大人のピアノ

大人のピアノ そのななじゅうご 愛しの武志

  朝子は混乱した頭を整理するためにもう一度ベッドに横たわって布団を浅くかぶった。そして台湾屋台で武志とおしゃべりしていた時のことをぼんやりと思い出していた。

「あたしが最後は何とかする」ドア

 なぜ自分はあんな言葉を口にしたのだろうか。一週間後には自分の身の安全、命すら危ぶまれる武志に何か言ってあげたかった。武志があんな状況の中、自分ができる限り最大限周りの人間のことを慮り、なんとか最善の結果を作り出そうとしているのが痛いほど切ないほど分かった。今から思うと確かにあの場の雰囲気から口にしたこととはいえ、自分は武志に対して母性本能のようなものを感じていたような気がする。

 奇妙な言い方かもしれないが、優等生の子供がたんに学校で勉強ができるというだけではなくて、大人になるということにも優等生であるというのがあると思う。そういう意味で自分に期待される若者像を察知してそれをいち早く身につけることに関しても武志は優等生なのだと思った。それは年配者に対してだけではないとも思う。武志は高校時代までおそらく同年代の女の子に半端じゃなくもてたと思う。それは武志がおそらく同世代の女の子が期待する大人の男性像を察知して身につける能力が抜きん出ていたからのような気がする。

 ここ数日接していて思ったのは、武志はとにかくいわゆる「ツボ」を抑えるのがうまかった。的確に相手の考えていることを読み取って、そこに目立たない程度の自分らしさを加えて相手に切り返す。自分の両親にしても、おそらくあの石橋というヤクザや南方という親分さん、姉のなつみ先生、父親に対してもそうだった。

 でもそのクールな大人らしさは、本当の武志なのだろうか。朝子はかすかにそんな気持ちを抱いていた。


 ピアノを弾いている時の武志ドアは完全な大人のピアノを弾いていた。それは大人びた演奏ではなくて、どこか突き抜けて大人だった。子供だった自分を遠くから大人の視線で優しく包み込むような演奏だった。かつて子供だったことを忘れない、しかし子供であることを一度は完全に忘れた、忘れることが必要だった大人の諦観のようなものが漂っていた。


 武志はその人間としての「大人びた自分」と、ピアニストとしての「大人のピアノ」を弾く自分のアンバランスさに気がついていると思う。気がついてそのことに何か息苦しさを覚えている。

 それは大人のピアノを弾く自分から見れば、大人びた自分がおそらく背伸びをした偽物のように感じられるのではないか。

 背伸びをしようと思ったことは実際には武志には一度もないと朝子は思う。なぜなら武志の器用さは背伸びなどせずにも、あっさりと大人や男友達や女の子の期待する人間として振る舞うことができてしまうからだ。


『自分はこうやって「大人のピアノ」を弾く資格があるんだろうか。たまたままぐれでそういうことが出来ているだけじゃないのか』

 武志の苦悩、武志が南方に答えを見出そうとしてヤクザ組織の中に身を置いた理由はそこにあるという気がした。千葉の藤井組で会った南方という人には多分大人のピアノを弾く十分な資格があるのだろう。






 左右の小指をさりげなく見たけど、確かに武志が言っていたようにそこにはピアノを弾くにはあってしかるべき小指がなかった。それでも武志は南方の演奏が凄まじいと言っていた。

 それは南方が自分とは違ってごく幼少の頃から、「大人のピアノ」のなんたるかを知っていたためではないだろうか。どうすれば大人びた自分が弾く大人のピアノではなくて、南方のように自然に大人のピアノを弾くことができるのか、南方はいったいどんな生き方をしてきたのか、それを武志は何とかつかもうとして一年以上も南方のそばにいたのだ。



