大人のピアノ

大人のピアノ そのきゅうじゅうよん マージナルマン

 寺村が憑かれたかのように脇田にしゃべり始めた時、藤井城でも藤井が息子の思い出を語り始めていた。

「なあ、武志」

「はい」

「俺は不思議でよ、警察の奴らが」

 武志は無言で唾を飲んで頷いた。藤井はテーブルの上に並べられている突撃ライフルを無造作に持ち上げ、スコープ越しに武志に喋りかけたている。弾丸が入っていないとはいえ、重量感のある銃器は武志に圧迫感を与えた。

「いや、警察というよりうちの息子が世話になった商社ってやつもそうなんだろう。なんで昨日まで信じてたものがひっくり返っても、そこにいる奴らは平気な顔してそれに順応できるのか」

 藤井の疑問はある意味ナイーブで、あたかも素朴な中学生か高校生の疑問のようにも聞こえたが、その感覚は口にしないだけで誰し持ち続けている疑問のようにも武志には思えた。

「息子さんのことは分かります。もちろん俺には会社勤めの経験はありませんけど、学校なんかでも昨日までボス猿だったやつが一日でスクールカーストの一番最下層に転落なんていうのはあり得る話ですから」

「スクールカーストってなんだ」

 藤井は耳慣れない言葉に興味深そうに武志に訊いた。武志は曖昧で絶対的なその上下関係が実体化した意識の鎖について藤井に説明した。

「なるほどな、警察や会社組織に場合にはそこに階級やら役職やらも絡んでよけいがんじがらめだ」

「はい。でも…」

「ヤクザ組織にはないんですか」

「うむ。ヤクザの場合にはそれこそ親が白と言ったら黒いものでも白くなる。それは堅気以上だろう。でもな、こう言っちゃなんだが、それはホントに白く見えるんだよ、親分の言ってることだったら」

 横で聞いていた三浦が我が意を得たりとばかりに、晴れやかな顔で何度か頷いた。

「そうだよな、三浦」

 それに気がついた藤井が三浦に話しかけた。

「マジックですよ。それまでのあやふやな世界がビシッと見えてくるんです。親分がこれは白だっていうと、灰色だったものが真っ白に見える。そういう時は不安も恐怖心も何もかも消し飛びます」

 三浦は藤井に返事をしながら武志にも目線を遣った。



「なあ、三浦」

「はい」

「タケシは…ああ、ややこしくていけねえな。俺の息子の方のタケシはどうだったんだろう。藤井組の仕事をやらせるようになってから、あいつは会社を辞める直前までのノイローゼみたいな表情は無くなっていったように見えた。拳銃横流しの組織を構築する仕事は犯罪かもしれねえが、悪と割り切ってやる仕事は善のふりをしてそれ以上の悪さをする警察や企業よりもマシじゃねえのかって、あいつの表情見ててそう思ったんだが」

 藤井は自分の思いをうまく言葉にすることができず、もどかしそうだった。

「ぼんさんはそこを悩んでいました。ご自分のことをマージナルマンだって言ってました」

「なんだ、それは」

「私もぼんさんに聞いて見たんです。それでぼんさんの苦しさも想像できたんですが、神奈川県警の寺村は、そこをうまく利用してぼんさんを精神的に追い詰めていったように思います」




