大人のピアノ

大人のピアノ そのななじゅうよん 朝子への陰謀

 なつみと母親の慶子が話をしていたその日、篠崎家はつかの間の平穏、嵐と嵐の間の小康状態といった空気が漂っていた。

 朝子が千葉の藤井組から解放され、疲れているだろうからと部屋で休んだのが昼過ぎだった。ドア何時間か死んだようにぐっすり寝たらしい。

 目が覚めたのは、執拗に鳴り続けるインターフォンの音だった。精神的なショックもありインターフォンが鳴っていることに気がついたあとも、朝子はすぐに体を起こすことができなかった。両親はいないのか。朝子はそのことを不思議に思ったがすぐに枕元のメモを見つけた。
 メモには「30分だけ駅前のスーパーにお父さんの車で食品の買い出しに行ってきます」という母親の冴子の文字があった。

 どうせすぐに止むだろう。そう思って布団をかぶり直したのだが、インターフォンはしばらくするとまたなり始める。五分ほどもそれが続いただろうか。朝子はやっと二階の自分の部屋を出てすぐの廊下にある内線電話でインターフォンに応答した。




「はい」

「武蔵小杉警察署刑事課の脇田と申します」若い男はそう名乗った。

「何のご用でしょうか」

「この度は大変なことに巻き込まれてしまいお疲れのことと存じます」

「はい…私に何か」朝子は相手の意図を確認しようとした。

「大変お疲れのところ恐縮ではありますが、これから少し事情聴取のようなものをさせて頂けませんでしょうか」

 刑事は慇懃に、しかし強い口調で言った。この若い刑事がもう少し穏やかな調子であったのなら朝子は普通に対応したかもしれない。しかし生硬な刑事の口調は朝子に警戒心を与えた。

 警察との関係は今回非常に微妙である。武志の逃亡の時点からすべてを警察に任せるという方法も取れたはずだった。しかしいろんな事情から警察には世話にならずに裏社会のことは裏社会の遣り方で解決するということに皆が納得し、その合意のもとに今まで話が動いている。

 ここで父親にも相談できぬまま、留守中に自分が警察と接点を持つことは、なにか取り返しのつかない事態を引き起こしそうな気がした。


「今ちょうど両親が不在でして、またあらためてお願いできますでしょうか」

 そう言って朝子がインターフォンを切ろうかという気配を伝えると、インターフォン越しに若い刑事が明らかに狼狽しているのがわかった。




「もしもし」いきなり別の年長者の声がした。

「はい。すみませんねえ、お疲れのところ恐縮です」

「はい…」

「脇田の上司の寺村といいます」年配の刑事の声は落ち着いた感じの雰囲気だった。

「はい…」

「単刀直入に言います。今ご両親がご不在なのは私共でも確認しております。実はご両親が車に乗って出かけられたのを確認し、お嬢さんが一人であることをチャンスと捉え、こうして内密にコンタクトいたしました」

「…」

 警察がある意図を持って自分に接触してきたことを知って朝子は動揺した。

「ご両親はどうやら警察とは別の組織を使って物事を進めようとされてるようですが、それは非常に問題のあるやり方です」

 寺村刑事は痛いところをやんわり突いてきた。

「詳しいことは私には分かりません」朝子はそう言って逃げようとした。

「お嬢さん、よく聞いて下さいね」

 寺村は心底朝子のことを考えていると言った説得口調で朝子に呼びかけた。



「このままの物事の進め方では、一緒に監禁されていた斉藤武志さんは無事に帰ってこれないかもしれませんよ」

 朝子は寺村の言葉に頭が真っ白になった。

「どういうことですか…」

「ですから、お嬢さんがご両親には内緒で警察に協力してくれれば、武志さんの身の安全は警察が保証します。南友会、通称南方組の石橋が仕切っているうちは警察は斉藤武志さんの生命を含む安全はいたし兼ねるということです」

 口調は穏やかだったがこれは脅迫的な有無を言わせぬ協力依頼だった。

「あたしは…どうすればいいんですか…」

「あ、今あなたのご両親の車がこちらに戻ってきますので、一旦インターフォンを切ります。ご両親にばれないように今からいう携帯電話にあなたがあとで電話をしてください。私の携帯です。お父さんは今回の件では南友会と繋がってしまっていますから必ず内密にお願いします。武志君のお姉さんなどにも決して相談しないようにして下さい。でないと彼の身の安全は保証できかねます」




 朝子は混乱する頭を何度か振り、震える手で寺村の携帯の番号をメモした。


「ではよろしく」

 寺村刑事が番号を告げるとインターフォンは性急に切られた。程なくして玄関に両親が帰宅した気配がした。



つづく

大人のピアノ そのななじゅうご 愛しの武志

  朝子は混乱した頭を整理するためにもう一度ベッドに横たわって布団を浅くかぶった。そして台湾屋台で武志とおしゃべりしていた時のことをぼんやりと思い出していた。

「あたしが最後は何とかする」ドア

 なぜ自分はあんな言葉を口にしたのだろうか。一週間後には自分の身の安全、命すら危ぶまれる武志に何か言ってあげたかった。武志があんな状況の中、自分ができる限り最大限周りの人間のことを慮り、なんとか最善の結果を作り出そうとしているのが痛いほど切ないほど分かった。今から思うと確かにあの場の雰囲気から口にしたこととはいえ、自分は武志に対して母性本能のようなものを感じていたような気がする。

