大人のピアノ

大人のピアノ そのななじゅうはち 藤井組長の罠

「今頃オネエチャンは無事にお家に帰って何しとるかの」



 朝子が帰宅してから数時間、明け方の緊迫した時間は過ぎて藤井組のだだっ広い和室には、藤井、南方、武志の三人がいた。廊下には藤井の配下の者が控えており屋敷の中の空気は依然張り詰めていたが、日も高くなって空気もぬるむにつれ藤井と南方も普通に話をしはじめていた。

 あまり関係がうまくいっていないとはいえ同じ蜷川会の幹部同士、底流には通ずるものがある。

 藤井に話を振られた南方は「オネエチャン」という言い方に苦笑しながら、武志の方を向いた。

「きっと疲れて横になってると思います」武志は臆せず答えた。

「そうだな。多分一生に一度の災難で身も心もクタクタと言ったところだろう」南方が相槌を打つ。

 南方の藤井に対する多少の皮肉に、武志は静かに頷いた。



 南方の武志に対する口調も徐々に変化してきていた。自分のメンツと顔面を潰された相手ではあるが、直ちに怒りに任せて武志を葬ろうというわけではないらしい。藤井の第一に求めているのは、やはりあくまで配下の者たちに示しのつくけじめであるようだった。

 素人の武志に指を無理やり詰めるさせるのではけじめにならない。藤井がほのめかしているのは、親代わりの南方の指。もしくは石橋が想像していたようにおそらくこれが南方の最終的な魂胆に違いない、武志のヤクザ組織への加入と、加入した上でのけじめの指詰めのように感じられた。



「そもそもあの、べっぴんでおっぱいの形のいいオネエチャンとはどんな知り合いだ」

 今度は藤井が直接武志語りかける。武志が南方の目を見ると南方は「この軽口は受けた方がいい」と目で語った。藤井は自分から武志にわざわざ話しかけている。魂胆があるにせよ無下にはできない。

「今回のことで千葉の店から身を隠した時にまず、姉のところに行きました。その時に姉のピアノ教室にレッスンに来ていた生徒さんと出会って話を聞いてもらったんです。その中の一人の方が僕をとりあえず匿ってくれることになって、ご自宅にお邪魔しました。そこで出会いました」

「ほう。じゃあ、この俺の顔の傷が取り持ったご縁というわけか」

「はい」

 言葉は冗談めかしているが、藤井は自分の顔をさすりながら武志の目を獰猛な凄まじい視線で覗いた。普通の素人ではそれだけで縮み上がりそうな深い凶暴な目であったが、武志はその目をまっすぐ見据えて返事をした。

 武志のその澄んだ目は藤井の視線を少し満足気に変えたようだった。それはまるで就職活動の面接官が学生を試しているような目であった。



「なあ、南方よ」

「はい」

「お前も指詰めると言ったって、もうすでにお前さんの左右の小指はねえじゃねえかよ」

「はい」自嘲もなく、南方ははっきりと答えた。

「その指があればお前さんが弾くピアノももっと上手で俺に因縁付けられることもなかったわけだ」

「…」

 南方は藤井の腹の中を読みながらただ軽く口の端を動かした。

「俺は音楽のことなんざよく分からんが、武志も小指詰めたんじゃピアノもうまく弾けなくなっちまうよな」

 言葉の途中から藤井は武志を見た。

 武志はどう答えたら良いか検討もつかず、南方に救いを求める視線を送った。

 南方も藤井の腹の中が読み切れず、「藤井の出方を少し待て」という視線を返した。




「どうだろな、兄弟よ、さっき思いついたいい考えがあるんだが」

 藤井が盃を交わした弟分の南方に、さりげなさを装って上下の区分を付けた言葉をかける。南方の視線にかすかに警戒の色が浮かんだのを見た武志は、自分の心臓が不安で高鳴り始めるのを感じた。藤井は不気味に笑っていたが、目の奥にはさっきの獰猛な闇があった。