 眠れない夜、両親の目を盗んで武志と夜家の周りを散歩した時に武志が言っていた。

 南方さんの右手の小指は今から十年ほど前組織同士の抗争の折、止むに止まれぬ事情で落とすことになったらしい。しかし左手の小指は南方さんがまだ中学の時に自分から落としたものだという。南方さんはそれについては多くを語らなかったようだった。ヤクザがらみの事情ではなくて南方さんの大切な初恋の相手のため、ということらしかった。

 武志は南方さんが中学の時に小指を落とすことになったことと、小指のない南方の弾く究極の大人のピアノに関連があると確信しているようだった。「自分に決定的に欠けている世界がそこにある」と言っていた。「それに気がつくことができなければ、僕のピアノは必ず近いうちにダメになってしまう」武志は苦しそうな顔で何度もそう言っていた。




 朝子は布団をかぶり直して藤井組にまだなお軟禁状態の武志の顔を思い浮かべた。





つづく

大人のピアノ そのななじゅうろく 迷いと決断

 ケータイのメモリを参照する。さっきインターフォン越しに聞いた寺村刑事の連絡先の番号が小さなディスプレイに浮かんでいる。

 このままヤクザ組織に武志のことを任せていても身の安全の保証はない、刑事たちはそう言っていた。しかしここに送ってもらうまでに石橋が言っていたようにドア、朝子には堅気の武志がただちにヤクザの流儀でけじめをつけさせられることはないという気もしていた。外側にいる刑事よりも、石橋の事態の見方が正確なのだと思える。

 しかしなお朝子には気がかりな点があった。石橋は言っていた。

「例えば南方が懸念していたのは、武志が極道のケジメを取れないのならばいっそ正式に武志を組に入れた上でケジメをつけさせろ、とか…いかにも言いそうですね、あの藤井なら」


 朝子はこれを恐れた。武志がいかにも望みそうなストーリーだという気がした。決していい格好をしたがるというわけでないのはよく分かっている。しかし、武志の中ではその選択が「大人である」ことの証明のように感じられるのではないだろうか。

 武志は南方に「大人である」ことの意味を探していると思う。その武志にとって、藤井の「けじめをとって大人になれ」という言葉はおそらく甘美に響くのではないだろうか。あの藤井というヤクザの組長の暴力的だが狡猾そうな目は、武志のアキレス腱を的確に見ていると思った。
 その時に南方や石橋の描いている解決のシナリオは果たしてうまくいくのだろうか。武志が自分なりの誠意のつもりで藤井の策略に乗せられてしまう可能性は多いにありそうに思えた。




 朝子は胸が苦しくなった。




『とにかく、あの場所から強制的に武志を連れ出してしまえばそれはなくなる』

 朝子は迷いを断ち切ろうとするように声に出してつぶやいた。

 もしかしたら自分は事態の推移をぶち壊しにしようとしているのかもしれない。

 でも、それが必要なんじゃないだろうか。たとえ後から武志本人に怒られたとしても。




 朝子は寺村刑事の番号をディスプレイに出したままケータイの緑の呼び出しボタンを押した。

「はい。寺村」

 朝子はさっきの刑事の声を確かめて深呼吸した。






つづく

大人のピアノ そのななじゅうなな 警察の応対

「あの…先ほどの…」

 朝子は緊張を押し殺そうとしたが声が震えてうまく話せなかった。自分はある重大な裏切りをしているのだという自覚があった。

「よかった。お電話いただけないかと思っていましたよ。ということはお父さんお母さんにも話さずにあなたの判断でこうして警察に連絡してくれたわけですね」

 意外にも寺村の声の調子はすぐに穏やかになり、またその言葉は演技ではなく本当に朝子が電話をかけてきてくれたことに安堵しているようだった。

「私の一存です」

「そうか、いやそうですか。よかった。必ずや警察が武志さんを無事に救出しますよ」

「あの、それについて申し上げたいことがあるんです」

「はい。なんでしょうか」






 朝子は車の中で石橋から聞かされた、藤井が武志を追い詰めてヤクザ組織に入れた上でけじめを取らせる可能性について寺村刑事に話をした。込み入った背景を理解するのに何度も話の途中で朝子に確認をしながらだったが、寺村は事情を正確に理解したようだった。

「そういう心配があってあなたはこうして密かに警察に連絡しようと決心されたわけですね。あなたの周りでヤクザ組織に解決を任せようとしている状況では、ひょっとして武志さんが藤井の策略にはめられることを防げないかもしれないと」

「はい。その通りです。藤井という人は武志さんの義理堅いと言いますか、真面目な性格を逆手にとって、『お前が組織に入って指を詰めるというヤクザの責任を取れば、恩人の南方は指を詰める必要がない、そうしなければ南方がお前のために指を詰めることになる』多分そんなことを言うと思うんです」

「なるほど。千葉県警との合同捜査会議でも藤井は何か企んでいるという見方が有力です。普段藤井組を担当している刑事たちはおそらくあなたの懸念に頷きそうですよ」

「…はい。どうすれば…そういう事態を避けられるでしょうか」

「大丈夫。あなたの助けがあれば我々が強制捜査で踏み込んでそのまま武志さんを救出することができます。」

「助けと言いますと…」

 朝子はしゃべりながら、もう戻れない地点に自分は来てしまったのだという胸の動悸を、汗に滑りそうな携帯電話を握りしめながら必死に抑えた。

「事情聴取の上、家宅捜索の令状をとる手続きにご協力ください。現状ですと踏みこもうにも『そんな人間はおらん』と言われたらそれまでなのですが、あなたからの被害届があれば拉致監禁事件として捜査が可能です」




 応じれば完全に自分は、篠崎斎藤両家と南方、石橋を裏切ることになる。そして、もしかしたら武志本人も自分のことを余計なことをした裏切り者と憎むかもしれない…

 引き返すなら今だ。やっぱりできないと言って電話を切り、父親にすべてを話せばすべてうまくもとのままになるだろう。武志に嫌われることもない…




「もしもし、どうされました、朝子さん?」

 寺村は急に押し黙ってしまった朝子に焦りを感じたのか、必死に呼びかけた。

「…」

「もしもし、朝子さん、聞いてらっしゃいますか」

「…はい」

「ではこれから警察までご足労願えるということでよろしいですか」

 寺村は弱気な丁寧さのにじむ言葉ではあったがダメを押した。今度は寺村の緊張が回線を伝ってきた。




「はい。うかがいます」

 沈黙のあと、朝子は答えた。




 もう、もどれない。でもこれしかない。朝子はそう自分に言い聞かせた。




つづく

大人のピアノ そのななじゅうはち 藤井組長の罠

「今頃オネエチャンは無事にお家に帰って何しとるかの」



 朝子が帰宅してから数時間、明け方の緊迫した時間は過ぎて藤井組のだだっ広い和室には、藤井、南方、武志の三人がいた。廊下には藤井の配下の者が控えており屋敷の中の空気は依然張り詰めていたが、日も高くなって空気もぬるむにつれ藤井と南方も普通に話をしはじめていた。

 あまり関係がうまくいっていないとはいえ同じ蜷川会の幹部同士、底流には通ずるものがある。

 藤井に話を振られた南方は「オネエチャン」という言い方に苦笑しながら、武志の方を向いた。

「きっと疲れて横になってると思います」武志は臆せず答えた。

「そうだな。多分一生に一度の災難で身も心もクタクタと言ったところだろう」南方が相槌を打つ。

 南方の藤井に対する多少の皮肉に、武志は静かに頷いた。



 南方の武志に対する口調も徐々に変化してきていた。自分のメンツと顔面を潰された相手ではあるが、直ちに怒りに任せて武志を葬ろうというわけではないらしい。藤井の第一に求めているのは、やはりあくまで配下の者たちに示しのつくけじめであるようだった。

 素人の武志に指を無理やり詰めるさせるのではけじめにならない。藤井がほのめかしているのは、親代わりの南方の指。もしくは石橋が想像していたようにおそらくこれが南方の最終的な魂胆に違いない、武志のヤクザ組織への加入と、加入した上でのけじめの指詰めのように感じられた。



