地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街118 誰の涙?

「娘の話は七十歳を過ぎたわたしにはかなりしんどいものでありました。いえ、しんどいなどとわたしがいってはいけないのですね。娘はそのことに苦しんできたのですから。といっても、話は自分が本当の子どもじゃないとか、父親に云々というのはなかなか出てこなかったんですよ。あの子のがそれこそ堰を切ったように話し始めたのは、もっとありふれた…、あら、だめですね。そういう言い方こそ自分があの子にしてきたことをきちんと反省できていない証拠みたいなもの。あの子にとっては私の何気ないつもりの一言や、よかれと思ってしたことのほとんどすべてが、重荷であり、苦痛であり、取り返しのつかない足かせ、母親からの呪いのようなもにだったのに違いないのですから」




 会場は静かにどよめいた。すゑさんが目頭を押さえたと思うとそのまま声をあげて泣き出したからだ。
 これまで落ち着いた口調で、ときに海千山千の南堂社長も鼻づらをひきまわされるようなユーモアたっぷりだったすゑさんだった。性的ないたずら云々の娘さんの衝撃的な告白を聞かされた話の時も悲しい顔はしていたがその声は深々と落ち着いていた。


 すゑさんは嗚咽を圧し殺しながら懸命に話を続けた。まるでそれが自分に与えられた処罰であるかのような厳しい表情をしていた。


「あなたに似合わないからおよしなさい。あなたはそんな子じゃないわ。…あらやだ、何やってるの、イヤらしい、色気付いてはしたない。お母さんが悲しむのがわからないの?あなただったらお母さんのいう事分かるわよね。まあすごい…でももっとこうした方がいいわね。…」


 会場は某然として、泣き崩れながら次々にすゑさんの口をついて出てくる、おそらく娘さんがすゑさんに向けて泣きながら訴えた言葉を我がこととして聞くことになったのだ。これまですゑさんの巧みな話術にほとんど感情移入しきっていた数百人の会場の聴衆すべての人は、自分自身が、あるいは自分の娘から、あるいは息子からの声を聞くような思いでその嗚咽を聞いた。または自分が何十年も前に自分の親の膝を叩いて、胸ぐらをつかんで叫びたかったあの言葉をすゑさんの涙声の中に聞いたのだった。


「あの子は何度も『返して!あたしの人生返してよ』と涙を拭いてはそう言いました。反抗したことも初めてなら、こんなことを口にした事も初めてでした。いえ、それより何よりわたしは、その時まであの子がそんな苦しみを抱えてあの五十過ぎ迄生きてきたなんてことは想像もしてなかったのでした。親失格ですね」

 会場は無言だった。細かい事情の状況の説明はいらなかった。それはだれもが少なくとも一度は自分でその声を発しようとし、または子供からの声を聞こえないふりをしてきた覚えのあるあの言葉だったから。


「あの楽しかった想いでは、ひょっとするとわたしの、わたしと主人の一方的な思い込みなんだろうか。デジタル時計の一瞬一瞬、わたしは自分の都合の良い想い出だけを日記に書き、写真をアルバムに収め、そうして時々自己満足でそれを引っ張り出しては、自分が知ろうともしなかったあの子の空白の時間を、自分勝手な絵の具で勝手に色を塗っていた。真実は別にあって、あの子はわたしとはまったく別の人生を歩んでいたのだろうか。わたしは申し訳ない気持ちを通り越して、恐ろしい気持ちにかられました。自分自身をこれ以上ないほどに罰したい気持ちにとらわれました。そんなことない、この子の思い込みだという言葉が出かかる度に、その自分勝手な気持ちがこの子をこの歳まで苦しめ、このこの青春時代や、あり得たかもしれない結婚生活や子育ての楽しみを奪ったのかもしれない。でももし、そのわたしの幸せだったと錯覚していた記憶が偽物だとしたら、今こうして生きている私は一体なんなのでしょうか。生きてていいんでしょうか。そんな気持ちになりました」





 南堂社長が舞台奥から自分の座っていた椅子をすゑさん壇上のところまで運び、すゑさんの肩をだいて優しくいたわるように座らせた。


 会場にはわざとらしい拍手はもう起こらず、一同は南堂社長の自然な優しい心遣いに静かに感動して、今度は、知らず知らずのうちに流していた自分自身の涙を拭いたのだった。

地下鉄のない街119 深夜の営業報告

「皆さんすゑさんのお話に聞き入っている時に、私なんぞがマイク持たせてもらってすんませんな」

 すゑさんをパイプ椅子に座らせたあと、南堂社長はそのままマイクを遠慮がちに自分の口元に持っていった。

「いまちょっとすゑさんちょっとこんな感じなんで、私がその間少しだけお話させてもらいますわ」

 会場はすゑさんを引き継いだ南堂社長の声に聞き入った。すゑさん登壇の前にあった南堂社長への警戒心や不信感、インチキくささといった雰囲気が会場から憑き物が落ちたように消えていた。

