大人のピアノ そのきゅうじゅうさん 捜査本部の影で
「今回の事件の捜査本部、少し雰囲気違いますね」
捜査令状の手続きが無事終了し、脇田は再び署に戻って寺村と廊下でタバコを吸っていた。
神奈川県警川崎市の武蔵小杉署四階の大会議室入口には「暴力団台湾料理店拉致被害事件捜査本部」という物々しいついたてが置かれて、招集された捜査員が頻繁に出入りし始めてにわかに慌ただしさを増していた。
「そうだな、普段は捜査本部長が神奈川県警の刑事部長で副部長がうちの武蔵小杉署署長と捜査一課長で決まりなんだがな。千葉からもお偉いさんが出張って来てる」
寺村が相槌を打つ。
「いえ、確かに今回は事件発生がうちの管轄で踏み込む先が千葉ですから、管理する側も大所帯になってますけど、それだけじゃなくって…」
「ひな壇には座ってないが、SATとSITの部隊長も捜一の課長と一緒に作戦立案の要だからな。前の方でそうした怖い部隊の人間が数人いる。物々しい感じはそれだろ」
「はい…」
確かに今回は刑事課の合同捜査だけでなく、人質救出のためのSIT及び、武装解除制圧を目的としたSATの役割分担もある。今回の事件では、救出までの交渉の段取りを神奈川県警のSITが担当し、その後武装解除が必要な状況に陥れば千葉県警の特殊急襲部隊SATが任務を遂行するという。
同じ県警本部内でも刑事部に属するSITと警備に属するSATの連携に指揮官は気を使う。今回のように川上部分を神奈川県警が行い、川下部分を千葉県警が担当するというのはお互いのメンツをかけた争いがさらに事態を複雑にする部分があった。しかし事件発生場所の管轄所武蔵小杉署にこうして捜査本部が設置されている中、SATの最重要守備施設である成田国際空港を域内に抱える千葉県警は全国の県警の中でもSATのプライド意識が異様に高く、現場での主導権争いには一歩も引く構えを見せなかった。
「まあ、しかし実はそれだけじゃない。なかなか脇田も鋭いな」
「あ、やっぱり何かあるんですか」
「ああ、さっき署長に呼ばれたんだがな、今回は警察庁の上層部の方から今や警察組織のアキレス腱というか恥部とでもいうべき藤井組の拳銃摘発裏システムをこの世から消し去ってしまえ、という命令が下っているらしい」
寺村がにやけたような、それでいて黒光りする得体の知れない闇を秘めた目で脇田を見た。
藤井組の長男をシャブ中にして神奈川県警に有利になるような拳銃の横流しシナリオを成功させた寺村は、一介の巡査長という階級にもかかわらず署長と直に話をすることができる。寺村はその手の自分しか知り得ない情報を脇田に話すとき決まってこうした表情をした。
「そうすると、あの全ての横流し拳銃の製造番号を控えているというデータベースもろとも破壊せよっていうことですか」
「そうだ。あんなものが裁判所で明るみに出たら日本警察は一巻のおしまいだ。だから千葉県警のSATはかりに人質の斎藤武志がすんなり無事に救出できたとしてもそのまま突入して、重火器をふんだんに使って城ごとすべて吹っ飛ばすという密命を帯びている」
「うわ、おそろし。死人がいっぱいでますね」
脇田はまんざら冗談でもなさそうに眉をしかめた。
「ああ。できれば人質以外全員綺麗に射殺してしまえということだ」
寺村はまたあの笑いで肩を揺すった。
「無抵抗でもですか?テレビとかで中継されたらヤバくないですか」
「そこは天下の千葉県警SATがうまくやるということだろう」
「いやあ、警察を的に回すと恐ろしいですなあ」
他人事のように言う脇田に寺村は上機嫌に笑いかけた。
「そうさ、具体的にはこの寺村様をなめたのがいけねえんだよ」
「寺村……さま…ですか」
冷やかしと揶揄のこもったニュアンスで脇田は苦笑してみせたが、話しているうちに気分が高揚してきた寺村はそれには気づかぬ様子で饒舌をやめることはなかった。
「ああ。こういうことにならねえように、藤井の長男にデータベースを消去するように言ってたんだがな、結局うんと言わなかった」
「まさか、あのホテルで注射器片手に風呂場で死んでたっていうのは…」
「俺がやった」