「この武志を藤井組で預かるというのはどうだ。武志の身柄ごと藤井に差し出すということでけじめは充分につく。その後は指を詰めさせたりなどはない。ただし俺の直属として組のために充分な働きはしてもらう」



 武志不安は的中した。

 絶体絶命である。

 これは意味指を詰めるよりも大きな詰め腹を切ることになる。南方の庇護を離れて武闘派の藤井組の舎弟として否応無く自分のこれからの人生は転回していく。藤井に命じられれば、拳銃を持って敵対する組の組長の命を狙う役目も果たさねばならなだろう。藤井の狙いは単なる腹いせなどではなく、ここにあった…。武志は絶望の色を隠そうとしたが、それは不可能だった。

 自分は世間知らずの極致であった。甘すぎた。自分の誠意と才能はどんな場合でも最悪の事態を切り抜けられる、そんな根拠のない思い込みがこの事件の中で根拠のない落ち着きを自分に与えていた。泣き叫んで許しをこうこともしなかった。泣き叫んで助けてくれと、南方にも篠崎さんにも両親にも姉にも、そして朝子にも一度も言わなかった。

 要するに舐めていたのである。自分の浅さに屈辱的なほど根源的に打ちのめされたが遅かった。





「それもいいでしょう」

 南方の静かな声が意識の遠くで聞こえた。

 武志はそのまま気が遠くなりそうになるのを最後の気力で必死に押さえ込んだ。





つづく

 

大人のピアノ そのななじゅうきゅう インターネット賭博と振り込め詐欺

「武志を藤井組でどう使うおつもりで?」

 南方は淡々とした口調で藤井に尋ねた。南方が藤井の提案に乗りかかっていることが武志の頭の中を掻き回した。南方は自分の手の内から俺を手放そうとしている…。武志は座っている畳の底が抜けてそのまま自分が落ちて行くような感覚にとらわれた。

「ふむ」

 藤井はとぼけた顔を武志に向けた。求められれば理路整然と自分を語り、状況を把握している気になっている。自分の立てた見たての中で予想を立てれば、こういう人間は一見沈着冷静で的確な判断をするように見える。しかしその前提が崩れた時にこのてのタイプは弱い。ガラガラと崩れて初めて自分の土台が砂上にあったことに気がつく手合いの若造…。

「どうした武志、南方が『武志をお前なんかに渡すもんか!』とか啖呵をきって自分を守ってくれるとでも思ったか」

 武志が黙ってうなだれていると、藤井は床几についた腕を支点にやおら立ち上がり、足を崩している武志の前にやってきてそのまま胡座をかいてすわった。

「頭はいいがパニクってるお前さんに状況とやらを解説してやるとこういうこった。聞きたいか」

 武志は悲痛な顔で頷いた。

「教えて欲しかったらその崩した足きちんとたたんで正座せえ」

 藤井の平手打ちが容赦無く武志の顔面に飛ぶ。口の中を切った武志が手の甲で口の端の出血を拭った。

「すいません」精一杯の大きな声を出して武志が座り直した。






「南方はな、俺の弟分だ。この世界親や兄のいうことは子や弟は絶対に服従だ。まあ、しかしいろんな事情があってこいつとの関係はそういう杓子定規のもんじゃねえ。組織の違いや伝統から言って六四の杯だが、実質は五分と五分。一見仲は悪いがおれは南方のことを認めてるし、五分のつもりでおるわ。南方は今、俺が武志を自分の組みに入れて何をさせようとしているのか見極めようとしてる。その上で一番いい形を探ろうと、こういうわけやな。したたかさのなかに冷静に頭働かして一瞬の流れを読むことができるんだ、こいつは。さすが京都の老舗博徒の元後継だけのことはある。どっかの若いもんとはわけが違う」

