地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街60 アキレスと亀

 姉さん…

 何か聞こえるよ、健太郎

 声がするね

 うん、誰の声?

 あれは確か…

 聞こえるわ…

 うん…







「僕を見ててよ」

「僕に追いつけるかな」




「みんな今生まれたばかりだから」

「だから大丈夫さ」

「見えすぎる目は閉じていい」

「聞こえすぎる耳はふさげばいい」

「過去は忘れればいい」

「たまには本当のことを言ってもいいのさ」

「隠さなくてもいいよ」

「きっとゆるしてくれるさ」

「敵の神も泣いている」

「失うことできっと見つかるさ」




「僕が見えるかい」

「見えるならまだ大丈夫」

「観ることは赦すことだ」

「そして、君がやることが分かるはずだ」

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

「その瞬間はくる。見ることは赦すことだから」

「世界の速さが消える時、君は君の依存していたものから自由になる」




「君がそれに気づく時、過去は未来に接続され、未来はここでないあそこに移動する」

「その時君はすべてを知る」

「すべてはもともとそこにあったんだ」




 あれは皆川くんの声だ。




 「君も僕も、ただそれがたまたま君であり、僕であったという以外になんの意味もない。そしてつらい過去も現在も、それが過ぎ去った日々であり、今であるという以外になんの意味もない。
 忘れたくないことを忘れないでおくことが尊いことなのではないんだよ。むしろずっそれを憶えておこうとすることこそが、その人を決定的に遠ざけてしまうことなんだ。眠ろうとすることが、深い眠りから人を遠ざけていくようにね。」




 僕は姉さんの手を握り直した




「それはだから別れとは違うんだ」

「僕を見ててよ」

「その時君には分かるはずだ」

「ホントはね…」

「追いつく必要なんてなかったんだ」





 皆川くん?

「・・・・・・」





 光だ!