 奇妙な言い方かもしれないが、優等生の子供がたんに学校で勉強ができるというだけではなくて、大人になるということにも優等生であるというのがあると思う。そういう意味で自分に期待される若者像を察知してそれをいち早く身につけることに関しても武志は優等生なのだと思った。それは年配者に対してだけではないとも思う。武志は高校時代までおそらく同年代の女の子に半端じゃなくもてたと思う。それは武志がおそらく同世代の女の子が期待する大人の男性像を察知して身につける能力が抜きん出ていたからのような気がする。

 ここ数日接していて思ったのは、武志はとにかくいわゆる「ツボ」を抑えるのがうまかった。的確に相手の考えていることを読み取って、そこに目立たない程度の自分らしさを加えて相手に切り返す。自分の両親にしても、おそらくあの石橋というヤクザや南方という親分さん、姉のなつみ先生、父親に対してもそうだった。

 でもそのクールな大人らしさは、本当の武志なのだろうか。朝子はかすかにそんな気持ちを抱いていた。


 ピアノを弾いている時の武志ドアは完全な大人のピアノを弾いていた。それは大人びた演奏ではなくて、どこか突き抜けて大人だった。子供だった自分を遠くから大人の視線で優しく包み込むような演奏だった。かつて子供だったことを忘れない、しかし子供であることを一度は完全に忘れた、忘れることが必要だった大人の諦観のようなものが漂っていた。


 武志はその人間としての「大人びた自分」と、ピアニストとしての「大人のピアノ」を弾く自分のアンバランスさに気がついていると思う。気がついてそのことに何か息苦しさを覚えている。

 それは大人のピアノを弾く自分から見れば、大人びた自分がおそらく背伸びをした偽物のように感じられるのではないか。

 背伸びをしようと思ったことは実際には武志には一度もないと朝子は思う。なぜなら武志の器用さは背伸びなどせずにも、あっさりと大人や男友達や女の子の期待する人間として振る舞うことができてしまうからだ。


『自分はこうやって「大人のピアノ」を弾く資格があるんだろうか。たまたままぐれでそういうことが出来ているだけじゃないのか』

 武志の苦悩、武志が南方に答えを見出そうとしてヤクザ組織の中に身を置いた理由はそこにあるという気がした。千葉の藤井組で会った南方という人には多分大人のピアノを弾く十分な資格があるのだろう。






 左右の小指をさりげなく見たけど、確かに武志が言っていたようにそこにはピアノを弾くにはあってしかるべき小指がなかった。それでも武志は南方の演奏が凄まじいと言っていた。

 それは南方が自分とは違ってごく幼少の頃から、「大人のピアノ」のなんたるかを知っていたためではないだろうか。どうすれば大人びた自分が弾く大人のピアノではなくて、南方のように自然に大人のピアノを弾くことができるのか、南方はいったいどんな生き方をしてきたのか、それを武志は何とかつかもうとして一年以上も南方のそばにいたのだ。



 眠れない夜、両親の目を盗んで武志と夜家の周りを散歩した時に武志が言っていた。

 南方さんの右手の小指は今から十年ほど前組織同士の抗争の折、止むに止まれぬ事情で落とすことになったらしい。しかし左手の小指は南方さんがまだ中学の時に自分から落としたものだという。南方さんはそれについては多くを語らなかったようだった。ヤクザがらみの事情ではなくて南方さんの大切な初恋の相手のため、ということらしかった。

 武志は南方さんが中学の時に小指を落とすことになったことと、小指のない南方の弾く究極の大人のピアノに関連があると確信しているようだった。「自分に決定的に欠けている世界がそこにある」と言っていた。「それに気がつくことができなければ、僕のピアノは必ず近いうちにダメになってしまう」武志は苦しそうな顔で何度もそう言っていた。




 朝子は布団をかぶり直して藤井組にまだなお軟禁状態の武志の顔を思い浮かべた。





つづく

大人のピアノ そのななじゅうろく 迷いと決断

 ケータイのメモリを参照する。さっきインターフォン越しに聞いた寺村刑事の連絡先の番号が小さなディスプレイに浮かんでいる。

 このままヤクザ組織に武志のことを任せていても身の安全の保証はない、刑事たちはそう言っていた。しかしここに送ってもらうまでに石橋が言っていたようにドア、朝子には堅気の武志がただちにヤクザの流儀でけじめをつけさせられることはないという気もしていた。外側にいる刑事よりも、石橋の事態の見方が正確なのだと思える。