 藤井はそう言って皆方を見た。南方は苦笑しながらもまんざらではない顔を返した。

「京都の老舗博徒の後継…ですか?」




 武志は藤井に聞き返し、そして南方を見た。

「藤井さん、まあ、その話は今はいいじゃないですか」


「そっか。武志は南方の出自なんかは知らんのか」

 藤井は面白そうに二人を眺めた。

「京都のことはうちの石橋にもほとんど話してませんよ」

「ほう、そっか。もっとも俺もお前から直接聞いたんじゃなくて俺のオヤジ、先代藤井組組長から聞いたんだけどな。老舗博徒の後継が中学の時親の仕切りを無視してして学校で大暴れして家で同然で関東に流れて。中坊の時の学校乱闘事件話はその背後に女の影もあってなかなかいいんだ、これが」


 南方は一瞬自嘲気味に笑ったように見えた。しかしすぐに藤井のおしゃべり封じるような強い口調で聞いた。

「それより、何企んでるんです。武志を引っこ抜こうとして…」





「うむ。あれだ。インターネット賭博と振り込め詐欺だ。あれを何とかしたいと思ってる。武志ならなんとかなるんと違うか」

「ああ、なるほど」

 南方は得心がいったという顔で頷く。

 武志は依然として話が見えなかった。ただ『京都の老舗博徒の後継』という言葉が頭の中にぼんやりと舞っていた。





続く

大人のピアノ そのはちじゅう 幽霊との戦い?

「インターネット賭博と振り込め詐欺…僕がそれをやるんですか」

 必死に話の出口を見つけようとする武志は藤井に真剣な面持ちで尋ねた。

 藤井と南方は顔を合わせて愉快そうに笑った。武志の混乱は深まるだけだった。


「いや、そういうことじゃねえよ。いくらなんでもお前みたいに切れるヤツに、そんなハンパなシノギをやらせるつもりはねえよ。なあ、南方」

「ええ、まあ…」

 南方はまた面白そうに笑った。





「お前、半グレって分かるよな」藤井が武志に語りかける。

「はい。朝青龍の引退騒動や海老蔵の暴力事件で背後で糸引いてたのが半グレですよね。もともとは関東の大きな暴走族が連合した組織だったとか」

「そうだ、いまじゃ暴力団顔負けのやりたい放題だ。あの時も裏でそれぞれに手打ち金が数千万動いてるが、半グレどもの本職はそういう脅しじゃねえ」

「そうなんですか」

「ああ。あいつらが日常金を儲けてるのがさっき言ったインターネット賭博と振り込め詐欺よ」

「はい」

「知ってたか」

「いえ、知りませんでした」

「そうか。まあ、いいだろう。今はっきり言ってヤクザは暴対法の影響でジリ貧だ。みかじめ料や借金の取り立てなんかも全て規制されているし、かと言って俺たちが半グレと同じことをやろうとしても上手く行かない。」

「それは…」

「まあ、はっきり言ってそういうのが得意じゃないというところは大きいだろう。ヤクザは暴力の駆け引きは本職だが、サラリーマンを煽ってネット賭博に引き込んだりするノウハウもないし、年寄りに猫なで声使って実の息子のように信用させて騙すとかいう手の込んだ演技派もいないしな…」

「それは…なんとなく分かります」

 武志は藤井の反応を恐れながらも相槌をうった。




「しかし最大の違いはな、あいつらが幽霊だってことよ。今ヤクザの最大の敵は他の敵対する暴力団じゃなくて半グレどもなんだが、幽霊相手の喧嘩にはヤクザは勝てねえんだ」

 藤井はまた武志に理解し難い言葉を発した。幽霊…?南方の方を見ると、南方はふんふんと頷いている。南方には半グレが幽霊だという藤井の意味するところが分かっているのだろうか。





 武志と南方の目があった。

「幽霊…。分からんか」南方が武志に言った。

「はい」

「おい、南方よ。もともとその幽霊っていう言い方はお前が俺に教えてくれたんだったよな。俺はお前の半グレ幽霊説を聞いて全部がわかったぜ。あれを武志にも話してやってくれねえか。どうも俺はお前と違ってそういう言葉の使い方がうまくねえ」