 寺村が追い詰めていったというところに藤井は反応し、ライフルをテーブルに戻した。

「聞かせろ、そのマージナルマンってのを」

「はい」

 三浦が藤井、南方、武志の三人に順番に視線を向け、静かに話し始めた。





続く

大人のピアノ そのきゅうじゅうご 二人のタケシ

「実は私はぼんさんとはかなり親しくさせていただいてたんです」

 三浦はタバコを灰皿に押し付けて居住まいをただして話し始めた。

「おめえはうちの息子とは割と仲良かったみたいだな。ありがとよ」

 藤井が言うと三浦はとんでもないとう風に首を振った。

「うちのガキちょうどぼんさんのお子さんと同い年でしたから、子供の話なんかも良くしてましたし、両方の家族そろって一緒に海岸でバーベキューなんかもしましたよ」

「ああ、なんか写真を見たことあるな。孫の圭介がまだ小学生くらいで三浦んとこの…」

「裕司です」

「ああ、裕司と一緒に潜水服着てるやつだ」

「それは伊豆の小浦ですね。潜水服…」三浦が吹き出した。

「なんだよ、違うのか」藤井もつられて笑った。

「シュノーケリングですね」

「しゅのお…」

「まあ、潜水みたいなもんです」

「なんだこの野郎。じゃあ潜水服でいいんじゃねえか」

「そうです」

「てめえ撃つぞ」

 藤井がテーブルの上の機関銃を構えた。

 三浦が笑った。南方が笑った。武志も笑った。

 朗らかで切ない空気。破滅の前に漂う突き抜けた乾いた陽気さが地下室にこだました。武志は不思議な連帯感を感じていた。



「うちの裕司は根っからの悪なんで話は早いんですが、ぼんさんは圭介君のことでけっこう悩んでおられました」

 三浦が笑声の中、話の核心部分に手探りで近づこうとし始めたようだった。

「圭介の悩み…か」

「はい。それがそのままぼんさんの悩みでもあったようなんですが…」

「さっきのあれか、マージナルマンとかいう」

「ええ。難しい言葉で俺も生まれて初めて聞いたんですが、境界線上にいる人間、っていう意味らしいです」

「境界線か…」

「ええ。例えば俺は根っからの悪でうちのかみさんもそんな俺に惚れたわけです。生まれた子供も何の疑問も持たずに、親が極道だっていうことを受け入れてます」

「ふむ」藤井は少しうつむいた。

「圭介君の場合、カタギの親が途中から極道の世界に足を踏み入れたわけで、自分の生きて行く環境が小学校の終わりから中学くらいで根こそぎ変わったと思うんですよね」

「ああ。想像はつく。交友関係なんかも変わらざるを得ないだろう」

「ええ、そうなんですね。ぶっちゃけて言えばそれまで付き合っていた普通の子供はそいつらの親からの圧力もあって圭介君からほとんど離れて行ってしまった」

「ああ、分かる」

「遊び友達には不自由はしないんですよ。だって藤井組長の名前はしらなくても藤井組という組織はカタギの人間も耳にしたことあるというほどです。そこのトップの孫だということになれば…」

「それも想像がつくが…」

「はい。だからカタギの世界を完全に頭から捨ててしまってこっち側の世界の住人になれば楽だし、それ以上に居心地のいい思いができるんですが…」

「カタギの世界を完全に忘れるわけにもいかねえ…よな」

「はい」

「よく分かる」藤井は目を閉じた。





「その境界線上でずっと俺の息子も揺れ動いて苦労してきたんだ。親を頭から否定することもせず、だからといってこっちの世界に来ることはせず、圭介のように境界線の上でどっちの世界にも行けずしんどい思いをしてたはずだ」

 藤井が言葉を継いだ。

「結局最後に商社をやめた直接の引き金も…」

 藤井はなぜか武志の顔を見て愉快そうに笑った。

「『お前の父親がやってることに比べたら、こんなことなんでもないだろ』っと上司に酒の席で言われたらしい」

 藤井はなおも武志を見て笑っていた。武志はとまどいながらもその視線の中に何か暖かいものを感じた。

「おめえとおんなじことしたんだよ、武志」

 藤井が声を上げて笑った。

「ビール瓶でその上司の横っ面を殴り倒したんだ」




 沈黙の後、南方が愉快そうに大声で笑った。

「それ初耳でした。それで藤井の兄貴はどこか今回の件、武志に寛大だったというわけですか」

 あっけにとられた表情をした後、三浦もまた愉快そうに笑った。武志の処分が軽すぎることに対して抱いていた不満も笑いの中に消散していくかのようだった。

「実の親バカにされたくらいで上司を殴っちまうのも大馬鹿ものだし、世話になってる南方がバカにされたくらいで南方の兄貴分のこの俺をビール瓶で吹っ飛ばすというのも正気の沙汰じゃねえ」

