なつみと母親の慶子が話をしていたその日、篠崎家はつかの間の平穏、嵐と嵐の間の小康状態といった空気が漂っていた。
朝子が千葉の藤井組から解放され、
疲れているだろうからと部屋で休んだのが昼過ぎだった。何時間か死んだようにぐっすり寝たらしい。
目が覚めたのは、執拗に鳴り続けるインターフォンの音だった。精神的なショックもありインターフォンが鳴っていることに気がついたあとも、朝子はすぐに体を起こすことができなかった。両親はいないのか。朝子はそのことを不思議に思ったがすぐに枕元のメモを見つけた。
メモには「30分だけ駅前のスーパーにお父さんの車で食品の買い出しに行ってきます」という母親の冴子の文字があった。
どうせすぐに止むだろう。そう思って布団をかぶり直したのだが、インターフォンはしばらくするとまたなり始める。五分ほどもそれが続いただろうか。朝子はやっと二階の自分の部屋を出てすぐの廊下にある内線電話でインターフォンに応答した。
「はい」
「武蔵小杉警察署刑事課の脇田と申します」若い男はそう名乗った。
「何のご用でしょうか」
「この度は大変なことに巻き込まれてしまいお疲れのことと存じます」
「はい…私に何か」朝子は相手の意図を確認しようとした。
「大変お疲れのところ恐縮ではありますが、これから少し事情聴取のようなものをさせて頂けませんでしょうか」
刑事は慇懃に、しかし強い口調で言った。この若い刑事がもう少し穏やかな調子であったのなら朝子は普通に対応したかもしれない。しかし生硬な刑事の口調は朝子に警戒心を与えた。
警察との関係は今回非常に微妙である。武志の逃亡の時点からすべてを警察に任せるという方法も取れたはずだった。しかしいろんな事情から警察には世話にならずに裏社会のことは裏社会の遣り方で解決するということに皆が納得し、その合意のもとに今まで話が動いている。
ここで父親にも相談できぬまま、留守中に自分が警察と接点を持つことは、なにか取り返しのつかない事態を引き起こしそうな気がした。
「今ちょうど両親が不在でして、またあらためてお願いできますでしょうか」
そう言って朝子がインターフォンを切ろうかという気配を伝えると、インターフォン越しに若い刑事が明らかに狼狽しているのがわかった。
「もしもし」いきなり別の年長者の声がした。
「はい。すみませんねえ、お疲れのところ恐縮です」
「はい…」
「脇田の上司の寺村といいます」年配の刑事の声は落ち着いた感じの雰囲気だった。
「はい…」
「単刀直入に言います。今ご両親がご不在なのは私共でも確認しております。実はご両親が車に乗って出かけられたのを確認し、お嬢さんが一人であることをチャンスと捉え、こうして内密にコンタクトいたしました」
「…」
警察がある意図を持って自分に接触してきたことを知って朝子は動揺した。
「ご両親はどうやら警察とは別の組織を使って物事を進めようとされてるようですが、それは非常に問題のあるやり方です」
寺村刑事は痛いところをやんわり突いてきた。
「詳しいことは私には分かりません」朝子はそう言って逃げようとした。
「お嬢さん、よく聞いて下さいね」
寺村は心底朝子のことを考えていると言った説得口調で朝子に呼びかけた。
「このままの物事の進め方では、一緒に監禁されていた斉藤武志さんは無事に帰ってこれないかもしれませんよ」
朝子は寺村の言葉に頭が真っ白になった。
「どういうことですか…」
「ですから、お嬢さんがご両親には内緒で警察に協力してくれれば、武志さんの身の安全は警察が保証します。南友会、通称南方組の石橋が仕切っているうちは警察は斉藤武志さんの生命を含む安全はいたし兼ねるということです」
口調は穏やかだったがこれは脅迫的な有無を言わせぬ協力依頼だった。
「あたしは…どうすればいいんですか…」
「あ、今あなたのご両親の車がこちらに戻ってきますので、一旦インターフォンを切ります。ご両親にばれないように今からいう携帯電話にあなたがあとで電話をしてください。私の携帯です。お父さんは今回の件では南友会と繋がってしまっていますから必ず内密にお願いします。武志君のお姉さんなどにも決して相談しないようにして下さい。でないと彼の身の安全は保証できかねます」
朝子は混乱する頭を何度か振り、震える手で寺村の携帯の番号をメモした。
「ではよろしく」
寺村刑事が番号を告げるとインターフォンは性急に切られた。程なくして玄関に両親が帰宅した気配がした。
つづく