 出口が見える…

地下鉄のない街67 木島のカルマ

「おかえりなさい」

「ただいま」

「今日は遅かったのね」

「西村がね、問題を起こした」

「問題って?」

「陸上部の下級生を殴って病院送りにしてしまった」

「え?」

「幸い後に残るような大きな傷はなさそうだけど、殴られた皆川は、ああ、皆川っていう途中入部の二年生なんだけど、そいつはしばらく自宅療養だ」

「どれくらいの怪我なの?」

「二週間ってところかな」

「まあ、そんなに…」

「ああ、西村もその期間は停学自宅謹慎という決定がさっき緊急職員会議で決まった。加害者だけが学校にきているというのもまずいからね…」

「…お疲れさま…。ビールでも飲む?」

「ああ、缶の方でいいから」

「…ふぅ。やっと人心地ついたよ」

「それでどうして西村くんが。そこまで感情をあらわにする西村くんというのも目面しいと思うけど」

「いや、そうでないだろ。俺も同じように殴られたじゃないか」

「あれは…ごめんなさい」

「君が謝ることないさ」

「だってあの時は…」

「うん。たしかに君に関係がなくもない。西村は君のこととなると冷静さがなくなってしまうからな」

「…そんなこと」

「いや、まあそんな顔をしなくてもいいさ。今日もよくよく事情を聞いてみれば神崎の名前が出た瞬間にキレてしまったらしい」

「神崎くんの?」

「俺と神崎、西村が陸上部を食い物にしてるっていう皆川のセリフでキレたらしい」

「そんな…」

「西村にとっては木島と一緒にするなという思いもあっただろうな」

「確かにあなたと神崎くんと西村くんは、それぞれまったく別の思惑で陸上部をああいう形で運営してるわ」

「ああ。そうだな」

「特に西村は自分の思っていた女子部員への思いを尊敬する神崎のために断念したということもある」

「…」

「そして神崎と付き合っていたはずのその女性は…」

「やめて、今はそんな話…」

「『教え子の女奪るのが真実の愛ですか?』って何度も口走りながら俺のことを殴ったな。今日の皆川への暴行と同じように…」

「あの時は穏便に済ませてくれてありがとう」

「いや、君に礼を言われることもないと思うよ。僕は僕で自己保身の意味もあったからね。何せ退学したとはいえ元教え子とこうして同棲しているわけだから」

「…うん」

「まあ、いろんなことが絡み合っている。いつかすべてが解決するのかもしれない。ただし最悪の形でな…」

「最悪の?」

「ああ、なんだかそんな気がする…」

「やめてよ、そんなこと言うの…」

「いや、おどかしているわけじゃない。なんというか、天罰みたいなもの…」

「天罰があなたに?」

「そう…。むかし調子に乗って高校時代に青田くんを踏切での投身自殺に追い込んだ時からずっと続いている俺の間違った所業に対して…」

「そのことまだ…」

「ああ、俺にとってはすべてはそこから派生してる」

「あたしとのことも?」

「あるいはね…」

「保健室の春日井先生も?」

「彼女もまたある意味そこからかもな。少なくとも大学でカウンセラーの資格と教職をとって今の職業ついているのはそのせいだよ」

「…。あたしは先生の苦しみを楽にしてあげることはできないの?」

「そんなことはない。感謝してる。感謝してるけど…」

「けど何?」

「神崎から君を奪うようなことになってしまったのはやはりまずかったかもしれないな」

「やめて、いまさらそんなこと言うの」

「…」

「あたしは先生の本当の姿がみたいんだよ。先生が悩んでいることを一緒に考えたいだけ」

「みてどうする?」

「いろんなことが分かるかもしれない」

「それで?」

「何もかも赦せるかもしれない」

「そうか…」

=====================================

『健太郎、あの人って確か…』

『ああ、僕もびっくりしたよ。神崎さんの元彼女、陸上部マネージャーだった佐藤淳子先輩だ…。木島先生と一緒に暮らしていたのか…』


 僕と姉さんは城島の住むアパートの窓越しに二人の話を聞いた。

 窓は半開きだったけど、僕たちにはその声が明瞭に聞こえたし二人のつらそうな息づかいも感じられた。あるいはこれも時空を移動した中で僕たちが獲得した能力なのかもしれない。




 皆川くんはいったい僕たちに何を観せようというのだろうか…。

地下鉄のない街61 闇の出口

「皆川君、ちょっといいかな」

「何ですか」

「また保健室の春日井先生の邪魔をしにきてたってわけか」

「それが西村先輩に何か関係があるんですか?」



----------------------------
 僕は姉さんの手を握り直すことで、目の前の情景を理解しようとした。

 制服姿の皆川君。声をかけたのは僕たちの学校名が背中に入った陸上部のジャージを着た西村だった。

 今度のタイムスリップの出口は皆川君が陸上部に途中入部した後の一コマのようだった。保健室の扉を閉めて中から出てきた皆川君を、廊下で待ち構えていた西村が捕まえたということのようだった。



 奇妙な陸上部だった。

 学園の理事長の息子神崎透を錦の旗印にした陸上部は、顧問の木島浩輔の下徹底した「護送船団方式」をとっていた。

 護送船団方式とはもともと海軍の戦術用語で、敵陣まで自軍の船が航行する時最も速力の遅い船に合わせて、その時々の戦局に応じた最適な陣形を取る事を言う。

 それが僕達の陸上部の姿そのものだった。



 当時新聞やテレビなどで、過度の競争を避けて落伍するものがないようそれぞれの企業を監督官庁が保護し、業界全体の存続と利益を実質的に保証する日本型の社会システムがアメリカから批判を浴びていた。僕たちは日本社会の綺麗な縮小相似形を僕たちの陸上部に見たのだった。

 足の遅い者もそれなりに馴れ合いのローテーションで競技会に出る事ができた。そして顧問の木島は理事長の息子神崎先輩の顔を最大限立てることで学園から莫大な予算を獲得し、部員たちは理事長の政治力でその殆どが高校卒業後、系列の大学ではなくスポーツ推薦枠で有名私立大学に推薦入学して行くという強固なシステムが確立されていた。




 皆川君はそのシステム全てを無視した途中入部の闖入者だった。

 もともと、目立たない生徒だった。というより真相は目立つことで余計な摩擦を回避して生きて行く事を皆川君は信条としていたようだった。それはもともとの皆川君の優しすぎる性格もあるのだろうけど、やはり小学生の時に受けた言われのないいじめが原因だったのだろうと思う。

 中途半端に目立つくらいなら自分の能力を隠して静かに学校生活を送りたい。多分それが皆川君の偽らざる思いだったに違いない。実際いったん学校でスターの側に分類されてしまうといろんな気苦労が多いのも確かだ。
 早い話、スターは常にスターでいる事を要求される。スターでないものを突き落とし、スターのスター性を自ら常に際だたせるということもしないといけない。僕の知る皆川くんにそれは最も似合わなかった。


 陸上部でいえば、他ならぬ学園理事長の息子神崎先輩がその役割だった。と言っても神崎先輩は足がずば抜けて速いわけではない。そのことは陸上部員は誰でも知っている。しかしお約束で誰もそのことは口にしない。そして誰も神崎先輩の種目、800メートルと400メートルの中距離で彼より速く走ってはいけないのだ。
 神崎先輩の顔を潰さず、この「護送船団方式」を維持して卒業していけばいいのだ。そうしていれば足の遅いものでもそれなりに日の当たる場所に出れるし、卒業後は有名私立大学が保証されるのだから。

 神崎先輩も自分が理事長の息子であるということで何を期待されているかもわかっていた。要するにお飾りスターという危うい地位を全うして父親の機嫌を損ねないように振る舞い、陸上部部員全員それぞれの利益を最大化する役割を演じていればいいのだ。

 考えてみればこれ程痛々しい役割もないと僕は入部してすぐに気がついた。それを平気でさせている顧問の木島には徹底的に人間的な嫌悪感も抱いた。でも僕自身そのことを口にすることはなかった。