 しかしなお朝子には気がかりな点があった。石橋は言っていた。

「例えば南方が懸念していたのは、武志が極道のケジメを取れないのならばいっそ正式に武志を組に入れた上でケジメをつけさせろ、とか…いかにも言いそうですね、あの藤井なら」


 朝子はこれを恐れた。武志がいかにも望みそうなストーリーだという気がした。決していい格好をしたがるというわけでないのはよく分かっている。しかし、武志の中ではその選択が「大人である」ことの証明のように感じられるのではないだろうか。

 武志は南方に「大人である」ことの意味を探していると思う。その武志にとって、藤井の「けじめをとって大人になれ」という言葉はおそらく甘美に響くのではないだろうか。あの藤井というヤクザの組長の暴力的だが狡猾そうな目は、武志のアキレス腱を的確に見ていると思った。
 その時に南方や石橋の描いている解決のシナリオは果たしてうまくいくのだろうか。武志が自分なりの誠意のつもりで藤井の策略に乗せられてしまう可能性は多いにありそうに思えた。




 朝子は胸が苦しくなった。




『とにかく、あの場所から強制的に武志を連れ出してしまえばそれはなくなる』

 朝子は迷いを断ち切ろうとするように声に出してつぶやいた。

 もしかしたら自分は事態の推移をぶち壊しにしようとしているのかもしれない。

 でも、それが必要なんじゃないだろうか。たとえ後から武志本人に怒られたとしても。




 朝子は寺村刑事の番号をディスプレイに出したままケータイの緑の呼び出しボタンを押した。

「はい。寺村」

 朝子はさっきの刑事の声を確かめて深呼吸した。






つづく

大人のピアノ そのななじゅうなな 警察の応対

「あの…先ほどの…」

 朝子は緊張を押し殺そうとしたが声が震えてうまく話せなかった。自分はある重大な裏切りをしているのだという自覚があった。

「よかった。お電話いただけないかと思っていましたよ。ということはお父さんお母さんにも話さずにあなたの判断でこうして警察に連絡してくれたわけですね」

 意外にも寺村の声の調子はすぐに穏やかになり、またその言葉は演技ではなく本当に朝子が電話をかけてきてくれたことに安堵しているようだった。

「私の一存です」

「そうか、いやそうですか。よかった。必ずや警察が武志さんを無事に救出しますよ」

「あの、それについて申し上げたいことがあるんです」

「はい。なんでしょうか」






 朝子は車の中で石橋から聞かされた、藤井が武志を追い詰めてヤクザ組織に入れた上でけじめを取らせる可能性について寺村刑事に話をした。込み入った背景を理解するのに何度も話の途中で朝子に確認をしながらだったが、寺村は事情を正確に理解したようだった。

「そういう心配があってあなたはこうして密かに警察に連絡しようと決心されたわけですね。あなたの周りでヤクザ組織に解決を任せようとしている状況では、ひょっとして武志さんが藤井の策略にはめられることを防げないかもしれないと」

「はい。その通りです。藤井という人は武志さんの義理堅いと言いますか、真面目な性格を逆手にとって、『お前が組織に入って指を詰めるというヤクザの責任を取れば、恩人の南方は指を詰める必要がない、そうしなければ南方がお前のために指を詰めることになる』多分そんなことを言うと思うんです」

「なるほど。千葉県警との合同捜査会議でも藤井は何か企んでいるという見方が有力です。普段藤井組を担当している刑事たちはおそらくあなたの懸念に頷きそうですよ」

「…はい。どうすれば…そういう事態を避けられるでしょうか」

「大丈夫。あなたの助けがあれば我々が強制捜査で踏み込んでそのまま武志さんを救出することができます。」

「助けと言いますと…」

 朝子はしゃべりながら、もう戻れない地点に自分は来てしまったのだという胸の動悸を、汗に滑りそうな携帯電話を握りしめながら必死に抑えた。

「事情聴取の上、家宅捜索の令状をとる手続きにご協力ください。現状ですと踏みこもうにも『そんな人間はおらん』と言われたらそれまでなのですが、あなたからの被害届があれば拉致監禁事件として捜査が可能です」




 応じれば完全に自分は、篠崎斎藤両家と南方、石橋を裏切ることになる。そして、もしかしたら武志本人も自分のことを余計なことをした裏切り者と憎むかもしれない…

 引き返すなら今だ。やっぱりできないと言って電話を切り、父親にすべてを話せばすべてうまくもとのままになるだろう。武志に嫌われることもない…




「もしもし、どうされました、朝子さん?」

 寺村は急に押し黙ってしまった朝子に焦りを感じたのか、必死に呼びかけた。

「…」

「もしもし、朝子さん、聞いてらっしゃいますか」

「…はい」

「ではこれから警察までご足労願えるということでよろしいですか」

 寺村は弱気な丁寧さのにじむ言葉ではあったがダメを押した。今度は寺村の緊張が回線を伝ってきた。




「はい。うかがいます」

 沈黙のあと、朝子は答えた。




 もう、もどれない。でもこれしかない。朝子はそう自分に言い聞かせた。




つづく
ゆっきー
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