってはいけないのだ。
 神崎先輩の顔を潰さず、この「護送船団方式」を維持して卒業していけばいいのだ。そうしていれば足の遅いものでもそれなりに日の当たる場所に出れるし、卒業後は有名私立大学が保証されるのだから。

 神崎先輩も自分が理事長の息子であるということで何を期待されているかもわかっていた。要するにお飾りスターという危うい地位を全うして父親の機嫌を損ねないように振る舞い、陸上部部員全員それぞれの利益を最大化する役割を演じていればいいのだ。

 考えてみればこれ程痛々しい役割もないと僕は入部してすぐに気がついた。それを平気でさせている顧問の木島には徹底的に人間的な嫌悪感も抱いた。でも僕自身そのことを口にすることはなかった。




 そんな状態に静かに抗っていたのが、マネージャーの佐藤淳子先輩だった。神崎先輩の彼女だ。正確にはだったなのかもしれない。神崎先輩のその辛さを全て理解した上で、護送船団方式の陸上部のマネージャーをこなしながら神崎先輩の恋人という存在だった佐藤先輩は、僕が入部した年の最後の方に陸上部をやめてしまった。いや、学校を退学してしまったので自動的に陸上部も退部になったと言うべきか…。
 何があったのかは僕たち一般の部員には分からなかったけど、その状況の板挟みに苦しんでいたようなことは、佐藤先輩のあの健気な様子を見ていていたい程よくわかった。




 皆川君は佐藤先輩の体部の後、学年が変わって間もなく途中入部してきたのだった。

 それまでの自分のキャラを捨てて。




 理由は、入部から一年も経たずに自ら命を絶ってしまった皆川君が抱いた、保健室のマドンナ春日井先生への純愛だった。
ゆっきー
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