さすがに脇田の肩を抱くようにして小声で言ったが、寺村の顔はまるで大物の俺を舐めた報いであると言わんばかりだった。警察権力とそれをバックにした個人の力を混同する悪徳刑事が大抵そうであるように、寺村はそうした混同が引き起こす常識感覚の麻痺、消滅というものにすでに無頓着になっていた。
「あれまあ」
「聞きてえか、俺がどうやって藤井のボンボンを落としていったか」
「ええ、まあ…」
脇田は軽く受け流しながら、この危険人物と今後どこまで付き合っていいものか、そろそろきちんと考えておくべきだな、との思いを新たにした。
寺村はそんな脇田の心中に思い至るはずもなく、全員招集がかかる前のいっときの暇に任せて、とうとうと自分の手柄話を話し始めた。
続く
大人のピアノ そのきゅうじゅうよん マージナルマン
寺村が憑かれたかのように脇田にしゃべり始めた時、藤井城でも藤井が息子の思い出を語り始めていた。
「なあ、武志」
「はい」
「俺は不思議でよ、警察の奴らが」
武志は無言で唾を飲んで頷いた。藤井はテーブルの上に並べられている突撃ライフルを無造作に持ち上げ、スコープ越しに武志に喋りかけたている。弾丸が入っていないとはいえ、重量感のある銃器は武志に圧迫感を与えた。
「いや、警察というよりうちの息子が世話になった商社ってやつもそうなんだろう。なんで昨日まで信じてたものがひっくり返っても、そこにいる奴らは平気な顔してそれに順応できるのか」
藤井の疑問はある意味ナイーブで、あたかも素朴な中学生か高校生の疑問のようにも聞こえたが、その感覚は口にしないだけで誰し持ち続けている疑問のようにも武志には思えた。
「息子さんのことは分かります。もちろん俺には会社勤めの経験はありませんけど、学校なんかでも昨日までボス猿だったやつが一日でスクールカーストの一番最下層に転落なんていうのはあり得る話ですから」
「スクールカーストってなんだ」
藤井は耳慣れない言葉に興味深そうに武志に訊いた。武志は曖昧で絶対的なその上下関係が実体化した意識の鎖について藤井に説明した。
「なるほどな、警察や会社組織に場合にはそこに階級やら役職やらも絡んでよけいがんじがらめだ」
「はい。でも…」
「ヤクザ組織にはないんですか」
「うむ。ヤクザの場合にはそれこそ親が白と言ったら黒いものでも白くなる。それは堅気以上だろう。でもな、こう言っちゃなんだが、それはホントに白く見えるんだよ、親分の言ってることだったら」
横で聞いていた三浦が我が意を得たりとばかりに、晴れやかな顔で何度か頷いた。
「そうだよな、三浦」
それに気がついた藤井が三浦に話しかけた。
「マジックですよ。それまでのあやふやな世界がビシッと見えてくるんです。親分がこれは白だっていうと、灰色だったものが真っ白に見える。そういう時は不安も恐怖心も何もかも消し飛びます」
三浦は藤井に返事をしながら武志にも目線を遣った。
「なあ、三浦」
「はい」
「タケシは…ああ、ややこしくていけねえな。俺の息子の方のタケシはどうだったんだろう。藤井組の仕事をやらせるようになってから、あいつは会社を辞める直前までのノイローゼみたいな表情は無くなっていったように見えた。拳銃横流しの組織を構築する仕事は犯罪かもしれねえが、悪と割り切ってやる仕事は善のふりをしてそれ以上の悪さをする警察や企業よりもマシじゃねえのかって、あいつの表情見ててそう思ったんだが」
藤井は自分の思いをうまく言葉にすることができず、もどかしそうだった。
「ぼんさんはそこを悩んでいました。ご自分のことをマージナルマンだって言ってました」
「なんだ、それは」
「私もぼんさんに聞いて見たんです。それでぼんさんの苦しさも想像できたんですが、神奈川県警の寺村は、そこをうまく利用してぼんさんを精神的に追い詰めていったように思います」
寺村が追い詰めていったというところに藤井は反応し、ライフルをテーブルに戻した。
「聞かせろ、そのマージナルマンってのを」
「はい」
三浦が藤井、南方、武志の三人に順番に視線を向け、静かに話し始めた。
続く
大人のピアノ そのきゅうじゅうご 二人のタケシ
「実は私はぼんさんとはかなり親しくさせていただいてたんです」
三浦はタバコを灰皿に押し付けて居住まいをただして話し始めた。
「おめえはうちの息子とは割と仲良かったみたいだな。ありがとよ」