 藤井が楽しそうに笑った。

「マージナルマンか。いい言葉を覚えた。俺も初めて気がついたぜ」

 藤井は再び武志の顔を見てそう言った。

「武志、お前もそのマージナルマンってやつなんだ。カタギとヤクザの境界線じゃねえが、お前もあっち側にもいかず、こっち側でも安住できない。どっちかにいければ楽なんだが、その楽な生き方をお前はどこかで決して自分に許そうとしてない。その危ういバランスの上に立ってどうすれば世の中全てのことが上手く行くかっていう途方もないことを真剣に考えている。ヤクザは切った張ったしてたってそういうしんどさはねえんだよ。刑務所行くことだって、こっち側の世界を何の迷いもなく生きていれば英雄的なことにもなるわけだ。しんどいのはどっちの世界でも自分が関わった人間に同じように義理を果たし、あたうかぎり誠実であるっていうことだ。戦争で英雄のように敵国の人間を殺しまくり、同時に全身全霊でその自分が殺した一人一人に罪を償うということだ。人殺しの英雄であることを決して否定せずに、同時にそのまま殺した相手にはキリストになるっていうことさ。これはもし完璧にできるとすればそいつはそれこそキリスト以上の神かもしれねえ。あいつは…息子はな…多分それをやろうとしてたんだと思うんだ…」



 武志は藤井の言葉を一言たりとも聞き漏らさぬように意識を集中していた。




続く

大人のピアノ そのきゅうじゅうろく 銃弾の使い道

「神奈川県警の寺村のやったことは、その境界線をぶっ壊してしまうことだったのかもしれません」

 三浦が過去を反芻するようにゆっくりと喋り始めた。

「どういうことだ」

「はい。いま話をしながらそう思ったんですが、寺村はまずぼんさんの息子さん、圭介の周りにウロチョロし始めたんですよ」

「ほう」藤井の目がすわった。

「中学に入って圭介は最初は藤井組のことを隠してたんですよ。そのあたりの事情は裕司から聞いて俺も知ってるんですが…」

 三浦は藤井の表情を見た。

「俺は初耳だ。続けてくれ」

「はい。どうも学校に寺村が直接行ったらしいんです」

「神奈川県警の人間が千葉県の私立中学にか?」

「ええ。あり得ない話なんですが、おそらく寺村個人の判断で純粋な嫌がらせだと思います」

「ふむ」

「要するに、広域指定暴力団系列の息子なので注意するようにってことで、定期的にやってきては有る事無い事学校に吹き込んで行ったらしいです」

「…」

 藤井は怒りを抑えた目で三浦の話を聞いていた。

「…続けましょうか」

「ああ」

「当然圭介は学校に居づらくなるわけで、そんな頃から良くない連中、って俺がいうのもおかしな話ですが、こっち側の世界の人間の中に入って行ったというか、追いやられて行ったようなんですね」

「続けろ」

「はい。次に寺村がやったのは時期的に同時平行なんですが、奥さんの人間関係に同じようにタッチしまして…」

「警察の者だがってことで、女房の交友関係を切り崩して行ったわけか」

「ええ。ずっと商社マンの奥さんでやってきた方ですから、そうとう堪えたようです。カルチャースクールの生花の講師なんかもされてたんですが、結局そこもやめるハメになったりと聞いてます。氷山の一角でしょうが…」

「成功したわけだな。結局離婚してるわけだが、そういう裏があったのか」

「…おそらく」

「圭介が千葉有数の進学校を中退して、覚せい剤で補導されたのも」

「全て寺村の思惑通りです。横浜の中華街で圭介にコカインを渡していたのはどうも、寺村が使ってるヤクザのエス、スパイらしいですから全部はめられたといっていいでしょう」

「うむ」藤井は唸るように相槌を打った。



「そうやってぼんさんの外堀を埋めていって、ぼんさんがこっち側の世界でしか生きていけなくなるようにし向けていったわけです。もちろん同じようにぼんさんの堅気時代の交友関係もしらみつぶしに警告という形で近づいては、ぼんさんの手を染めていた拳銃横流しの仕事など話していったようです」