 藤井の言葉を受けて南方が頷いた。

「分かりました。じゃあ少し長くなりますが、うちの組の中国マフィアとの話と一緒にしましょうか」

「ああ、そうだな。それがいい。中国マフィアとの抗争も幽霊との戦争だったな。それも一緒にに話してくれたら分かりやすい。昼飯が少し遅くなったが寿司でも食いながら話すとしよう」

「了解しました。」

 南方は武志に足を崩せと目で合図した。





続く

大人のピアノ そのはちじゅういち 藤井城

 武志は細長い廊下を藤井と南方の後に従って通り抜けた。百畳もある座敷から昼メシを食べるための部屋に続く階段を上っている。

「迷路みたいだろ。サツががさ入れに来た時や他の組に万が一カチコミかけられた時にわざと通りにくいようにしてある。戦国時代の城と同じだ」

 先頭を歩く藤井が一番後ろの武志に向かって前を向きながら大きな声を出す。

「はい。話には聞いたことがありますけど、本当だったんですね、ヤクザの本拠は忍者屋敷みたいだって」

「あほ。忍者屋敷じゃなくて戦国大名の城だ。この屋敷の作り方も先代の藤井組組長、つまり俺の親父が兵庫の姫路城を手本に作ってある」

「姫路城ですか」

「そうだ世界遺産の姫路城。お前行ったことがあるか」

「いえ、ありません」

「神戸あたりに遊びに行くことがあったら一度足を伸ばして見るのもいいぞ。俺が初めて行ったのはまだ小学校に上がる前だったが、自分のこの家とそっくりなんで驚いたもんだ。もちろん大きさは違う。しかし造りはそっくりだ。例えば姫路城では外門から入って行って急なカーブの上り坂を上がって内門に行くまでに、左右の道脇に白い小さな窓が空いた壁が張り巡らされている」

「はい。このお屋敷にもありました」

「そうだろ、姫路城はその小窓から弓矢で敵を狙い撃ちで打てるようになっとるんだ。それと同じでお前が見たうちの組の城も、あの小窓の内側には地下の武器弾薬庫に通じるエレベーターがある。抗争の時にかりに外門を突破してもそこから先の内門に入ることはヘリでも使わないとほぼ不可能だ」

 藤井は自慢げに言った。




「実際に使ったことはあるんですか」

 藤井と南方の大きな笑い声がした。

「あるぞ。まだ暴対法が施行される前だったがな。対立する組と銃撃戦をやらかしたことがある。死傷者四十七名。まだ服役してるうちの若いもんも沢山いる。今でも他の組や警察とはいつでも戦争ができる状態だ」

 急に生々しい話になって武志は口をつぐんだ。




 ゆるい螺旋のような細い階段を三階分ほど上がったところにある広間は、船橋の市街を抜けて一面のガラス張りから千葉港の先につながる太平洋が見渡せる眺望だった。高級ホテルの最上階のラウンジのような雰囲気は、戦国大名の城で言えば天守閣に相当するものだろう。

 大きなテーブルの上にはすでにこれまた大きな寿司桶がいくつも並んでいた。椅子もあり、今度は正座しなくてもいい。

「祝い事の時にはここに寿司職人呼んで握らせたりするんだ」

「すごいですね」

 武志は圧倒されていた。姫路城まではいかなくても、鉄筋コンクリートのこじんまりした要塞の南方組事務所とはスケールが違った。

「ああ。でも南方の実家の京都の城はもっとすごいぞ。あれは本当の城だ」

 再び京都の話になると南方は口をつぐんでいる。

「京都は帰ったりするのか」

 ソファの対面に座った南方に藤井が語りかけるが、南方は首を振った。

「中学の時以来帰ってません」

「そっか、そりゃ残念なこった」

 藤井がそういいながら、武志にも座るように手で合図した。

「失礼します」武志は腰を下ろした。




 南方は武志にテーブルに固めて置かれていた瓶ビールを指差した。武志が詮を抜き南方が藤井にビールをつぐ。

「ほんなら、南方先生にもういっぺんレクチャーしてもらおか。幽霊との抗争について」

 南方は軽く会釈をした。






つづく
ゆっきー
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