大人のピアノ

大人のピアノ そのななじゅう 自分が最初についた嘘

「なあ、慶ちゃん」

「うん」

 屋上をに出ると、校舎を吹き抜ける風は意外に強かった。もっとも伊佐夫は五分刈りに近い短髪に学生服だったので、顔にかかる風を一瞬うるさそうに右手で遮っただけだった。慶子はスカートがひるがえりそうになるのを膝もとで食い止めながら、フェンスまで歩いて行く伊佐夫に従った。

「あかんな、うまくいかん」

 伊佐夫は屋上のフェンス右肘を置き、それを腕枕にするよう顎を乗せて言った。フェンスは慶子顎あたりだったので、慶子はフェンスを背にしてもたれかかり顔を伊佐夫の方に向けた。

「あかんて、なにが。あかんことだらけでどれのことかわからへんわ」




 白い歯をこぼして慶子が楽しそうに聞く。自分の家、笹川家には無縁のあかんこと、悪いことが伊佐夫周りにはごく普通にあるような気がした。しかし慶子は伊佐夫周りのそのあかんことには不思議と不快な忌み嫌うような匂いは感じなかった。

 伊佐夫がいう「あかんこと」と「悪いこと」には明確な区別があったように慶子は感じていた。「悪いこと」は伊佐夫が暴力を持ってで阻止しようとする、例えばあの六人組の陰湿ないじめのようなことだった。「あかんこと」を伊佐夫は、「しょうがないこと」といったニュアンスを込めて使っていた。


「Kのときも結局暴力では最終的に解決出来んかった。あいつはええやつやったで。転校なんかせえへんでもええような手がもしかしたらあったかもしれん」

「うん。でも…」

「せやな。慶ちゃんが俺のところにKが俺が六人組締め上げてそれ自分が引き起こした事にしてってシナリオ相談した時には、もう遅かったんや」

「うん。あかんかった」

「そう、どうにもならんかったわ。あのまま卒業まで陰湿ないじめに耐えられたかどうか、それこそこのフェンスからKが飛び降りるなんてこともありえない話やなかったと思うわ」

 慶子は自分の顎の高さのフェンスをKが乗り越えようとする姿を想像した。その想像は突拍子もない空想ではなかった。



「あの、先生がクラスのみんなを、なんていうのかな自分から自発的に書かせる反省文がいけないと思う」

「そや、あれや諸悪の根源は。悪いことやであれは。あれは洗脳と一緒や。担任に都合のいいようにKを悪者にして、なおかつそれを教師から押し付けるんじゃなくて自分で書かせて自分の意見としてクラスで発表させる。いつの間にか教師が思う通りの空気がクラスを支配するわけや。」

「うん」

「みんな一つのことを信じ込まされて、最初についた自分の嘘を忘れてしまうんや。そしていつの間にかもともとクラスに溶け込めなかったKが悪者だったように日常生活が作られて行く」

「やだよね。そういうのって」

「そやな。裸の王様のお話や」

「裸の王様?」

「そや」

「なんで裸の王様話なん?」

「それはな…」

 伊佐夫はフェンスに乗せた腕を降ろし、慶子同じようにフェンスに背中を付けて話し始めた。






「ねえ…『裸の王様』の話ってお父様がよくあたしと武志に聞かせようとした…」

「そうよ。あなたのお父様があなたたちに話をしようとしていたこと、それと同じことをあたしは中学生の時いっくんから聞いたの、屋上で。あなたのお父様と結婚してあなたたちが生まれて、あの人がある時あなたたちに『裸の王様』話をしようとしたドアのには驚いたわ」

「全く偶然だったのね」

「そう。全く偶然。しいて言えば初恋のいっくんも結婚したあなたのお父様も、あたしが好きになった人だということね。」

「でも、なんでお父様があたしたちにその話をしようとした時、聞かせないようにしようとしたの?」



 なつみの問いかけは自然なものだった。確かに父親の『裸の王様』の解釈は子供が聞いても混乱しそうな深い話だった。しかし母にとってとても意味のある偶然、自分が愛した男が二人までも偶然にその話を大事にしていることをどうして自分の子供に聞かせようとしなかったのだろう。