 そんな状態に静かに抗っていたのが、マネージャーの佐藤淳子先輩だった。神崎先輩の彼女だ。正確にはだったなのかもしれない。神崎先輩のその辛さを全て理解した上で、護送船団方式の陸上部のマネージャーをこなしながら神崎先輩の恋人という存在だった佐藤先輩は、僕が入部した年の最後の方に陸上部をやめてしまった。いや、学校を退学してしまったので自動的に陸上部も退部になったと言うべきか…。
 何があったのかは僕たち一般の部員には分からなかったけど、その状況の板挟みに苦しんでいたようなことは、佐藤先輩のあの健気な様子を見ていていたい程よくわかった。




 皆川君は佐藤先輩の体部の後、学年が変わって間もなく途中入部してきたのだった。

 それまでの自分のキャラを捨てて。




 理由は、入部から一年も経たずに自ら命を絶ってしまった皆川君が抱いた、保健室のマドンナ春日井先生への純愛だった。

地下鉄のない街62 五人?

「毎日のようによくそんなに話することがあるね」

 自分の教室がある方向に向かおうとした皆川君を西村が遮った。廊下の壁に自分の右腕をつっかい棒のようにして突き出してもたれかかり、皆川君の行く手を邪魔しながら話しかけた。

「いろいろですよ、心理学と精神分析学とか興味あるし…」

 西村よりもやや上背のある皆川君は、西村の腕を強引に突破できなくもなさそうだったけど、ことを荒立てずに受け答えすることを選んだようだった。

「人間の心の奥底に興味があるかのかい」

 西村は薄笑いを浮かべながら粘着質の声で言った。

「ええ、まあ」



 表面上普通に受け答えを始めた皆川くんを観て西村は薄ら笑いを浮かべていた。

「俺も興味があるよ。といっても俺は心理学とかは興味はないんだ。もっとね、こう実際役に立つような実践的なものが好きだな。春日井先生のカウンセリングなんて所詮、現実に顔をまともに向けられないクズのマスターベーションの手助けだろうが。白衣を着たあのかわいい先生が、そのドアの向こうでメガネをかけたまま右手を使ってくれるのかな。いいなあ、皆川君は。保健室に毎日きたがるのもよく分かるよ」

 自分自身と春日井先生を同時に侮辱されて皆川君の顔に赤みが差した。目の奥で怒りをこらえているのがわかった。以前の皆川君にはなかった表情だった。皆川君は僕よりも先に正しく怒るということを覚えたようだった。



「西村さんの実際に役に立つものって、家族ぐるみで"はで"にやってる宗教ごっこのことですか」

 今度は西村の顔がみるみる憤怒で血に染まった。おそらくそこは西村の最大の急所のはずで、それがために誰一人としてこれまで西村にそんなことをいう人はいなかったのだった。



 黙っている西村に皆川君が追い打ちをかけた。

「それとも顧問の木島先生や神崎先輩と一緒に陸上部を自分たちのいいように食いものにしてることですか」

 その瞬間皆川君が廊下の反対側まで吹き飛び、歩いていた女生徒二人を巻き込んで倒れこんだ。
 僕も姉さんも一瞬何が起きたのか分からなかった。しかし西村がすぐに皆川君に追うように殴りかかっていったので、西村の拳が皆川君を吹き飛ばしたらしいことが分かった。


「お前に神崎さんの何がわかるんだ」

 西村が激昂しているのは自分の家の新興宗教のことを言われてのことでゃなかったらしい。あるいはその理由で殴りかかるにはてれもあったのかもしれないと僕は思ったが、そんなことよりも皆川君の顔は殴打を繰り返す西村の手の中でみるみる血にまみれていった。




 止めなきゃ皆川君が死ぬ!僕は飛び出しかけた。

 いやまてよ、タイムスリップしている僕にこの事態をなんとかできるんだろうか。

 僕が西村を止めようとした瞬間その根本的なことが頭をよぎった。これはあくまで外側の世界から眺めているだけのことなんだろうか。

 ここにくる前に姉さんの部屋に母さんがいきなり入ってきた時には、驚いて姉さんの手を引いて窓から飛び降りた。だから母さんに対して僕らが認識できるのか、実在の人間としてお互いからだが触れ合ったりするものなのかどうかは分からなかった。

 一瞬ためらって姉さんの方をみると姉さんも同じことを考えていたのか、不安そうな顔をして僕を見返した。





 その時、あつまりかけた野次馬のざわめきを一瞬で静かにさせる大声が廊下にこだました。

「何やってるんだ」

 尋ねているのではなく有無を言わずに静止させる、木島先生の怒鳴り声だった。

 野次馬はあっという間にいなくなり、皆川君、西村、木島先生の三人が無言で廊下に残された。







 いや、あと二人。

 この世界にとってどういう位置づけなのか、まだはっきりとは分かっていない僕と姉さんは、とりあえず向こうからの視覚に入らないように廊下の角に身を隠した。
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
0
  • 0円
  • ダウンロード

58 / 133

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント