- 「なあ、慶ちゃん」
「うん」
屋上をに出ると、校舎を吹き抜ける風は意外に強かった。もっとも伊佐夫は五分刈りに近い短髪に学生服だったので、顔にかかる風を一瞬うるさそうに右手で遮っただけだった。慶子はスカートがひるがえりそうになるのを膝もとで食い止めながら、フェンスまで歩いて行く伊佐夫に従った。
「あかんな、うまくいかん」
伊佐夫は屋上のフェンス右肘を置き、それを腕枕にするよう顎を乗せて言った。フェンスは慶子顎あたりだったので、慶子はフェンスを背にしてもたれかかり顔を伊佐夫の方に向けた。
「あかんて、なにが。あかんことだらけでどれのことかわからへんわ」
白い歯をこぼして慶子が楽しそうに聞く。自分の家、笹川家には無縁のあかんこと、悪いことが伊佐夫周りにはごく普通にあるような気がした。しかし慶子は伊佐夫周りのそのあかんことには不思議と不快な忌み嫌うような匂いは感じなかった。
伊佐夫がいう「あかんこと」と「悪いこと」には明確な区別があったように慶子は感じていた。「悪いこと」は伊佐夫が暴力を持ってで阻止しようとする、例えばあの六人組の陰湿ないじめのようなことだった。「あかんこと」を伊佐夫は、「しょうがないこと」といったニュアンスを込めて使っていた。
「Kのときも結局暴力では最終的に解決出来んかった。あいつはええやつやったで。転校なんかせえへんでもええような手がもしかしたらあったかもしれん」
「うん。でも…」
「せやな。慶ちゃんが俺のところにKが俺が六人組締め上げてそれ自分が引き起こした事にしてってシナリオ相談した時には、もう遅かったんや」
「うん。あかんかった」
「そう、どうにもならんかったわ。あのまま卒業まで陰湿ないじめに耐えられたかどうか、それこそこのフェンスからKが飛び降りるなんてこともありえない話やなかったと思うわ」
慶子は自分の顎の高さのフェンスをKが乗り越えようとする姿を想像した。その想像は突拍子もない空想ではなかった。
「あの、先生がクラスのみんなを、なんていうのかな自分から自発的に書かせる反省文がいけないと思う」
「そや、あれや諸悪の根源は。悪いことやであれは。あれは洗脳と一緒や。担任に都合のいいようにKを悪者にして、なおかつそれを教師から押し付けるんじゃなくて自分で書かせて自分の意見としてクラスで発表させる。いつの間にか教師が思う通りの空気がクラスを支配するわけや。」
「うん」
「みんな一つのことを信じ込まされて、最初についた自分の嘘を忘れてしまうんや。そしていつの間にかもともとクラスに溶け込めなかったKが悪者だったように日常生活が作られて行く」
「やだよね。そういうのって」
「そやな。裸の王様のお話や」
「裸の王様?」
「そや」
「なんで裸の王様話なん?」
「それはな…」
伊佐夫はフェンスに乗せた腕を降ろし、慶子同じようにフェンスに背中を付けて話し始めた。
「ねえ…『裸の王様』の話ってお父様がよくあたしと武志に聞かせようとした…」
「そうよ。あなたのお父様があなたたちに話をしようとしていたこと、それと同じことをあたしは中学生の時いっくんから聞いたの、屋上で。あなたのお父様と結婚してあなたたちが生まれて、
あの人がある時あなたたちに『裸の王様』話をしようとしたのには驚いたわ」
「全く偶然だったのね」
「そう。全く偶然。しいて言えば初恋のいっくんも結婚したあなたのお父様も、あたしが好きになった人だということね。」
「でも、なんでお父様があたしたちにその話をしようとした時、聞かせないようにしようとしたの?」
なつみの問いかけは自然なものだった。確かに父親の『裸の王様』の解釈は子供が聞いても混乱しそうな深い話だった。しかし母にとってとても意味のある偶然、自分が愛した男が二人までも偶然にその話を大事にしていることをどうして自分の子供に聞かせようとしなかったのだろう。
「それはね…その後のいっくんの波乱の人生の始まりというかその秘密の核心みたいなものだったから」
「『裸の王様』話が?」
「うん。だから恐かったの、自分の子供がそういう世界に触れるのが…」
「分かったわ。今はもう聞いてもいいのね」
「うん。聞いて欲しい」
母親はまた話を続けた。
つづく