「それはね…その後のいっくんの波乱の人生の始まりというかその秘密の核心みたいなものだったから」

「『裸の王様』話が?」

「うん。だから恐かったの、自分の子供がそういう世界に触れるのが…」

「分かったわ。今はもう聞いてもいいのね」

「うん。聞いて欲しい」


 母親はまた話を続けた。





つづく

大人のピアノ そのななじゅういち ヤクザの世界と裸の王様

「『裸の王様』ってあの童話の…?」

「そう。例えばやくざの世界ってね典型的な裸の王様の世界やねん」

「あれれ、そんな悪いこと言って」

 慶子はさっきまで応接室に一緒にいた伊佐夫の父親の顔を思い浮かべた。一見柔和そうな顔をしているが戦前から続く京都の博徒の元締めだった。

「いや、なにもうちのオヤジがをけなしてるってわけでもあらへんのや。おれはむしろなんていうか、そういうのある意味尊いことかなって思ったりもする」

「尊い?」

「もちろんあのタヌキオヤジが尊いんじゃないねん。全力で命がけでその「王様は裸だ」っていう作り物の世界を維持して行こうっていう組員たちの思いがね、うまく言えへんけど」

「尊い…」慶子はうつむいて少し考えた。

「オレは生まれた時からうちの組の子らと一緒でなんもよう分からんかったけど、最近やっとうちの子らがどんな人たちなのか分かってきた感じがすんねん」

「どんな?」

「どっち向いて生きたらいいか分からへん。でも何かを信じて純粋に生きたいっていうんかな。生きるとか純粋とか中学生のオレがいうとなんや嘘くさくて自分で自分を小突きたい感じやけどな」

 そう言って伊佐夫は照れたように自分の鼻をカリカリっと指先で引っ掻いた。

「『純粋に生きたい』っていうのはなんか分かる気もする。あたしこそなんか生意気だけどさ。いっくんやいっくんのお父様の付き添いでうちに一緒に来るなんていうの、若い衆の人たちっていうんだっけ、目がそういう目をしてるもん」

「ああ」

 伊佐夫は慶子に同意してもらって嬉しそうに笑った。





「あの子らね、年上の組員をオレが子っていうのもなんやへんな話やけどみんなオヤジの『親が黒と言ったら白いもんでも黒』っていう世界を死ぬ気で守っとんねん。『王様は裸だ』って実はオヤジ自身はようわかってる。そんで組員たちもほんまは分かっとんのやで。自分たちの世界が特殊な常識で支えられてるって痛いほどよう分かっとる。暴力を傘にきてやりたい放題なんていうのはカスみたいなチンピラ愚連隊や。うちらは違う。生まれた時から、生まれて物心つく頃にはすでに取り返しのつかないほど『ああ、オレってこの普通の世間様には居場所なんてあらへんのやな』って自覚したもんが流れ着いたのがうちなんや、きっと」

 慶子はそれが痛いほど分かる気がした。分かる気がしたが軽々しく「分かる分かる」と相槌を打つのがはばかられてただ、無言で頷いた。

「うちのクラスの連中。あのクソ担任に洗脳反省文書かされてそれを読み上げているうちになんや自分の気持ちがだらしなく楽になって行くようなんも、ある意味担任教師学校の価値観を『裸の王様』みたいに守ろうとしてると言えるかもしれへん」

 苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てるように伊佐夫が言った。

「そうなの?かな…」慶子曖昧に言った。

「でも、手間味噌みたいな言い方かもしれへんけどうちの組の子らとは違うで、絶対。あんなんはたんに自分が楽したいからKを悪者にしてあとなんにもしんどいこと考えんでもええようにしてるだけやろが。だれか悪もんにしてそこで思考停止する、人間のクズやで」

「違うのはなんとなく分かるよ。でも、どこが違うんやろか」慶子はそれを強く知りたいと思った。





「自分がついた最初の嘘を忘れないかどうか、それに尽きるとオレは思っとる」

 伊佐夫も慶子にだけはわかって欲しいという表情で真剣に、慶子の瞳を直視した。吸い込まれそうな深い暗闇が伊佐夫の目の奥にあった。でもその暗闇はなぜか古い大切な思い出のように、慶子に懐かしいような胸が締め付けられるような感情を抱かせた。





つづく

大人のピアノ そのななじゅうに 夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風

「うちの組の子らにはみんな、自分が気がついたら一人ぼっちやったっていう思いがどっかにあると思う」

 夏の昼前の校舎の屋上はだんだんと太陽が高く昇り、二人の影を床に映し出していた。いっくんの声は、そんな夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風のようだった。