 しばらく沈黙があった。南方も武志も一言も口を挟まなかった。




「そうやってあいつ自身にも覚せい剤をあてがって追い込んで行った後に、今度は自分達が散々キャリアの出世の道具にした拳銃横流しシステムを潰そうというわけか」

 藤井がこめかみを震わせながら吐き捨てるように言った。

「そういうことになりますね」

 南方が言い三浦が頷いた。




「もう捌けなくなるこの地下室の武器だがよ…」

 藤井が深呼吸をした後に静かに言った。

「全弾、寺村の腹の中にブチ込んでやろう」

「はい」

 三浦が深く頷いた。






続く

大人のピアノ そのきゅうじゅうなな 黒幕入場

------------同時刻神奈川県武蔵小杉署捜査本部ドア------------


「ざっとこんな感じさ」

 寺村は脇田に対してどうやって藤井組の長男を追い込んで行ったのか、得々として語り終わった。

「なんといいますか…」

 脇田はあまりのえげつなさに戸惑い気味に言ったのだが、寺村にはそれが自分に対する賞賛のように聞こえた。

「すげえだろ。人が堕ちていくのを見る、しかも自分が仕掛けて堕としていくっていう快感はたまらねえよ」

 なおも自分に酔う寺村の目は爛々と狂気を帯びて輝いていた。

「そんなこと藤井組に知れたら寺村さん間違いなく殺されますよ」

「もうとっくに知られてるさ」

「え!どうして…」

「俺が藤井組の坊ちゃんに直接言ってやったからさ。本人は死んじまったが誰か組員に喋ってるかも知れねえな」

「直接言ったって、息子の私立中学に行ったり奥さんや自分の付き合いのあるところに有る事無い事言いに行ったことですか」

 脇田は自分の耳を疑った。もしそうなら…目の前の自分の上司は狂っているとしか思えなかった。

「ああ、そうさ。こっちは警察権力に守られてるんだ。俺には手も足も出ねえぜ。単なる一介の巡査長じゃねえんだよ、俺は。拳銃摘発裏組織と全国の警察組織の間に立つフィクサーってやつなんだ。俺のさじ加減一つでどの県警にどのくらい闇拳銃を流すか、藤井のところに話ができるのは俺しかいねえ。俺は警察の組織の中でも上が無視できないような力を持ってるんだ。その俺をヤクザごときがどうこうできるわけもねえんだよ」

 それで、わざと自分の力を誇示するために、本人に自分の暗躍を喋ったというのか…。脇田は寺村にこの瞬間完全に見切りをつけた。



「しかし、百歩譲ってそうだとしてですよ…寺村さんがそういう特殊な力を持ったのは、それもこれも藤井の坊ちゃんを追い込んだからでしょう。言ってみれば藤井あっての寺村さんなわけじゃないですか。結局坊ちゃんはホテルで偽装自殺。親分の藤井が切れたら寺村さん一巻の終わりですよ」

 なぜこんな単純な理屈に寺村は気がつかないのだろう。脇田は寺村の熱っぽい表情が空恐ろしくなってきた。

「だからよ…」

 寺村はまるでチンピラヤクザのように、脇田の肩に手を回して品のない笑い顔を浮かべた。

「だから、どさくさに紛れてこれから藤井組を壊滅しちまうんじゃねえか。お偉いさん達は拳銃密売のデータベースを破壊したい。俺は藤井組の組員が皆殺しになって欲しいというわけだ」

「そうまくいきますかね」

「SATが皆殺し作戦を上手くやってくれるのさ」

「誰の情報です」

「署長だ」

「まさか。寺村さんために?」

「いや、警察組織のためにさ。お前がなんとなく今回の捜査本部は雰囲気が違うと言ったのはそういう裏があるからだ。そういう陰謀のきな臭い硝煙のようなくすぶった匂いが今この捜査本部本部にはプンプンしてやがるのさ」




 寺村がそう言った時、捜査本部上手の出入り口から県警刑事部長、武蔵小杉署署長、合同捜査の千葉県警刑事部長、統括する関東管区警察局長が入室した。

 これから捜査方針が発表される。

 寺村が今言った警察の陰謀が狂人の妄想ではなく事実ならば、捜査方針は捜査というより特殊部隊によるヤクザ組織の制圧殲滅だ。捜査本部は警察というよりは自衛隊の作戦指揮本部となる。




 寺村が署長に向かって小さく手を挙げた。

 それは身分上あり得ない光景だったが、次の瞬間脇田はもっと驚愕の光景を見た。

 それと気づいていないものにはまったく分からないような小さい不気味な微笑を、キャリアの署長が一介の巡査長に返したのだった。




続く
ゆっきー
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