「そもそもあの、べっぴんでおっぱいの形のいいオネエチャンとはどんな知り合いだ」

 今度は藤井が直接武志語りかける。武志が南方の目を見ると南方は「この軽口は受けた方がいい」と目で語った。藤井は自分から武志にわざわざ話しかけている。魂胆があるにせよ無下にはできない。

「今回のことで千葉の店から身を隠した時にまず、姉のところに行きました。その時に姉のピアノ教室にレッスンに来ていた生徒さんと出会って話を聞いてもらったんです。その中の一人の方が僕をとりあえず匿ってくれることになって、ご自宅にお邪魔しました。そこで出会いました」

「ほう。じゃあ、この俺の顔の傷が取り持ったご縁というわけか」

「はい」

 言葉は冗談めかしているが、藤井は自分の顔をさすりながら武志の目を獰猛な凄まじい視線で覗いた。普通の素人ではそれだけで縮み上がりそうな深い凶暴な目であったが、武志はその目をまっすぐ見据えて返事をした。

 武志のその澄んだ目は藤井の視線を少し満足気に変えたようだった。それはまるで就職活動の面接官が学生を試しているような目であった。



「なあ、南方よ」

「はい」

「お前も指詰めると言ったって、もうすでにお前さんの左右の小指はねえじゃねえかよ」

「はい」自嘲もなく、南方ははっきりと答えた。

「その指があればお前さんが弾くピアノももっと上手で俺に因縁付けられることもなかったわけだ」

「…」

 南方は藤井の腹の中を読みながらただ軽く口の端を動かした。

「俺は音楽のことなんざよく分からんが、武志も小指詰めたんじゃピアノもうまく弾けなくなっちまうよな」

 言葉の途中から藤井は武志を見た。

 武志はどう答えたら良いか検討もつかず、南方に救いを求める視線を送った。

 南方も藤井の腹の中が読み切れず、「藤井の出方を少し待て」という視線を返した。




「どうだろな、兄弟よ、さっき思いついたいい考えがあるんだが」

 藤井が盃を交わした弟分の南方に、さりげなさを装って上下の区分を付けた言葉をかける。南方の視線にかすかに警戒の色が浮かんだのを見た武志は、自分の心臓が不安で高鳴り始めるのを感じた。藤井は不気味に笑っていたが、目の奥にはさっきの獰猛な闇があった。




「この武志を藤井組で預かるというのはどうだ。武志の身柄ごと藤井に差し出すということでけじめは充分につく。その後は指を詰めさせたりなどはない。ただし俺の直属として組のために充分な働きはしてもらう」



 武志不安は的中した。

 絶体絶命である。

 これは意味指を詰めるよりも大きな詰め腹を切ることになる。南方の庇護を離れて武闘派の藤井組の舎弟として否応無く自分のこれからの人生は転回していく。藤井に命じられれば、拳銃を持って敵対する組の組長の命を狙う役目も果たさねばならなだろう。藤井の狙いは単なる腹いせなどではなく、ここにあった…。武志は絶望の色を隠そうとしたが、それは不可能だった。

 自分は世間知らずの極致であった。甘すぎた。自分の誠意と才能はどんな場合でも最悪の事態を切り抜けられる、そんな根拠のない思い込みがこの事件の中で根拠のない落ち着きを自分に与えていた。泣き叫んで許しをこうこともしなかった。泣き叫んで助けてくれと、南方にも篠崎さんにも両親にも姉にも、そして朝子にも一度も言わなかった。

 要するに舐めていたのである。自分の浅さに屈辱的なほど根源的に打ちのめされたが遅かった。





「それもいいでしょう」

 南方の静かな声が意識の遠くで聞こえた。

 武志はそのまま気が遠くなりそうになるのを最後の気力で必死に押さえ込んだ。





つづく

 
ゆっきー
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