「みんなはぐれもの?」

 慶子はいっくんの声に自分の声を重ねた。

「ああ。でもヤクザもんやからはぐれてるというのとちょっと違うねんな」

「どう違うん?」

 いっくんは少し考える素ぶりだった。

「順番が逆やねん。人と比べて自分ははぐれとるなっていうなんや醒めたのとは違うて、ある日突然『あれ?自分だけ何や分からんけど人とちゃうんな』っていう迷子になったような感覚かな。そっちが先にある。どうしようもない寂しさみたいなもんかな」

「うーん。どんなんやろ。なんとなくわかる気もするけど」



 とっても大事なこと言おうとしてるよね…慶子は言葉を探して少しうつむいているいっくんの姿を切ない思いでさりげなく見つめた。




「あのな、もし世界中に耳を持った生き物がまったくいなかったら、世界に音というのはないってことになる。あるけど聞こえないんじゃなくて」

 いっくんが探し出した言葉は不思議な言葉だった。

「耳がない…聴こえない」

「ああ。ちょっとたとえ話が吹っ飛んでしもたかな」

「…ううん。なんとなく分かるよ。それでも音が聴こえたらどうするのかな。たとえば音楽のメロディみたいなのとか。かすかに『あれ?』今なんだか信じられないくらい心が落ち着く、震える何かが聴こえたって、そんなことがあったら…?」

「うちの組の子らはそういう音が聴こえるんや。たぶん。人には言われへんけど多分そういうふっとした音楽みたいなのが確かに聴こえてるんやと思う」





 慶子の耳には風に舞ういっくんの声が、その誰にも聴こえない音楽のように鳴った。

「聴こえたらどうすんやろ」今のあたしみたいにという言葉は言わなかった。

「きっと誰かに話すと思う」

「でも誰も聞こえない」

「だからそのうち誰にも話さなくなるさ」

「そしてどうなるの?」

「自分の錯覚だったって思うようになるんだ。多分」




 いっくんの顔が夏の日の風に吹かれてぱっと明るく輝いた。哀しい話なのにいっくんは朗らかな笑い方をした。慶子はその笑い顔の奥に二人で同じ曲を弾いたモーツァルトのピアノソナタの旋律が聴こえたと思った。

「錯覚じゃないよ」

「何が?」

「何がって、あたしにはいっくんの言葉の音楽が聴こえる」

「音楽か…オレの言ったことは」

「うん。世界中の誰にも聴こえない。みんなその音を聴くための耳はないから。でもあたしには聴こえたよ」

「そっか…それは…嬉しいな」

 いっくんは溶けるような優しい目で慶子の瞳を覗きこんだ。いっくんが自分の一番大切な心の場所に触れた感じがした。




「じゃあ、オレたちは仲間や」

「仲間?」

「そや。堅い何かで結びついた仲間やな。そういう仲間意識がうちの組の子らにもある」

「…そうなんだ」

 慶子は自分といっくんだけの世界に、急にいっくんの組の若者たちも入ってきたような気がした。

「今、少し寂しそうな顔したな」

「え?」

「だから、それが『あれ?自分だけ何や分からんけど人とちゃうんな』っていう寂しさが先やってこと」

「あ、なんとなく…分かるような…」





「慶ちゃんもきっと、自分だけがこの音聴こえてるんとちゃうやろか、他の人には聴こえへんのちゃうかっていう不安な気持ちもったこあるんと違うか」

 さっき外からやってきてそっと自分のこころを撫でた伊佐夫の声は、今度は慶子のこころ全体をさっと大きく包み込んだ。

「そうかも。でも他にも聴こえる人がいた」

「うん。それ忘れたらあかんねん。その奇跡が起きたみたいな感覚。なんやみんな聴こえるやないか、俺一人ちゃうやんか。なんやこの音を聴こえんやつ方がおかしいんちゃうか、少数派ちゃうんか、俺たちの方が正しいんちゃうか、こう思ってしもたら最初に聞こえた音楽の奇跡は木っ端微塵に消し飛んでまうわ。ここにもおるでえ、慶ちゃん。って同じ音が聴こえる人間ってぞろぞろ勝手に連れてきてもろても、なんやちゃうやろがそんなん。そんなんいらんわ」