「ごめんね、すゑさん。ちょとだけ私があの時あんたから聞かせてもらったあの話させてもらいますわ。ええかな」

 関西弁風のイントネーションで南堂社長すゑさんに語りかけた。すゑさんは信頼感に満ちた目で南堂社長に頷き返した。






「さっき皆さんに紹介させてもらいましたうちの営業の柿内が、夜の12時前くらいに帰社してから社長室のドア、ガンガン叩きました。私は会社では毎日がセブンイレブン。朝は7時から夜の11時くらいまで働いてます。だからその日も書類の整理やらその時間しか話せないお客様とのお電話やら終わったあとで帰る準備をしてて部屋にはいたんです。『どうした』。ドアを開けた柿内は私に言いました。『社長、明日にでも渡辺すゑさんに会っていただけませんか』こう言うんですわ」

 会場の視線は戸口で会場整理にあたっている柿内氏をすぐに探し当てた。柿内さんは一斉に注がれた会場の視線に一瞬たじろいだように見えたが、すぐににっこり笑って軽く頭を下げた。

「『どないした』私は神妙な面持ちをした柿内をソファに座らせて話を聞きました。そして柿内がその日営業に行ってきた先の渡辺さんの件につき簡単に営業報告を受けました。普通は我が社では営業日報はまず課長が目を通したあと、案件ベースで次回誰がファーストコンタクトの営業に同行すべきか判断します。私のところには部長からそれが上がってくるんですが、柿内はそのプロセスすっ飛ばして私のところにきた格好になりますな。もちろん我が社は風通しのいい社風です。そういうこともなくはないですが、その時の柿内には異様な迫力みたいなもんがありました」


 すゑさんはだいぶ落ち着いたようで、顔を上げて南堂社長の言葉に相槌を打つように一人で頷いた。

「さっき皆さんが聞いたすゑさんの話。あれを柿内から聞きました。柿内は朝営業に行ったあと、すゑさんに晩飯まで作ってもらって、あの話を聞いたのだということでした。柿内の顔も真剣そのものでしたな。誤解してもらっちゃ困りますが、我が社の営業報告はどのお客様が金を買いそうかとかそんなことじゃありません。一切ありません。特に私のところまで上がってくる話はみんな営業マンが誠心誠意、精魂傾けてお話させていただいた人と人との出会いの報告です。柿内の話はやはり柿内が帰り際の私を捕まえて話さないとならんかった報告でしたな。もしこれが部長経由で一週間後に私のところに上がってきたら、私は柿内と部長を呼びつけて怒鳴ったでしょうな。私は自分や幹部連中が泊まりになる時のために年間契約してる車で15分ほどのビジネスホテルに柿内と移動しまして、さらに朝までじっくり話を聞きました」


 南堂社長が演壇から遠く会場の出入り口にいる柿内氏の方に目線をやり、小さく頷いた。優秀で誠実な部下を信頼している指導者の目だった。

「翌日ホテルで朝飯食ったあと、アポをいただいて柿内と一緒にそのまま渡辺さんの御宅におじゃましました。今からその時の話をさせてもらいます」


 会場はすゑさんを引き継いだ南堂社長の言葉にそのまま引き込まれていった。

地下鉄のない街105 西村教団

 運転手が西村の必要最小限な指示に、必要十分に敬意を含んで返事をする。

 人を威圧するような感じはないが、普通の車よりやや幅の大きな黒塗りの車の後部座席に、皆川君はやや落ち着きのない様子で座っていた。

 父さんと西村との会話では、女系性の西村の教団では父親の地位も跡継ぎの自分の地位もそれほどではないということだった。それでも学校の外ではこういう待遇で西村は日常生活を送っているのだと僕は思った。皆川くんの落ち着きのなさもそういうことだろう。わざと西村との会話を避け、窓から外を向いたまま不安そうな顔をしている。

 車は市街地を抜ける。公園の土手にランドセルを投げ出して遊んでいる男の子や、スーパーのレジ袋を両手に下げた主婦がのんびり家路に向かっている。午後のありふれた風景だった。

 市街地を抜けていくといつの間にか街並みが変わっていた。人通りが少なくなり、一軒の敷地が大きくなり塀が高くなる。高級住宅地のひんやりした冷気が黒塗りの車を撫でていった。



 車は突然右折してそのまま大きな門構えの敷地内に入った。個人の家のはずなのに詰め所のようなボックスが門柱の脇にあり、ただおざなりにそこに立っているという雰囲気ではない、目つきのしっかりした四十代くらいの警備員がキビキビと敬礼をした。西村が軽く右手を上げてそれに応える。