藤井が言うと三浦はとんでもないとう風に首を振った。
「うちのガキちょうどぼんさんのお子さんと同い年でしたから、子供の話なんかも良くしてましたし、両方の家族そろって一緒に海岸でバーベキューなんかもしましたよ」
「ああ、なんか写真を見たことあるな。孫の圭介がまだ小学生くらいで三浦んとこの…」
「裕司です」
「ああ、裕司と一緒に潜水服着てるやつだ」
「それは伊豆の小浦ですね。潜水服…」三浦が吹き出した。
「なんだよ、違うのか」藤井もつられて笑った。
「シュノーケリングですね」
「しゅのお…」
「まあ、潜水みたいなもんです」
「なんだこの野郎。じゃあ潜水服でいいんじゃねえか」
「そうです」
「てめえ撃つぞ」
藤井がテーブルの上の機関銃を構えた。
三浦が笑った。南方が笑った。武志も笑った。
朗らかで切ない空気。破滅の前に漂う突き抜けた乾いた陽気さが地下室にこだました。武志は不思議な連帯感を感じていた。
「うちの裕司は根っからの悪なんで話は早いんですが、ぼんさんは圭介君のことでけっこう悩んでおられました」
三浦が笑声の中、話の核心部分に手探りで近づこうとし始めたようだった。
「圭介の悩み…か」
「はい。それがそのままぼんさんの悩みでもあったようなんですが…」
「さっきのあれか、マージナルマンとかいう」
「ええ。難しい言葉で俺も生まれて初めて聞いたんですが、境界線上にいる人間、っていう意味らしいです」
「境界線か…」
「ええ。例えば俺は根っからの悪でうちのかみさんもそんな俺に惚れたわけです。生まれた子供も何の疑問も持たずに、親が極道だっていうことを受け入れてます」
「ふむ」藤井は少しうつむいた。
「圭介君の場合、カタギの親が途中から極道の世界に足を踏み入れたわけで、自分の生きて行く環境が小学校の終わりから中学くらいで根こそぎ変わったと思うんですよね」
「ああ。想像はつく。交友関係なんかも変わらざるを得ないだろう」
「ええ、そうなんですね。ぶっちゃけて言えばそれまで付き合っていた普通の子供はそいつらの親からの圧力もあって圭介君からほとんど離れて行ってしまった」
「ああ、分かる」
「遊び友達には不自由はしないんですよ。だって藤井組長の名前はしらなくても藤井組という組織はカタギの人間も耳にしたことあるというほどです。そこのトップの孫だということになれば…」
「それも想像がつくが…」
「はい。だからカタギの世界を完全に頭から捨ててしまってこっち側の世界の住人になれば楽だし、それ以上に居心地のいい思いができるんですが…」
「カタギの世界を完全に忘れるわけにもいかねえ…よな」
「はい」
「よく分かる」藤井は目を閉じた。
「その境界線上でずっと俺の息子も揺れ動いて苦労してきたんだ。親を頭から否定することもせず、だからといってこっちの世界に来ることはせず、圭介のように境界線の上でどっちの世界にも行けずしんどい思いをしてたはずだ」
藤井が言葉を継いだ。
「結局最後に商社をやめた直接の引き金も…」
藤井はなぜか武志の顔を見て愉快そうに笑った。
「『お前の父親がやってることに比べたら、こんなことなんでもないだろ』っと上司に酒の席で言われたらしい」
藤井はなおも武志を見て笑っていた。武志はとまどいながらもその視線の中に何か暖かいものを感じた。
「おめえとおんなじことしたんだよ、武志」
藤井が声を上げて笑った。
「ビール瓶でその上司の横っ面を殴り倒したんだ」
沈黙の後、南方が愉快そうに大声で笑った。
「それ初耳でした。それで藤井の兄貴はどこか今回の件、武志に寛大だったというわけですか」
あっけにとられた表情をした後、三浦もまた愉快そうに笑った。武志の処分が軽すぎることに対して抱いていた不満も笑いの中に消散していくかのようだった。
「実の親バカにされたくらいで上司を殴っちまうのも大馬鹿ものだし、世話になってる南方がバカにされたくらいで南方の兄貴分のこの俺をビール瓶で吹っ飛ばすというのも正気の沙汰じゃねえ」
藤井が楽しそうに笑った。
「マージナルマンか。いい言葉を覚えた。俺も初めて気がついたぜ」
藤井は再び武志の顔を見てそう言った。