「…分かった。そういうことかさっきのあたしの寂しさは」

「そや、それ分かっててわざと言うてみた」

「いけずやなあ、いっくんは」

 二人は笑った。




「うちの組の子らはそういうの絶対に忘れてへんで。最初に自分だけしか聴こえんかもしれんと思いつめてた長い月日、あきらめかけた時に同じ音が聴こえるらしいという自分以外の人間を発見した時のこと」


「うん。あたしも今日のこと忘れたくないよ」

「オレもや」

 二人は照れ臭かったのでお互いの顔は見ずに、フェンスから校舎の外に遠く見える嵯峨野の先の保津峡のが隠れているなだらかな山の稜線を見た。

「Kを追い込んだ連中ももしかしたら最初は寂しい連中だったのかもしれんけどな。自分だけしか聴こえないかもしれない音に不安を抱えて過ごした日もあったかもしれん」

「いっくんは優しい…」

 伊佐夫が自分の方に視線を移すのが感じられたが、慶子はそれに気がつかないふりをしていた。

「優しいなんてことあらへんわ。ただ、自分は一人ぼっちやったっていうことは忘れたらあかんなと思うよ。いくら自分と同じ音を聴く人を見つけられてあの孤独が自分から遠ざかったとしても、忘れたことを忘れたら絶対あかん」

「忘れたことを忘れる…?」

「ああ、その時悪い意味での裸の王様の世界が完成してしまう。もともと自分の音はみんなが聴こえていたんだって開き直ってしまう」

「…その時音楽は鳴らないんだね」

「ああ。子どもの時に聴こえていた、いつかこれと同じ音が聴こえていたという人と出会えるかもしれないと思っていた気持ちは全部のうなってしまう。あの時の音楽ももう絶対に鳴らない」

「うん。そんな大人になりたくないね」

「そんなのは本当の大人じゃないさ」




 伊佐夫がそっと慶子の手を握った。

「忘れたことを忘れない…か」

「笹川の屋敷で聴いた慶ちゃんの弾くモーツァルトがそういう音やった」

「え?」

「慶ちゃんピアノは大人のピアノの音がしてた。オレだけにはその音が聴こえてた。ずっと前から。慶ちゃんに会うずっとずっと前から」



 慶子は伊佐夫の手を握り返した。

『あたしもだよ』

 声には出さなかった慶子のこころのつぶやきは旋律のように伊佐夫の耳に響いた。






つづく

大人のピアノ そのななじゅうさん その音を失わないために

「何だかすごい話を聞いてしまったわ」

 なつみは素直に言えば感動していた。しかし内心複雑な思いもあった。中学生の時代とはいえ母親のいっくんとのことは今もなお強烈な思い出となっている。
 果たして自分は自分の父親について母の口からこれほどのエピソードを聞いたことがあっただろうか。

「そうね。こんな話初めてね」

 母親の中には今でも未解決のままのいっくんがいる。なつみは話し終わったあとの母親のやや潤んだ瞳にそれを感じた。

「いっくんとはその後は?」

 なつみがその瞳につられるようにして問うと、慶子はかすかにその瞳の中に娘に対する感謝の念のようなものをにじませた。だからそれはやはり単なる昔のラブロマンスではない。ずっと封印されてきたその何かは、自分でない、独り言ではない形で言葉に出すことがどうしても必要なのだとなつみは思った。





「うん。その日の屋上が一番の思い出だわ。そのあとは何もない」

「え?どうして…」

 母親の告白めいた思い出話を受け入れるこころの準備をしていたなつみは、少し拍子抜けした。



「あたしたちが屋上にいる間に、教頭先生といっくんのお父様、あたしの父親との三人で話があったのよ。後から聞いたことなんだけど」

「どんな…」

「少しいやな話なんだけど、K君をいじめていた六人組の首謀者の男の子は地元の警察署の署長の長男だったの…」

「うん」

「実家の笹川の家でも政治家のお祖父様の方の付き合いがあったし、いっくんのお父様の方ではもっと実務的なというか…博徒の元締め、平たくいえばヤクザ組織のトップとしての持ちつ持たれつのお付き合いというものがあったみたい」

 母親は詳しくは語らなかったが、地元の名士である警察所長と衆議院議員、裏社会の顔役と地元警察のトップが隠微に関係があるというのはあるのかもしれないなというくらいの想像はなつみにもできた。