 車から降りた皆川君は、自分の靴が少し潜るほどの玉砂利がこすれる音に一瞬気を取られながら、顔をあげて降り立った敷地内をぐるっと見渡した。よく手入れされた大きな植え込みが視界を遮いながらも、かなり遠くにある時計台のような建物のさらに向こうにも敷地は続いているらしいのがみてとれた。


「悪いな。うちわのお客さんの場合には普段は裏口から入ってもらうんだけど、それだと俺の部屋までが遠い。それに教団の話をするのにざっと教団内部の施設を通り抜けて俺の部屋まで来てもらった方が話が早いかなと思ってな」

 西村が柔和な顔で運転手に労いの会釈をすると、運転手は車をガレージに移動させた。





「こっちだ」

 西村の後をついて行った皆川君は学校に体育館のような建物の中に入った。

「ここが近道なのさ」



 来客用スリッパを履いて、薄暗い下駄箱がずらっと並ぶ薄暗い玄関を通り抜ける。

 廊下と集会場の間にはガラスの窓がはめ込まれていて、その向こう側では信者と思しき人たちがマットの上に正座をして瞑想している。インストラクターのような人が西村に気がつくと、最敬礼をしてよこした。



 集会場の一番奥には、中国の天安門を思わせる、指導者の巨大な教祖の写真が飾られている。あれが西村のお母さんなのだろう。

 その下には草書体のような大きな字でこう書かれていた。











正しい過去、正しい未来、正しい現在

夢世界に真求むることで
実界で狂に振る舞うことなかれ

地下鉄のない街107 南堂という男

「こちらは入信の見学の方ですか」

 男は教祖の息子の視線に緊張しながらのワークの指導を終えると、小走りに西村たちのところにやってきた。
 皆川君は一瞬ドキッとした顔をして西村を見た。

「いや、違う。学校の陸上部の後輩だ。入信の予定は全くない。勢い込んで教団の説明とか始めなくていいからな」

 「あっ」

 男は納得顏で今にも勧誘モードに入ろうとしていた気配をしまい、今度は教祖の息子の関係者ということで皆川君に対してやや卑屈な笑顔を作りなおした。

 西村は少し苦笑しながら、これでいいか、という顔で皆川君を見た。皆川君は動揺を西村に見透かされたバツの悪さを照れ笑いでごまかした。




「ひょんなことからうちの教団に興味を持ったみたいなんだ。今言ったように入信の予定はないから、教義の説明なんかはいいんだけどさ、南堂さんの信者の生の声みたいなのを少し聞かせてあげてくれない?」

 南堂と言われた男は、承知しましたという感じで何度も頷いた。いちいち芝居がかったこういう態度は男の性格なのか、あやしげな純金取引で鍛え上げたキャラなのか、それとも教団のワークのリーダーとしての習性なのか。僕はなんだか生理的に嫌な感じがした。



「分かりました。そういうことであればこの南堂、俗世において天国も地獄も人間の裏も表もつぶさにしっかりと見て参りました。そんな体験が今どのようにして今日の私に至っておるのか、入信に至る経緯などをこちら様にお話すればよろしいのですね」

 こちら様と皆川君の方を見て何堂は恭しくお辞儀をした。皆川君は僕が感じたような気色悪さを感じたのか、一瞬顔をこわばらせて西村を見た。

「まあ、そんなところ。あ、紹介が遅くなってごめん。皆川君っていうんだ」





「皆川さん!南堂です!よろしくお願いします」

 男は講堂に響き渡るような大きな声で皆川君に敬礼をし、そのまま満面の笑みで皆川君に握手を求めてきた。

 皆川君が思わず半歩後ろずさると、間髪を入れず西村の笑い声が講堂にこだました。

「あのさ、南堂さん。入信勧誘モードが引っ込んだと思ったら今度は純金投資の営業スマイルになってるよ。僕の後輩が引いちゃってるから程々にして僕の部屋行こう」

「あ、これは大変失礼いたしました。それではお部屋まで皆川さんのお荷物を…」

「だからそういうのもいいってば。ゆっくり行くから、この鍵で先に部屋に入って部屋の空気の入れ替えでもしといて」

「承知いたしました」

 南堂は西村から鍵を両手で押し頂いて受け取ると、皆川君に媚態のこもった会釈をして講堂を後にした。


正しい過去、正しい未来、正しい現在

夢の世界に真求むることで
実界で狂に振る舞うことなかれ



 何堂は朗らかに歌うように教義を唱えながら、講堂を出て行った。




「じゃ、行こうか。ちょっと強烈だろ」

 西村が皆川君に笑いかけたが、皆川君はやや不機嫌な顔をしたままだった。

「まあそんな顔すんなって。今から聞ける話は多分皆川が他では一生聞く機会のない面白い話だよ」

 皆川君の肩を叩きながら、西村は南堂が出て行った出口の方に歩き出した。
ゆっきー
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