「武志、お前もそのマージナルマンってやつなんだ。カタギとヤクザの境界線じゃねえが、お前もあっち側にもいかず、こっち側でも安住できない。どっちかにいければ楽なんだが、その楽な生き方をお前はどこかで決して自分に許そうとしてない。その危ういバランスの上に立ってどうすれば世の中全てのことが上手く行くかっていう途方もないことを真剣に考えている。ヤクザは切った張ったしてたってそういうしんどさはねえんだよ。刑務所行くことだって、こっち側の世界を何の迷いもなく生きていれば英雄的なことにもなるわけだ。しんどいのはどっちの世界でも自分が関わった人間に同じように義理を果たし、あたうかぎり誠実であるっていうことだ。戦争で英雄のように敵国の人間を殺しまくり、同時に全身全霊でその自分が殺した一人一人に罪を償うということだ。人殺しの英雄であることを決して否定せずに、同時にそのまま殺した相手にはキリストになるっていうことさ。これはもし完璧にできるとすればそいつはそれこそキリスト以上の神かもしれねえ。あいつは…息子はな…多分それをやろうとしてたんだと思うんだ…」
武志は藤井の言葉を一言たりとも聞き漏らさぬように意識を集中していた。
続く
大人のピアノ そのきゅうじゅうろく 銃弾の使い道
「神奈川県警の寺村のやったことは、その境界線をぶっ壊してしまうことだったのかもしれません」
三浦が過去を反芻するようにゆっくりと喋り始めた。
「どういうことだ」
「はい。いま話をしながらそう思ったんですが、寺村はまずぼんさんの息子さん、圭介の周りにウロチョロし始めたんですよ」
「ほう」藤井の目がすわった。
「中学に入って圭介は最初は藤井組のことを隠してたんですよ。そのあたりの事情は裕司から聞いて俺も知ってるんですが…」
三浦は藤井の表情を見た。
「俺は初耳だ。続けてくれ」
「はい。どうも学校に寺村が直接行ったらしいんです」
「神奈川県警の人間が千葉県の私立中学にか?」
「ええ。あり得ない話なんですが、おそらく寺村個人の判断で純粋な嫌がらせだと思います」
「ふむ」
「要するに、広域指定暴力団系列の息子なので注意するようにってことで、定期的にやってきては有る事無い事学校に吹き込んで行ったらしいです」
「…」
藤井は怒りを抑えた目で三浦の話を聞いていた。
「…続けましょうか」
「ああ」
「当然圭介は学校に居づらくなるわけで、そんな頃から良くない連中、って俺がいうのもおかしな話ですが、こっち側の世界の人間の中に入って行ったというか、追いやられて行ったようなんですね」
「続けろ」
「はい。次に寺村がやったのは時期的に同時平行なんですが、奥さんの人間関係に同じようにタッチしまして…」
「警察の者だがってことで、女房の交友関係を切り崩して行ったわけか」
「ええ。ずっと商社マンの奥さんでやってきた方ですから、そうとう堪えたようです。カルチャースクールの生花の講師なんかもされてたんですが、結局そこもやめるハメになったりと聞いてます。氷山の一角でしょうが…」
「成功したわけだな。結局離婚してるわけだが、そういう裏があったのか」
「…おそらく」
「圭介が千葉有数の進学校を中退して、覚せい剤で補導されたのも」
「全て寺村の思惑通りです。横浜の中華街で圭介にコカインを渡していたのはどうも、寺村が使ってるヤクザのエス、スパイらしいですから全部はめられたといっていいでしょう」
「うむ」藤井は唸るように相槌を打った。
「そうやってぼんさんの外堀を埋めていって、ぼんさんがこっち側の世界でしか生きていけなくなるようにし向けていったわけです。もちろん同じようにぼんさんの堅気時代の交友関係もしらみつぶしに警告という形で近づいては、ぼんさんの手を染めていた拳銃横流しの仕事など話していったようです」
しばらく沈黙があった。南方も武志も一言も口を挟まなかった。
「そうやってあいつ自身にも覚せい剤をあてがって追い込んで行った後に、今度は自分達が散々キャリアの出世の道具にした拳銃横流しシステムを潰そうというわけか」
藤井がこめかみを震わせながら吐き捨てるように言った。
「そういうことになりますね」
南方が言い三浦が頷いた。
「もう捌けなくなるこの地下室の武器だがよ…」
藤井が深呼吸をした後に静かに言った。
「全弾、寺村の腹の中にブチ込んでやろう」
「はい」
三浦が深く頷いた。
続く