「そうなの…」

「ええ。教頭先生も教育委員会にも顔の効く、つまり自分の出世にも影響力のある名士とはうまくやっていきたかったってことだったのね」

「それでいったん解散した後三人だけで密談みたいなことを…」

「そう。いっくんの訴えは簡単にいうとなかったことになったわ。いっくんの妄想として片付けられた」

「そんな…」

「六人組の方でも話を面倒なことにしたというわけで、仕返しがあったわ」

「いっくんに?」

「ううん。いっくんには怖くて仕返しなんて出来ないからあたしによ」

「お母様に…?」

「ええ。今にして思えばくだらないことなんだけど、上履きが隠されたりお弁当に絵の具が塗ってあったり体操服がなくなったりね…」

 たんたんと話す母親の言葉になつみはすぐには言葉が見つからなかった。

「まさか、お母様にそんなことがあったなんて…」

 苦労知らずの典型的な旧家のお嬢さん。そんな漠然としたイメージがひっくり返るような話だった。なつみの驚いた顔に母親は穏やかな顔で軽く頷いた。




「それでいっくんは?」

 なつみがやっと言葉を継ぐと母親はふっと悲しそうな顔をした。

「もちろん黙っていなかったわ。でもいっくんの親から因果を含められていた。自分たちの稼業のために署長の息子とは仲良くやれって」

「辛い立場だね…」

「うん。その時は何も言わなかったけどね…」

「じゃあそのままずっとお母様はいじめを受けて…」

「ううん。いっくんがそんなこと許すわけはないわ」

「そうよね。じゃあ」

「そう。一週間後くらいに六人全員の左右の腕と指がまたドア全部折られたわ」

「じゃあ、いっくんはいっくんのお父様の言いつけに逆らって…」

「うん、そうよ。いっくんはその事件のあとあたしに言ってくれた。

『ヤクザ者が裏取引で警察所長に媚び売ったらおしまいや。組織維持して行く上でそういう取引もあるかもしれん。でもやっぱり最初に自分は一人ぼっちやったっていうことは忘れたらあかんなと思う。Kや慶ちゃんみたいな追い込み方、人を一人ぼっちに孤立させていたぶるようなやり方するやつら利用して自分たちの稼業維持するなんてことやったらあかんて。一人ぼっちだったんは自分やったはずやで。それを人を一人ぼっちに生贄にして自分の過去忘れようなんて許されへん。忘れたことは忘れたらあかんのや、絶対に』

って言ったの」

「さっき聞いたいっくんの信念だね」

「うん。

『そんなことしたら慶ちゃんのピアノの音が聴こえんようになってまうやんか』

そう言ってた」

 母親の悲しい顔の理由は痛いほど分かった。いっくんは一番大切なものを守ろうとしたのだった。





「でもそのままでは済まなかったんでしょ、いっくん」

「ええ。もちろんよ」

「どうなっちゃったの?」

「博徒組織の後継者の自分がその親分の言いつけを公然と破った。その責任をとって指を詰めたわ」





 なつみは母親の言葉の意味を理解するのに手間取った。ばらばらの単語が音声として通り過ぎた。母親の目を見てその瞳の奥に聞き慣れない単語の意味を求めた。

 その母親の瞳にすっと涙が浮かんで頬を伝った。

「いっくんは言ったわ

『これでもう慶ちゃんとピアノを競い合うことはできんようになってもうたわ。でも慶ちゃんのピアノの音はこれでずっと聴こえるで』



 慶子の涙は娘のなつみに伝染した。なつみはソファを立って母親の横に座り直して母親の手をそっと握った。

「いっくんは笑って最後にもう一度付け加えたわ。夏の日に遠くから吹いてきた清潔な風みたいに…

『これで大人になっても慶ちゃんのピアノの音がずっと聴こえる』




 泣き崩れた母の肩を抱きながら、なつみはいっくんがその後程なくしていっくんが京都を離れ、関東の親戚にあずけられたことを母の口から聞いた。



「それがいっくんとは最後よ。その後はあたしが学校で嫌な思いをしないようにって、いっくんのお父様が全て手を回したみたい。いじめも嘘のようになくなった。今後困ったことがあれば将来に渡ってなんでも言ってくれって。そんなこともうどうでもよかった」

 母親は泣き止んだあとなつみにもたれ掛かりながら静かにそう言った。





つづく






 
ゆっきー
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